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君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
最終章:君と死ぬために生きてきた

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38/40

第38話:君と死ぬために生きてきた-6


 同じ角度の朝の光は、今日も床に白い帯を落としていた。


 カーテンの隙間から差し込むその白さは、昨日と同じ場所に、昨日と同じ幅で横たわっている。世界は律儀だ。私たちが何を抱えていても、朝は決まった角度で来る。決まった角度で来るから、私も決まった手順で動ける。動けることが、祈りに近い。


 蛇口をひねると、水が細い線を引いて流れた。


 透明なものほど音がある。金属の中を通るときの、わずかな震え。流し台の底に触れるときの、軽い衝突。台所の空気に、細い白い線が一本走るような音。毎朝それを引く。引くことで、今日が成立する。


 布巾を濡らして絞る。繊維がきしむ。水が落ちる。音が一段柔らかくなる。柔らかい音は、部屋を優しく見せる。優しく見えている間は、壊れていないと錯覚できる。


 私は鍋の蓋を開けた。


 湯気が立つ。白い蒸気が細く漏れて、鼻の奥に触れた。匂いの熱が喉の奥を撫でて、咳が出そうになる。出そうになるだけで、出ない。出ないなら大丈夫だ。大丈夫だと思えることが、今日も手順を続けられる理由になる。


 今日は、食材が少し多い。


 冷蔵庫を開けたとき、棚がいつもより詰まって見えた。詰まっていることは、豊かさのはずだ。なのに、詰まりは圧に見えた。扉を閉めるときのわずかな抵抗が、私の指先に残る。抵抗の残る朝は、いつもより静かに整えたくなる。


 卵を取り出す。卵の殻は薄い。薄いのに、中には重さがある。割らずに運ぶために、手のひらの力加減を少し変える。力加減を変えることができる。私はまだ、変えられる。


 ――変えられることは、怖い。


 変えられるということは、変える責任があるということだから。


 責任、という言葉を私は心の中で使わないようにしている。責任は彼の中に棲んでいる言葉だ。彼の中に棲んで、彼の選択肢を削っていく。私がその言葉を使った瞬間、彼はそれを拾ってしまう。拾って、握って、握ったまま眠れなくなる。


 だから私は、別の言葉で包む。


 綺麗。


 今日は、綺麗にしようと思った。


 汚れが残るのが嫌だからではない。汚したくないから。汚したくない、という気配だけが先に立つ。気配は言葉より先に身体に出る。身体に出たものは、止められない。止められないから、私は丁寧に皿を拭き、テーブルを拭き、布巾を折り直し、シンクの水滴を消した。


 水滴は小さい。残しても問題はない。


 問題がないのに消したくなるのは、消せるものを消しておきたいからだ。消せるものは消せる。消せないものは消せない。その区別が、今の私には痛い。


 皿を出す。


 いつもの皿ではなく、少しだけ良い皿。割れたら困るやつ。普段なら出さない理由がある。普段なら「今日はいいや」と引っ込める。けれど今日は、引っ込めない。良い皿を出すのは、祝うために見える。見えるようにしている。祝う形を借りて、弔いの準備をする。そんなことを考えてしまう自分が嫌で、私は皿の縁を指で確かめて、ただ真っ直ぐに並べた。


 包丁を取る。


 刃がまな板に触れる音が、一定の間隔で落ちる。一定のものは安心だ。一定のリズムは呼吸の代わりになる。私は自分の呼吸を確かめる。浅い。深くすると胸の奥に小さな重さがある。重さがある、という言葉を使うと意味が生まれそうで怖い。意味が生まれると、決めなければいけない。


 決める、というのは刃だ。


 私は刃を研がない。研がないまま、白い布で包んで差し出す。差し出してしまえば、刃は私の手から離れる。離れてしまえば、私は戻れない。


 ――戻りたい。


 戻りたい、と思う余地があるから、私は今日も丁寧に料理をした。


 汁物は具を多めにした。野菜を少し大きめに切る。大きいと噛む時間が増える。噛む時間が増えると、口の中に温度が残る。温度が残ると、身体がここにいる感じが少しだけ戻る。戻ることが、彼にとって救いになるかもしれない。


 卵は焼いた。


 焼く音は小さい。油のはぜる音。卵が固まっていくときの、目に見えない変化。柔らかい黄色が白い湯気の中に沈む。卵は、可能性を連想させる。だから言わない。言わない代わりに、皿の上に丁寧に置いた。


 果物も切った。皮を剥く。刃を入れる。形を揃える。揃えることで、世界は「整っている」と言ってくれる。整っていると言ってくれる世界の中なら、終わりの提案も“汚れ”に見えない気がした。


 私は“話すため”ではなく、“同じ机に居るため”に、向かいの椅子を少しだけ引いた。


 椅子を引く音は、布の上で柔らかく鳴る。柔らかく鳴った音は、いつもより長く耳に残る。残るものほど、今日の空気に馴染まない。


 背中側。廊下の奥。寝室の扉の向こう。


 まだ、音が欠けている。


 起きてこない時間が長い。私は時間で測らない。何分、と数えた瞬間、遅れが事実になる。事実になると理由が要る。理由が要ると聞かなければいけない。聞くことが、彼にとって刃になるのを私は知っている。


 だから私は音で測る。


 洗面所の水音がまだない。足音がまだない。椅子を引く音がまだない。静けさが薄く伸びる。伸びた静けさは、切れない糸のように私の指先に絡む。


 私は呼びに行かない。


 呼べば壊れる気がする。呼ばなければ壊れない気がする。どちらも根拠がない。根拠のないものは、生活の側で選ばれていく。私はいつも、壊れない方を選ぶ。


 そのとき、床のきしむ音がした。


 きしみは小さい。足音も弱い。音が弱いと、存在の輪郭も薄く見える。私は振り返って、いつもと同じ声を出した。


「おはよう」


 声の高さも距離も温度も変えない。変えると異常が生まれる。異常が生まれた瞬間、彼はそれを引き受けようとする。引き受けることが、今の彼には重い。


 ユウは頷いた。


 頷くタイミングが正確だった。私の声が終わるところで、ちょうど頷く。まるで練習したみたいに正確で、私は胸の奥が少し冷えた。


 正確すぎる返事は、選んだ返事ではない。


 反射で出た返事は、彼の内側の“選択”を通っていない。


 彼は椅子に座った。座る動作が少し慎重だ。慎重なのに、本人にその自覚がない。体が勝手にそうしている。体が勝手にそうしていることを、本人は責任に変えてしまう。責任に変えてしまうと、さらに選べなくなる。


 私はスープを注いだ。湯気が立つ。彼の鼻先に触れても、表情は変わらない。匂いに対する反応が薄い。その薄さが不安になる。薄い、という言葉は、私たちの部屋にずっと残っている。病院の言葉。保留の言葉。確定しない言葉。


 確定しない未来を、私たちは持ち帰ってしまった。


 持ち帰った未来は、今日も食卓の下に座っている気がする。


 ユウは食べ始めた。噛む。飲み込む。動作は普通だ。手元も大きくはぶれない。それなのに、そこに本人がいないみたいに見える瞬間がある。


 私は、彼を見ないようにして見ている。


 見つめてしまうと、彼が“見られている”ことを感じてしまう。感じた瞬間、彼は整えようとする。整えるために、彼は自分を削る。削る行為を私は止められない。止められないなら、見つめない方がいい。


 けれど、見ないと壊れる。


 壊れる前に気づけない。


 だから私は、生活の隙間で観測する。


 箸が皿に触れる音。噛むリズム。飲み込む喉の動き。どれも正しい。正しいから、私たちはまだ大丈夫だと錯覚できる。錯覚できることが救いになる。救いは、時に遅い。


 私は向かいに座って、同じ机の上に両手を置いた。


 触れない距離。触れさせない距離。近づきすぎない距離。


 距離を保ったまま、私は一度だけ、彼の皿を見る。


 皿の上の食べ物が減っていくのが、怖い。減っていくということは、終わるということだから。終わるというのは、次が来るということだから。次が来るから、私は言わなければいけない。


 言わなければいけない言葉を、私はずっと喉の奥で布に包んでいる。


 白い布。


 今日は、その布を出す朝だ。


 でも、急がない。急がないことが“提案”の形を守る。説得になった瞬間、彼は「理由」を探し始める。理由を探し始めたら、彼は責任に飲まれる。責任に飲まれたら、彼はもう休めない。


 私は、今日の朝を汚したくない。


 汚したくない、という気配がまた指先に出る。布巾でテーブルの端を拭く。拭いたところで汚れてはいない。汚れていないのに拭くのは、拭けることが救いだからだ。


「足りる?」


 私は軽く聞いた。軽く。重くしない。重くすると、会話が“未来”へ寄ってしまう。


 ユウは頷いた。


「うん」


 短い。必要な形だけ。形が固定されていくほど、中身が減っていく。中身が減るほど、私は整える行為に寄っていく。整えていれば崩れないと信じたくなる。信じたくなることが、私の弱さだ。


「……今日は、ちゃんと食べよ」


 言い方は命令ではない。提案の前の小さな提案。今日だけは、今日だけは彼の中に“身体の感覚”を残したい。感覚が残れば、選択肢が少し戻るかもしれない。戻るかもしれないという希望は、私の中でいつも薄い。


 ユウは頷いた。反射の形。反射の形でも、頷くことができるなら、私はその形を最後まで守りたい。


 守る=続ける、ではない。


 守る=壊れない形のまま終わらせる。


 その考えが、私の中で椅子に座っている。


 立ち上がらない。立ち上がらないからこそ、私は今日の朝を続けられる。


 彼が食べ終えるのを待つ。


 待つ、というのは強い行為だ。待つことで、私は急がない。急がないことで、提案は刃にならずに布のままそこに居られる。


 ユウが箸を置いた。


 置く音が、布の上で柔らかい。柔らかい音は優しい顔をする。優しい顔をしているときほど、私は言葉を出すのが怖い。


 怖いけれど、怖さは今日の正解ではない。


 今日の正解は、綺麗。


 綺麗なところで、という言葉が持つ“優しい顔”に、私は賭けるしかない。


 私は小さく息を吸った。喉の奥が乾く。乾くと咳が出そうになる。出そうになるだけで、出ない。出ないなら大丈夫だ。大丈夫という言葉は口に出さない。口に出すと、彼がそれを拾って釘にしてしまう。


 私は、机の端に指先を置いた。


 触れない距離。触れさせない距離。


 目線は逃げない。でも、見つめすぎない。見つめすぎると、説得になる。説得になった瞬間、これは別れ話になってしまう。別れ話ではない。説得でもない。提案だ。


「……ねえ」


 声は穏やかに出た。穏やかに出たことが自分でも意外だった。穏やかに出せるなら、私はまだ彼を壊さずに済むかもしれない。


 ユウは顔を上げた。焦点が合うまでに一拍ある。その一拍の間、私は言葉の布を握り直す。


「このまま、綺麗なところで終わらせよう」


 “終わらせよう”という言葉は、鋭い。鋭いのに、今日はそれを丸めたくなかった。丸めたら、曖昧になる。曖昧になると、彼の中の単語が増える。増えると、彼はまた責任に落ちる。責任に落ちるのが一番苦しい。


 私は続けた。続けることで、言葉が刃として研がれるのを防ぐ。研ぐ前に、布の中に戻すために。


「まだ分からないまま、増えるのが……いちばん苦しいでしょう」


 “でしょう”にする。断定しない。断定は彼の内面を決めつけるから。決めつけられた内面は、彼の逃げ道を奪う。奪いたくない。奪いたくないのに、私は奪う提案をしている。その矛盾を、私は言葉の端に残す。


「私は……あなたを、壊したくない」


 壊したくない。壊したくないのに、終わらせると言っている。その矛盾が、今の私の愛だ。愛が矛盾の形を取るのは、優しさが刃に変わるときの特徴だと思う。


「あなたが、あなたのままでいられるところで」


 “あなたのまま”。


 その言葉は、彼が最近失っていくものを直接指す。彼は言葉を失っている。選択肢を失っている。自分の中の避難場所を失っている。失っていくものを、私は取り戻せない。だからせめて、失いきる前に終わらせるという刃を、白い布で包んで差し出す。


 机の上に、白い湯気が立っている。皿も白い。ご飯も白い。布巾も白い。朝の光も白い。白いものが増えるほど、病棟の残像が混ざる。あの白さの中で、私たちは出会った。白い場所は、何かを“清潔”にしてしまう。清潔にすることで、痛みも正しさも同じ棚に並べてしまう。


 私は、清潔さが好きではない。


 でも、今日はそれに頼る。


 頼らないと、この提案は成立しない。


 ユウは、すぐには頷かなかった。


 けれど「何?」とも聞かなかった。


 その間が、彼の返事だった。


 反論が生まれない。理由が生まれない。言葉が生まれない。生まれないことが、彼の弱さではない。生まれないのは、彼の中で選択肢がもう削られているからだ。


 私はその削れ方を知っている。記録帳の空白で見た。線すら引けない空白。逃げるための記号すら引けない空白。空白は閉じられない。


 だから私は、反論を待たない。


 待つことが優しさではない。待てば待つほど、彼は理由を探し始める。理由を探し始めたら、責任が増殖する。増殖した責任は彼を壊す。壊したくない。


 私はただ、机の端に置いた指を動かさないでいる。


 動かさないことが、提案の形を保つ。


 ユウは、小さく息を吐いた。


 吐いた息が、湯気に混ざった。混ざった瞬間、息は見えなくなる。見えなくなることが、今日の朝の象徴みたいだった。言葉も同じだ。言葉は見えなくなる。見えなくなるから、生活の手順だけが残る。


 ユウは、皿の端を見た。


 見て、箸を持ち直した。


 持ち直して、残りを食べた。


 それが返事だった。


 箸を止めない。皿を空にする。手順を進める。その手順が「了解」になる。言葉ではなく、生活の動作で合意が成立する。その成立のしかたが、静かすぎて怖い。怖いのに、私はそれを壊さない。壊したら、彼は今から「理由」を探し始めてしまう。


 彼が食べ切るのを見ながら、私は自分の胸の奥に小さな痛みがあるのを感じた。痛みは意味を持たせたくなる。意味を持たせると、泣いてしまいそうになる。泣くと、提案が説得に変わる。説得に変わると、これは別れ話になる。


 私は泣かない。


 泣かないことが、刃の鋭さになる。


 ユウが最後に水を飲んだ。飲む音が小さい。小さい音が、今日の朝にはよく似合う。似合うことが嫌だった。嫌なのに、嫌だと言う言葉を私は持たない。


 私は立ち上がって、皿を下げた。


 皿と布の間で音が柔らかく鳴る。柔らかい音は今日も優しい顔をする。優しい顔で終わりへ進むことが、いちばん残酷だ。


 シンクに皿を置く。水を出す。泡を立てる。洗う。すすぐ。布巾で拭く。水滴を残さない。残さないことが、今日の“綺麗”だ。綺麗の徹底は、祈りの徹底と同じ形をしている。


 私はシンクの縁を拭き、蛇口の根元の水滴を拭き、最後に排水口の金属を指でなぞって、そこに残る冷たさを確かめた。


 冷たい。冷たいのに、驚きはない。


 驚きがないことが怖い。怖いのに、怖さを事件にしない。事件にしたら、今日の手順が崩れる。


 背中側で、ユウが立ち上がる気配がした。


 椅子を引く音。足音。どれも弱い。弱い音は、今の彼の濃さだ。濃さを測りたくない。測ると数字になる。数字になると確定になる。確定になると、私は何かを言わなければいけなくなる。


 もう言った。


 だから、これ以上は言わない。


 予定表の前に立つ。いつもの癖で視線が行く。線が色分けされている。区切りがある。空白がない。空白がないことが最近の基本になっている。今日はそこに線を引かない。


 引けば確定するから、ではない。


 もう“提案”で確定したから。


 確定したという事実が、紙より先に私の手の中にある。手の中にあるものを、予定表に写す必要はない。写した瞬間、私たちは今日の朝を“記録”にしてしまう。記録になると戻れなくなる。戻れなくなるのに、私は戻りたいと思ってしまう。


 戻りたいと思えるうちは、まだ人間だ。


 私は鞄を出す。


 中身を整える。保険証。診察券。ハンカチ。ペットボトル。入れるものは全部、生活の範囲にあるものだけ。妊娠に関わる言葉の道具は入れない。言わない統一。言わないことで、三人を作らない。


 私は鏡の前に立ち、髪を整えた。


 綺麗なところで、という言葉に自分も合わせる。合わせることは儀式だ。儀式は心を麻痺させる。麻痺させないと、この朝は続けられない。


 玄関へ向かう。


 ユウは靴を揃えた。揃える動作は丁寧だった。丁寧さは、彼がまだどこかで自分を保っている証拠だ。証拠だから、私はそれを壊したくない。壊したくないのに、終わらせる提案をしている。矛盾は優しさの中にいる。


 鍵を手に取る。金属が冷たい。冷たさは確かだ。確かなものは強い。強いものにすがりたくなる。


 ユウが部屋を見回した。


 見回すが、何も言わない。


 何も言わないことが、返事だった。


 私は鍵をかける。かける音が、いつもより柔らかくなるように、玄関マットの上に立ち位置を少しずらす。柔らかい音。柔らかい音は優しい顔をする。優しい顔をして、終わりへ続く。


 扉を閉める。


 閉まる音が重くならない。重くならないように、私はいつものように扉を最後まで押さえる。最後まで押さえる手つきが、今日の私の“了解”でもあった。


 外へ出る。


 朝の光がある。光は同じ角度で差し込んでいる。世界は律儀だ。律儀な世界の中で、私たちは終わりを提案した。提案は説得ではなく、別れ話でもなく、ただの手順として置かれた。


 ユウは反論しない。理由も言わない。


 私も言わない。


 言わないまま、歩き出す。


 “綺麗なところで”という言葉だけが、朝の光の中で白く残っている。


 そしてその白さは、布に包んだ刃みたいに、私たちの間で静かに揺れていた。


「終わらせる」は、決意じゃなくて提案だった。

強い言葉で背中を押したのではなく、生活の手順の中に“綺麗”を置いて、そこへ静かに導いてしまった。


ユウは反論しない。理由も言わない。

その沈黙が、同意よりも重く、そして確かなものに見えた。


この朝は、泣かないまま進む。

優しさが刃になる瞬間だけが、白く残っている。

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