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【祝1500PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。
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第5話:そのときだけ、僕の名を呼んだ。

※本話には、PTSD発作・過呼吸・心的トラウマ・夜間の混乱・看護者としての立場の揺らぎなど、精神的負荷を伴う描写が含まれています。

ご体調や心のご状態に応じて、無理のないご判断をお願いいたします。

数日ぶりに、また同じ時間に、あの部屋で真白さんと出会った。

 病棟の「共用室」――外光を取り入れるためだけに設計されたような、何もない読書スペース。


 真白さんは、そのときも壁の一点を見つめていた。

 淡く剥がれた壁紙、その角にできた水染み。誰も気に留めないそれを、まるで、そこに“意味”があるかのように、じっと見つめていた。


 僕はまた、窓辺の席に座っていた。

どちらからともなく会話が始まることはなかった。

でも今日は、なぜか声をかけたくなった。


 「真白さんは……なんで、ここにいるの」


 彼女はゆっくりと視線を外に移した。

それでも、僕のほうを見ることはなかった。

少しの沈黙のあと、静かに返ってきたのは――


 「綴木くんは?」


 問い返された言葉に、僕は何も言えなかった。

“自分がなぜここにいるのか”――

それを説明できる言葉が、どこにも見つからなかった。

ただ、“壊れた”から、ここにいる。それだけだった。


 その沈黙のなか、彼女の存在が少しだけ“怖い”と思った。

目が合ったわけでもないのに、心の奥がざわついた。

まるで、真白澪という存在そのものが、触れてはいけない何か――

それを目の前にしているような錯覚。


 あの日、手を繋いだ。

そのぬくもりだけは、まだ手のひらに残っていた。

けれど今日の彼女は、まるで別人だった。

冷たくて、遠くて、触れたことすら幻だったかのように。


 沈黙が続く。

 天井から吊るされた蛍光灯の音だけが、小さく唸っていた。


 ♢


 夜、自室に戻ってからも、胸の奥が重かった。

天井の染みを見つめながら、ふと思う。

ずっと同じ場所にあるのに、見つめるたびに、少しずつ濃くなっている気がした。

――最近、誰かと話すと、体の奥から小さく音がする気がする。

壊れかけの窓ガラスが、風にきしむような音。

それが、自分の中から聞こえてくる。


 怒られてもいないのに、責められてもいないのに、

なぜか「赦されてない」と感じる。

何もしていないはずなのに、罪悪感だけが残る。

生きていることが、迷惑みたいに思える。


 カーテンの隙間から漏れる月明かりが、壁にゆれる。

その光さえ、僕にはまぶしすぎる気がした。


 ♢


 翌日、また真白さんと顔を合わせた。

同じ部屋、同じ時間、同じように壁を見つめる彼女。

僕は何も言えずに、そばの席に座った。


 不意に、彼女が聞いてきた。


 「綴木くんは、死にたい?」


 声は静かで、ただ“事実”を確認するようだった。


 僕は言葉に詰まり、それでも答えた。


 「……死にたいかどうかも、よくわからない」


 真白さんはゆっくりと瞬きをした。

そして、視線を戻さないまま呟いた。


 「そういう人のほうが、先に壊れるのよ」


 それだけを残して、立ち上がり、部屋を出ていった。

その背中は、ひどく痩せて見えた。


 ♢


 その夜だった。


 病棟の廊下に、鋭く張り詰めた悲鳴が響いた。

それは、真夜中を切り裂くような、甲高い悲鳴だった。

廊下に残響のようにこだまするその声に、僕は反射的に身を起こしていた。


 一瞬で、僕の背筋に氷のような冷たさが走った。


時計を見る――午前二時を少し過ぎていた。

僕はすぐにわかった。あの声は、真白さんのものだった。


 気づけば、僕はベッドを飛び出していた。


 看護師が慌ただしく駆けていく足音。何かが倒れる音。扉の向こうで、誰かがもがいている気配。


 「過呼吸です! 鎮静入れます!」


 叫ぶ声に続いて、がちゃりとドアが開け放たれる。

その隙間から覗いた部屋の中で、彼女は、ベッドの上で身体を折り曲げ、肩で息をしていた。泣き声でも、叫び声でもない。動物のような、喉の奥で引き裂かれたような、濁った呼吸音。

 酸素がうまく入っていかないのか、真白さんの胸が波のように上下する。

肩が、何度も痙攣していた。

口元には白く泡がにじみ、爪を立てた指が、自分の腕を無意識に掻きむしっていた。


 僕は止められる前に、ただ駆け寄っていた。


 「綴木くん、待って――!」


 看護師の腕を振り払って、僕はその手を、彼女の震える手を握った。


 「真白さん……!」


 彼女の目が、かすかに揺れた。

焦点が合わない瞳の奥で、名前を探しているように口元が動いた。


 「……綴木くん……助けて、助けて……怖いよ……怖いよ……」


 冷たい汗と涙に濡れた額。噛みしめた唇が、血を滲ませていた。


 「大丈夫、大丈夫……僕はここにいるよ。ここにいる。大丈夫だから」


 何を言っているのか、自分でもわからなかった。ただその場で、何度も、何度も、繰り返すことしかできなかった。


 彼女は、僕の手を掴んだまま、少しずつ呼吸を整えていった。

肩の震えが、少しずつ収まっていった。

全身の力が抜けたように、真白さんはそのまま僕の胸に身体を預けるようにして、崩れるように眠った。



 それから――同じようなことが、何度もあった。


 夜が深くなるたびに、彼女の中の“何か”が暴れ出す。


 毎夜のように看護師が呼ばれ、彼女は泣き叫び、誰かの幻にすがるように、ただ「やめて」「見ないで」「さわらないで」と繰り返した。


 「……やだ……来ないで……いや、やめて……!」


 その声には名前がなかった。

名前を呼ばないのは、たぶん――

その名前が、あまりにも“呪い”だったからなのかもしれない。

口にした瞬間、心が裂けてしまいそうなほどに。まるで、舌に刃を乗せるような感覚。

彼女にとって、“父”も“母”も、名前で呼ぶことすら毒だったのかもしれない。


 悲鳴。嗚咽。過呼吸。うなされるような寝言。

そして決まって、彼女は、僕の名前を呼んだ。

父の名も、母の名も、彼女の口から出ることはなかった。


 けれど――


 「つづきくん……、綴木くん……助けて……!」


 その声だけが、真白さんの中で唯一“呪い”ではなかったのだと、僕は思った。

誰のことも呼ばない彼女が――

そのときだけは、必ず僕の名前を探していた。


 その声だけは、決まって、僕に届いた。

僕はそのたびに、彼女の傍にいた。

それしか、できなかった。


 そしてある日、主治医は静かにこう言った。


 「綴木くん。真白さんを、君の部屋に迎えてあげられるかい?」


 僕の手の中で、彼女は何度も壊れそうになって、でも――

そのたびに、僕の名前を呼んだ。

その声を聞いたとき、僕は、はじめて“誰かの役に立てた”ような気がした。


 だから主治医にそう言われたとき――

一瞬、胸が強く脈打った。

もし断れば、彼女がまた夜に一人で苦しむのかもしれない、と思った。

けれど僕は、迷わなかった。




 こうして、僕たちは――同じ部屋で、暮らすようになった。

でもそれは、始まりであって、終わりじゃなかった。

ふたりの夜は、まだ、深くて長い。

 

 それでも――そこに誰かがいてくれるだけで、壊れたままでも、息はできる。

壊れたもの同士が寄り添ったからといって、すぐに癒えるわけじゃない。

それでも、あの夜、彼女の手を離さなかったことだけは、間違いじゃなかったと思いたかった。

読了いただき、ありがとうございました。

第5話は、物語の大きな転機のひとつであり、

ふたりの関係が“偶然の交差”から“必然の共生”へと変わっていく瞬間でもあります。


澪にとって「綴木 悠」という存在は、

ただのクラスメイトでも、入所者仲間でもありません。

彼女の中で、初めて“呪いではない名前”になった存在です。


だからこそ、その名前を呼べること自体が、彼女にとっては生きる行為だったのだと思います。


そしてユウにとっても、

誰かの声が“自分に向けられた”という経験は、

それまでの人生でほとんどなかったのかもしれません。


ふたりはまだ壊れたままです。

何も回復してはいません。

それでも、触れてはいけないと思っていた心に、

“ひとつだけ通じた声”があった。


それを描けたなら、本望です。


次回、彼らは同じ部屋で暮らし始めます。

けれど、それは決して温かな「日常の始まり」ではありません。

壊れたもの同士が寄り添うことで、さらに深く歪んでいく――

そんな夜の静けさを、また綴っていけたらと思っています。


どうか、ここまで読んでくださったあなたの心が、

ほんの一瞬でもこのふたりの物語に重なることがあったなら、

それは何よりも、書き手にとっての救いです。


次回も、どうぞよろしくお願いいたします。



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