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【祝1500PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。
4/28

第4話:この手の熱だけは。

※本作には、心的外傷・精神疾患・孤立・療養施設での生活にまつわる描写が含まれます。

ご自身のご体調や過去のご経験に応じて、無理のない範囲でお読みください。


誰にも触れられず、誰の手も取れずに生きてきた少年が、

“ただ名前を呼ばれた”という、それだけの出来事で少しずつ変わり始める――

これは、そんな日常の中に滲んだ、ほんの微かな転機の記録です。


 僕がこの施設に来てから、どれほどの時間が過ぎたのか――正確には、もう思い出せない。


 ただ、窓の外を巡っていった季節の匂いだけは、かろうじて覚えている。

 白くふくらむ梅の蕾。柔らかな新緑。蝉時雨。落ち葉の甘い腐香。そして、空気の奥に滲む雪の匂い。

 それらは五度ほど、確かにこの世界を通り過ぎていった。


 けれど、そのすべてが、僕の心を素通りしていった。

 季節に何を感じるでもなく、何かを願うでもなく――感情というものは、もう遠い昔に、どこかへ置き去りにしてきた気がする。


 いつからか、自分のことを「子ども」とは呼べなくなっていた。

 誰もそう言わなくなったし、僕自身も、そんな言葉に逃げることは許されない気がしていた。


 だから僕は、黙って、ただ日々をやり過ごした。

 “もう、守られるだけではいられない”と、心のどこかで知っていたから。


 ここは「療養施設」と呼ばれていたけれど、誰もそんなふうには口にしなかった。医者も、看護師も、職員も、みんなが「ここは一時的な場所だ」と言った。けれど、僕にとっての日常はもう、すっかりこの建物の中にしかなかった。


 高い天井、消毒液の匂い、昼でも少し暗い廊下。足音が吸い込まれていくような、柔らかい床材。食堂には時計があるけれど、いつ見ても同じ時間を指している気がする。時間というものが、ここではただ「存在している」だけだった。


 外の世界とは、もう別の場所。

まるで、世界から音も時間も切り離された、コンクリートでできた“孤島”のようだった。


 そして僕は、そんなこの場所を――サナトリウムと呼ぶのが、いちばんしっくりくるように思っていた。


 ここでは、誰も大きな声を出さなかった。

誰も、怒鳴らなかった。

誰も、触れてこなかった。


 僕はそんな空気のなかで、ゆっくりと、壊れたまま、ただ“生かされて”いた。


 このまま、何も起こらずに静かに時が流れていくのだと思っていた。

 何も変わらずに、このまま。


 けれど――


 ある日、その空気をやわらかく揺らすように、彼女が現れた。


 ♢


 それは、こう訊かれたことから始まった。


 「君、名前は?」


 その日の午前。いつものように病棟内の「共用室」と呼ばれる、小さな読書室にいたときのことだった。

 僕は窓辺の席で、借りてきた本を膝に乗せながら、ただ窓の外を見ていた。ページをめくる気力もなくて、ただぼんやりと、風に揺れる白いカーテンを目で追っていた。


 そのときだった。


 窓から二つ向こうのテーブルに、いつの間にか誰かが腰を下ろしていた。

 視線を向けると、彼女は壁の一点を見つめていた。壁紙の角にできた、小さな水染みのようなもの。それを見つめながら、ぼそりと、こちらを見もせずに呟くように訊ねてきた。


 「君、名前は?」


 抑揚のない声だった。問いかけというよりも、独り言のようだった。でもそれは、たしかに僕に向けられた言葉だった。


 僕は少し戸惑って、口を開いた。


 「……綴木つづきゆう


 自分の声が、久しぶりに空気を震わせた気がした。誰かに名を名乗ったのは、何年ぶりだっただろう。


 「つづるに、で、“綴木つづき”?」

 

 少しだけ首を傾げて、彼女がそう訊いた。

僕は小さくうなずいた。


 「なんか……、いい名前」

 

 「……そう?」


 「うん。なんかこう……壊れてるのとか、うまく繋げられそう」

 

 彼女は、ようやくこちらを見た。

光を透かすような髪が、首筋にふわりと触れた。

瞳は、まるで深い湖底――何かを見つめているようで、何も見ていない目。

痛みの奥で、すべてを諦めた人間だけが持つ静けさ。

僕は、その色を、どこかで知っている気がした。

一度のぞき込んだら、引きずり込まれそうな、色のない灰の水だった。

睫毛が長くて、表情はないのに、妙に印象に残る顔だった。そして、その唇が――わずかに、動いた。


 「ミオ。真白ましろ みお


 そう言って、彼女は手を差し出した。

細くて、冷たい指だった。けれど、しっかりと開かれていた。

僕は、その手を前にして、少しだけ迷った。

 

 一度だけ、目を伏せた。

誰かの手を取るのなんて、怖いと思っていた。

期待してはいけない。傷つくくらいなら、最初から何も始まらなければいい――

そう思ってきたはずだった。

それでも、この手を拒む理由は、どこにも見つからなかった。

でも、何も言わずに、その手を取った。


 ――その瞬間だった。


 僕の中の、止まっていた“何か”が、ゆっくりと軋みながら、動き出した気がした。

こんなふうに、誰かの手に、自分の手が収まっているだけで――

こんなにも、生きているみたいに感じてしまうなんて。

僕は、いつから自分を「誰にも触れられないもの」だと思い込んでいたんだろう。


 ミオの手のひらは、僕の手の中にすっぽりと収まった。細くて、軽くて、でも思ったよりもあたたかかった。皮膚の奥に、じんわりと熱が広がっていくような感覚があった。


 それから、僕たちはしばらく何も話さなかった。彼女はまた視線を壁のシミに戻し、僕は窓の外のカーテンを見つめた。


 でもその沈黙は、不思議と苦ではなかった。

話さなくてもいい。無理に笑わなくてもいい。

そんなふうに感じられるのは、この場所では、初めてのことだった。




 この場所で過ごすうちに、季節が何度も、静かに巡っていった。


 梅の白、若葉の緑、蝉の声、落ち葉の匂い、そして雪。

 それらがただ、流れていくのを窓の内側から見ていた。


 けれど、そのどれもが、もう僕の心には触れてこなかった。

 朝が来て、決められた手順をなぞる。食事、面談、静かな部屋。

 そんな日々を繰り返しているうちに、“感じる”という輪郭が、少しずつ薄れていった。


 それが孤独なのか退屈なのか、もうよく分からなかった。

 ただ、そんなふうにして、時間だけが過ぎていった。


 “誰とも繋がらずに、生きていけたらいいのに”――


 何度も、そう思っていた。

 でも今日、ミオと手を繋いだほんの一瞬だけ、その思いが、ほんのわずかに揺らいだ。

 彼女の存在は、僕と同じ匂いがした。湿った紙のような、不安定で、脆くて、それでもどこか懐かしい――そんな匂いだった。


 少し冷たくて、少し濁っていて、でも、奥のほうで何かが確かに生きているような――そんな匂いだった。


 名前を知っただけの関係。

たった一言ずつ交わしただけの他人。

けれど、僕の中の静寂は、その日から、すこしずつ軋みを上げるようになった。

その音を聞きながら、僕は初めて、“今日”という日を、覚えていたいと思った。


それが救いになるかなんて、わからなかった。

 でも、どうかこの手の温度だけは、失くさずにいたい――

 その願いが、叶う日が来るかはわからない。


 この手を取ってしまった瞬間、ほんの少しだけ、“生きたい”と感じた気がした。

ただ、それが希望だったのか、ただの錯覚だったのかさえ、自分でもまだよくわからなかった。


 それでも――

その日だけは、ぼんやりと流れていくだけだった時間に、どうしても名前をつけて、忘れずに残しておきたいと思った。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

第4話では、綴木悠と真白澪が初めて出会うシーンを描いています。

お互いの手が触れ合う、そのたった一瞬が、どれだけ大きな意味を持つのか。

声にならない“生きたい”という感情が、ほんの小さく、けれど確かに動き出す──

その予兆を感じていただけたなら、とても嬉しいです。


この物語は「救済」ではなく、「依存と共犯」を通して描かれる終末の記録です。

それでも、“誰かの手があたたかかった”という記憶だけは、

きっと、絶望よりも深く残るものだと信じています。


次回、第5話も、どうかよろしくお願いいたします。


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