8.厨房に潜む影
「本当に行くんですか……?」
「ええ、行くわ。一人で部屋にいたって暇だもの。働きたいの。まずは厨房から攻略よ」
あの悪夢の単独結婚式から、一週間が経った。
この日、朝食を終えた私はネリーと共に屋敷の厨房に向かった。
結婚式の翌日に屋敷の中で迷った時にバッタリ出くわして以降、旦那様とは一度も顔を合わせていない。私の寝室の横に旦那様の寝室があって、扉一枚で繋がっている。
でも、隣室から人のいる気配はまったくしない。
(どこか、浮気相手さんのお宅に滞在中なのかしら)
旦那様からは、完全に存在を無視されている状態だ。でも、ヴァレリー伯爵家にいた頃だって同じようなものだった。今更傷つくことはない。
むしろここにいれば、お父様からお母様への悪口を聞くことがないだけ、幸せに思える。
部屋や窓の鍵をチェックしなくてもいいし、隙間風に凍えなくてもいい。
いつの間にかドレスがズタズタに切り裂かれていることもなければ、外出先でソフィに雇われた破落戸に絡まれることもない。
私のスミレ色の髪を目にするたびに、冷たい言葉をかけてくるお父様とも離れられた。
旦那様から「離婚して欲しい」と言われたら、素直に受け入れようと思ったり、愛されなくてもいいからここで暮らしたいと思ったり。
この一週間、私の気持ちは揺れている。
旦那様と家族になれたらもっと良かったけれど、それは期待できなさそうだから。
(ああ、モヤモヤする時は動くに限る!)
王都にいた時のように、使用人の皆さんと一緒に仲良く働けたら……そう思った私は、ネリーを伴って厨房に向かったのだった。
ネリーの案内で使用人室の入口へたどり着いた。ここから入り、厨房まではまだ少し歩くらしい。迷路のような屋敷の中、私一人だけでは絶対にここまでたどり着けなかっただろう。使用人室だけ見ても、これだけの広さがあるのだから。
厨房に下りる階段を見つけた。
久しぶりにお料理ができるワクワク感で、私は階段を走り下りる。ネリーはマイペースにゆっくりと私のあとからついて来る。
この屋敷ではほとんど姿を見なかった使用人たちも、厨房の扉を開けたらたくさんいたりして。なぜだかみんな私を避けているから、突然私が厨房に現れたらビックリするだろう。
扉の向こうからは、使用人たちの楽しそうな笑い声が漏れ出ている。
ちょうど今頃――早朝の仕事が一段落した隙間時間が、彼らの朝食タイムかもしれない。
(お食事中にお邪魔してごめんなさいね、自分で自由に使わせてもらうからお構いなく!)
満面の笑みで、私は厨房の扉を開けた。
(ガチャ)
…………
………………あれ?
(ガチャ)
「……リゼット様。なぜ扉をまた閉めたのですか?」
私の後ろから、ネリーが尋ねる。
「なんだか今、見てはいけないものを見た気がするの」
「は? どういうことですか?」
私の見間違いだろうか。
厨房の扉を開けた目の前に、使用人たちが賄いを食べるためのテーブルがあった。そのテーブルに付いて、ちょうどパンを食べようと大口を開けていた人と、目がバッチリ合ったのだけど。
「……その人、旦那様だった気がする」
「そっ、そんなわけないですよ! リゼット様、ここは厨房ですよ」
「そうよね。私の見間違いよね。もう一度開けるわ」
(ガチャ)
先程は数人が楽しそうに朝食を取りながら座っていたのに、もう一度扉を開けた時には、テーブルには誰も居なくなっていた。
「やっぱりおかしいわ。絶対おかしいわ」
私がドアノブに手をかけたまま呟くと、厨房の奥からエプロンをつけた中年の女性が出てくる。
「もしかして奥様ですか……!? こ、こっ……こんなところにいらっしゃってどうなさいましたか!」
「突然ごめんなさい。もし違ったら申し訳ないのだけど、今ここのテーブルに旦那様がいなかった?」
「旦那様? いませんいません! さっきからここには誰もおりません。使用人たちは朝食を食べ終わって仕事に戻りました。奥様はどういったご用事ですか?」
彼女の声は震えている。
「あ……厨房をお借りしたくて」
その使用人は、親切にも私の希望を聞いてくれた。厨房に入り、調理道具の場所や食材の場所を教えてもらう。その後は、その使用人にも少し外してもらった。
さすがの私も、こんなあからさまに恐れられては気が引けてしまう。
「結局、旦那様のことはうやむやにされてしまったわね……」
目の前で視線が合ったから、見間違いではないと思う。テーブルについてパンを食べようとしていたのは、確かに旦那様だった。
でも、この屋敷の主人であるリカルド・シャゼル様が、厨房で使用人たちと一緒に賄いを食べるなんて……あり得ないわよね?