第11話 2人の痛みが重なるとき
扉を叩くと、少し間を置いてまだ戦闘服に身を包んだリリィが疲れた表情のまま顔を出した。
「! リリィさん、無事で良かった…!」
彼女の顔を見た瞬間、流実は安堵で思わず声を上げる。
怪我もなく、何よりまた会えて嬉しい。
思った事を口に出しただけだったが、言われたリリィは何故か目を丸くして固まってしまった。
「あの…?」
「……あ、ごめんちょっと驚いて。無事で良かったとか、言われた事ないから」
「ありがとう」そう言って何故か泣きそうな顔で眉尻を下げたリリィに、流実は戸惑いと――ショックを受ける。
先日の柔和な笑顔の水狼が思い浮かんだ。
本当に……戦って血を流す事が普通だと思っているのだろうか?
―――だとしたら、やはりこの世界はどこかおかしい。
「皆さんも無事ですか?」
言われたと同時にサッとリリィの表情が変わる。
流実はその暗い表情を見て、最悪の状況が頭によぎった。
「ま、まさか…?」
「…ああ、ごめんね、つい。…うん、隠したって仕方ないわね」
リリィはふぅ、と深く息を吐くと「一人」と目を伏せながら言った。
―――その瞬間、流実はくっと喉が潰されたように息が詰まった。
まるで底なしの沼に突き落とされたような絶望感と、まとわりつくような負の感情が静かに這い上がってくる。
そう、つい最近までよく感じていた“死”への意識だ。
「黙っていても、いつか知る事になる。…大丈夫?」
「……はい、なんとか」
「違うの、そうじゃなくて」
そう言って美しい顔を歪ませたリリィは、次の瞬間信じられない事を口にした。
「殺した人物が、族長という事よ」
「…………え?」
たっぷり時間をかけて出た言葉だった。
族長が、殺した?……今、そう言ったような?
「っ」
違う。あの人は殺してない。
その、一言が出てこなかった。
何故なら自分は、彼の事を全て知っている訳じゃないから。
ギルバートが言っていた「族長は死の象徴である」と。リリィも注意していた「まさに死神のように冷酷」だと。
もしそんな靭の一面を知っていたら?きっと、“違う”なんてそもそも思わないかも知れない。
(でも――さっきの靭さんはまるで…憔悴しきって心を閉ざしているようだった)
「…さっき、クロノアさんに会いました」
「クロノア」という単語を聞いた瞬間、再びリリィの気配がサッと変化した。だが今度は、恐怖を思い出し強張っているかのようだった。
「大丈夫?もしかして族長に何かされたからここに来たんじゃ」
「いえ!逆に、心配になる程に憔悴してました」
「……どういう事?」
あまりに訝しげに聞くので、流実は先程の靭の様子をリリィに話すと、彼女は眉を顰めて黙り込んでしまった。
暫く沈黙した後リリィがようやく口を開く。
「……アタシ達って、族長の事よく分からないのよ」
「わ、分からない…?」
「ほら、前までずっと城にいたし。そもそも戦闘以外で関わりもなかったしね」
「まあ、考えた事もなかったけど」と乾いた笑いを浮かべるリリィはどこか冷えていて、流実は返事をする事ができなかった。
「今回だって、何故あの子が殺されたのか…多分誰も分からない。あの子に落ち度があったのか、それとも族長の気まぐれだったのか」
「―――っそんな、まさか」
「流実はそう言えるのよね」
「!」
「いえ、流実だからこそ言えるのかも。アタシ達は、本当に族長の事を知らないから」
と言っても、私も出会って数週間のレベルだ。
期間で言うならリリィ達の方がずっと長いはず。
でも確かに自分は『死神』という色眼鏡を通して靭を見ていない。“素”の彼を知っているのはもしかして私の方が長いのかも知れない。
「私もクロノアさんの事はまだ分かりません。だけど…少なくとも、さっきの様子では誰かを殺して平然としている人には見えませんでした」
「……」
「心配なので、帰ります。お疲れのところありがとうございました」
「ううん。……こちらこそありがとう」
何故お礼を言われたのか分からなかったが、とりあえず流実は静かに礼をして離れた。
ふと振り返って見たリリィは、やはり疲れた表情をしていた。
◇◇◇◇
帰って来てからもずっと、靭は部屋から出て来なかった。
呼びかけにももちろん応答はなく、流実は心配で居ても立っても居られなかった。
もしかして戦闘後はいつもあの状態なのだろうか?それとも、今回が初めて?
どう考えても、普通ではなかった。あんな状態の彼を放って置くなんてとてもできない。少しでも様子が分かれば良いのに…。
「! そうだった!」
ハッと気付いた。
眠ると行くことのできる、あの『狭間の森』。
とても清らかで静かな場所で、居るだけで癒しをくれる場所だ。きっと靭はそこに居る。何故か、分かった。
(―――だって、靭さんと私は似ているから)
自分なら、きっとあの森に行く。流実はそう思うと、早めに眠る準備を始めるのであった。
◇◇◇◇
『狭間の森』は相変わらず静寂に包まれ美しかった。
流実は巨大な木々を見上げ、胸いっぱいに深呼吸する。
眠る前に『森へ行きたい』と願った。どうやら、本当にそれだけで来れるらしい。
ふと自分を見る。
高校の制服に、裸足。この場所に来ると何故かこの姿になる。靭は服も年齢も違うのに――。
(今は…とにかく、靭さんを探そう)
不安な胸を押さえ歩き始める。
踏みしめる柔らかな土の感触が気持ち良く、差し込む光が当たった場所はポカポカと暖かかった。それだけで、なぜか緊張が溶けて安心してしまう。
大きな木を何本か通り過ぎていくとようやく目的地に辿り着いた。
(……やっぱり、いた)
そこには大きな木の幹に背を預けてうずくまる銀髪の少年がいた。道着を着ているから十五歳くらいの時期だろうか?
流実は意を決して声を掛ける。
靭は声にピクリと反応し、少しだけ解いた腕の隙間から流実を見た。
―――その顔を見た瞬間、流実はヒュッと息を飲み込んだ。
何の感情もない、虚無。この顔は、よく知ってる。
高校に通う電車の窓。よくこんな表情をした自分が映っていたのを思い出す。
『生』に興味を失い『死』に取り憑かれていたあの時――。
……あの時の自分は何を思っていたのか、今でも鮮明に覚えている。
靭は何も喋らないまま固まっている流実を一瞥し、再びうずくまった。
流実は、その場に動けずにいたが、暫くしてひとつ息を吐くと彼の隣にそっと座る。
靭は小さく肩を揺らすが、どうやら移動する気はなさそうだ。
流実はしばらく無言で彼の隣にいた。何をする訳でもなく、何を話す訳でもなく。
……ふと温かさを感じ上を見ると、木々から差し込む光の筋が目の前に落ちていた。思わず手を伸ばす。すると指先に触れた先がほんわかと暖かくなった。
(ああ…ここは温かい世界だなぁ)
辛くて、苦しくて死にたい時、何故か身体は氷のように冷たくなる。自殺する前の自分もずっと身体が冷えていた気がする。……この森にいると、無償の温かさが手に入るような気がした。
チラリと横にいる靭を見る。
―――きっと、この温かさが欲しくてこの森に来てるんだと思った。
そう思った瞬間、流実は自然と「おかえりなさい」と口に出していた。
そこで初めて靭が顔を上げた。
その表情は、驚きを滲ませ、困惑している。
(やっぱり……この人は私に似てる。きっと誰にも心配された事がないんだ…)
「ずっと、心配してたんですよ。……戦場で何があったんですか?」
先程の表情から一転、瞳に陰りが入る。そして再び俯いてしまった。
「…俺に構うな」
「でも」
「確かに俺はお前に世話係になれと言った。だが、こんな所までやって来て世話をしろと言った覚えはない」
「っ!」
ズキンと胸が痛む。
どうやら、彼は私が世話係だから心配していると思っているらしい。
(そんなんじゃない。私はただ心配で、それで――)
そこまで考えて、ふと冷静になる。
――違う。彼はお節介だと言っているのだ。と。
「……ごめんなさい。勝手に心配して、迷惑でしたね」
「!」
「でも世話係だから来た訳じゃないんです。……そもそも仕事じゃないし」
ただでさえ心配で寝込んでしまったくらいなのに、帰ってきたら来たでまるで別人のように虚ろになっているし、心配するなという方が無理だ。
でも彼にとっては違ったようだ。肩を落とした流実が立ち上がろうとした時だった。
「待て」
ボソリと呟くような、でもしっかりとした声が流実を呼び止めた。驚いて隣を見ると、顔を上げた靭がボンヤリと流実を見つめていた。
「お前は何をしに来たんだ」
固まった。
何をしに来たか?即答できなかったらだ。
戦場から帰ってきて、いつもと様子が違う事に不安になって。それで、どうするつもりだったのだろうか。
まさか聞いておいて元気を出せなんて言うつもりだったのだろうか。
「……えと、分かりません」
「……は?」
少しだけ苛立ちが混じった声で呟く靭。
「何なんだお前は。分からないのに、来たのか」
「ご、ごめんなさい。とにかく一人にしたくなかっただけで」
「何故俺を心配する?」
再び問いかけて来た彼に、流実はまたもや硬直する。
何故って「死にそうな顔をしていたから」なんて口が裂けても言えないけど。
「私と、同じ顔をしてたから…」
「……!」
「“辛そう”なのに、理由が分からないから……心配になるのかも?」
咄嗟に誤魔化して言えば、彼はふぅと細く息を吐いて視線を流実から外した。
暫く沈黙が流れる。そして、ゆっくり靭の口が開き「分かりゃ良いのか」と言った。
「えっ?」
「……俺には、死神が憑いている」
思わず靭を見つめる。その顔は暗澹としているが、先程よりも瞳に光が宿っているようだった。
突然の事にポカンとするが、どうやら自分の事を話してくれるようだ。それも…自分に憑いた死神の話を。
流実は慌ててその場に座り直して彼を見つめた。
「アギルという名の死神だ」
「……アギル」
初めて聞く死神の名。
――いや?違う。
(……クロノア・アギル)
そうだ。あの世界での靭の名は、クロノア・アギルだ。
「こいつは数ある神の中でも生粋の戦闘狂だ」
生粋の戦闘狂の死神。
そんな神が、人間の彼に憑いている。
「いつもではないが……戦場に出るとこいつをコントロールできない時がある」
「!」
「……今回も一人斬って捨てた」
瞬間、硬直した。
やはり、リリィが言っていた事は本当だったのだ。しかも、今回“も”と言わなかったか?
「で、でも、それは死神の…」
「俺が殺した事は事実だ」
「! っ靭さんのせいじゃ」
「軍のトップが、自分に憑いたモノすらコントロールできないと誰が言える」
ギュッと自分の胸を掴む。
この時初めて、彼の苦悩を知る事ができたからだ。
(……ああ、こんなに――苦しくて痛い)
誰も傷付けたくなくても…軍の総司令官である彼は、戦場で戦うしかないのに。
……そして、時折コントロール不能になる死神が仲間を殺しても、弁明すらできないのだ。
だからこそ彼は戦闘が終わる度、こうして心の傷を癒しているのではないか?彼にはそれしかできないから。
ジワリと目が熱くなり視界がボヤける。すると、隣から息を飲む声が聞こえた。
「…靭さんは優しいんですね」
「は…?」
「優しいから、この森にいる。初めて会った時もここにいたのは、そういう事じゃないんですか?」
再び息を飲む声。図星だったのだろうか、動揺しているようだった。
「辛いなら、少しでも良いから話して下さい」
「……なんだと?」
「靭さんはこの森で私の話を聞いてくれました。初めてだったんです。とても嬉しかったし、心が軽くなりました。ずっと誰かに言いたかったから」
「……!」
「誰かに辛さを吐き出すのって、大事なんだってあの時初めて知りました」
この森で彼に話を聞いてもらった時、まるで重い鎖が外れたように初めてホッと安心できた。
だから、今度は私が助けてあげたい。
「……俺は…」
それだけ呟いて無言になる。
―――その葛藤だってよく分かる。辛さを吐き出すって難しい。自分の弱い部分を相手にさらけ出すのはとても勇気がいる事だから。
「もちろん無理に話さなくて良いんです。…ただ、靭さんと私は似てるから」
「!」
「だから、私は靭さんの味方です。それだけ言わせて下さい」
自分には、彼を慰める事なんてできない。だけど寄り添う事はできる。
―――初めての感情だった。これまで、どこか似てると思っていただけなのに。こんなに強く、味方でいたいと思ってるなんて。
再び無言になった靭に、流実は少しだけ触れる場所まで移動した。自分の温かさを、分けてあげたくて。
十五歳の彼は流実と同じくらいの背で、隣に座ると丁度いい。ふと、肩が触れる。彼はビクリと震えたが避ける事はなかった。
「……れ、は、好きで死神じゃねぇ…」
掠れた声が小さく聞こえた。その言葉に気付いてしまった流実は、返事をしようか迷って――結局何も言わなかった。
…でも、きっとそれで良い。今は気付かない振りをしておこう。
初めて触れた彼の弱さを感じながら、流実はずっと寄り添っていた。




