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【祝1500PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。
8/28

第8話:境界が、溶けていく。

ふたりの夜が深まり、境界が曖昧になっていく。

「守ること」と「依存されること」は、いつからすれ違ってしまうのか――

温度と輪郭をテーマに、重く静かに沈んでいく回です。

 まぶたの裏に、微かな光の気配が滲んでいた。


 朝だった。

それは、昨日と地続きのはずの“朝”だった。


 ゆっくりと目を開けると、ほんの数センチ先に、灰色の瞳があった。

光を吸い込むような、温度のないまなざし。


 ミオが、僕の顔を覗き込んでいた。


 毛布の中、ひとつの枕の上に、僕たちは額が触れるほどの距離で横たわっていた。

彼女のまばたきは、ない。

息を潜めるように、ただじっと僕を見つめている。

僕は、一瞬、自分がまだ夢の中にいるのではないかと錯覚した。

でも、彼女の瞳の中に小さく揺れる僕の顔が、それを否定していた。


 「……何してるの」


 そう問いかけた声が、自分でもわかるほど、乾いていた。

ミオは、瞬きを一度だけしてから、ぽつりと答えた。


 「ちゃんと、生きてるか……見てただけ」


 それは、冗談でも、脅しでもなかった。

ただの“確認”。

彼女の中では、それが自然な行為だったのだと思う。


 心臓の音が、ほんの少しだけ乱れた。

 でも僕は、何も言えなかった。


 ふと、布団から出ようとして身体を起こすと、ミオの細い手が僕の袖を軽くつまんだ。

まるで、置いていかれたくない子どものように。


 「……ユウが起きたら、起きる」


 それだけ言って、ミオは再び枕に顔をうずめた。

起き上がる気配はない。

どこかで、カーテン越しに朝の光が滲んでいる。

世界は動き始めているはずなのに、僕たちの間だけ、時間が止まっている気がした。


 (……あ、これ)


 僕は、心の中でだけ、呟いた。


 (……もう、引き返せない)


 ♢


 朝食の時間。

配膳ワゴンの軋む音が廊下をかすめ、白いプレートがいつものように無言で置かれていく。

テーブルの上には、温度のない光が落ちていた。


 ミオは、箸を手に取ったものの、その先端がかすかに震えていた。

味噌汁の湯気に、細い指が淡く揺れている。


 彼女は、黙ってしばらく箸をじっと見つめていたが――ふと、顔を上げて言った。


 「……ユウ、あーんして」


 唐突なその一言に、僕は息を飲んだ。

その目には甘えも照れもなかった。

ただ、“命令が当然である”という静かな前提だけがあった。


 僕は戸惑ったまま、ミオの顔を見た。

灰色の瞳は、感情の底を隠したまま、まっすぐにこちらを射抜いてくる。


 ほんの少しだけ、躊躇して。

でも僕は、彼女の皿から一切れの焼き鮭を取って、箸でそっと彼女の口元に運んだ。


 ミオは口を開き、噛まずにゆっくりと飲み込む。

その喉の動きを見て、なぜか僕の胸の奥が、ひどく締めつけられた。


 「綴木くん、今日はすごく協力的ね。えらいわ」


 背後から声をかけてきたのは、看護師だった。

おそらく何気ない、職務的な褒め言葉だった。


 けれどその瞬間、ミオの手が僕の手首をぎゅっと握った。

冷たくて、細くて、でも決して離そうとしない手。


 僕は、なぜだか急に胸がざわめいて、息が上ずった。


 「――いやあ、たまには役に立たないとね、僕も!」


(あれ? なんで、僕、こんなに笑ってるんだろう)


 場にそぐわない明るさが、口からこぼれ出ていた。

自分でも制御できないような浮ついた笑い声。

笑うほどのことでもないのに、声が止まらない。

肩が震えて、視界が少し滲んでいた。


 看護師もつられて笑った。

でも――ミオだけは、笑わなかった。


 彼女は、まっすぐ僕の顔を見たまま、ほんの一瞬だけ、表情を凍らせた。

氷の膜のような無表情。

そして、ぽつりと囁いた。


 「……ユウは、私がいないとだめなのにね」


 その言葉に、僕の背中がひやりと冷えた。

それは呟きだったはずなのに、なぜか耳の奥に、いつまでも残っていた。


 食後、部屋に戻ると、ミオは一言も話さなかった。

でも、僕の腕からは指を離さなかった。

何をするにも、どこへ行くにも、彼女の手がずっと僕の袖に絡みついている。

それが“掴む”というよりも、“縫い付けられている”ように感じられた。


 逃げるという選択肢は、もうどこにも見当たらなかった。

ただ、“ここにいるしかない”という思いだけが、ゆっくりと身体に染みついていった。


 ♢


 午後――

病室の天井は、相変わらず静かに、重力のような沈黙を貼りつけている。


 さっきまで笑っていたのに、今はなぜか、声の出し方すら思い出せなかった。

自分の中にいくつかの“温度”があって、それぞれが好き勝手に点いたり消えたりしている。

そんなふうに感じた。


 僕は窓辺の椅子に腰を下ろし、ただ、ぼんやりと外を眺めていた。

窓の外には、誰もいなかった。

植え込みの向こう、コンクリートの舗装が、白く、ただ乾いている。


 目に映る景色は、“時間が通過した後”のようだった。

生きているものの気配が、どこにもない。


 ふと、自分の手の甲に視線を落とす。

血の通った感覚が薄くて、輪郭が溶けていくようだった。


 ――なんだろう、この感じ。


 静かな思考の底に、ひとつの言葉が沈んでいた。


 「僕、自分が“病室”になってるような気がする」


 それは比喩でも詩的な表現でもなく、ただの感覚だった。

僕の言葉や、僕の反応、僕の存在そのものが――

ミオというひとりの人間の“療養環境”になってしまっているような、そんな感覚。


 僕が話せば、彼女の呼吸が始まって、黙れば、止まる。

僕の体温で、彼女の生命維持装置が動いている。

そんなふうに、“僕”という人間の輪郭が、もう“設備”になってしまった気がした。


 僕が彼女から少しでも目を逸らすと、

彼女の瞳から、光がすっと消える。

まばたきのように、無音で。


 逆に、僕が言葉をかけると、彼女は生き返るように瞬きをする。

まるで、僕の声が肺の空気を押し込む役割を果たしているみたいに。

“僕が感情を持たなければ、彼女は壊れる”――

そんな予感が、脳のどこかにこびりついていた。


 けれど、それを維持し続けるには、

僕の感情を削り続けるしかなかった。

怒らず、笑わず、戸惑わず。

ミオの反応を予測して、選ばれた表情だけを使うような、

そんな“擬態”のような日々。


 ――疲れた。


 “死にたい”とは少し違う。

ただ、“いなくなりたい”と思った。

体ごとじゃなくて、気配ごと、輪郭ごと。

消えるでも、逃げるでもなく、ただ、透明になりたかった。


 そんなことを考えていたとき、

ベッドの上で毛布に包まっていたミオが、音もなく近づいてきた。


 そして僕の目の前にしゃがみこみ、顔を覗き込んで、こう言った。


 「……ユウの目、死んでるとき好き」


 どこかで、冷たい水を頭からかけられたような気がした。

それは褒め言葉ではない。けれど、拒絶もできなかった。

声には笑いが含まれていた。

けれどそれは、誰かを貶すような嘲笑ではなかった。

ただ、“無垢”だった。

曇りのない瞳で、ただ好きなものを好きだと言う、

それだけの言葉。


 僕は息を詰めた。

何も言えなかった。

この感情が何なのか、名前がつけられないまま、

喉の奥に重石のように残っていった。


 ♢


 夜――


 消灯のチャイムが鳴る前から、僕は布団の端に腰を下ろしていた。

廊下の明かりはまだ落ちていない。けれど、もうミオは何も言わなかった。


 「今日も、一緒に寝てもいい?」


 その一言さえ、もう必要とされていない。

僕が布団の中に身体を滑らせると、ミオもすぐに同じ動作を繰り返す。

まるで、呼吸するように。

日々の延長として、すでにそれは“在るべきこと”になっていた。


 先に身体を沈めた僕の背中に、彼女の腕がそっと巻きつく。

ぬるい呼気が、うなじを撫でる。


 「……ねぇ」


 その声と同時に、唇が触れてきた。

柔らかく、けれど遠慮なく。

次いで、舌が、唇のすき間を割って入ってくる。


 ミオの指先が、僕の頬を撫で、首筋へ、耳の裏へ。

そして唇は、頬骨から顎、喉仏を伝いながら、濡れた音を残して滑っていった。


 その熱に触れられながら、僕はふいに――

“自分が男であること”を思い出した。

まるで、性別という檻の中に、もう一度押し込まれていくような感覚だった。


 身体の内側に、嫌悪が這い上がってくる。


 (このまま、僕の身体が“そういう対象”になっていく気がする)


 触れられているのは、皮膚じゃなかった。

皮膚の奥、もっと深いところ――

“性”という概念の中心に、無理やり手を差し込まれているようだった。


 けれど、僕は抵抗できなかった。

腕を振りほどこうとは思わなかった。

ただ目を閉じて、すべてが過ぎ去るのを待っていた。


 やがて、ミオの動きが止まる。


 僕の胸元に顔をうずめたまま、彼女はぽつりと呟いた。


 「……今日のキス、冷たかった」


 その言葉は、責めでも泣き言でもなかった。

ただの事実報告のような、温度のない声。

僕は思わず、何かを壊したような声で答えた。


 「……ごめん」


 何に対しての謝罪なのかも、もうわからなかった。

でも、“悪いことをした”という認識だけが、首筋を冷やしていた。

ミオは僕を見上げることもせず、顔を隠したまま、次の言葉を落とした。


 「……じゃあ、もう一回」


 それは命令でも、懇願でもなかった。

“再試行”の提案――

キスという行為を“うまくやる”ための修正指示のように聞こえた。


 僕の喉が、ひくりと動いた。

拒絶したかった。けれど、それが許されない空気が、部屋全体を満たしていた。


 心のどこかで、もう一人の自分が叫んでいた。

「違う、そうじゃない、やめろ」――そう、何度も。


 けれど、もうひとりの僕は、

身体を動かす権利を、どこかに置き忘れてしまっていた。


 ♢


 キスが終わったあとも、ミオは僕の胸元に顔を押しつけたまま、しばらく動かなかった。

そのままの姿勢で、ほんのかすかに息を吸い込んでいる。

まるで、僕の匂いを“覚えようとしている”みたいに。


 やがて、濡れた吐息が耳元に触れた。


 「ユウの全部、私の中にしまいたい」


 その声は、甘えるような響きすら帯びていた。

けれど、その実体はまるで違った。


 “閉じ込める”のではなく、“取り込む”。

僕という存在を輪郭ごと、彼女の中に沈めてしまうような言葉だった。


 「だから……他の人に見せないで」


 それはお願いではなく、契約のように響いた。

 

 僕の喉は乾いていた。

言葉を返そうとした瞬間にはもう、首の奥がつまって、うまく声にならなかった。

それでも、どうにか絞り出すように呟いた。


 「……わかった」


 たぶんそれは、反射的な返事だった。

でも、ミオの腕の力が、少しだけ強くなった。

安心したように、満ち足りたように――

僕の胸の奥に、彼女の体温が溶け込んでくる。


 そのとき、ふと頬に何かが伝っていることに気づいた。

 

 涙だった。


 でも、なぜ泣いているのか、わからなかった。


 悲しいのか。苦しいのか。

それとも、もう全部を諦めてしまったからか。


 ミオの声が、低く、喉の奥でくぐもった音になっていく。

呼吸と一緒に、彼女の境界線が、僕の内側に浸透していく。


 どちらの指が触れているのか、

どちらの心臓が鼓動しているのか、

どちらが眠っていて、どちらが起きているのか――


 そのすべてが、もう曖昧だった。


 そして、ふと心の中で問いかける。


 僕の境界線は、どこにあったっけ。


 あったはずのものに、指を伸ばしても――

 そこには、ただ、空気しかなかった。

 何も触れられなかった。



今回の話は、個人的に書いていてとても苦しかったです。


境界が曖昧になる、というのは、私自身が過去に何度も感じてきた恐ろしさでした。

「自分が誰かのためだけに存在しているような気がする」

「拒否していいはずなのに、拒否できない」

「助けたいと思ったはずなのに、いつの間にか自分の感情が削られている」

そういった“感情の摩耗”が、ふたりの間にじわじわと染み込んでいく様子を、

今回はじっくりと、静かに描きました。


本作は、フィクションであると同時に、

私の実体験――かつて“誰かの支えになろうとして自分を失っていった”記憶――を下敷きにしています。

抱きしめたはずの誰かの重さに、自分の輪郭が埋もれていくあの感覚は、

時間が経っても、消えることはありませんでした。


「助ける」ことは尊いことのように語られがちですが、

実際には、時にその行為が「溶け合い」や「依存」へと変質していくこともあります。

境界を見失いながら、それでもなお“共にいる”という選択をし続けることの苦しさと、

それでも手を離さないということの、かすかな祈り。


ミオの言葉はときに重く、ときに冷たく、

それでもどこか“哀しみ”の奥でかすかな温度を宿していて――

ユウの目を通して見える彼女の在り方が、読んでくださった方の心にも、

少しでも沈んで届いていれば嬉しく思います。


今回も、最後まで読んでくださりありがとうございました。

次話も、丁寧に綴ります。





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