第5話:そのときだけ、僕の名を呼んだ。
※本話には、PTSD発作・過呼吸・心的トラウマ・夜間の混乱・看護者としての立場の揺らぎなど、精神的負荷を伴う描写が含まれています。
ご体調や心のご状態に応じて、無理のないご判断をお願いいたします。
数日ぶりに、また同じ時間に、あの部屋で真白さんと出会った。
病棟の「共用室」――外光を取り入れるためだけに設計されたような、何もない読書スペース。
真白さんは、そのときも壁の一点を見つめていた。
淡く剥がれた壁紙、その角にできた水染み。誰も気に留めないそれを、まるで、そこに“意味”があるかのように、じっと見つめていた。
僕はまた、窓辺の席に座っていた。
どちらからともなく会話が始まることはなかった。
でも今日は、なぜか声をかけたくなった。
「真白さんは……なんで、ここにいるの」
彼女はゆっくりと視線を外に移した。
それでも、僕のほうを見ることはなかった。
少しの沈黙のあと、静かに返ってきたのは――
「綴木くんは?」
問い返された言葉に、僕は何も言えなかった。
“自分がなぜここにいるのか”――
それを説明できる言葉が、どこにも見つからなかった。
ただ、“壊れた”から、ここにいる。それだけだった。
その沈黙のなか、彼女の存在が少しだけ“怖い”と思った。
目が合ったわけでもないのに、心の奥がざわついた。
まるで、真白澪という存在そのものが、触れてはいけない何か――
それを目の前にしているような錯覚。
あの日、手を繋いだ。
そのぬくもりだけは、まだ手のひらに残っていた。
けれど今日の彼女は、まるで別人だった。
冷たくて、遠くて、触れたことすら幻だったかのように。
沈黙が続く。
天井から吊るされた蛍光灯の音だけが、小さく唸っていた。
♢
夜、自室に戻ってからも、胸の奥が重かった。
天井の染みを見つめながら、ふと思う。
ずっと同じ場所にあるのに、見つめるたびに、少しずつ濃くなっている気がした。
――最近、誰かと話すと、体の奥から小さく音がする気がする。
壊れかけの窓ガラスが、風にきしむような音。
それが、自分の中から聞こえてくる。
怒られてもいないのに、責められてもいないのに、
なぜか「赦されてない」と感じる。
何もしていないはずなのに、罪悪感だけが残る。
生きていることが、迷惑みたいに思える。
カーテンの隙間から漏れる月明かりが、壁にゆれる。
その光さえ、僕にはまぶしすぎる気がした。
♢
翌日、また真白さんと顔を合わせた。
同じ部屋、同じ時間、同じように壁を見つめる彼女。
僕は何も言えずに、そばの席に座った。
不意に、彼女が聞いてきた。
「綴木くんは、死にたい?」
声は静かで、ただ“事実”を確認するようだった。
僕は言葉に詰まり、それでも答えた。
「……死にたいかどうかも、よくわからない」
真白さんはゆっくりと瞬きをした。
そして、視線を戻さないまま呟いた。
「そういう人のほうが、先に壊れるのよ」
それだけを残して、立ち上がり、部屋を出ていった。
その背中は、ひどく痩せて見えた。
♢
その夜だった。
病棟の廊下に、鋭く張り詰めた悲鳴が響いた。
それは、真夜中を切り裂くような、甲高い悲鳴だった。
廊下に残響のようにこだまするその声に、僕は反射的に身を起こしていた。
一瞬で、僕の背筋に氷のような冷たさが走った。
時計を見る――午前二時を少し過ぎていた。
僕はすぐにわかった。あの声は、真白さんのものだった。
気づけば、僕はベッドを飛び出していた。
看護師が慌ただしく駆けていく足音。何かが倒れる音。扉の向こうで、誰かがもがいている気配。
「過呼吸です! 鎮静入れます!」
叫ぶ声に続いて、がちゃりとドアが開け放たれる。
その隙間から覗いた部屋の中で、彼女は、ベッドの上で身体を折り曲げ、肩で息をしていた。泣き声でも、叫び声でもない。動物のような、喉の奥で引き裂かれたような、濁った呼吸音。
酸素がうまく入っていかないのか、真白さんの胸が波のように上下する。
肩が、何度も痙攣していた。
口元には白く泡がにじみ、爪を立てた指が、自分の腕を無意識に掻きむしっていた。
僕は止められる前に、ただ駆け寄っていた。
「綴木くん、待って――!」
看護師の腕を振り払って、僕はその手を、彼女の震える手を握った。
「真白さん……!」
彼女の目が、かすかに揺れた。
焦点が合わない瞳の奥で、名前を探しているように口元が動いた。
「……綴木くん……助けて、助けて……怖いよ……怖いよ……」
冷たい汗と涙に濡れた額。噛みしめた唇が、血を滲ませていた。
「大丈夫、大丈夫……僕はここにいるよ。ここにいる。大丈夫だから」
何を言っているのか、自分でもわからなかった。ただその場で、何度も、何度も、繰り返すことしかできなかった。
彼女は、僕の手を掴んだまま、少しずつ呼吸を整えていった。
肩の震えが、少しずつ収まっていった。
全身の力が抜けたように、真白さんはそのまま僕の胸に身体を預けるようにして、崩れるように眠った。
♢
それから――同じようなことが、何度もあった。
夜が深くなるたびに、彼女の中の“何か”が暴れ出す。
毎夜のように看護師が呼ばれ、彼女は泣き叫び、誰かの幻にすがるように、ただ「やめて」「見ないで」「さわらないで」と繰り返した。
「……やだ……来ないで……いや、やめて……!」
その声には名前がなかった。
名前を呼ばないのは、たぶん――
その名前が、あまりにも“呪い”だったからなのかもしれない。
口にした瞬間、心が裂けてしまいそうなほどに。まるで、舌に刃を乗せるような感覚。
彼女にとって、“父”も“母”も、名前で呼ぶことすら毒だったのかもしれない。
悲鳴。嗚咽。過呼吸。うなされるような寝言。
そして決まって、彼女は、僕の名前を呼んだ。
父の名も、母の名も、彼女の口から出ることはなかった。
けれど――
「つづきくん……、綴木くん……助けて……!」
その声だけが、真白さんの中で唯一“呪い”ではなかったのだと、僕は思った。
誰のことも呼ばない彼女が――
そのときだけは、必ず僕の名前を探していた。
その声だけは、決まって、僕に届いた。
僕はそのたびに、彼女の傍にいた。
それしか、できなかった。
そしてある日、主治医は静かにこう言った。
「綴木くん。真白さんを、君の部屋に迎えてあげられるかい?」
僕の手の中で、彼女は何度も壊れそうになって、でも――
そのたびに、僕の名前を呼んだ。
その声を聞いたとき、僕は、はじめて“誰かの役に立てた”ような気がした。
だから主治医にそう言われたとき――
一瞬、胸が強く脈打った。
もし断れば、彼女がまた夜に一人で苦しむのかもしれない、と思った。
けれど僕は、迷わなかった。
こうして、僕たちは――同じ部屋で、暮らすようになった。
でもそれは、始まりであって、終わりじゃなかった。
ふたりの夜は、まだ、深くて長い。
それでも――そこに誰かがいてくれるだけで、壊れたままでも、息はできる。
壊れたもの同士が寄り添ったからといって、すぐに癒えるわけじゃない。
それでも、あの夜、彼女の手を離さなかったことだけは、間違いじゃなかったと思いたかった。
読了いただき、ありがとうございました。
第5話は、物語の大きな転機のひとつであり、
ふたりの関係が“偶然の交差”から“必然の共生”へと変わっていく瞬間でもあります。
澪にとって「綴木 悠」という存在は、
ただのクラスメイトでも、入所者仲間でもありません。
彼女の中で、初めて“呪いではない名前”になった存在です。
だからこそ、その名前を呼べること自体が、彼女にとっては生きる行為だったのだと思います。
そしてユウにとっても、
誰かの声が“自分に向けられた”という経験は、
それまでの人生でほとんどなかったのかもしれません。
ふたりはまだ壊れたままです。
何も回復してはいません。
それでも、触れてはいけないと思っていた心に、
“ひとつだけ通じた声”があった。
それを描けたなら、本望です。
次回、彼らは同じ部屋で暮らし始めます。
けれど、それは決して温かな「日常の始まり」ではありません。
壊れたもの同士が寄り添うことで、さらに深く歪んでいく――
そんな夜の静けさを、また綴っていけたらと思っています。
どうか、ここまで読んでくださったあなたの心が、
ほんの一瞬でもこのふたりの物語に重なることがあったなら、
それは何よりも、書き手にとっての救いです。
次回も、どうぞよろしくお願いいたします。