表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【祝1500PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。
7/28

第7話:明日も、ここで。

同じ部屋で眠るようになったふたり。

それは決して安らぎではなく、寄り添わなければ崩れてしまう“夜のかたち”でした。

触れ合うことにしか救いを見出せない、その危うい共生の一夜を描いています。

 朝――いつの間にか眠っていた僕は、ゆっくりとまぶたを開けた。

天井は、昨日と同じ白さを保っていて、空気にはまだ夜の名残がわずかに漂っていた。


 ふと隣を見ると、真白さんがこちらに背を向けて横たわっていた。

寝息は聞こえなかった。

それでも、肩がわずかに上下していて、彼女が“生きている”ことだけは確かめられた。


 そっと布団をめくり、ベッドから足を下ろす。

そのわずかな気配に、真白さんもゆっくりと身を起こした。

まるで僕の動きをなぞるように。

呼吸のリズムさえ、少し遅れて追いかけてくる。


 僕が洗面台のほうへ歩いていくと、真白さんも小さく立ち上がる。

足音はない。音を立てないようにしているのではなく、最初から存在しないかのようだった。


 看護師の目を盗むようにして、彼女はゆっくりと着替え始める。

着替えられるようになったのは、ここ数日の変化だった。

ボタンをかけ違えたまま、ただ黙々と着替える姿に、言葉をかけるタイミングをいつも失ってしまう。


 でも、今朝は違った。

服を着終えた真白さんが、僕の方にだけ顔を向けて、小さな声で言った。


 「……おはよ、綴木くん」


 その声音には、まだ眠りから抜けきれないような、かすかな湿り気があった。

けれど、それはたしかに――この場所で初めて彼女の口から発せられた、“朝”の言葉だった。


 ♢


 午前九時、配膳のワゴンが廊下を軋ませる音が聞こえると、ミオは少しだけ顔を上げた。

朝食は、ごく普通の和食だった。白米、味噌汁、焼き鮭、ほうれん草のおひたし。

無機質なプラスチックの器に、それらが整然と並べられていた。


 僕が箸を手に取ると、真白さんも数秒遅れて、自分の箸を持ち上げた。

以前は、食事にすら触れようとしなかった彼女が、いまはこうして手を動かしている。

 

 それはたしかに“生活機能の獲得”だった。

けれどその動きには、生きようとする意志よりも、“僕がそうしているから”というだけの模倣のような気配があった。


 真白さんは、箸の先で白米をすくい上げ、口元まで運ぶ。

だが、そこから動かない。

口を開け、米を含んだまま、数分間、ぴたりと止まっていた。

噛んでいない。飲み込んでもいない。

ただ、食べ物を咀嚼するという行為そのものを、彼女の身体が拒絶しているようだった。


 そんな彼女の横顔を見ながら、僕は自分の茶碗から、ごく少量の白米を口に入れた。

噛むたびに、何かが砕けていく音だけが、口の中に響いた。

味は、しなかった。

食事という行為が、僕たちにとっては、もはや“栄養”でも“楽しみ”でもなく、ただ“続けるための機械動作”になっていた。


 「今日は、少し調子よさそうね」


 看護師がそう声をかけたのは、真白さんが自分で箸を握っていたからだろう。

柔らかい笑みを浮かべながら、真白さんの前に膝をつく。

けれど、真白さんはその声に反応しなかった。

返事も、視線すらも向けずに――ただ、ほんの一瞬、僕の方をちらりと見ただけだった。


 視線が、胸の奥を掠めた。


 僕は、気づいていた。

彼女はまだ、誰のことも信用していない。

看護師にも、医師にも。

この病棟のルールにも。

ただひとつ、“僕だけが彼女の中に残っている”――そんな実感があった。


 けれどそれは、信頼ではなかった。


 彼女は、僕にしがみついているだけだった。

他に掴むものが何もないから、そこに僕がいたというだけのこと。

僕の存在は、たまたまその場にあった“杭”のようなものに過ぎない。

自分を保つために、ただ握っている。それが誰かなんてことは、本当はどうでもいいのかもしれない。


 その事実が、ひどく寂しかった。


 けれど同時に――

僕はその“杭”であることを、拒む理由も、持ち合わせていなかった。


 ♢


 夜。

 看護師の見回りが終わり、廊下の明かりが落ちたころ。

僕はいつものように、部屋の隅に敷いた布団に手をかけていた。

掛け布団を開き、枕の位置を整え、沈黙の中でその“準備”を終えようとしていたとき――


 背後で、微かな気配が動いた。

足音はなかった。けれど、そこに“立ち上がる”という重さがあった。


 「綴木くん……今日も、一緒に寝てもいい?」


 その声は、どこか祈るようで、すでに許されたことの再確認のようでもあった。

この問いかけは、たぶん三度目だ。

けれどそのたびに、真白さんはほんの少しだけ声を震わせて言う。

“ダメだ”と告げられる可能性を、わずかに想定しているかのように。


 僕はしばらく黙ったまま、布団の皺に指を這わせていた。

答える言葉を探していたのではなく、自分の中の“拒否する理由”を見つけようとしていた。


 でも、見つからなかった。


 「……わかった」


 そう言うと、真白さんは静かに僕の隣へと歩いてきた。

歩幅は小さく、すり足のようだった。

その姿には、頼るというよりも、“そばにいなければ自分が崩れる”という切迫したものがにじんでいた。


 布団に入るときも、彼女は一言も発さなかった。

空気を乱さないように、音を立てないように、そっと身体を滑り込ませる。

その仕草が、すでに“慣れてしまった”人間の動作に見えたのが、少しだけ怖かった。


 真白さんは僕の隣で、最初は背を向けて横たわっていた。

けれど、その背中は静かに、わずかずつ、こちらを向きはじめる。

ためらうように、迷うように、呼吸を確かめながら。

 

 まるで――


 それが儀式の一部であるかのように。


 やがて、彼女の肩が、月明かりにかすかに照らされた。

枕の上、二つの頭が並ぶ。

手はまだ触れていない。

けれど、肌の温度は、確かに近くにあった。


 この瞬間だけ、僕たちは“眠るために”隣り合っていた。

ただ、同じ場所に、沈むように横たわっていた。


 ♢


 しばらくのあいだ、言葉はなかった。

布団の中、僕たちはただ横たわっていた。

目を閉じようとしても、まぶたの裏で誰かの影がちらついた。

それが真白さんのものか、僕自身のものかもわからなかった。


 そのとき、不意に声がした。

細く、震えるような声だった。


 「……ねぇ、ユウ」


 一度だけ、名を呼ばれた。

その響きに、心臓が一拍遅れて反応した。


 「えっ……」


 戸惑いのまま、声が漏れる。

真白さんの方を見ようとすると、彼女はすでに僕のほうを向いていた。

視線が合う。暗がりの中、灰色の瞳がうっすらと濡れているのがわかった。


 「……名前、嫌だった?」


 その問いは、責めるでも、甘えるでもない。

ただ、確認するだけの、感情のない声音だった。


 「……嫌じゃないけど」


 僕がそう返すと、真白さんはほんのわずかだけ目を伏せた。

そのまま、言葉を継ぐ。


 「もう、真白さんは……やめてよ」


 静かに、しかし確かにそう言った。

“他人”の名前を拒むように。

“他人”として見られることを、恐れているように。

彼女の名前を“ミオ”。

そう呼ぶことに、少しだけ、迷いがあった。

 

 僕は、息をのんだ。


 「……ね、お願い。ユウ」


 ミオの声は、今度は少しだけ熱を帯びていた。

何かにすがるような、けれど確実にこちらに向かって伸びてくる音。


 「……ミオ」


 名前を呼ぶと、彼女の喉が小さく動いた。

口元がわずかに緩む。けれどそれは笑顔ではなく、ただ感情を抑えきれないことの証のようだった。


 「もう一度」


 「……ミオ」


 「……もう一度」


 「……ミオ……」


 「……ユウ……」


 重なった声が、空気を震わせた。


 そのまま、彼女の顔が近づく。

ためらいはなかった。

僕の胸元に置かれた手が、わずかに衣服を握る。


 そして、唇が重なった。


 それは、僕の知っているキスとは違った。

優しさやあたたかさとは、遠い場所にあった。

彼女の舌は、怯えるように、でも確かに僕を探っていた。

熱を確かめるように、そこに“誰かがいる”ことを、味わうように。

戸惑う僕の唇を割って、深く、絡まるように。


 逃げられなかった。

 

 抗えなかった。


 そのキスは、求め合うものではなく、“失われた何か”を埋めようとする接触だった。


 彼女が求めていたのは、僕ではなかったのかもしれない。

ただ、触れることでしか、自分の輪郭を感じられないだけなのかもしれない。

それでも――僕は、その舌の温度を拒めなかった。

拒まなかった自分が、ほんの少しだけ、怖かった。


 唇が離れたあと、しばらくのあいだ、どちらも言葉を発さなかった。

彼女の顔は、僕の胸元にうずめられている。

呼吸の残滓が、肌に夜を滲ませていた。


 しばらくして、ミオがそっと唇を動かした。


 「……明日も、ここで寝る?」


 それは問いかけではなく、ほとんど祈りにも似た確認だった。

“今夜だけじゃない”、そう言外に含ませた声音。

眠るために、触れるために、自分が自分であるために。

その全てが、“ここ”にしかないと信じているようだった。


 僕は、答えなかった。

うなずきさえもしなかった。

けれど、彼女の指先がそっと僕の服をつまむのを感じて、

それが、無言の返事になっていくのを、止めることはできなかった。



本話では、ふたりの関係が“共生”という形で、また一段深く踏み込んだ夜を描かせていただきました。


寄り添う、触れる、言葉を交わす。

それらは本来、優しさや信頼の延長線にある行為なのだと思います。

けれど、誰かに触れていなければ“自分の輪郭すら感じられない”という状態に陥ったとき、

それは「優しさ」ではなく、「生存」に近い衝動になることがあります。


この作品には、私自身の過去の体験や感覚の断片が、たくさん混ざっています。

誰かの目を見て話せないこと。

眠る前に“隣に誰かがいてくれないと壊れてしまいそう”と感じる夜があったこと。

自分を保つために、誰かの体温にすがってしまったこと。


それらは、いま振り返れば“依存”や“未成熟”という言葉で片付けられるのかもしれません。

けれど、当時の私には、それ以外に選択肢がなかったのです。


本作に登場するミオやユウもまた、

そうした“選べなかった感情”の中で、ただ生きようとしているだけの存在です。

その不器用な寄り添いを、もしほんの少しでも理解してくださる方がいたら――

それだけで、描いた意味があるように思います。


今回も、最後まで読んでくださってありがとうございました。

次話も、丁寧に綴らせていただきます。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
一気に読ませていただきました! 読了後、しばらく動けませんでした。 自分もまた、ごくわずかでも似た温度を抱えて物語を書くことがあるので、作品に込められた“痛み”と“静けさ”が胸の奥にじんわりと残ってい…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ