第6話:名前のない夜。
本話では、真白さんと「同じ部屋で暮らす」という新たな段階が描かれます。
言葉ではなく、沈黙と呼吸の温度でしか繋がれないふたりの夜を、静かに見届けていただければ幸いです。
「真白さんを迎えてあげられるかい?」
医師にそう告げられた翌日。
真白さんは、音もなく、僕の部屋の前に立っていた。
まるで、自分の意思で来たのではないかのように。
ただ“投げ込まれた”だけの存在のように。
その少し前、主治医から呼び出されこんなことを言われた。
「彼女、夜になるとひどくなるんだ。何度も過呼吸を起こして、叫んで、暴れて……。けれどね、綴木くんがそばにいた夜だけは、比較的落ち着いていた」
医師はそう言ってから、ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
でもその“申し訳なさ”すら、すでに決定事項を告げるための枕詞に過ぎないように思えた。
「君の気持ちを、いちばんに考えるよ」
医師はそう言いながらも、言葉の端に“正解”を挟み込んでいた。
“安全だと感じられる人間”――その役目が、既に僕に割り当てられていたことを、否応なく悟った。
「……わかりました」
僕はそう答えるしかなかった。
自分がなにを引き受けようとしているのか、本当はまだよくわかっていなかった。
拒むことは、きっと簡単だった。
けれど、僕は――拒まないことだけが、僕の中に、まだ“人”が残っている証のように思えた。
そして今――その“決定”が、僕の部屋に立っていた。
部屋の外に立つ彼女の姿は、どこか現実味を欠いていた。
長い髪が肩から滑り落ち、ワイシャツ一枚の華奢な身体が、廊下の蛍光灯の白い光に沈んで見えた。
素足のまま立ち尽くすその姿は、まるで誰かに置き去りにされた子どものようだった。
僕は一言も発せずに、彼女に通路を譲った。
その間じゅう、真白さんは一度も僕を見なかった。
視線はずっと、床より少しだけ上、虚空のどこか――そこに“なにか”があるかのように。
重たい沈黙だけが、足元に落ちていく。
♢
最初の夜、僕たちは、ほとんど一言も言葉を交わさなかった。
真白さんは部屋の中に足を踏み入れても、周囲を見回すことなく、そのまま窓際へと歩いた。
カーテンの隙間から差し込むわずかな外光に背を向けて、壁に寄りかかるように座り込んだ。
そこは、僕がいつも読書をしていた場所だった。
でも、何も言う気にはなれなかった。
僕はただ、ベッドの端に腰を下ろして、しばらくのあいだ、彼女の背中を見つめていた。
白いワイシャツは肩先からこぼれ落ちそうに弛み、薄い布越しに背骨の稜線が静かに浮かんでいた。
部屋の空気が変わった。
気温でも、光の加減でもなく、“誰かがここにいる”という、そのこと自体が、呼吸の深さを変えていった。
時折、真白さんは何かを思い出すように肩を震わせた。
けれど、泣いているようには見えなかった。
感情が揺れているのではなく、揺れてしまう“何か”が、彼女の中でうずくまっている。
そんなふうに感じた。
「……寒く、ない?」
それが、その夜、僕が口にした唯一の言葉だった。
返事はなかった。
ただ、しばらくして――彼女はそっと、壁から背を離し、ベッドのほうへと、何も言わずに近づいてきた。
僕の隣に、言葉も音もなく座る。
僕は息を詰めたまま、動けずにいた。
手首に、かすかに赤黒く線が残っているのが見えた。
爪で隠すように握りしめられたその手は、ただ、痛ましくて、見てはいけないもののように思えた。
真白さんは、ベッドに横たわるときも、一言も発しなかった。
その動作は機械のように静かで、感情の滲まない儀式のようだった。
僕はただ、壁の染みを見つめながら、耳を澄ませる。
彼女の呼吸の音だけが、夜の部屋にうっすらと響いていた。
♢
次の日の夜。
真白さんはベッドの向こう、窓際の床に座り込んだまま、ずっと動かなかった。 白いカーテンがわずかに揺れていた。空調の風が壁を這って、あの細い肩に触れていたはずなのに、彼女は体を縮めようともしなかった。
その姿を、僕はベッドの端に腰をかけて、ただ見ていた。
距離は、わずか一メートルほど。
けれど、触れられないほどに遠かった。
白いワイシャツ一枚の身体は、明らかに寒そうだった。けれど彼女は、寒いとも言わず、布団に近づこうともしない。
それが「拒絶」なのか「無関心」なのか、それとも「限界」なのか――僕には、判断がつかなかった。
何か言おうとして、喉が詰まった。
声をかけることが、罪のように感じられた。
沈黙のなかで言葉は腐って、息の奥で溶けていった。
時間だけが過ぎていく。
けれど、時計の針の音はしない。
この部屋には時間という概念が存在しないかのようだった。
やがて彼女は、ゆっくりと窓から顔を背け、黙って立ち上がった。
しなやかというより、壊れそうな動きだった。
無言のまま、僕のベッドの端まで来ると、何も言わずに布団の上に身を滑らせた。
僕は、動けなかった。
彼女が隣にいるというだけで、肺の奥に重石を押し込まれたような感覚があった。
横たわった彼女の髪が、枕に広がっている。
その髪はまるで、闇の中に溶けていく煙のようだった。
どちらからともなく、手が伸びた。
偶然のように、かすかに指が触れた。
その瞬間、彼女の手の甲がわずかに震えたのを感じた。
拒まれるかと思った。
けれど、拒絶は来なかった。
彼女はそのまま、僕の手を、静かに握った。
その手は細く、冷たく、力はなかった。
けれど確かに、自分の意思で握っていた。
布団の中で交差した手のひらが、互いの鼓動を伝えていた。
音はなかった。
言葉もなかった。
でも、その沈黙が――いちばん深かった。
それからどれくらい経っただろう。
ふと、彼女の呼吸が少しだけ乱れるのを感じた。
身体が、ほんのわずかに震えていた。
泣いているのか、寒いのか、それとも――別の何かか。
僕には、わからなかった。
ただ、そっと手を握り返した。
それ以外に、できることはなかった。
♢
外は、もうとっくに日付が変わっているはずなのに、部屋の中の空気は、一切
「時間」を受け入れようとしなかった。
壁の染みも、カーテンの影も、置き去りにされたように、静止したままだった。
彼女はまだ、僕の手を握っていた。
眠っているのか、起きているのか。
それすら、わからなかった。
呼吸のリズムは一定で、まるで“眠ろうと努力している”ような、それでいて、どこか無理をしているような、そんな微妙な間合いがあった。
僕は目を閉じることができなかった。
ぬるい夜気が肌を這い、指先に残る“冷たさ”が、逆に熱を奪っていく。
真白さんの手は、いまだに氷のようだった。
ただ一度だけ、彼女が微かに、唇の端を震わせたのを感じた。
言葉にならなかった“言葉”。
喉の奥で削がれた音が、かすかに息に混ざって、僕の胸に触れた。
「……こわい」
それは、かすれた、ほんの一音だった。
けれど、それは紛れもなく、彼女の“声”だった。
それがどこに向けられたものなのか、僕にはわからなかった。
過去か、未来か、それとも、すぐそばにいる“僕”に対してなのか。
ただその声には、明確な輪郭があった。
感情という名の傷口から、ひとしずくだけ、零れたもの。
僕は、何も言わなかった。
言葉を返すことが、できなかった。
ただ、彼女の手を包むように握り直し、静かにその震えを受け取った。
その時、真白さんの肩が、わずかに上下した。
音はなかった。涙の気配もなかった。
けれど、あの細い背中には、確かに“堰”が崩れる音があった。
それは、心の奥に張り詰めていた氷が、静かに軋み、ひび割れを広げる音。
誰にも聞こえないはずのその崩壊音が、なぜか僕には、はっきりと伝わった気がした。
どれくらい、そうしていたのだろう。
気づけば、僕も横たわっていた。
彼女と同じ布団の中、ただ黙って、彼女の背中越しに息を潜めていた。
真白さんは、僕に背を向けたまま、ようやく微かに身を縮めた。
まるで、自分の存在をなるべく小さくしようとするように。
呼吸を潜め、気配を消し、それでも、誰かと“触れていたい”という最後の欲だけが、手のひらを通じて伝わっていた。
それは「救い」ではなかった。
「信頼」でも、「恋」でもない。
ただの「生存」だった。
その夜、僕たちは、たしかに同じ場所にいた。
けれど、それは「共にいる」という状態ではなかった。
むしろ、互いの孤独が隣り合っていただけだった。
それでも――ほんの、わずかだけ。
孤独が、互いの温度に、ほんの少しだけ触れたような気がした。
名前のつかない、そして、呼ぶことすらできない何かが、そこに生まれていた。
それが、“始まり”と呼べるものだったかどうかは、まだわからない。
“誰かと同じ空間にいる”ということが、これほどまでに重く、そして繊細なことだったとは―
書きながら、私自身も何度か筆が止まりました。
真白澪という存在は、感情を表すことすらできず、言葉で助けを求める術もなく、
ただ震える指先ひとつで、「生きている」と訴えてくるような女の子です。
そして彼女の手を取った綴木悠もまた、誰かの心に触れた経験がないまま、
“手を握り返すこと”しかできなかった少年です。
ふたりのあいだには、恋愛と呼べるような言葉も、信頼という強固な絆も、
まだ存在していません。ただ、互いに“壊れた存在”であることだけが、共通項としてある。
けれどそれでも。
たとえそれが「孤独の並列」でしかなかったとしても、
その“隣にいること”だけが救いになることも、たしかにあるのだと思います。
この物語は、決して明るい未来を約束するものではありません。
けれど、たとえ崩れていく運命の中にあっても、
その過程で交わされた手の温度、ただそれだけは、本物だった――
そう思っていただけるよう、丁寧に、丁寧に、続きを紡いでいきたいと思います。
今日も読んでくださって、ありがとうございました。