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君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
最終章:君と死ぬために生きてきた

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第37話:君と死ぬために生きてきた-5


 朝の水音は、いつもより少しだけ細かった。


 蛇口をひねる。冷たい水が金属の中を通って、指先に触れる。水は透明で、透明なものほど音がある。台所の空気に、細い線を引くみたいに鳴る。


 私はその線を、毎朝、同じ角度で引く。


 引くことで、ここが“今日”になる。昨日から今日へ、薄い紙を一枚めくるみたいに、生活の側が先に進んでくれる。先に進んでくれれば、置いていかれないで済む。置いていかれない、という安心は、私にとって祈りに近い。


 布巾を濡らして、絞る。繊維がきしむ。水の粒が落ちる。音が一段、柔らかくなる。


 鍋の蓋を開けると、湯気が立った。白い蒸気が細く漏れて、鼻の奥にあたる。匂いの熱。


 私は一瞬だけ、喉の奥を意識した。


 最近、匂いは少しだけ鋭い。湯気が強いと、咳が出そうになる。出そうになるだけで、出ない。出ないなら大丈夫だと思える。大丈夫だと思えることは、今日も一日を続けられる理由になる。


 続けられる理由がある限り、私は生活を整える。


 皿を出す。木のテーブルに布を敷く。音を柔らかくするため。音が柔らかいと、世界は優しい顔をする。優しい顔をしている間は、壊れていないと思える。


 パンを切る。包丁の刃がまな板に触れる音が、一定の間隔で落ちる。一定のものは安心だ。一定のリズムは、呼吸の代わりになる。


 ――呼吸。


 私は自分の呼吸を確かめる。浅い。深くしようとすると、胸の奥に小さな重さがある。重さがある、という言葉を使った瞬間、そこに“意味”が生まれそうで怖い。意味が生まれると、次の言葉が必要になる。次の言葉が必要になると、私の中の何かが決まってしまう。


 だから、私はいつも通りにする。


 いつも通りの皿の位置。いつも通りの量。いつも通りの温度。


 いつも通りにしていれば、彼もいつも通りに戻る気がする。


 ――その“気がする”が、最近は薄い。


 台所の背中側。廊下の奥。寝室の扉の向こう。


 起きてこない時間が、長い。


 時間で測ってはいけない、と私は思う。何分、と数えた瞬間、遅れが“事実”になってしまう。事実になると、理由が要る。理由が要ると、聞かなければいけない。聞かなければいけないと感じることが、彼にとって刃になるのを私は知っている。


 だから私は、音で測る。


 本来なら、もう聞こえるはずの音が聞こえない。


 洗面所の水音がまだない。椅子を引く音がまだない。床を踏む足音がまだない。


 静けさが薄く伸びる。


 私は呼びに行かない。呼べば壊れる気がする。呼ばなければ壊れない気がする。どちらも根拠がない。根拠がないものは、生活の中で選ばれていく。私はいつも、壊れない方を選ぶ。


 壊れない方。


 壊れない方を選んできたはずなのに、彼は少しずつ、別の場所で欠けていく。


 欠けるのは体ではない。欠けるのは、言葉の前にあるもの――選択肢だ。


 私は皿を二枚並べる。並べるだけで、二人の朝が成立する。成立しているなら、まだ間に合う気がする。


 そのとき、床のきしむ音がした。


 きしみは小さい。音が弱い。足音も弱い。


 振り返ると、ユウが立っていた。立っている、というより、そこに“現れた”。


 目は開いている。開いているのに焦点が少し遅い。視線が私に合うまでに、一拍ある。私はその一拍を、数えないように息で流す。


「おはよう」


 いつもと同じ声を出す。声の高さも、距離も、温度も変えない。変えると、ここに“異常”が生まれる。異常が生まれた瞬間、彼はその異常を引き受けようとする。引き受けることが、いまの彼には重い。


 ユウは頷いた。


 頷くタイミングが正確だった。私の声が終わるところで、ちょうど頷く。まるで練習したみたいに正確で、私は胸の奥が少し冷えた。


 正確すぎる返事は、選んだ返事ではない。


 反射で出た返事は、彼の内側の“選択”を通っていない。


 彼は椅子に座る。座る動作が、少しだけ慎重だ。慎重なのに、本人が慎重になっている自覚はなさそうだ。体が勝手にそうしている。


 私はスープを注ぐ。湯気が立つ。ユウの鼻先に触れても、彼は表情を変えない。匂いに対する反応が薄い。その薄さが、私を不安にする。薄いという言葉は、私たちの部屋にずっと残っている。


 ――まだ分からない。


 ――念のため。


 ――再検査。


 医師の言葉は丁寧だった。丁寧だから、逃げ道がなかった。私たちは「確定」をもらえなかった。その代わりに、確定しない未来を部屋に持ち帰った。


 持ち帰った未来は、いま、食卓の下に座っている気がする。


 ユウは食べ始めた。噛む。飲み込む。動作は普通だ。手元も大きくはぶれない。それなのに、そこに本人がいないみたいに見える瞬間がある。


 私は、彼を見ないようにして見ている。


 見ないようにして見ているという矛盾が、ここ数日、私の生活の基本になっていた。


 見つめてしまうと、彼が“見られている”ことを感じてしまう。感じた瞬間、彼は整えようとする。整えるために、彼は自分を削る。削る行為を、私は止められない。止められないなら、見つめない方がいい。


 けれど、見ないと壊れる。


 壊れる前に気づけない。


 だから私は、生活の隙間で彼を観測する。


「大丈夫?」


 私はいつもの声で聞いた。心配というより確認にならないように。問いが重くならないように。


 ユウは顔を上げずに頷いた。


「大丈夫」


 声は出た。出たのに、声に体温がない。言葉が空気に溶けるのが早い。溶ける速度が早いほど、言葉は“言っただけ”になる。


 言っただけの言葉は、彼の中に残らない。


 残らない言葉が増えると、彼は自分の言葉を信じられなくなる。


 自分の言葉を信じられなくなった人は、選ぶことができない。


 選ぶ、というのは、ただ決めることじゃない。


 休むか、続けるか。


 話すか、黙るか。


 助けを求めるか、求めないか。


 小さな選択の積み重ねが、人を人にしている。


 彼は最近、その小さな選択を、しなくなっている。


 私は、彼の返事を聞きながら、返事の“形”を見てしまう。


 返事はいつも同じ形だ。「うん」「大丈夫」「あとで」。形が固定されていくほど、中身が減っていく。


 中身が減るほど、私は“整える”行為に寄っていく。


 整えていれば、彼は崩れない。


 整っていれば、彼は迷わない。


 整っていれば、彼は選ばなくても済む。


 ――その考え方が、優しさなのか、管理なのか、私はまだ区別できない。


 区別できないものを抱えたまま、私は食器を下げる。


 皿と布の間で、音が柔らかく鳴る。


 私はその柔らかさを、祈るように繰り返す。


 洗い物をする。泡が立つ。水が流れる。布巾を絞る。繊維がきしむ。一定の音。


 一定の音を続けていると、世界は安定して見える。


 見えるだけだ。


 背中側で、ユウが立ち上がる気配がした。椅子を引く音が弱い。彼が歩く音も弱い。生活音の強さが、彼の存在の濃さに比例するみたいで、私はその比を覚えたくない。


 覚えたら、数字になる。数字になると、確定する。


 確定したら、私は彼に何かを言わなければいけなくなる。


 言わなければいけない言葉が、彼にとって刃になる。


 刃になると分かっているのに、私はどこかで、刃を研いでいる気がする。


 午前の光が、部屋の床を切っている。カーテンの隙間から落ちる白い帯。ユウが毎朝見つめている白さ。


 最近、彼は白いものをよく見ている。


 錠剤の白さ。紙の白さ。光の白さ。


 白いものが増えるほど、彼の中の何かが薄くなるように見える。


 私はそのことを、言葉にしたくない。


 言葉にした瞬間、その薄さが“病気”の名前を持ってしまうから。


 名前を持つと、私たちはそこへ向かわなければいけない。


 向かうことが正しいと分かっているのに、私は、彼が“正しい場所”で壊れるのが怖い。


 正しい場所で壊れると、人は誰も責められない。


 責められない壊れ方は、救いがない。


 昼になったのかどうか、私は時計を見ないようにしている。時計を見れば、今日が進んでいることが確定する。確定すると、私の中の不安が「遅れ」という形を持ってしまう。


 私は“遅れ”に形を持たせたくない。


 形を持ったものは、選択肢を要求する。


 私は選択肢を増やしたい。増やしたいのに、増える選択肢が彼を追い詰めることも知っている。


 ユウが何かを探している音がした。棚を開ける。閉める。もう一度開ける。閉める。小さな確認の反復。


 私は振り向かずに聞いた。


「何か探してる?」


 軽く。軽く。重くしない。


「……うん。洗剤」


 言葉が短い。必要な単語だけ。説明がない。説明がないのは彼の責任じゃない。説明するための余白がない。


 余白がないのに、生活は進む。


 進む生活の中で、彼の余白だけが削れていく。


 私は洗剤の場所を言う。ユウは頷く。頷くタイミングがまた正確だ。正確な頷きは、安心ではなく、危険に見えてしまう。


 私は自分の中で、“危険”という単語を使わないようにしている。


 危険という単語は、決断を呼ぶから。


 決断は、刃だ。


 私は刃を持ちたくない。


 持ちたくないのに、刃の柄に手が近づいている。


 午後、壁の予定表に目がいった。


 線が色分けされている。区切りがある。空白がない。空白がないことが、最近の基本になっている。基本になっているのは、安心でもあり、恐怖でもある。空白がないと、止まる場所がない。止まる場所がないと、壊れる前に休めない。


 再検査の日付を、私は指でなぞった。


 仮の日付。


 仮であることが救いだと思っていた。確定ではない。確定ではないなら、まだ決断じゃない。決断じゃないなら、私たちは今日も同じように暮らせる。


 でも、仮のまま進む未来は、いつまでも重い。


 重いものを抱えたまま生活を続けると、人は軽くなる。


 軽くなるのは、消耗だ。


 ユウが後ろに立っていた。立っていることに気づくのが遅れる。彼の存在の音が薄いから。


「再検査、いつにする?」


 私は、軽い問いとして出した。軽い問いであれば、彼も答えられると思った。


 ユウは少しだけ間を置いた。


 間。たった一拍の間。


 その一拍で、私は彼が“選んでいない”ことを感じ取ってしまう。


 彼は迷っているのではない。迷いという感覚に辿り着く前に、選択肢が消えている。


 私は急かさない。


 急かさない優しさは、時に逃げ道を消す。逃げ道が消えると、人は選べなくなる。


 私は予定表の一日を指で押さえた。


「じゃあ、ここでいい?」


 仮の指先。仮の選択。仮の決断。


 ユウは頷いた。


「……うん」


 その「うん」は、いつもの「うん」と同じ形だった。


 同じ形なのに、今日はそれが重く見えた。


 私は“彼を信じたい気持ち”と、“信じられない現実”を一緒に抱えたまま言った。


「……そっか」


 そっか、という言葉は、何も決めない。


 だからこそ、私の中では何かが決まっていく。


 私はその決まり方を、止められない。


 夕方、私は鍋の蓋を開けた。湯気が立った。匂いが鼻の奥を刺す。喉の奥がひゅっと鳴りかける。咳を堪える。堪えたことを、顔に出さない。


 出したらユウが「守る」という顔をする。


 最近、彼の中に「守る」という単語が住み始めているのを、私は知っている。


 守るという単語は美しい。


 美しい単語は、人を追い詰めることがある。


 守れない自分、という像を先に作ってしまうから。


 私は守られたくないわけじゃない。


 ただ、守ろうとする彼が壊れるのが見たくない。


 矛盾はいつも、優しさの中にいる。


「大丈夫?」


 ユウが言った。今日は彼の方から。声は穏やかだ。でも、その穏やかさが少し急いでいる。


 私は笑って、いつもの温度で言った。


「大丈夫。ちょっとだけ」


 ちょっとだけ、という言葉は便利だ。便利すぎて、何でも覆ってしまう。


 覆われたものは見えなくなる。


 見えないものは、対処されない。


 対処されないまま、生活は進む。


 進むほど、彼の選択肢が減っていく。


 私はそれを止めたい。


 止めたいのに、止める方法がいつも“言葉”しかない。


 言葉を出すと、彼は壊れる。


 壊れる前に――と、私の中でまた同じ形の思考が始まる。


 夜、夕食を終えると、ユウの動きが少しだけ遅かった。遅い、と時間で測らない。遅いのは音で分かる。箸が置かれる音が弱い。椅子が引かれる音が弱い。水を飲む音が遠い。


 私は食器を片づける。整える。音を整える。


 整えるほど、彼は崩れないように見える。


 見えるだけだ。


 ユウは先に風呂に入った。風呂場の水音が聞こえる。聞こえるのに、いつもより遠い気がする。遠いという感覚は、私の不安が作る錯覚かもしれない。錯覚かもしれないものを、私は確定させたくない。


 私は寝室の隣の机を見る。


 そこに、ノートがあった。


 記録帳。


 いつもなら閉じてある。閉じて、しまってある。彼はそれを丁寧に扱う人だった。丁寧に扱うことが、彼の“自分を保つ方法”だった。


 今日は、机の上に置かれたまま。端が少しだけずれている。


 私は直そうと思っただけだった。


 整えるつもりだった。


 整えることは、私の癖だ。癖は祈りに似ている。祈りは、触れてはいけないものを触れないままにするための手つきだ。


 私はノートに手を伸ばして――止まった。


 紙の白さが、目に入った。


 開いている。


 開いているページの白さが、部屋の暗さの中で妙に浮いている。白いものが増えている。最近、私の世界は白い。


 私は見るつもりがなかった。


 でも、見えてしまった。


 日付だけが書かれている。


 日付だけ。


 その下が、空白だった。


 気分欄が空白。理由欄も空白。


 線すらない。


 記号すらない。


 逃げるための線すら引けないほどに、彼は書けなかった。


 息が浅くなった。


 喉が乾く。


 胃が冷える。


 私は声を出さない。


 声を出したら、彼が起きてくる。起きてきたら、彼は“説明しよう”とする。説明は彼の中の言葉を削る。削った先に残るのは、空白だけだ。


 空白は、いま、ここにある。


 私はその白さを見つめたまま、手が止まっている自分に気づいた。


 整える手が止まる。


 止まることが、どれほど珍しいことか。


 私は毎日、止まらずに整えてきた。止まらずに整えていれば、彼は崩れないと信じてきた。


 でも、彼は崩れている。


 崩れ方が、静かすぎる。


 静かな崩れは、気づいたときにはもう終わっている。


 私はゆっくりとノートを閉じた。


 閉じたからといって、空白が消えるわけじゃない。


 空白は閉じられない。


 閉じても、白さが目の裏に残る。


 白さが残ると、私はようやく理解する。


 彼は「書けない」。


 書けないということは、言葉がない。


 言葉がないということは、選択肢がない。


 選択肢がないということは、彼はもう自分の中のどこにも避難できない。


 避難できない人は、いつか崩れる。


 崩れるとは、泣くことでも、怒鳴ることでもない。


 崩れるとは――選べなくなることだ。


 私はそれを、彼の生活の中で見てきた。


 休もう、が出ない。


 やめよう、が出ない。


 助けて、が出ない。


 大丈夫、だけが出る。


 大丈夫という言葉は、彼を守るための盾だったはずなのに、いまは彼を外側に固定する釘になっている。


 釘で固定された人は、動けない。


 動けないまま、正しい形だけが残る。


 正しい形だけが残った人は、壊れたことを誰にも気づかれない。


 気づかれないまま壊れるのが、いちばん痛い。


 私は寝室へ向かった。


 廊下は暗い。足音が吸い込まれる。私の足音も、今日は弱い気がした。弱い、という感覚を、私はまた確定させない。


 寝室の扉を開けると、ユウが寝ていた。


 寝顔は穏やかだった。


 穏やかすぎて、怖い。


 穏やかというのは、安心の顔だ。安堵の顔だ。眠れている顔だ。


 けれど私は、彼の穏やかさの中に「諦め」を見る。


 諦めは静かだ。


 静かな諦めは、周りの人を安心させる。


 安心させることで、救いを遠ざける。


 私はベッドの横に立ったまま、触れなかった。


 触れたら、確かめてしまう。


 確かめたら、私は何かを決めなければいけない。


 決めることが、刃になる。


 刃を持つのは怖い。


 でも――


 彼が壊れるのは、もっと怖い。


 私は自分の中で、言葉が生成されるのを感じた。


 最初はただの影だった。


 影は輪郭を持たない。


 輪郭を持たないから、追い払えると思っていた。


 でも、ノートの空白が影を照らしてしまった。


 影が言葉になる。


 「このままなら、たぶん彼は壊れる」


 言葉にした瞬間、私は自分を責めたくなる。


 壊れる、なんて言葉を使うのは、乱暴だ。


 彼は壊れていない。まだ生活はできている。食べている。眠っている。返事もできる。


 ――そうやって、私はまた“正しさ”を持ち出す。


 正しさを持ち出す癖が、私の中で彼を追い詰めているのかもしれない。


 私はそれでも、正しさにしがみついてしまう。


 崩れるよりはいい、と感じてしまう。


 その感覚が、私の中で一番痛い。


 彼にとっての地獄は、痛みでも、熱でもない。


 彼にとっての地獄は、「できない自分を見続けること」だ。


 できない自分を見続けると、人は自分を守れなくなる。


 守れなくなった人は、誰かを守ろうとして壊れる。


 守る、という単語は彼の中にいる。


 責任、という単語もいる。


 単語が増えるほど、彼は休めなくなる。


 休めない人は、いつか決定的に崩れる。


 決定的に崩れたとき、私は彼を抱きしめることしかできないだろう。


 抱きしめることしかできない救いは、遅い。


 遅い救いは、救いではない。


 私はそこで、もう一つの言葉に触れてしまう。


 終わらせる。


 終わらせる、という言葉は怖い。


 怖いのに、その言葉は“優しい顔”をして私の中に座った。


 守るために終わらせる。


 壊れる前に終わらせる。


 終わらせることで、彼を“彼のまま”残す。


 その発想が浮かんだ瞬間、私は息が止まった。


 止まった息が戻ってくるまでの間、私は自分を強く責めた。


 ひどい。


 残酷だ。


 愛しているのに。


 愛しているからこそ、こんなことを考えてしまう自分が、醜い。


 でも、責めても消えない。


 消えないということは、そこに必要がある。


 必要があるということは、私の祈りがすでに変わり始めている。


 私は彼の寝顔を見ながら、胸の中で小さく言った。


 ――大丈夫でいて。


 いつも言ってきた祈り。


 次に、自然に続いた。


 ――壊れないで。


 最近、増えた祈り。


 そして、その次が喉まで来て、止まった。


 ――壊れる前に……


 言い切れない。


 言い切った瞬間、刃が完成してしまうから。


 刃が完成したら、私はもう戻れない。


 戻りたくないわけじゃない。


 戻りたい。


 昨日までのように、彼が自分の言葉で自分を守れる場所へ。


 でも、ノートの空白が、それがもう難しいことを教えてしまった。


 私は静かに寝室を出た。


 台所へ戻る。戻って、私はまた整える。


 整えることで、私は自分を保つ。


 薬瓶の蓋を閉め直す。予定表をまっすぐにする。紙を重ねる。布巾を畳む。包丁を洗って、乾かす。シンクの水滴を拭く。


 今日は、生活のために整えているのではなかった。


 決断を隠すために整えている。


 その事実が、私の指先を冷たくした。


 それでも、私は整える。


 整えることしかできない。


 整えることでしか、彼を守れない気がする。


 守れないかもしれない、と感じた瞬間、私はまた祈りに触れた。


 祈りは続く。


 でも、向きが変わっている。


 続けるための祈りではなく、壊れないための祈りでもなく。


 壊れる前に――と、言い切れない祈り。


 言い切れない祈りが、私の中で息をしている。


 私は寝室に戻った。


 ユウの横に入る。いつもと同じ距離。いつもと同じ温度。いつもと同じ呼吸の間隔。


 同じにする。


 同じにしておけば、彼は今日も眠れる。


 眠れれば、朝が来る。


 朝が来れば、また同じ角度の光が差し込む。


 世界は律儀だ。


 律儀な世界の中で、彼だけが少しずつ変わっていく。


 私はその変化を、もう“見ないふり”では守れない。


 守るために、終わらせる。


 その言葉が、私の中で静かに椅子に座った。


 座ったまま、立ち上がらない。


 私は目を閉じた。


 眠りに落ちる前の暗さの中で、祈りだけが残る。


 祈りは続く。


 けれど私はもう、“続けるための祈り”をしていなかった。


第37話は、ミオが「ユウの変化」を“説明”ではなく“生活の欠け方”として受け取っていく回でした。

返事の形が固定され、選ぶ力が削れていく——その静かな崩れを、整える手つきで見ないふりをしながら、もう誤魔化せなくなる。


そして決定打として残ったのが、記録帳の空白。

言葉が出ないのではなく、言葉へ行く道が消えていることを、ミオはそこで理解します。


「守る」という祈りは続く。けれど向きが変わる。

続けるためではなく、壊れないためでもなく——壊れる前に、という刃の輪郭へ。

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