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【祝1500PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。
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第6話:名前のない夜。

本話では、真白さんと「同じ部屋で暮らす」という新たな段階が描かれます。

言葉ではなく、沈黙と呼吸の温度でしか繋がれないふたりの夜を、静かに見届けていただければ幸いです。

 「真白さんを迎えてあげられるかい?」

医師にそう告げられた翌日。

真白さんは、音もなく、僕の部屋の前に立っていた。


 まるで、自分の意思で来たのではないかのように。

ただ“投げ込まれた”だけの存在のように。


 その少し前、主治医から呼び出されこんなことを言われた。


 「彼女、夜になるとひどくなるんだ。何度も過呼吸を起こして、叫んで、暴れて……。けれどね、綴木くんがそばにいた夜だけは、比較的落ち着いていた」


 医師はそう言ってから、ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

 でもその“申し訳なさ”すら、すでに決定事項を告げるための枕詞に過ぎないように思えた。


「君の気持ちを、いちばんに考えるよ」

 

医師はそう言いながらも、言葉の端に“正解”を挟み込んでいた。

“安全だと感じられる人間”――その役目が、既に僕に割り当てられていたことを、否応なく悟った。


 「……わかりました」

僕はそう答えるしかなかった。


 自分がなにを引き受けようとしているのか、本当はまだよくわかっていなかった。

拒むことは、きっと簡単だった。


 けれど、僕は――拒まないことだけが、僕の中に、まだ“人”が残っている証のように思えた。


 そして今――その“決定”が、僕の部屋に立っていた。


 部屋の外に立つ彼女の姿は、どこか現実味を欠いていた。

長い髪が肩から滑り落ち、ワイシャツ一枚の華奢な身体が、廊下の蛍光灯の白い光に沈んで見えた。

素足のまま立ち尽くすその姿は、まるで誰かに置き去りにされた子どものようだった。


 僕は一言も発せずに、彼女に通路を譲った。

その間じゅう、真白さんは一度も僕を見なかった。

視線はずっと、床より少しだけ上、虚空のどこか――そこに“なにか”があるかのように。


 重たい沈黙だけが、足元に落ちていく。


 ♢


 最初の夜、僕たちは、ほとんど一言も言葉を交わさなかった。


 真白さんは部屋の中に足を踏み入れても、周囲を見回すことなく、そのまま窓際へと歩いた。

 カーテンの隙間から差し込むわずかな外光に背を向けて、壁に寄りかかるように座り込んだ。


 そこは、僕がいつも読書をしていた場所だった。


 でも、何も言う気にはなれなかった。

僕はただ、ベッドの端に腰を下ろして、しばらくのあいだ、彼女の背中を見つめていた。


 白いワイシャツは肩先からこぼれ落ちそうに弛み、薄い布越しに背骨の稜線が静かに浮かんでいた。

 

部屋の空気が変わった。

 

 気温でも、光の加減でもなく、“誰かがここにいる”という、そのこと自体が、呼吸の深さを変えていった。


 時折、真白さんは何かを思い出すように肩を震わせた。


 けれど、泣いているようには見えなかった。

感情が揺れているのではなく、揺れてしまう“何か”が、彼女の中でうずくまっている。

そんなふうに感じた。


 「……寒く、ない?」


 それが、その夜、僕が口にした唯一の言葉だった。

返事はなかった。

ただ、しばらくして――彼女はそっと、壁から背を離し、ベッドのほうへと、何も言わずに近づいてきた。


 僕の隣に、言葉も音もなく座る。

僕は息を詰めたまま、動けずにいた。


 手首に、かすかに赤黒く線が残っているのが見えた。

爪で隠すように握りしめられたその手は、ただ、痛ましくて、見てはいけないもののように思えた。


 真白さんは、ベッドに横たわるときも、一言も発しなかった。

その動作は機械のように静かで、感情の滲まない儀式のようだった。


 僕はただ、壁の染みを見つめながら、耳を澄ませる。

彼女の呼吸の音だけが、夜の部屋にうっすらと響いていた。


 ♢


 次の日の夜。


 真白さんはベッドの向こう、窓際の床に座り込んだまま、ずっと動かなかった。 白いカーテンがわずかに揺れていた。空調の風が壁を這って、あの細い肩に触れていたはずなのに、彼女は体を縮めようともしなかった。


 その姿を、僕はベッドの端に腰をかけて、ただ見ていた。


 距離は、わずか一メートルほど。

けれど、触れられないほどに遠かった。


 白いワイシャツ一枚の身体は、明らかに寒そうだった。けれど彼女は、寒いとも言わず、布団に近づこうともしない。

 それが「拒絶」なのか「無関心」なのか、それとも「限界」なのか――僕には、判断がつかなかった。


 何か言おうとして、喉が詰まった。

声をかけることが、罪のように感じられた。

沈黙のなかで言葉は腐って、息の奥で溶けていった。


 時間だけが過ぎていく。


 けれど、時計の針の音はしない。

この部屋には時間という概念が存在しないかのようだった。


 やがて彼女は、ゆっくりと窓から顔を背け、黙って立ち上がった。

しなやかというより、壊れそうな動きだった。

無言のまま、僕のベッドの端まで来ると、何も言わずに布団の上に身を滑らせた。


 僕は、動けなかった。

彼女が隣にいるというだけで、肺の奥に重石を押し込まれたような感覚があった。

横たわった彼女の髪が、枕に広がっている。

その髪はまるで、闇の中に溶けていく煙のようだった。


 どちらからともなく、手が伸びた。

偶然のように、かすかに指が触れた。

その瞬間、彼女の手の甲がわずかに震えたのを感じた。


 拒まれるかと思った。

けれど、拒絶は来なかった。


 彼女はそのまま、僕の手を、静かに握った。

その手は細く、冷たく、力はなかった。

けれど確かに、自分の意思で握っていた。


 布団の中で交差した手のひらが、互いの鼓動を伝えていた。

音はなかった。

言葉もなかった。


 でも、その沈黙が――いちばん深かった。


 それからどれくらい経っただろう。

ふと、彼女の呼吸が少しだけ乱れるのを感じた。

身体が、ほんのわずかに震えていた。


 泣いているのか、寒いのか、それとも――別の何かか。

僕には、わからなかった。

ただ、そっと手を握り返した。

それ以外に、できることはなかった。



 外は、もうとっくに日付が変わっているはずなのに、部屋の中の空気は、一切

「時間」を受け入れようとしなかった。

壁の染みも、カーテンの影も、置き去りにされたように、静止したままだった。


 彼女はまだ、僕の手を握っていた。

眠っているのか、起きているのか。

それすら、わからなかった。


 呼吸のリズムは一定で、まるで“眠ろうと努力している”ような、それでいて、どこか無理をしているような、そんな微妙な間合いがあった。


 僕は目を閉じることができなかった。


 ぬるい夜気が肌を這い、指先に残る“冷たさ”が、逆に熱を奪っていく。

真白さんの手は、いまだに氷のようだった。


 ただ一度だけ、彼女が微かに、唇の端を震わせたのを感じた。


 言葉にならなかった“言葉”。

 喉の奥で削がれた音が、かすかに息に混ざって、僕の胸に触れた。


 「……こわい」


 それは、かすれた、ほんの一音だった。


 けれど、それは紛れもなく、彼女の“声”だった。


 それがどこに向けられたものなのか、僕にはわからなかった。

過去か、未来か、それとも、すぐそばにいる“僕”に対してなのか。


 ただその声には、明確な輪郭があった。

感情という名の傷口から、ひとしずくだけ、零れたもの。


 僕は、何も言わなかった。


 言葉を返すことが、できなかった。

ただ、彼女の手を包むように握り直し、静かにその震えを受け取った。

 その時、真白さんの肩が、わずかに上下した。

音はなかった。涙の気配もなかった。


 けれど、あの細い背中には、確かに“せき”が崩れる音があった。


 それは、心の奥に張り詰めていた氷が、静かに軋み、ひび割れを広げる音。

 誰にも聞こえないはずのその崩壊音が、なぜか僕には、はっきりと伝わった気がした。


 どれくらい、そうしていたのだろう。


 気づけば、僕も横たわっていた。

彼女と同じ布団の中、ただ黙って、彼女の背中越しに息を潜めていた。


 真白さんは、僕に背を向けたまま、ようやく微かに身を縮めた。

まるで、自分の存在をなるべく小さくしようとするように。

呼吸を潜め、気配を消し、それでも、誰かと“触れていたい”という最後の欲だけが、手のひらを通じて伝わっていた。


 それは「救い」ではなかった。

「信頼」でも、「恋」でもない。

ただの「生存」だった。


 その夜、僕たちは、たしかに同じ場所にいた。

けれど、それは「共にいる」という状態ではなかった。

むしろ、互いの孤独が隣り合っていただけだった。


 それでも――ほんの、わずかだけ。


孤独が、互いの温度に、ほんの少しだけ触れたような気がした。


 名前のつかない、そして、呼ぶことすらできない何かが、そこに生まれていた。

それが、“始まり”と呼べるものだったかどうかは、まだわからない。

“誰かと同じ空間にいる”ということが、これほどまでに重く、そして繊細なことだったとは―

書きながら、私自身も何度か筆が止まりました。


真白澪という存在は、感情を表すことすらできず、言葉で助けを求める術もなく、

ただ震える指先ひとつで、「生きている」と訴えてくるような女の子です。


そして彼女の手を取った綴木悠もまた、誰かの心に触れた経験がないまま、

“手を握り返すこと”しかできなかった少年です。


ふたりのあいだには、恋愛と呼べるような言葉も、信頼という強固な絆も、

まだ存在していません。ただ、互いに“壊れた存在”であることだけが、共通項としてある。


けれどそれでも。

たとえそれが「孤独の並列」でしかなかったとしても、

その“隣にいること”だけが救いになることも、たしかにあるのだと思います。


この物語は、決して明るい未来を約束するものではありません。

けれど、たとえ崩れていく運命の中にあっても、

その過程で交わされた手の温度、ただそれだけは、本物だった――


そう思っていただけるよう、丁寧に、丁寧に、続きを紡いでいきたいと思います。


今日も読んでくださって、ありがとうございました。



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