第1話 狭間の森で拾われた少女
《あの声》が聞こえた後は、全てが微睡みの中に溶けるように感覚が無くなっていった。
トクン、トクンと自分の心臓の音だけが耳の奥で反響して―――ふと、目を開けると、いつの間にか森の中に立っていた。
(……え?)
驚いて辺りを見回す。
深い森だ。ぐるりと一周しても背の高い木々以外見えず、風もなく、音さえしなかった。
ただその隙間からは上から太陽の光が何本も差し込んで温かく、深い緑の葉は光を受けて薄い緑や黄色に、そして白く反射していた。
「……きれい」
思わずそうポツリとこぼし、深呼吸をする。
鼻を通り肺の中に入ってきたそれは、森特有の青臭さと土の匂い、そしてお日様の匂いがした。それに、思わずホッとする。
ここはどこだろう。もしかして三途の川だろうか?
そう思った時だった。
「誰だ、お前」
誰もいないと思っていた背後から声が聞こえた。
「ひっ」と驚いて振り返ると、そこに居たのは十歳くらいの少年。
―――銀色に輝く背中まである長い髪と、ビー玉のように透き通った藍色の瞳。
辛うじて声色から少年だと思ったのだが、見れば見るほど人形のように整った容姿は性別の判断がつかない。
突然現れた上に、少年の外見が綺麗過ぎて流実はしばらく見つめたまま硬直してしまう。
「なにジロジロ見てやがる」
ハッキリ聞こえたその声はハスキーボイスだった。……いや、まるでずっと叫び続けた為に喉を潰してしまったかのような掠れ声、の方がしっくりくる。
よく見れば纏っている衣服はボロボロで、所々破れて全体的に茶色くなっている。その上口も悪い。先程までは妖精かと思ったのに一気に現実に引き戻された気分になった。
「おい」
「! ご、ごめんなさい。あまりに綺麗で」
苛立っている少年に流実が慌てて謝ると、今度は少年が目を剥いて驚いた。
「―――綺麗?俺が?」
「う、うん」
「……変わった女」
間を開けて呟く少年。
その瞬間、ツキン、と心臓が痛くなった。
やはり、自分は変わっているのだろうか?こんな初対面の少年に言われてしまうほどに。
でも、何故かそこまで嫌な気持ちにはならなかった。この不思議で美しい外見のせいなのか、それとも、無事に“死ねた”安心からだろうか。
「それより、お前はどうやってここへ来たんだ」
「え?えと…。それよりここって三途の川で合ってるのかな?」
不機嫌そうな少年が「はあ?」と声を上げる。それに一瞬でビクリとして「どうやって来たかは、分からないの」と直ぐに答える。
「……ここは世界の狭間だ」
《―――ようこそ、狭間へ》
眉を寄せて言う少年に、ふとそんな声が流実の頭をかすめた。
でもよく分からない。どこで聞いたのか、いつ聞いたのか。
それより、やはり少年はこの場所を知ってるらしい。そんなに怒ってなさそうだし、聞いて良かった…。
「ここを、知ってるの?」
「たまに来るからな。いつも一人で森の中を歩いてる。いつも…」
(……なんで、そんな顔)
思わずドキリとした。
どこか遠くを見ながら答えた少年の横顔は儚く、今にも壊れてしまいそうなほど悲しみを帯びている。これは、いつかの自分と同じ――“消えたい”と思っていた顔だ。
(本当に、この子は何だろう?この森で、いつもたった一人で?)
―――それも、壊れそうな顔で。
「三途と言っていたな。……まさか親に殺されたのか?」
「えっ」
物想いに耽っていたところで、視線を戻した少年の質問にギョッとする。何でそんな質問をするのか?でもそれ以上に彼の藍色の瞳に仄暗い何かが過った気がして、つい「く、薬を飲んで」と慌てて答えた。
「薬?なんだ自殺か」
「っ何で、笑っ……」
「何故自ら死んだんだ?」
「な、何故って」
「理由があるだろう。話してみろ」
鼻で笑われたと思ったのに、一転、真剣な表情になった少年がグッと流実に近付く。その急変した態度に不安を感じたが、それ以上に抵抗感がない事に流実自身も驚いた。
本当はずっと「どうしたの?」と聞いて欲しくて堪らなかったから。
それに、初めて自分に興味を持たれた事が嬉しくて、つい不安も忘れて「ありがとう」と口から出る。
一瞬少年が戸惑った表情するが、流実は気付かないまま、少し息を吐いてからゆっくりと話し始めた。
小さい頃からのイジメに、学校に、両親の事。
そして――誰も味方がおらず辛くて孤独だった事。
少年はただずっと流実の話を聴いていてくれた。それが心地良くて、温かくなって、初めてホッと呼吸ができた気がする。
少年は話し終えた流実をじっと見つめ、そして「後悔はないのか」と聞いた。
「自殺した事?……うん。ないよ」
「そうか」
沈黙が流れる。
そして、再び少年が口を開いた。
「お前は、俺と似てるんだな」
「えっ?」
驚く流実をよそに、少年は一瞬何かを言いかけて―――口を閉じた。やはりその横顔は酷く翳っている。
(“似てる”って…自殺した、とか?それとも――ずっと独りだったとか?)
「……いや。名は?」
「えっ。あ、流実、です」
「死にたいなら、俺のいる世界に来るか?」
「え?」
「言っとくが俺と“ここ”を出ないと元の世界に戻るぞ」
「っ戻る!?」
少年の「似てる」発言も一瞬で頭から吹き飛んで、つい声を上げてしまった。
(この子のいる世界?いや、それよりもせっかく自殺したのに……。違う、まだ生きてるんだ!!)
そう思った瞬間、流実は咄嗟に少年の服を掴んでしまった。
戻りたくない。あんな辛い場所には、絶対に。
少年は少し驚いた表情を見せたが、流実の怯えた顔を見ると直ぐに「ま、そうだよな」と言った。
「じゃ、今から行くぞ」
「えっ、もう!?」
「俺だって暇じゃねぇんだ」
「っせめてどんな世界か…君の名前だって知らないのに!」
「……俺は、靭という。これから行く世界は『神の国』と呼ばれている場所だ。……まぁ、俺にとっては“牢獄”だが」
そう言った少年の横顔に、流実はまた似た感情を思い出す。まるで――つい先ほどの、薬を飲む前の自分と同じような。
「さて、連れて行くには“理由”が必要だが。…ああ、そうだな、世話係でいい」
「せ、世話…?」
困惑している流実をよそに、少年はパッと流実の手を取ると、力を込めて握った。―――次の瞬間。
「ひっ!?」
グニャリと空間が歪み、パッ!と地面が消えてそのまま落ちていった。どうやら少年は、流実の心の準備を待ってはくれなかったようだ。
あまりの恐怖で咄嗟に少年の手を振りほどく。同時に焦った少年の声が遠のく意識の中で聞こえ“しまった”と彼を見た。そして―――
目の前で、少年の姿が変わっていった。
銀髪はそのままに、小さな身体が見る見る伸びていく。
華奢な肩幅から男性的な骨格へ成長し、遂には二十代半ばの長身の美しい青年になっていった。そんな彼が「俺の手を離すな!」と低い掠れ声で叫んでいる。
(……え?なに、これ)
目の前の光景が信じられず、もう一度よく見ようとして……抗えない程の強い眠気に、再び混沌とした世界に微睡んでいった。
◇◇◇◇
次に流実が目を覚ますと、見知らぬ部屋のベッドにいた。
恐る恐る起き上がり辺りを見回すと、ふと、窓の外にのどかな風景と中世ヨーロッパ風の赤茶色のレンガの建物が目に入った。
「あ、起きたじゃない」
少し落ち着いた声と共に、部屋のドアから女性が入ってくる。ビクリと咄嗟に声の方向を向いて―――流実は「ヒュッ」と息を飲み込んだ。
女性は流実より十歳近く年上で、腰まである赤髪と真紅の瞳をしていた。少しツリ目で気の強い印象だがどちらかと言えば芯の強さを感じるような美しい人だ。
だが、その耳の先は尖り、エルフ耳とでも言うのだろうか?とにかく、人間のようで人間ではない姿だった。
「大丈夫、取って食いはしないから。アンタ近くの森で倒れてて、そしてこの家まで運ばれて来たってわけ」
「っ」
「私はリリィ。アンタは?人間?」
(―――え?)
ドクリと、心臓が一瞬止まった気がする。流実の動揺に気付かずに、彼女はベッド横にある椅子に腰掛けた。
心臓が少しずつ早くなっていき、じわりと汗が滲んで背中を伝う。
……そういえばあの銀髪の少年がいない。一体どこにいるのだろうか。そして、この女性は何なのだろうか?
彼がいない状況でここがどこかも分からないまま初対面で「人間か」と問われている。それが、とても怖い。
青ざめて無言になった流実に慌てたのがリリィだった。
「別に、危害を加えようなんて思ってないのよ。もし人間なら“とても尊い”ものだし。安心して頂戴」
「―――と、尊…?」
ポカンと、呟く。
『人間は、尊い』?
今、目の前の女性はそう言ったのだろうか?
(……こんな、私みたいな存在でも?)
一瞬、口が開きかけた。
でも、怖くてクッと喉が張り付いたように言葉が詰まる。
「その様子だと、人間で合ってるようね」
「っ!」
「大丈夫。本当に何もしない。ここでは――人間は“特別”だから。それだけ覚えていて」
「…な、なんで、」
「まあ、直ぐに分かるわ」
そう言ってリリィはドアに手をかけた。
「ごめんね、知らない場所にいて、知らない人物がいてびっくりしたでしょう。また後で来るから、今はゆっくり休んでて頂戴」
パタンと閉められたドア。
流実は扉を見つめながら、暫くその場に固まっていた。
(ここは、神の国…だよね…?)
あの少年の目的地は、一体どこだったのか。そして、“人間は尊い”と知ってて連れて来たのだろうか。
(この世界に来るときに姿が変わった気がしたけど……見間違いだったのかな……)
色々不安で、色々聞きたい。早く―――探さないと。靭くんは、今、どこにいるのだろうか。
◇◇◇◇
―――流実が目覚めた、その頃。
見渡す限り続く荒野の中に靭はいた。
ここは『闇方軍』と『光方軍』の前線地。
彼が指揮する軍は東の方角から攻めていた。
ちょうど西日が差す魔の時間帯。乾いた風に巻き上げられた砂埃で更に悪くなった視界に眉を顰めた彼は、苛立ちを隠さずに「クソ」と呟いた。
彼が苛立つにも理由がある。
この世界に来る途中で逸れた『少女』を探しに行きたいのに、それができないからだ。
その瞬間、ドン!と砲弾音が響く。続いて爆破音と地響きが鳴った。落ちた場所からして敵は正確にこちらの位置を特定できていないらしい。位置が分からないのは、こちらも同じだが。
「チッ」
思わず舌打ちし、背後で震える年若い兵たちを睨みつける。
全員緊張し顔が青かった。それはそうだ。この戦いは紛れも無い現実。訓練では無いのだ。
(こんなの、俺の仕事じゃねぇだろ)
ため息代わりに眉を寄せる。
新人教育など、“軍の総司令官”がするなんておかしいだろ。
だが自分には拒否権などない。この国の王、つまり、神に命令されればその通りに仕事をするだけだ。今回は特に断る事などできない。何故なら人間をこの世界に連れて来たのだから。
“願いには、願いを”
この世界の明確なルール。
何かを願うなら、何かを差し出さねばならない。
自分が人間を連れて来るならば、年若い兵を指導せよ、と言うのが対価だった。
だから先程から帰ってこない偵察兵を苛立たしく思いながらも律儀に待っているのだ。いくら「この程度」の戦であろうとも。
「―――総司令官!」
その時だった。
陣地に向かって一人の兵が走ってくる。先程偵察に出した若者のようだ。靭は苛立ちを隠せない表情で目を細める。
「す、すみません。敵に見つかり、攻撃を受け…」
「貴様はそんな事を報告しに来たのか」
明らかに苛立っている靭の声色に偵察兵はビクリと肩を震わせた。よく見れば兵の軍服には至る所に血の跡が飛び散っている。そんな彼に靭は生還を喜ぶどころか叱咤をした。
若者は青ざめた表情ですぐさま敵兵の状況を報告する。
「よし。では、これから実戦だ。報告の通りなら奇襲をかけ接近戦に持ち込め。谷間にいる奴等に挟まれぬよう気をつけろ」
兵を見渡しながら言い放つ靭。
偵察兵の報告によると、思ったより銃火器は少ないようだ。
飛び道具が少ないならば対人戦ではこちらが有利だ。初陣にはもってこいの「勝ち」の経験になるだろう。
「あ、あの…総司令は、闘われないのでしょうか…?」
一人の若者が恐る恐る聞く。
その若者を追う様に、今日初陣を迎える若者達が一斉に彼を見つめた。
「俺が行ってどうする」
「ですが…」
「てめーの戦てめーで勝ちを取って来い。こんな戦で死ぬようならばそれまでだ」
彼は、年若い兵達を一瞥すると掠れた声で冷たく言い放った。その藍色の瞳に一切の情は無い。彼の精巧な人形のような美しさが一層冷たさを引き立たせている。
若者達は皆無言になり、中には絶望的な表情を浮かべる者さえいた。
「俺らは“死神”とは違うんだよ…」
それぞれショックを受ける中、誰かが、蚊の鳴くような声で呟いた。敵軍から落とされる砲撃の音で殆どの者は聞こえていなかっただろう。
だが、靭は聞こえていた。
「……敵に反撃の隙を与えるな。逃げる者は、俺が殺してやる。今日俺がいる理由はそれだけだ」
スッと彼の周りが冷えていく。
静かに、そして確かな殺気と共に―――ゆっくりと手のひらを上に向けた。
初陣の兵の足を動かすのには、それだけで充分だった。
彼等は本能で、敵よりも目の前にいる靭から逃れる為に蜘蛛の子を散らすように敵陣に斬り込んで行った。
彼の、『闇方軍総司令官』の“逃げれば殺す”が決して比喩では無いと誰もが知っているからだ。
突如攻撃を受けた敵兵は焦りと混乱で陣形が乱れ、悲痛な叫び声を上げる。逃げ惑う敵兵の首を狩る若者兵の姿を見ながら、靭は静かに心の中で呟いた。
(好きで死神な訳ねぇだろが)
散々言われ続けている言葉。
いつまで経っても慣れない呪いの言葉。
自分は、人間だ。なのに、死神に“された”。
己に自由など無い。死ぬまでこの世界の為に闘い続けるしか道はない。こんな世界など、さっさと滅べばいいのに。
……ふと先程の黒髪の少女が浮かんだ。
少女は世界に絶望し「自殺」したと言った。誰にも理解されず、誰にも助けられないまま。
俺と似ている。そう思った。
だからだろうか。元の世界に返すのではなく、こんな逃げ場のない場所に連れてきてしまったのは。
「……この世界に来るなら死んだ方がマシかも知れんがな」
吐き捨てる様に言い、最後の敵兵の首が飛ぶ様を靭は冷えた目で確認した。そして苛立ったように立ち上がり最後の指揮をする。
これが終われば、ようやく少女を探しに行ける。
―――願いには、願いを。
全く、忌々しい。
何が神だ。その神が俺に死神を取り憑かせなければ、こんな奴隷のような生き方などせずに済んだものを。
こんな世界など、早く滅んでしまえ。




