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第10話 魂のない帰還


(じん)――クロノアの世話係になり、離れで暮らし始めて二週間が経っていた。心配していた彼との同居生活も今では何の不都合も感じていなかった。

そもそも日中ギルバート宅で勉強している流実(るみ)は、靭と顔を合わせるのは朝晩の食事くらい。お風呂も深夜か朝方に入っているようで「鉢合わせ」の心配も早々に消えた。


彼はどう思ってるか分からないが、特に気にされてる感じもないし、だからと言って邪魔者扱いもされてない。

そんな彼の態度がコミュ障の流実には正直有り難かった。


―――そんな、とある日。

案外快適で、平和な日常が大きく変わる出来事が起こった。



その日は早朝から騒がしかった。

書斎を挟んで隣にある彼の寝室から物音が聞こえたかと思うと、数分後にはドアが開き階段を降りる音。

こんな朝早くから何事かと思い小部屋から出ると、庭先に朱色の大きな羽が視界の隅に入り、そして飛び立っていった。


(……ふむるさん?)


急いで一階に降りて庭に出ると、頭上の鳥の端から銀髪がチラリと見えた。

今日も書類業務だと聞いていたが、一体どこへ行くんだろう?


流実は不思議に思いつつも、とりあえず顔を洗って世話係の制服に袖を通した時だった。


「流実、いる?」


玄関からノックと共にリリィの声が聞こえ、流実は慌てて制服を着込み、扉を開ける。

すると少々焦った表情のリリィが扉の前にいた。


「り、リリィさん?」


何が何だが分からず、驚いた表情でやってきた美人を見つめる。

―――そして、彼女が纏う『紅い』軍服に目が釘付けになった。


(……血みたいな、色だ…)


「族長から聞いてると思うけど、これから四、五日留守にするから。一応声掛けておこうと思って」

「えっ…!?」


初耳だ。

そんな事聞いてない。


「聞いてないの?」

「は、はい、何も…」

「そう。でもごめん話してる時間はないの。ここには水狼(すいろう)やグレードが残るわ。詳しい話はそちらに聞いて」

「え?あっ!」


そう言うと、リリィは流実の返事を聞く前に踵を返して走って行った。よく見れば、広場の方に皆一様に赤い軍服を着た紅族(べにぞく)員が軍馬に乗って集まっているではないか。


嫌な予感がし、流実も追いかけるように広場に向かう。

肩で息をしながら到着すると、ちょうど土埃を立て皆が出発するところだった。


遠くで馬の嘶く音を耳にしながら、走り去る後ろ姿をボンヤリと眺める。すると近くに水狼が立っている事に気付く。


「水狼さん」

「おや、おはよう。流実ちゃんも見送りした?」


声をかけられた水狼は、流実を見ると人の良さそうな笑顔を見せ、呑気そうに言った。


「あの、皆さんどこに?」

「あれ?族長から聞いてなかった?皆イソラ地区に向かったよ」

「イソラ…?」


先日勉強したばかりの地区の名前。

南國のパラマ地区とよく小競り合い――戦争している場所だ。


「どうやら昨日、そこから緊急要請が入ったらしいよ」

「き、緊急要請ですか!?あの軍服は…」

「戦闘服だよ。初めて見る?目立つよねあの血の色。遠くからでも紅族だって分かるから」


戦闘服。

その言葉を聞いた瞬間、一気に眠気が吹き飛んだ。


「紅族の名前も、あの戦闘服の色が由来だよ。安易だと思わない?センスを疑うよ」


ニコリと微笑みながら話す水狼。

―――まるで、今日の天気でも話すかのような口ぶりに、流実は思わず寒気が走った。


(……え?おかしいな、今さっき戦闘に行くと聞いたんだけど…?)



「その、戦況が悪いんですか?」

「俺は戦闘員じゃないから正確には分からないけど、多分そうじゃない?」

「心配じゃないんですか?」

「え?」


流実は一瞬、自分が間違った質問をしたのかとさえ思った。

柔和な笑顔のまま首を傾げる水狼に、つい流実はゾクリと身を震わせる。


―――この違和感が怖い。何で?皆戦いに行ったのに、何でそんなに“笑顔”なんだろう。


(……え?私が変なの?)


青ざめて固まったままの流実に、水狼は慌てて声を掛ける。その表情は何故こんな状態になるのか分からないと言いたげだ。


「大丈夫?」

「その、数日留守にすると言っていましたが皆大丈夫なんでしょうか?」

「さあ…?ただいつもそのくらいに帰ってくるし、今回もそうなんじゃない?まぁ俺らは待つ事しかできない訳だし」

「っ!何で…!」

「え?」

「っ」


流実は言葉を飲み込んだ。

もしかしたらこの戦いで誰かが怪我をするかもしれない。最悪の場合、命を落とすかも。

―――なのに、水狼はそれを“何とも思っていない”。

何とも思っていない人に、「何で怖くないのか」と聞いてまともな答えが返ってくるだろうか?


(きっと……これが、日常なんだ…)


平和に暮らしていた日常から、ふとした瞬間に戦争に切り替わる。それは一年後かも知れないし、一週間後かも知れない。そして、今この瞬間に起こった事。

あまりの普通の出来事に、恐怖の感覚が無いのだろうか?


(……やっぱり、怖いと思うのは…私は変ではないと思う)


「流実ちゃんは本当にこの世界のヒトなの?」


ふいに問われた言葉にドキリと大きく心臓が跳ねた。

自分が人間である事は秘密だ。それは今後もずっと隠し通しておかねばならない事でもある。


「な、なん…で…」

「え?変わった子だなぁって。ここで生きてる者は“こんな小競り合い”ある程度柔軟に受け入れてる。紅族は特に戦闘に特化した場所だしね。だから流実ちゃんみたいな反応は新鮮だなって」

「……!」

「でも、本来はきっとその感覚の方が正しいんだろうね」


水狼はそう言うと、ふと遠くを見つめた。


「誰かが戦って、血を流して、そして死んでいく。戦争なんて本当はしちゃいけなくて、あってはならないと思うんだ。……それなのに、いつの間に俺らの心は鈍くなったんだろうね」


俺ら、とは果たして誰の事なのか?

水狼の真意は分からない。だが、どこか遠くを見つめた瞳は、虚ろで暗かった。




◇◇◇◇



それからの毎日は不安で夜もろくに眠れなかった。

ふむるが来ないから状況も分からず、それが焦りと不安を一層大きしくし、ついに「熱」となって流実に現れた。


(私、何やってるんだろう……?)


熱にうなされながら、情けなさでそう思った。

この世界へ来て流されるまま世話係になり、何となく勉強していた。

でも、皆はそれぞれ義務を持ち、義務を果たすため今も戦場で命をかけている。


―――なのに、私だけ、その義務を負わなくて良い上に“何となく”日々を送っていたなんて。


(そんなの……だめだ)


自分ができる事。それを、少しでも胸を張れるよう頑張るべきなんだ。皆の…役に立てるように。


自分の中で強い決意が生まれる。

そして、そう思ったら、翌日には平熱に戻っていた。

どうやら自分は心配し過ぎると知恵熱が出るらしい。


冴えた頭で勉強を進め、文字や単語、世話係の知識などを頭に入れていく。

そうして自主学習がだいぶ進んだ、数日後のことだった。


なんの前触れもなく、靭が帰ってきた。


バタンと玄関の扉が開く音に気付いた流実は、咄嗟にペンを投げ出して階段を駆け下りる。

扉を開けるとしたら、彼しかいないからだ。


「―――靭さん!」


玄関先に彼の長い銀色を見つけ、安堵と同時に嬉しさでつい声を上げて彼の名を呼んでしまう。


―――なのに。


(………?)


一切こちらを見る事もなく、何の反応もない。

正装とは異なる紅の軍服を身に纏った靭は、妙な生々しさを感じた。それも“生”を鮮やかに身に纏っているような生々しさ。……だが、反対に彼には生気がない。


「……あ、あの?」


何だか様子がおかしい。

思わず怖くなり足を止めて呼び掛ける。靭はゆっくりとこちらに歩いてきた。流実の呼び掛けに応じたからでは無い。それが分かったのは、彼とすれ違った瞬間だった。


―――虚な目には何も映っていなかった。


光を失った瞳に何の感情も読み取れない無機質な顔。

生々しさを感じる紅い軍服とは対照的に、彼の人形のように整った顔が余計に人間味を消していて――思わずぞわりと鳥肌がたった。


無言のまま音もなくゆっくりと流実とすれ違う。

ふわりと銀髪が揺れ、“生々しさ”が流実の鼻についた。


彼のあまりの変わり様に恐怖で動く事ができない流実をよそに、靭はそのまま自室に吸い込まれていった。


(靭、さん……?)


……ゆっくり膨れ上がる不安と共に、波打つ心臓だけが耳に反響する。

怪我はないようだった。だが、あれを無事と果たして呼べるだろうか?

きっと――戦場で、何かあったのだ。


(…リリィさん家に、行こう)


流実はそう思うと、嫌に鳴り響く胸を押さえ静かに家を出る。

未だ生々しさと微かな恐怖が残る、彼を残して。


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