第7話:明日も、ここで。
同じ部屋で眠るようになったふたり。
それは決して安らぎではなく、寄り添わなければ崩れてしまう“夜のかたち”でした。
触れ合うことにしか救いを見出せない、その危うい共生の一夜を描いています。
朝――いつの間にか眠っていた僕は、ゆっくりとまぶたを開けた。
天井は、昨日と同じ白さを保っていて、空気にはまだ夜の名残がわずかに漂っていた。
ふと隣を見ると、真白さんがこちらに背を向けて横たわっていた。
寝息は聞こえなかった。
それでも、肩がわずかに上下していて、彼女が“生きている”ことだけは確かめられた。
そっと布団をめくり、ベッドから足を下ろす。
そのわずかな気配に、真白さんもゆっくりと身を起こした。
まるで僕の動きをなぞるように。
呼吸のリズムさえ、少し遅れて追いかけてくる。
僕が洗面台のほうへ歩いていくと、真白さんも小さく立ち上がる。
足音はない。音を立てないようにしているのではなく、最初から存在しないかのようだった。
看護師の目を盗むようにして、彼女はゆっくりと着替え始める。
着替えられるようになったのは、ここ数日の変化だった。
ボタンをかけ違えたまま、ただ黙々と着替える姿に、言葉をかけるタイミングをいつも失ってしまう。
でも、今朝は違った。
服を着終えた真白さんが、僕の方にだけ顔を向けて、小さな声で言った。
「……おはよ、綴木くん」
その声音には、まだ眠りから抜けきれないような、かすかな湿り気があった。
けれど、それはたしかに――この場所で初めて彼女の口から発せられた、“朝”の言葉だった。
♢
午前九時、配膳のワゴンが廊下を軋ませる音が聞こえると、ミオは少しだけ顔を上げた。
朝食は、ごく普通の和食だった。白米、味噌汁、焼き鮭、ほうれん草のおひたし。
無機質なプラスチックの器に、それらが整然と並べられていた。
僕が箸を手に取ると、真白さんも数秒遅れて、自分の箸を持ち上げた。
以前は、食事にすら触れようとしなかった彼女が、いまはこうして手を動かしている。
それはたしかに“生活機能の獲得”だった。
けれどその動きには、生きようとする意志よりも、“僕がそうしているから”というだけの模倣のような気配があった。
真白さんは、箸の先で白米をすくい上げ、口元まで運ぶ。
だが、そこから動かない。
口を開け、米を含んだまま、数分間、ぴたりと止まっていた。
噛んでいない。飲み込んでもいない。
ただ、食べ物を咀嚼するという行為そのものを、彼女の身体が拒絶しているようだった。
そんな彼女の横顔を見ながら、僕は自分の茶碗から、ごく少量の白米を口に入れた。
噛むたびに、何かが砕けていく音だけが、口の中に響いた。
味は、しなかった。
食事という行為が、僕たちにとっては、もはや“栄養”でも“楽しみ”でもなく、ただ“続けるための機械動作”になっていた。
「今日は、少し調子よさそうね」
看護師がそう声をかけたのは、真白さんが自分で箸を握っていたからだろう。
柔らかい笑みを浮かべながら、真白さんの前に膝をつく。
けれど、真白さんはその声に反応しなかった。
返事も、視線すらも向けずに――ただ、ほんの一瞬、僕の方をちらりと見ただけだった。
視線が、胸の奥を掠めた。
僕は、気づいていた。
彼女はまだ、誰のことも信用していない。
看護師にも、医師にも。
この病棟のルールにも。
ただひとつ、“僕だけが彼女の中に残っている”――そんな実感があった。
けれどそれは、信頼ではなかった。
彼女は、僕にしがみついているだけだった。
他に掴むものが何もないから、そこに僕がいたというだけのこと。
僕の存在は、たまたまその場にあった“杭”のようなものに過ぎない。
自分を保つために、ただ握っている。それが誰かなんてことは、本当はどうでもいいのかもしれない。
その事実が、ひどく寂しかった。
けれど同時に――
僕はその“杭”であることを、拒む理由も、持ち合わせていなかった。
♢
夜。
看護師の見回りが終わり、廊下の明かりが落ちたころ。
僕はいつものように、部屋の隅に敷いた布団に手をかけていた。
掛け布団を開き、枕の位置を整え、沈黙の中でその“準備”を終えようとしていたとき――
背後で、微かな気配が動いた。
足音はなかった。けれど、そこに“立ち上がる”という重さがあった。
「綴木くん……今日も、一緒に寝てもいい?」
その声は、どこか祈るようで、すでに許されたことの再確認のようでもあった。
この問いかけは、たぶん三度目だ。
けれどそのたびに、真白さんはほんの少しだけ声を震わせて言う。
“ダメだ”と告げられる可能性を、わずかに想定しているかのように。
僕はしばらく黙ったまま、布団の皺に指を這わせていた。
答える言葉を探していたのではなく、自分の中の“拒否する理由”を見つけようとしていた。
でも、見つからなかった。
「……わかった」
そう言うと、真白さんは静かに僕の隣へと歩いてきた。
歩幅は小さく、すり足のようだった。
その姿には、頼るというよりも、“そばにいなければ自分が崩れる”という切迫したものがにじんでいた。
布団に入るときも、彼女は一言も発さなかった。
空気を乱さないように、音を立てないように、そっと身体を滑り込ませる。
その仕草が、すでに“慣れてしまった”人間の動作に見えたのが、少しだけ怖かった。
真白さんは僕の隣で、最初は背を向けて横たわっていた。
けれど、その背中は静かに、わずかずつ、こちらを向きはじめる。
ためらうように、迷うように、呼吸を確かめながら。
まるで――
それが儀式の一部であるかのように。
やがて、彼女の肩が、月明かりにかすかに照らされた。
枕の上、二つの頭が並ぶ。
手はまだ触れていない。
けれど、肌の温度は、確かに近くにあった。
この瞬間だけ、僕たちは“眠るために”隣り合っていた。
ただ、同じ場所に、沈むように横たわっていた。
♢
しばらくのあいだ、言葉はなかった。
布団の中、僕たちはただ横たわっていた。
目を閉じようとしても、まぶたの裏で誰かの影がちらついた。
それが真白さんのものか、僕自身のものかもわからなかった。
そのとき、不意に声がした。
細く、震えるような声だった。
「……ねぇ、ユウ」
一度だけ、名を呼ばれた。
その響きに、心臓が一拍遅れて反応した。
「えっ……」
戸惑いのまま、声が漏れる。
真白さんの方を見ようとすると、彼女はすでに僕のほうを向いていた。
視線が合う。暗がりの中、灰色の瞳がうっすらと濡れているのがわかった。
「……名前、嫌だった?」
その問いは、責めるでも、甘えるでもない。
ただ、確認するだけの、感情のない声音だった。
「……嫌じゃないけど」
僕がそう返すと、真白さんはほんのわずかだけ目を伏せた。
そのまま、言葉を継ぐ。
「もう、真白さんは……やめてよ」
静かに、しかし確かにそう言った。
“他人”の名前を拒むように。
“他人”として見られることを、恐れているように。
彼女の名前を“ミオ”。
そう呼ぶことに、少しだけ、迷いがあった。
僕は、息をのんだ。
「……ね、お願い。ユウ」
ミオの声は、今度は少しだけ熱を帯びていた。
何かにすがるような、けれど確実にこちらに向かって伸びてくる音。
「……ミオ」
名前を呼ぶと、彼女の喉が小さく動いた。
口元がわずかに緩む。けれどそれは笑顔ではなく、ただ感情を抑えきれないことの証のようだった。
「もう一度」
「……ミオ」
「……もう一度」
「……ミオ……」
「……ユウ……」
重なった声が、空気を震わせた。
そのまま、彼女の顔が近づく。
ためらいはなかった。
僕の胸元に置かれた手が、わずかに衣服を握る。
そして、唇が重なった。
それは、僕の知っているキスとは違った。
優しさやあたたかさとは、遠い場所にあった。
彼女の舌は、怯えるように、でも確かに僕を探っていた。
熱を確かめるように、そこに“誰かがいる”ことを、味わうように。
戸惑う僕の唇を割って、深く、絡まるように。
逃げられなかった。
抗えなかった。
そのキスは、求め合うものではなく、“失われた何か”を埋めようとする接触だった。
彼女が求めていたのは、僕ではなかったのかもしれない。
ただ、触れることでしか、自分の輪郭を感じられないだけなのかもしれない。
それでも――僕は、その舌の温度を拒めなかった。
拒まなかった自分が、ほんの少しだけ、怖かった。
唇が離れたあと、しばらくのあいだ、どちらも言葉を発さなかった。
彼女の顔は、僕の胸元にうずめられている。
呼吸の残滓が、肌に夜を滲ませていた。
しばらくして、ミオがそっと唇を動かした。
「……明日も、ここで寝る?」
それは問いかけではなく、ほとんど祈りにも似た確認だった。
“今夜だけじゃない”、そう言外に含ませた声音。
眠るために、触れるために、自分が自分であるために。
その全てが、“ここ”にしかないと信じているようだった。
僕は、答えなかった。
うなずきさえもしなかった。
けれど、彼女の指先がそっと僕の服をつまむのを感じて、
それが、無言の返事になっていくのを、止めることはできなかった。
本話では、ふたりの関係が“共生”という形で、また一段深く踏み込んだ夜を描かせていただきました。
寄り添う、触れる、言葉を交わす。
それらは本来、優しさや信頼の延長線にある行為なのだと思います。
けれど、誰かに触れていなければ“自分の輪郭すら感じられない”という状態に陥ったとき、
それは「優しさ」ではなく、「生存」に近い衝動になることがあります。
この作品には、私自身の過去の体験や感覚の断片が、たくさん混ざっています。
誰かの目を見て話せないこと。
眠る前に“隣に誰かがいてくれないと壊れてしまいそう”と感じる夜があったこと。
自分を保つために、誰かの体温にすがってしまったこと。
それらは、いま振り返れば“依存”や“未成熟”という言葉で片付けられるのかもしれません。
けれど、当時の私には、それ以外に選択肢がなかったのです。
本作に登場するミオやユウもまた、
そうした“選べなかった感情”の中で、ただ生きようとしているだけの存在です。
その不器用な寄り添いを、もしほんの少しでも理解してくださる方がいたら――
それだけで、描いた意味があるように思います。
今回も、最後まで読んでくださってありがとうございました。
次話も、丁寧に綴らせていただきます。