第42話 犬族の番と黒髪の男
「いったぁ……」
葉が監禁部屋から出て行って数時間。
流実は遂に、その場にへたり込んだ。
睨んだ先の窓には割れたガラスと無傷の木戸が立ちはだかり、手のひらを見ればジワリと血が滲む。
―――なんて、自分は無力なんだろう。
もしヒトだったら、あの木戸やドアもワンパンで……いけるのかな?あれ。ガレアさんなら笑顔で破壊しそうだけど。
とにかく自分が情けなさすぎて涙も出ない。
流実は持っていた本棚の仕切りを床に置くと、溜息をついてベッドに座り込む。
何度も何度も打ち付けた腕は痺れ、手のひらはジクジク痛む。
きっと今頃みんな心配してるはずだ。
『人間』の私が誘拐されてるのだ。もしバレてしまったら?そう思ってるに違いない。
特に靭さんなんて、私が人間だと隠すために世話係にしたくらいなんだし。
(…なら、別に人間だとバレなかったら、誰も心配しないのかな…?)
そう思ったら、一気に気分が沈む。
勝手に想像して勝手に落ち込むのは私の悪いクセ。でも、分かってるのに止められない。
きっと、この最低な状況のせいだ。
その時だった。微かに足音が聞こえてきた。
流実はサッと顔を青くして意識をドアに向ける。足音は確実にこの部屋に向かっていた。葉とは違う足音だ。例の友人がとうとう来てしまったらしい。
(扉が開いた瞬間に、逃げよう)
ゴクリと息を飲み、ドアの背後に隠れる。
今はもう、何も考えずに逃げる事だけに集中しよう。
誰が来るのか分からないが、葉じゃないのなら意表を突いて逃げ出せるかも。
ガチャ、と鍵を開ける音。そしてドアノブを回し、直ぐ隣から誰かが入って来る。
流実は開いた扉を思い切り引いて入って来た人物を押しのけた。
「きゃああっ!」
「!?」
階段を駆け上がった時、背後で甲高い女性の声が響いた。思わずギョッとして振り返ると、地面に座り込んだ女性が。―――それもお腹が随分と大きい人だった。
「っ!ご、ごめんなさい!大丈夫ですか!?」
「いたた…。ううん、こちらこそ」
「お腹…!赤ちゃん大丈夫!?」
お腹に手を当てて、蹲る女性に流実は咄嗟に駆け寄る。
「ベッドの上へ。直ぐそこにありますから」
「っ…ありがとう」
流実は女性の身体を支え、ベッドに連れて行き横たえる。
女性は薄い茶色の髪に緑色の瞳を持った小柄で可愛らしい女性だった。暫く呻いていたが、やがて治ったようで横で心配そうな表情の流実を見つめる。
「もう大丈夫。ありがとう」
「本当ですか…?もう痛くない?」
「ふふ。あなた優しいのね」
そう言って笑う女性に、流実もようやく力が抜けたようにホッと息を吐いた。
「臨月ですか?」
「そう。もうすぐよ」
「ごめんなさい。逃げようとして何も見てなくて…」
「いいの。分かるから」
「へ?」
「私は柚愛。貴方が流実?」
……そうだった。
いくら妊婦と言えど、この人が自分を監視する為にやって葉の友人なのだ。
―――今なら逃げ出せる。今なら。
柚愛と名乗った女性は、背後の開きっぱなしのドアを見つめる流実に困った顔でクスリと笑った。
「気持ちはわかるけど、貴方が逃げたら夫に怒られちゃうわ。少し話をしましょうよ」
「夫って…。葉さんですか?」
振り返って眉を顰めた流実に、柚愛は大きな目を更に大きく開いて笑った。
「私は、葉さんの妻でも友人でもないわ」
「…?でも」
「葉さんは、私の夫の親友。夫が頼まれてたんだけど、仕事で。だから私が代わりに来たの」
きょとんとする流実をよそに部屋中を見回した柚愛が「あーあー、凄いわね」と呆れたように言った。
「私がここにいた時はこんなに暴れる事しなかったわ」
「えっ!?」
「私も貴方と同じ、この部屋に軟禁されたから。夫にね」
「ええっ!?」
衝撃で口を開けたまま固まる流実。
聞き違いだろうか?この人は私と同じ目に遭ってたなんて?
(え…でも今、“夫”って?)
「……大丈夫、なんですか?」
つい、口籠るように小声になった。
聞いて…良いのだろうか?
彼女は、軟禁した人を“夫”と言った。そして今は“妊婦”でもあるからだ。
つまり、もし被害者なら…この妊娠は…。
柚愛はきょとんとしていたが、やがて流実の言いたい事が分かったのか「あはは」と笑った。
「猫族だから分からないのね?大丈夫、私が望んで妊娠してるのよ。犬族は確かに強引かも知れないけど、強引な交尾はしないわ。葉さんだって、酷いことしてないでしょ?」
「確かに…」
あ、いや、違う。鳩尾クリーンヒットは酷いことなのでは?
「で、でも、軟禁って事は元々好きではなかったんですよね?」
「犬族って誰かに一途に想われてると、絆されちゃう性質だからねぇ」
(せ、性質?)
そんな一言で片付けて良いものなのだろうか?
種族の違いはだいぶ大きいらしい。
信じられないけど、この世界では王が神さまなくらいだし。まだまだ知らない事は沢山あるのだな、と流実は思った。
「それに、顔も良かったし」
「そこですか!?」
「冗談よ」
嘘だ。流実はそう思った。柚愛の目がそこそこ真剣だったからだ。だがそれだけでは納得がいかない。
「犬族は番文化が濃いの。男が好きになった女を決めて、一生大事にする。だから多少強引でも言い寄られた男と結婚すれば必ず幸せになれるし、“私達は”ずっとそうしてきたから…特に疑問も感じた事なかったけど」
「……」
「私も、当初嫌だったけど、毎日愛してると言ってくれたり、気遣ってくれたり、本当に大切にしてくれるから。今は幸せよ」
それは彼等にとったら普通の事かも知れないが、少なくとも自分には理解できない事だった。
一度信頼が崩れたら、中々回復するのは難しいと思うのは……。うーん、犬族は当てはまらないのかも知れないけど…。
「良いじゃない。葉さん真面目だし仕事もできるし、顔も抜群に良いんだから。何が不満なの?」
首を傾げながら言う柚愛さんは、やっぱり面食で確定だ。
葉さんの不満点は、ハッキリ言えば全部だ。
突然ストーカーが始まったし、いつの間にか背後にいて抱きしめて来たり、怖い顔で睨んできたり、家の中にいてまな板に包丁ブッ刺したり、鳩尾にクリーンヒットして来たり。そして今は監禁している。これで不満点がないのがおかしい。
真面目と美形という事を差し引いても有り余る不満点だ。
「まあ、犬族でないなら理解できないのかもね。私も鳥族の崖の上のベッドは理解できないわ。そもそも、貴方気になる人がいるの?」
「えっ?」
唐突な質問に、思わず声が裏返った。
咄嗟に思い浮かんだのが己の主人だったからだ。
「葉さんは同じ犬族から見てもいい男よ。彼を好きな子も多い。そんな葉さん以上に、貴方は別の人が気になるのね」
「べ、別に好きって訳じゃ……!」
「あら。気になるとは言ったけど、好きとは言ってないわ」
「!!」
おお嫌だ。恥ずかし過ぎて穴があったら入りたい。
こんなの墓穴も良いところだ。最近彼の事ばかり考えていたので危うく肯定しそうになる自分が恨めしい。
つい赤くなった顔を隠そうと手を当てる。
「っ!貴方、手を怪我してるの?」
「?」
突然、慌てたように流実の腕を掴む柚愛。
どうやら先程の傷が塞がっておらず、顔を覆った時に付いてしまったようだ。
「大丈夫です。少し手を切っただけなので…」
「少しって。だいぶ痛そうよ。貴方猫族の癖に自分の怪我も治せないの?」
そうだった。猫族は術に長けた部族だ。
思わず目を逸らして口籠る。自分は人間で、傷を治す事など出来ない。もしかして不審に思われるかも知れない…。
何と言い訳しようと流実が考えていると、じっと流実を見つめていた柚愛がベッドから立ち上がった。
「待ってて頂戴。直ぐに包帯を持ってくるから」
「えっ」
「…ごめんなさい。猫族の癖にとか言っちゃって。気を悪くしないで」
バタンと扉が閉まる。
その顔はいつか見たことのある表情だった。
…あれは玄武。それにシモン。自分は『亜人』と勘違いされたせいで、また誰かを悲しませてしまったらしい。
ガチャン!と無情にも鳴った鍵の音に、流実は現実に引き戻されるように「あ」と呟いた。
せっかくの逃げ出せるチャンスを、また失ってしまったらしい。
◇◇◇◇
人通りの多いカラック街の店通りはいつも賑やかで騒々しい。
活気溢れる店の呼び込みの声や行き交う人々の話し声、そして子供達の笑い声が響いている。
しかし、今日はそんな騒々しさとは別のざわめきが沸き起こっていた。
(何なの?いつもより騒々しいわね)
裏通りを抜けて出店街に出た柚愛は、その喧騒に思わず眉を顰めた。
「ねえねえ、見た!?さっきの男!」
「見た見た!通りを歩いていた男でしょ!?もう失神するかと思った!」
柚愛とすれ違った女達がそんな事を言いながら黄色い声で話し合う。
よく聞けば至る所でそんな会話が聞こえていた。どの者も、己が見たものが信じられないと口を揃えて言い合い、とても興奮しているようだった。
(何なの?一体)
「猫族の男だろ。ウチに来て話して行ったが、間近で見ると凄い迫力だったな」
「そうそう。男って分かってんのに危うく惚れるとこだったぜ」
「カミさんには悪いけど、あの男なら抱けるな」
「はは、ちげーねぇ」
店の主人と客の下品な会話に顔を顰めつつも、会話の内容に興味を引かれる柚愛。
どうやらここまで皆が興奮し、失神する程の男がここら辺をウロついているらしい。
「何でも妹さんを探してるみたいね。ここ数日行方不明なんですって」
「あの人の妹さんなら、相当綺麗なのでしょうね。彼女もきっと黒髪よ」
通り過ぎた女達の会話に、思わず柚愛はギクリと足を止めた。
―――黒髪の、猫族。
(…まさか、ね)
柚愛はそう思い直し、再び目的地の薬局へと足を進めた。
確かに流実は黒髪の猫族だ。それに行方不明というのはある意味合ってる。
だが、彼女の事とは限らない。
失礼だが、皆が言うほどの美しい兄がいるようには思えないからだ。
(これで耳なしだったら違う意味で騒がれるだろうけど)
黒目、黒髪、そして耳なし。これは人間を指す特徴だ。
彼女は珍しくも黒目黒髪。それにあんな擦り傷すら治癒できない亜人。
だがどうせ耳ありだろう。まあ、万が一人間だとしても自分には関係はない。人間を見つけたら、軍に引き渡す決まりなのだから。
そんな事を考えながら歩いていき、ようやく目的地である薬局に着いた。
「オジさん。包帯を貰えるかしら」
「あいよ。どうしたんだ?」
「夫が手を切ってしまったの。消毒も欲しいわ」
「分かった、今すぐに………っ!!」
突然、硬直したように動かなくなった店主。その目線は柚愛の背後で固定されていた。何事かと首を傾げると、次に周りで女性の黄色い声が上がる。
「な、なに…?」
ビクリとして柚愛が振り向くと、そこに先程から喧騒の元になった人物がいた。
―――ヒュッと呼吸が止まる。
そのあまりの美しさに、瞬きはおろか呼吸すら忘れてしまったのだ。
男は腰近くまで伸ばされた黒髪だった。見上げる程の長身から伸びる長い四肢と均整のとれた身体が圧巻する。
―――それよりも。
通った鼻筋や左右対称の輪郭、そして伸びた前髪から覗く深い藍眼が――精巧な人形のようだった。
「お前、名は何という」
低音の掠れ声が響く。
男は間違いなく、男は柚愛に話しかけていた。
周りを囲む女達の悔しがる表情が分かる。しかし、何故この男はよりにもよって身重の自分に話しかけているのだろうか。
そんな事など一切お構いなく、男は柚愛をじっと見つめた。堪らずについ返事を返す。
「ゆ、柚愛、と言います」
「―――惺の嫁だな」
…え?
何故それを。そう言おうとした瞬間、目の前の男から信じられない程の殺気が放たれた。
「……案内しろ。…あいつのところへ」
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