第8話:境界が、溶けていく。
ふたりの夜が深まり、境界が曖昧になっていく。
「守ること」と「依存されること」は、いつからすれ違ってしまうのか――
温度と輪郭をテーマに、重く静かに沈んでいく回です。
まぶたの裏に、微かな光の気配が滲んでいた。
朝だった。
それは、昨日と地続きのはずの“朝”だった。
ゆっくりと目を開けると、ほんの数センチ先に、灰色の瞳があった。
光を吸い込むような、温度のないまなざし。
ミオが、僕の顔を覗き込んでいた。
毛布の中、ひとつの枕の上に、僕たちは額が触れるほどの距離で横たわっていた。
彼女のまばたきは、ない。
息を潜めるように、ただじっと僕を見つめている。
僕は、一瞬、自分がまだ夢の中にいるのではないかと錯覚した。
でも、彼女の瞳の中に小さく揺れる僕の顔が、それを否定していた。
「……何してるの」
そう問いかけた声が、自分でもわかるほど、乾いていた。
ミオは、瞬きを一度だけしてから、ぽつりと答えた。
「ちゃんと、生きてるか……見てただけ」
それは、冗談でも、脅しでもなかった。
ただの“確認”。
彼女の中では、それが自然な行為だったのだと思う。
心臓の音が、ほんの少しだけ乱れた。
でも僕は、何も言えなかった。
ふと、布団から出ようとして身体を起こすと、ミオの細い手が僕の袖を軽くつまんだ。
まるで、置いていかれたくない子どものように。
「……ユウが起きたら、起きる」
それだけ言って、ミオは再び枕に顔をうずめた。
起き上がる気配はない。
どこかで、カーテン越しに朝の光が滲んでいる。
世界は動き始めているはずなのに、僕たちの間だけ、時間が止まっている気がした。
(……あ、これ)
僕は、心の中でだけ、呟いた。
(……もう、引き返せない)
♢
朝食の時間。
配膳ワゴンの軋む音が廊下をかすめ、白いプレートがいつものように無言で置かれていく。
テーブルの上には、温度のない光が落ちていた。
ミオは、箸を手に取ったものの、その先端がかすかに震えていた。
味噌汁の湯気に、細い指が淡く揺れている。
彼女は、黙ってしばらく箸をじっと見つめていたが――ふと、顔を上げて言った。
「……ユウ、あーんして」
唐突なその一言に、僕は息を飲んだ。
その目には甘えも照れもなかった。
ただ、“命令が当然である”という静かな前提だけがあった。
僕は戸惑ったまま、ミオの顔を見た。
灰色の瞳は、感情の底を隠したまま、まっすぐにこちらを射抜いてくる。
ほんの少しだけ、躊躇して。
でも僕は、彼女の皿から一切れの焼き鮭を取って、箸でそっと彼女の口元に運んだ。
ミオは口を開き、噛まずにゆっくりと飲み込む。
その喉の動きを見て、なぜか僕の胸の奥が、ひどく締めつけられた。
「綴木くん、今日はすごく協力的ね。えらいわ」
背後から声をかけてきたのは、看護師だった。
おそらく何気ない、職務的な褒め言葉だった。
けれどその瞬間、ミオの手が僕の手首をぎゅっと握った。
冷たくて、細くて、でも決して離そうとしない手。
僕は、なぜだか急に胸がざわめいて、息が上ずった。
「――いやあ、たまには役に立たないとね、僕も!」
(あれ? なんで、僕、こんなに笑ってるんだろう)
場にそぐわない明るさが、口からこぼれ出ていた。
自分でも制御できないような浮ついた笑い声。
笑うほどのことでもないのに、声が止まらない。
肩が震えて、視界が少し滲んでいた。
看護師もつられて笑った。
でも――ミオだけは、笑わなかった。
彼女は、まっすぐ僕の顔を見たまま、ほんの一瞬だけ、表情を凍らせた。
氷の膜のような無表情。
そして、ぽつりと囁いた。
「……ユウは、私がいないとだめなのにね」
その言葉に、僕の背中がひやりと冷えた。
それは呟きだったはずなのに、なぜか耳の奥に、いつまでも残っていた。
食後、部屋に戻ると、ミオは一言も話さなかった。
でも、僕の腕からは指を離さなかった。
何をするにも、どこへ行くにも、彼女の手がずっと僕の袖に絡みついている。
それが“掴む”というよりも、“縫い付けられている”ように感じられた。
逃げるという選択肢は、もうどこにも見当たらなかった。
ただ、“ここにいるしかない”という思いだけが、ゆっくりと身体に染みついていった。
♢
午後――
病室の天井は、相変わらず静かに、重力のような沈黙を貼りつけている。
さっきまで笑っていたのに、今はなぜか、声の出し方すら思い出せなかった。
自分の中にいくつかの“温度”があって、それぞれが好き勝手に点いたり消えたりしている。
そんなふうに感じた。
僕は窓辺の椅子に腰を下ろし、ただ、ぼんやりと外を眺めていた。
窓の外には、誰もいなかった。
植え込みの向こう、コンクリートの舗装が、白く、ただ乾いている。
目に映る景色は、“時間が通過した後”のようだった。
生きているものの気配が、どこにもない。
ふと、自分の手の甲に視線を落とす。
血の通った感覚が薄くて、輪郭が溶けていくようだった。
――なんだろう、この感じ。
静かな思考の底に、ひとつの言葉が沈んでいた。
「僕、自分が“病室”になってるような気がする」
それは比喩でも詩的な表現でもなく、ただの感覚だった。
僕の言葉や、僕の反応、僕の存在そのものが――
ミオというひとりの人間の“療養環境”になってしまっているような、そんな感覚。
僕が話せば、彼女の呼吸が始まって、黙れば、止まる。
僕の体温で、彼女の生命維持装置が動いている。
そんなふうに、“僕”という人間の輪郭が、もう“設備”になってしまった気がした。
僕が彼女から少しでも目を逸らすと、
彼女の瞳から、光がすっと消える。
まばたきのように、無音で。
逆に、僕が言葉をかけると、彼女は生き返るように瞬きをする。
まるで、僕の声が肺の空気を押し込む役割を果たしているみたいに。
“僕が感情を持たなければ、彼女は壊れる”――
そんな予感が、脳のどこかにこびりついていた。
けれど、それを維持し続けるには、
僕の感情を削り続けるしかなかった。
怒らず、笑わず、戸惑わず。
ミオの反応を予測して、選ばれた表情だけを使うような、
そんな“擬態”のような日々。
――疲れた。
“死にたい”とは少し違う。
ただ、“いなくなりたい”と思った。
体ごとじゃなくて、気配ごと、輪郭ごと。
消えるでも、逃げるでもなく、ただ、透明になりたかった。
そんなことを考えていたとき、
ベッドの上で毛布に包まっていたミオが、音もなく近づいてきた。
そして僕の目の前にしゃがみこみ、顔を覗き込んで、こう言った。
「……ユウの目、死んでるとき好き」
どこかで、冷たい水を頭からかけられたような気がした。
それは褒め言葉ではない。けれど、拒絶もできなかった。
声には笑いが含まれていた。
けれどそれは、誰かを貶すような嘲笑ではなかった。
ただ、“無垢”だった。
曇りのない瞳で、ただ好きなものを好きだと言う、
それだけの言葉。
僕は息を詰めた。
何も言えなかった。
この感情が何なのか、名前がつけられないまま、
喉の奥に重石のように残っていった。
♢
夜――
消灯のチャイムが鳴る前から、僕は布団の端に腰を下ろしていた。
廊下の明かりはまだ落ちていない。けれど、もうミオは何も言わなかった。
「今日も、一緒に寝てもいい?」
その一言さえ、もう必要とされていない。
僕が布団の中に身体を滑らせると、ミオもすぐに同じ動作を繰り返す。
まるで、呼吸するように。
日々の延長として、すでにそれは“在るべきこと”になっていた。
先に身体を沈めた僕の背中に、彼女の腕がそっと巻きつく。
ぬるい呼気が、うなじを撫でる。
「……ねぇ」
その声と同時に、唇が触れてきた。
柔らかく、けれど遠慮なく。
次いで、舌が、唇のすき間を割って入ってくる。
ミオの指先が、僕の頬を撫で、首筋へ、耳の裏へ。
そして唇は、頬骨から顎、喉仏を伝いながら、濡れた音を残して滑っていった。
その熱に触れられながら、僕はふいに――
“自分が男であること”を思い出した。
まるで、性別という檻の中に、もう一度押し込まれていくような感覚だった。
身体の内側に、嫌悪が這い上がってくる。
(このまま、僕の身体が“そういう対象”になっていく気がする)
触れられているのは、皮膚じゃなかった。
皮膚の奥、もっと深いところ――
“性”という概念の中心に、無理やり手を差し込まれているようだった。
けれど、僕は抵抗できなかった。
腕を振りほどこうとは思わなかった。
ただ目を閉じて、すべてが過ぎ去るのを待っていた。
やがて、ミオの動きが止まる。
僕の胸元に顔をうずめたまま、彼女はぽつりと呟いた。
「……今日のキス、冷たかった」
その言葉は、責めでも泣き言でもなかった。
ただの事実報告のような、温度のない声。
僕は思わず、何かを壊したような声で答えた。
「……ごめん」
何に対しての謝罪なのかも、もうわからなかった。
でも、“悪いことをした”という認識だけが、首筋を冷やしていた。
ミオは僕を見上げることもせず、顔を隠したまま、次の言葉を落とした。
「……じゃあ、もう一回」
それは命令でも、懇願でもなかった。
“再試行”の提案――
キスという行為を“うまくやる”ための修正指示のように聞こえた。
僕の喉が、ひくりと動いた。
拒絶したかった。けれど、それが許されない空気が、部屋全体を満たしていた。
心のどこかで、もう一人の自分が叫んでいた。
「違う、そうじゃない、やめろ」――そう、何度も。
けれど、もうひとりの僕は、
身体を動かす権利を、どこかに置き忘れてしまっていた。
♢
キスが終わったあとも、ミオは僕の胸元に顔を押しつけたまま、しばらく動かなかった。
そのままの姿勢で、ほんのかすかに息を吸い込んでいる。
まるで、僕の匂いを“覚えようとしている”みたいに。
やがて、濡れた吐息が耳元に触れた。
「ユウの全部、私の中にしまいたい」
その声は、甘えるような響きすら帯びていた。
けれど、その実体はまるで違った。
“閉じ込める”のではなく、“取り込む”。
僕という存在を輪郭ごと、彼女の中に沈めてしまうような言葉だった。
「だから……他の人に見せないで」
それはお願いではなく、契約のように響いた。
僕の喉は乾いていた。
言葉を返そうとした瞬間にはもう、首の奥がつまって、うまく声にならなかった。
それでも、どうにか絞り出すように呟いた。
「……わかった」
たぶんそれは、反射的な返事だった。
でも、ミオの腕の力が、少しだけ強くなった。
安心したように、満ち足りたように――
僕の胸の奥に、彼女の体温が溶け込んでくる。
そのとき、ふと頬に何かが伝っていることに気づいた。
涙だった。
でも、なぜ泣いているのか、わからなかった。
悲しいのか。苦しいのか。
それとも、もう全部を諦めてしまったからか。
ミオの声が、低く、喉の奥でくぐもった音になっていく。
呼吸と一緒に、彼女の境界線が、僕の内側に浸透していく。
どちらの指が触れているのか、
どちらの心臓が鼓動しているのか、
どちらが眠っていて、どちらが起きているのか――
そのすべてが、もう曖昧だった。
そして、ふと心の中で問いかける。
僕の境界線は、どこにあったっけ。
あったはずのものに、指を伸ばしても――
そこには、ただ、空気しかなかった。
何も触れられなかった。
今回の話は、個人的に書いていてとても苦しかったです。
境界が曖昧になる、というのは、私自身が過去に何度も感じてきた恐ろしさでした。
「自分が誰かのためだけに存在しているような気がする」
「拒否していいはずなのに、拒否できない」
「助けたいと思ったはずなのに、いつの間にか自分の感情が削られている」
そういった“感情の摩耗”が、ふたりの間にじわじわと染み込んでいく様子を、
今回はじっくりと、静かに描きました。
本作は、フィクションであると同時に、
私の実体験――かつて“誰かの支えになろうとして自分を失っていった”記憶――を下敷きにしています。
抱きしめたはずの誰かの重さに、自分の輪郭が埋もれていくあの感覚は、
時間が経っても、消えることはありませんでした。
「助ける」ことは尊いことのように語られがちですが、
実際には、時にその行為が「溶け合い」や「依存」へと変質していくこともあります。
境界を見失いながら、それでもなお“共にいる”という選択をし続けることの苦しさと、
それでも手を離さないということの、かすかな祈り。
ミオの言葉はときに重く、ときに冷たく、
それでもどこか“哀しみ”の奥でかすかな温度を宿していて――
ユウの目を通して見える彼女の在り方が、読んでくださった方の心にも、
少しでも沈んで届いていれば嬉しく思います。
今回も、最後まで読んでくださりありがとうございました。
次話も、丁寧に綴ります。