第37話 包丁と抱擁と
久しぶりに帰ってきた紅族の街ウォークでは、専属シェフの水狼とその同僚である葉が出迎えてくれていた。
流実は来た時と同じく馬車の荷台に乗っており、その中から二人にペコリと挨拶をする。
すると、泣きそうな顔で「良かった」と言ってくれた水狼に流実も泣きそうになり、爽やかな…そう、一見爽やかに見える笑顔で「良かった」と言う葉を見て違う意味で泣きそうになった。
そうだった。すっかり忘れていたが、葉にストーカーされていたんだった。……いや、一回抱き締められただけだから、そもそも勘違いかも知れないけど?
広場に到着し馬車の荷台から降りた流実が、足早に離れに行こうとしたところで。
「お疲れさま、流実」
背後から話しかけてきた爽やかな声に、一瞬で心臓が口から出るかと思った。
ドッドッと不自然に鳴る胸元を抑えつつ、流実はあえて気付かなかったフリをして、もう一歩足を踏み出す。
「あれ?聞こえてない?お疲れさまって言ったんだけど」
今度はしっかり言われたので無視する訳にはいかない。「よ、葉さん」と引きつった笑顔でぎこちなく振り向くと、そこには茶髪で長身の美形がとても良い笑顔を流実に向けていた。
「無事に帰って来てくれて嬉しい。凄く心配したんだよ?」
「あ…はは。心配下さってありがとうございます」
「流実が無事ならそれで良いんだ。もう君だけの身体じゃないしね?」
(……ん?)
一瞬言われた意味が分からず、引きつった笑顔のままその場に固まる。
すると、次の瞬間頭上から明るい声が降ってきた。
「るーみー!」
「! ふむるさん!」
大きな羽を広げ、流実の横に降り立ったのはふむるだ。
それに、ホッと息を吐く。
「ご主人様がお怒りっスよ。何してんだって」
「そ、それは大変ですね!じゃあ葉さん、私はこれで!」
完全な棒読みで言うと、慌てて離れへと走る。
正直靭が怒るより、葉の方が怖い。この状況ではむしろ怒ってくれてありがとうと言いたいほどだ。ふむるが来てくれて本当に良かった。
去り際にチラリと振り返って見ると、物凄い顔でふむるを睨んでいて見なければ良かったと後悔した。
あの顔をみると……やっぱりストーカーは勘違いじゃなかったらしい。怖すぎるんですけど!!
「流実、厄介なヒトに好かれたっスねぇー」
「へっ…?」
「葉の事っスよ。犬族はしつこいっスからね。狙われたら大体が諦めて結婚するっス」
「けっ…ええ…!?」
私まだ十七歳ですけど!!―――じゃなくて、大体が諦めて結婚!?
「なぜ!?」
「そう言われても…?“逃げられない”からかなぁ?」
「に、逃げ…?」
まさか冗談ですよね?そんな理由でストーカーと結婚するなんて??え、ふむるさん、なんでそんな苦笑いするの!
「とにかく、来てよかったっス。ご主人様が見張っとけって言ってたし」
「! クロノアさんが?」
何で靭さんが知って……ああ、ギルバートさんから聞いたんだろう。とにかく、今は助かった…!
「じゃ、オイラは急便があるんでまたね!」
流実は礼を言って玄関先でふむるを見送り、急いで離れの扉を開ける。
―――紺色のソファ、図書館のように並ぶ本棚たち。吹き抜けの先の書斎。見慣れた光景が目に映ってようやく心の底から安心する。
「ほう」と息を吐き深呼吸する。鼻に感じた本の匂いが、更にリラックスできた。
落ち着いたところで、流実は階段を上って書斎をノックする。返事を聞いて中に入ると、靭は軍服のまま眼鏡をかけて執務を行なっていた。
……その姿を見た瞬間、今度はドキリと胸が高鳴る。先程の恐怖は簡単に吹き飛んでしまったのは、仕方ないくらいに。
彼が身に纏っていたのは紅い戦闘服でもなく、白い正装でもなく、闇方軍の黒の軍服だった。
シックな黒の軍服はボタンや装飾品が銀で、彼の長い銀髪にとても似合う。ピタリと身体に沿うような軍服は均整のとれた体格を浮き彫りにしていて、何だか目に悪い。
同じ軍服を着ていた副司令のイアンは“夜”を思わせる大人の色気を感じだが、彼の場合は“高潔さ”からくる色気が凄まじい。ストイックな人ほど色気があるのは何故だろう。
彼は先に帰還していたので、この姿を見るのは初めてだった。本人は帰ったそばから仕事に忙殺されて着替えるどころではなかったのだろうが、こちらとしてはしっかり見れてラッキーだ。
「戻ったようだな」
「! っはい!あの、葉さんの件はありがとうございます」
ハッと気付いた流実がそう言うと、靭は眼鏡越しに怪訝そうな目を向ける。そして幾つか指示を出し、手をヒラヒラ振った。さっさと行けという事らしい。
流実は短く返事をして、気付かれない程の小さなため息と共に部屋を出た。
「……分かってましたけどね」
ボソリと、言った。
分かってますよ。別に私を心配してる訳じゃないって。
世話係が来なくて仕事が進まなかったんですよね?ええ、分かってますとも!
(…何だか、最近こんなのばっかり)
彼が酔っ払ったあの日から、本当に自分は変だ。よく分からないけど変に意識してしまうし、こうして彼から素っ気ない態度を取られると途端に気分が沈んでしまう。
(いや、そんなのダメだから)
私は世話係なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。やるべき事はちゃんとやらないと!
そう思った流実は、短く息を吐いて気持ちを切り替えると、世話係の服を新しいものに変え、直ぐさま仕事に取り掛かるのであった。
◇◇◇◇
「靭さん、そろそろ夕飯にしますか?」
書斎に入り本を渡しながら言うと、彼は眉を寄せて壁の時計を見る。
「もうこんな時間か」
「はい。直ぐに作りますよ。靭さんは着替えます?」
少し間を置いて己を見る靭。すると更に深く皺が寄った。どうやら忙し過ぎて未だに軍服姿だったのに気付いていなかったようだ。本当にお疲れ様です。
流実は書斎から出ると、「よし」と小さく息を吐く。
駐屯地とは違い、今日から再び家事が自分の仕事の一部になるのだ。また同じ生活リズムに戻さないと。
さあ、今日はどんなご飯を食べてもらおうかな?なんて考えながらリビングを越えてキッチンに向かったところで――。
そこで、見てはいけないものを見てしまった。
「お仕事お疲れさま!そろそろ夕飯だよね。俺が作ってあげる」
カウンター越しに見えるキッチン。爽やかな笑顔の葉がそこにいた。
――足が、止まった。いや、一瞬で全身が凍り付いたように動けなくなってしまった。
ぞわり、と背筋が冷たいもので撫でられていく。
今まさに料理を始めようとしたのか、エプロン姿で腕まくりをする彼は控えめに言ってスパダリだ。
そう。彼がストーカーでなければ、の話だが。
(なんで……ここに?)
目の前にいる葉が凄く怖い。
一体何を考えているんだろう?ここは闇方軍総司令官の家だ。そんな場所に、堂々と侵入してくるなんて。
ふと葉に背後から抱き締められた事を思い出す。
あの時の異様な力強さが、蘇った。
抵抗しても抵抗しても、全くビクともしなかった、あの時の力強さが。
(靭、さん)
その一言が、出なかった。
本当は今すぐ階段をかけ上がり靭に助けを求めたい。でも、声はおろか足すら、まるで自分じゃないようにビクともしなかった。
それに――今逃げたら、声を上げたら、葉は私をどうするんだろう。そう考えると恐怖で次第に「ハ」と短い呼吸になり頭が真っ白になっていく。
一方の葉は片手に包丁を携え、顔面蒼白になった流実を不思議そうに見つめ、コテンと首を傾げる。
「俺、こう見えてコックだから料理うまいけど?」
「っ、し、知って、ます」
「あれ、大丈夫?顔色悪いよ?体調悪いならお粥を作るけど」
「く、クロノアさんも、食べるので…」
やっとの思いでそう告げる。
その瞬間、楽しげにまな板を取り出していた葉の動きがピタリと止まった。
「―――嫌だなぁ」
声が、変わった。
その声色は、まるで感情のないただの人形から発せられるような、無機質な声。
「流実の口から男の名前が出るの、俺は聞きたくないな」
先程まで楽しそうだったのに、一転、感情のなくなった声が異様に怖かった。
まな板から視線を外し、そのまま目の前にいる流実を見つめる。
その顔は一切の感情がなかった。茶色の瞳は光がなく、ドロドロとした闇みたいな怖さを放っている。先程まで爽やかに笑っていたのに、たった一瞬で別人になってしまった。
―――怖い。
流実はつい逃げようと足を引く。その時だった。
ドン!!
大きな音が聞こえ、思わず流実はビクリと肩を揺らし再び固まった。目の前で葉が包丁をまな板に突き刺したのだ。
「流実は酷いなぁ。勝手に戦場に行っちゃって、毎日心配してたのに。帰って来たらさっさと離れに行くしさぁ」
「……っ」
「戦場では何してたの?ずっと族長の側にいたの?…今日も、族長と一緒に、何してたの?」
な、何って、仕事ですけど。
そう言いたいのに、声を出す事が出来ない。
もう嫌だ。早く逃げたい。でも、足が動かない。微かに震える流実に、葉はようやく生気のない顔からニコリと微笑んだ。
「……なんてね」
予想外の言葉に、思わず「えっ」と声を出す。
「世話係の仕事してたんだよね。ごめんついやきもち焼いちゃった」
「っえ、あ、はあ…」
「ごめんね、これ以上いたら流実をめちゃくちゃにしちゃいそうだから、帰るね」
少し困ったような笑顔を浮かべ、着ていたエプロンを脱ぐ。そして何事もなかったように流実の脇を通り過ぎ―…すれ違う瞬間「また来るね」と爽やかに笑って玄関から出て行った。
――ドアが閉まった後も、流実は動けなかった。
あの光のない笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。包丁がまな板を打った音が、今も耳に反響している。
ただ怖くて――頭がよく回らない。
「何してる」
頭上から落ちてきた掠れ声に反射的に見上げれば、靭が軍服を片手に階段を降りて来るところだった。
流実と目が合った瞬間、靭の眉間に深い皺が寄る。
「どうした?」
「―――えっ?」
「顔が青い。…それに、震えてる」
そう言われて、初めて自分の足元を見る。
すると、自分でもおかしいくらいに膝が笑っていた。
自覚したその瞬間、カクンと力が抜けてその場に座り込む。異変を感じた靭が困惑してすぐさまやって来た。
「何があった」
「―――っな、何でも…ないです…」
「嘘付け」
そう言って座り込んだ流実の隣に腰を下ろし、顎を掴んでぐいと無理矢理上を向かせた。
「ほらな、真っ青じゃねぇか」
―――心臓が、一瞬止まった気がする。
彼の端正な顔が流実を覗き込んでいた。藍色の瞳に自分が映り込むくらい、少しでも動いたら彼の唇に当たるくらい、それぐらいの至近距離だ。
……でも、それより。
(……なんて、顔するんだろう?)
流実は先程の恐怖よりも、彼の近さよりも、彼の見せるその表情に釘付けになった。
(…どうして?私はただの世話係なのに)
なのに、そんな顔をするなんて――まるで、私の事が大事だから…“好きだから”心配しているように見えてしまう。
「っ!!」
「おい、大人しくしろ」
「やっ…。何でも…何でも無いんです!!」
「何でも無いわけあるか!こら…暴れるなっつってんだろ!」
「嫌です!離して!」
一体何を考えているんだろう。
本当にあの夜から自分が変だ。まるで靭さんの事を好きになってしまったみたいに。その上彼から好かれてるかもなんて、そんな勘違いまでするなんて?
そう思うと更に恥ずかしくなり、とりあえず離れようと精一杯もがく。それを見た靭はパニックになっていると思ったのか、あろう事か強引に引き寄せ、抱き締めたのだ。
「―――っ!?」
「っ暴れるな!……頼む」
大きな身体でまるごと包まれる形になった流実は、何が起こったか分からず頭が真っ白になった。
分からなかったが、“頼む”と言った彼が一層力を込めて抱き締めてくるのを、ただ呆然と受け止めていた。
……そんなに、自分はパニックになっているように見えたのだろうか?彼がそんな事を言う程…本当に、心配してくれたのだろうか。
そう思うと大丈夫だと伝えたくなり、つい全身の力が抜けて彼に身体を預けていた。
緊張が解けると、改めて、靭に初めて抱き締められている事に気付く。
広い肩、硬い胸、深緑のような彼の匂い。
(―――ああ……この人は、とても安心する)
葉とは全然違う。
同じ力強さなのに……初めて抱き締められたのに、全く不安がない。
「……何があったか話せ」
しばらく経って耳元で掠れた低音が囁く。
…何があったか。それを言ったら、葉はどうなってしまうのか?ふと、そんな考えが頭をよぎる。
もし……自分のせいで葉が紅族から冷たい目で見られる事になったら?
そんな事を考えていると、やがて靭がスルリと離れていく。
安心できた温もりと匂いがなくなり、つい彼を目で追うと。
「―――何だこれは」
「えっ……」
「“犬”がやったのか」
キッチンに立った彼は、いつの間にか氷の刃のような、冷えた瞳をしていた。
まな板に刺さった包丁を見ながら、地を這うような低い声で言った彼は、流実でさえ分かるほどの“殺気”を纏わせていた。
咄嗟に、「違う」と言わなくては。と思った。
でも――先程の恐怖が蘇り、結局何も言えずに俯いてしまった。
……なんで、そこまで怒ってるんだろう。
この時の流実は、まだ彼の怒りの理由を知る由も無かったのである。
不穏な空気になってきました。
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