第4話:この手の熱だけは。
※本作には、心的外傷・精神疾患・孤立・療養施設での生活にまつわる描写が含まれます。
ご自身のご体調や過去のご経験に応じて、無理のない範囲でお読みください。
誰にも触れられず、誰の手も取れずに生きてきた少年が、
“ただ名前を呼ばれた”という、それだけの出来事で少しずつ変わり始める――
これは、そんな日常の中に滲んだ、ほんの微かな転機の記録です。
僕がこの施設に来てから、どれほどの時間が過ぎたのか――正確には、もう思い出せない。
ただ、窓の外を巡っていった季節の匂いだけは、かろうじて覚えている。
白くふくらむ梅の蕾。柔らかな新緑。蝉時雨。落ち葉の甘い腐香。そして、空気の奥に滲む雪の匂い。
それらは五度ほど、確かにこの世界を通り過ぎていった。
けれど、そのすべてが、僕の心を素通りしていった。
季節に何を感じるでもなく、何かを願うでもなく――感情というものは、もう遠い昔に、どこかへ置き去りにしてきた気がする。
いつからか、自分のことを「子ども」とは呼べなくなっていた。
誰もそう言わなくなったし、僕自身も、そんな言葉に逃げることは許されない気がしていた。
だから僕は、黙って、ただ日々をやり過ごした。
“もう、守られるだけではいられない”と、心のどこかで知っていたから。
ここは「療養施設」と呼ばれていたけれど、誰もそんなふうには口にしなかった。医者も、看護師も、職員も、みんなが「ここは一時的な場所だ」と言った。けれど、僕にとっての日常はもう、すっかりこの建物の中にしかなかった。
高い天井、消毒液の匂い、昼でも少し暗い廊下。足音が吸い込まれていくような、柔らかい床材。食堂には時計があるけれど、いつ見ても同じ時間を指している気がする。時間というものが、ここではただ「存在している」だけだった。
外の世界とは、もう別の場所。
まるで、世界から音も時間も切り離された、コンクリートでできた“孤島”のようだった。
そして僕は、そんなこの場所を――サナトリウムと呼ぶのが、いちばんしっくりくるように思っていた。
ここでは、誰も大きな声を出さなかった。
誰も、怒鳴らなかった。
誰も、触れてこなかった。
僕はそんな空気のなかで、ゆっくりと、壊れたまま、ただ“生かされて”いた。
このまま、何も起こらずに静かに時が流れていくのだと思っていた。
何も変わらずに、このまま。
けれど――
ある日、その空気をやわらかく揺らすように、彼女が現れた。
♢
それは、こう訊かれたことから始まった。
「君、名前は?」
その日の午前。いつものように病棟内の「共用室」と呼ばれる、小さな読書室にいたときのことだった。
僕は窓辺の席で、借りてきた本を膝に乗せながら、ただ窓の外を見ていた。ページをめくる気力もなくて、ただぼんやりと、風に揺れる白いカーテンを目で追っていた。
そのときだった。
窓から二つ向こうのテーブルに、いつの間にか誰かが腰を下ろしていた。
視線を向けると、彼女は壁の一点を見つめていた。壁紙の角にできた、小さな水染みのようなもの。それを見つめながら、ぼそりと、こちらを見もせずに呟くように訊ねてきた。
「君、名前は?」
抑揚のない声だった。問いかけというよりも、独り言のようだった。でもそれは、たしかに僕に向けられた言葉だった。
僕は少し戸惑って、口を開いた。
「……綴木、悠」
自分の声が、久しぶりに空気を震わせた気がした。誰かに名を名乗ったのは、何年ぶりだっただろう。
「綴るに、木で、“綴木”?」
少しだけ首を傾げて、彼女がそう訊いた。
僕は小さくうなずいた。
「なんか……、いい名前」
「……そう?」
「うん。なんかこう……壊れてるのとか、うまく繋げられそう」
彼女は、ようやくこちらを見た。
光を透かすような髪が、首筋にふわりと触れた。
瞳は、まるで深い湖底――何かを見つめているようで、何も見ていない目。
痛みの奥で、すべてを諦めた人間だけが持つ静けさ。
僕は、その色を、どこかで知っている気がした。
一度のぞき込んだら、引きずり込まれそうな、色のない灰の水だった。
睫毛が長くて、表情はないのに、妙に印象に残る顔だった。そして、その唇が――わずかに、動いた。
「ミオ。真白 澪」
そう言って、彼女は手を差し出した。
細くて、冷たい指だった。けれど、しっかりと開かれていた。
僕は、その手を前にして、少しだけ迷った。
一度だけ、目を伏せた。
誰かの手を取るのなんて、怖いと思っていた。
期待してはいけない。傷つくくらいなら、最初から何も始まらなければいい――
そう思ってきたはずだった。
それでも、この手を拒む理由は、どこにも見つからなかった。
でも、何も言わずに、その手を取った。
――その瞬間だった。
僕の中の、止まっていた“何か”が、ゆっくりと軋みながら、動き出した気がした。
こんなふうに、誰かの手に、自分の手が収まっているだけで――
こんなにも、生きているみたいに感じてしまうなんて。
僕は、いつから自分を「誰にも触れられないもの」だと思い込んでいたんだろう。
ミオの手のひらは、僕の手の中にすっぽりと収まった。細くて、軽くて、でも思ったよりもあたたかかった。皮膚の奥に、じんわりと熱が広がっていくような感覚があった。
それから、僕たちはしばらく何も話さなかった。彼女はまた視線を壁のシミに戻し、僕は窓の外のカーテンを見つめた。
でもその沈黙は、不思議と苦ではなかった。
話さなくてもいい。無理に笑わなくてもいい。
そんなふうに感じられるのは、この場所では、初めてのことだった。
♢
この場所で過ごすうちに、季節が何度も、静かに巡っていった。
梅の白、若葉の緑、蝉の声、落ち葉の匂い、そして雪。
それらがただ、流れていくのを窓の内側から見ていた。
けれど、そのどれもが、もう僕の心には触れてこなかった。
朝が来て、決められた手順をなぞる。食事、面談、静かな部屋。
そんな日々を繰り返しているうちに、“感じる”という輪郭が、少しずつ薄れていった。
それが孤独なのか退屈なのか、もうよく分からなかった。
ただ、そんなふうにして、時間だけが過ぎていった。
“誰とも繋がらずに、生きていけたらいいのに”――
何度も、そう思っていた。
でも今日、ミオと手を繋いだほんの一瞬だけ、その思いが、ほんのわずかに揺らいだ。
彼女の存在は、僕と同じ匂いがした。湿った紙のような、不安定で、脆くて、それでもどこか懐かしい――そんな匂いだった。
少し冷たくて、少し濁っていて、でも、奥のほうで何かが確かに生きているような――そんな匂いだった。
名前を知っただけの関係。
たった一言ずつ交わしただけの他人。
けれど、僕の中の静寂は、その日から、すこしずつ軋みを上げるようになった。
その音を聞きながら、僕は初めて、“今日”という日を、覚えていたいと思った。
それが救いになるかなんて、わからなかった。
でも、どうかこの手の温度だけは、失くさずにいたい――
その願いが、叶う日が来るかはわからない。
この手を取ってしまった瞬間、ほんの少しだけ、“生きたい”と感じた気がした。
ただ、それが希望だったのか、ただの錯覚だったのかさえ、自分でもまだよくわからなかった。
それでも――
その日だけは、ぼんやりと流れていくだけだった時間に、どうしても名前をつけて、忘れずに残しておきたいと思った。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
第4話では、綴木悠と真白澪が初めて出会うシーンを描いています。
お互いの手が触れ合う、そのたった一瞬が、どれだけ大きな意味を持つのか。
声にならない“生きたい”という感情が、ほんの小さく、けれど確かに動き出す──
その予兆を感じていただけたなら、とても嬉しいです。
この物語は「救済」ではなく、「依存と共犯」を通して描かれる終末の記録です。
それでも、“誰かの手があたたかかった”という記憶だけは、
きっと、絶望よりも深く残るものだと信じています。
次回、第5話も、どうかよろしくお願いいたします。