第36話:君と死ぬために生きてきた-4
朝の光は、今日も同じ角度で差し込んでいた。
カーテンの隙間から落ちる白い帯が、床の木目を細くなぞる。昨日と同じ場所に、昨日と同じ幅で、昨日と同じ白さで横たわっている。世界は律儀だ。毎日、決まった通りに朝を置いていく。
ユウは目を開けたまま、その律儀さを見ていた。
眠ったはずなのに、身体の奥に残っている重さが、どこにも片づいていない。眠りが「回復」ではなく、夜と朝の間に押される判子みたいに思える。判を押しても、書類の中身は変わらない。日付だけが更新される。
台所の方から、水の音がした。蛇口をひねる音。食器の触れ合う乾いた音。湯気の気配。ミオは起きている。起きて、整えて、いつもの順番で生活を始めている。
その音で、朝だと判断できる。
判断できるなら、起き上がる理由もあるはずだった。
けれど、理由はあるのに、身体がそれに従うまでに時間が要る。まぶたを開けるだけで、意思が必要だ。開けているのに、開け続けることが少しだけ重い。重い、と言葉にしてしまうと、次に続く言葉が出てくる気がして、ユウは心の中でそれを繰り返さないようにした。
昨日の言葉が、胸の奥に残っている。
まだ分からない。
再検査。
それでも、いい。
それらが重なって、ひとつの塊として胸の奥に沈んでいる。沈んでいるものは、息を吸っても持ち上がらない。吐いても外へ出ていかない。空気の出入りではなく、胸の内側で何かが動いているだけのように感じる。
ユウは息を吸って、吐いた。
吐いたはずの息が、まだ胸の奥に残っている気がした。残っている、という感覚が、現実の感覚なのか、思い込みなのか、区別がつかない。区別のつかないものは、どんどん日常に混ざる。混ざるほど、疑うための境界が薄くなる。
ベッドのシーツが肌に擦れる。擦れが少しだけ強い。布が荒くなったわけじゃない。皮膚の方が薄くなったみたいに、触れられている情報だけが増える。情報が増えると、身体はどれを拾えばいいのか分からない。分からないまま全部拾ってしまう。全部拾うから疲れる。
疲れる、という言葉が浮かんだ瞬間、ユウはそれをすぐに押し戻した。
疲れたから休む。
その直結が、ここ数日で途切れている。
休むべきだと断言できる根拠がない。痛いところがない。熱があるわけでもない。倒れていない。吐いていない。だから、休むという選択は、いつも「気分」になってしまう。気分で生活を止めることが許されない気がする。誰に許されないのかは分からない。自分かもしれないし、ミオかもしれないし、世界かもしれない。
ユウはゆっくりと起き上がった。
背骨が一本ずつ組み立て直されていくような動きだった。肩が上がり、首が持ち上がるまでに、小さな時間が挟まる。その時間の中で、起き上がったことを理解する。理解してから、次へ移る。そういう順番になっている。
足を床に下ろす。
床は冷たくも温かくもない。いつも通りのはずの感触なのに、足裏が置かれる位置が少しだけずれる。距離感が狂うというほどではない。ただ、“当然”の精度が落ちている。床が悪いわけじゃない。自分が少しだけ鈍くなっている。
立ち上がると、視界が一瞬揺れた。
揺れはすぐに止まる。倒れそうにはならない。けれど、揺れたことを「揺れた」と認識するまでの間が、いつもより長い。遅れがある。朝の光が“届くまで”に遅れがあるのと同じ種類の遅れ。
外と内の遅れが、同じ拍で起きている。
洗面所へ向かう。扉を開ける。鏡がそこにある。
顔を洗う。水が頬を伝う。感触が二拍遅れて届く。水滴の落ちる音が少し遠い。耳で聞いているのに、身体の中で響かない。音が外側を滑っていくだけで、胸の内側まで届かない。
鏡の中の自分は、いつもと同じ顔をしていた。
同じ、というのは記憶の中の自分と比べて、という意味だ。でもその記憶が曖昧だった。昨日の自分の顔が思い出せない。昨日の自分がどんな表情をしていたか、どんな声で喋ったか、どんなタイミングで頷いたか。輪郭がない。
目の下に影がある。影は前からあったはずだ。頬のあたりの肉が、少しだけ削げたように見える。けれど「痩せた」と断言するほどの根拠はない。劇的な変化がない。劇的でないことが、いちばん厄介だった。劇的なら、言葉がつく。言葉がつけば、理由ができる。理由ができれば、選べる。
選べない。
ユウは鏡の中の自分に、声には出さずに問いかけた。
――大丈夫?
問いかけた瞬間、「大丈夫」という言葉が喉の手前に浮かんで、すぐに沈んだ。大丈夫だと言い切る根拠がない。大丈夫じゃないと言い切る根拠もない。
根拠がないと、言葉は固定できない。
言葉が固定できないと、選択肢が並ばない。
ユウは顔を拭き、髪を整えようとして手が止まった。髪が少し伸びている。爪もいつの間にか切っていない。気づくのが遅い。気づいた後も、手入れをする優先順位が決まらない。どれを先にやればいいか、判断の輪郭がぼやけている。
判断がぼやけると、身体は“流れ”に頼る。
流れは、いつもミオが作る。
キッチンに入ると、湯気が立っていた。鍋の蓋が少しだけずれていて、そこから白い蒸気が細く漏れている。温かい匂いが鼻の奥に触れる。匂いの熱が、今日も普通にそこにある。
ミオが振り返った。
「おはよう」
声は穏やかだった。低すぎず、高すぎず、ユウの耳が拒まない温度。ユウは「うん」と返そうとして、喉の奥が一瞬だけ引っかかった。出せないほどじゃない。出せる。けれど声が“重い”。
ミオはそれを気にした様子もなく、テーブルに皿を置く。皿と木の間には布が敷かれていて、音が柔らかい。整える音。整える動作。整えられた空間は、考える余地を与えない代わりに、「ここは大丈夫だ」という感覚だけを置いていく。
パン。温かい汁物。果物。朝食とも昼食とも言い切れない量。
ユウは椅子に座り、黙って食べ始める。噛む。飲み込む。味は分かる。美味しいも分かる。それなのに、食べるという行為が身体の回路を通らずに処理されていくような感覚がある。自分が食べているのに、どこか別の人の映像を見ているみたいに薄い距離。
ミオは向かいに座らない。立ったまま、ユウの皿を見て、足りないものを足す。スープを少し注ぐ。布巾でテーブルの端を拭く。整える。
「大丈夫?」
ミオが聞いた。
優しい声だった。心配しているようで、心配の深さは見せない声。深さを見せないことで、問いが軽くなる。軽くなると、答えが容易になる。容易になる答えは、反射になる。
ユウは頷いた。
頷ける理由があるわけではない。頷かない理由がない。
「大丈夫だよ」
言ってしまう。
言った後で、言ったことが自分の中でどこにも引っかからない。嘘をついた罪悪感がない。罪悪感がないことに驚く余裕もない。反射で出た言葉は、体温のないまま空気に溶けていく。
その溶けていく音を聞いていると、別の単語が頭の中に浮かんだ。
責任。
責任という言葉が、唐突に現れる。
それは「決意」みたいな形ではなかった。熱もなかった。拳も握れなかった。胸が高鳴るわけでもなかった。責任は、ただ単語として置かれた。誰かが机の上に置いていった紙みたいに。そこにあるから、見える。見えるから、意識に入る。意識に入るから、離れない。
責任、という文字を頭の中でなぞる。
責任。
責任って、何だ。
答えが欲しいわけではない。答えが出ないことが分かっている。分かっているのに、単語だけが残る。残る単語は、次の単語を呼ぶ。
育てる。
守る。
働く。
お金。
家。
病院。
保険。
未来。
単語が並ぶ。並んで、頭の中で反響する。音として反復される。反復されるほど、重さが増える。重さが増えるほど、具体が必要になる。
でも、具体が出ない。
育てる、という単語に映像がつかない。守る、という単語に手触りがつかない。働く、という単語は昔から知っているはずなのに、今の生活にどう接続すればいいのか分からない。お金は数字のはずなのに、数字を出すと何かが確定してしまう気がして、数える手が止まる。家はこの部屋のことなのか、別の場所のことなのか、その境界が曖昧だ。
未来だけが、重い。
重いのに、形がない。
形がないものは、掴めない。掴めないものは、投げられない。投げられないものは、ずっと手のひらの上で重さだけを主張する。
ユウは食事を終えた。
満腹にもならない。空腹でもない。真ん中のどちらでもない場所が続く。身体が「終わり」を知らないみたいだった。終わりが分からないと、区切りがつかない。区切りがつかないと、次の行為が侵入してくる。侵入してくる行為は、拒むタイミングを与えない。
ミオが皿を下げる。水の音がする。泡が立つ音。布巾を絞る音。食器を拭く音。整える音。
その音が、生活の正しさを演出する。
正しさがある限り、ユウは「壊れていない」と思える。思えるはずなのに、単語の列が頭の中で止まらない。止まらない単語は、正しさを侵食する。正しいはずの生活の中に、「責任」という異物が混ざる。
異物なのに、抜けない。
ユウは立ち上がって、洗濯物を回した。ボタンを押す。洗剤を入れる。水の量を選ぶ。選ぶべきものがある。選ぶという行為が、今日のユウには少しだけ難しい。難しいのに、やらなければ生活が止まる。止まることが許されない気がする。
洗剤を入れて、引き出しを閉めた瞬間、不安が差し込んだ。
――入れたよな。
確かに入れた。入れた感触がある。引き出しを開けて、洗剤の容器を見る。残量は減っているように見える。減っているという確信がない。確信がないと、選べない。選べないと、同じ行為を繰り返す。
ユウはもう一度、引き出しを開けた。
洗剤がそこにある。そこにあるのは“今”見える事実だ。さっき入れたかどうかは証明できない。証明できないものを確定させる方法は、もう一度やることになる。
結局、少しだけ足した。
適量かどうかは分からない。多すぎても少なすぎても、どうでもいい気がした。どうでもいい、というより、どうでもいいと感じることで判断のコストを払わずに済ませている。判断のコストを払う余裕がない。
洗濯機が回る音がする。
回る音を聞きながら、ユウはまた単語に戻る。
守る。
守るって、何だ。
守る対象がある、という前提だけが勝手に確定していく。まだ分からないはずなのに。確定していない未来なのに。ユウの中では、もう「守る」という単語が居場所を作ってしまっている。居場所を作った単語は、居座る。
守る。
守るなら、どうする。
どうする、という問いが出た瞬間、答えが必要になる。答えが必要になると、選択肢が必要になる。選択肢が必要になるのに、選択肢が浮かばない。
浮かばないまま、生活の手順だけが進む。
干す。洗濯物を持ち上げる。腕がだるい。だるいのに、だるさを「だるい」と言葉にする前に身体が次の動作へ移っていく。言葉になる前に消える感覚が増えるほど、生活は滑らかになる。滑らかになるほど、止まれない。
ハンガーを取ろうとして別のハンガーを掴んだ。違うと気づく。戻す。また取る。今度は正しい。その小さな失敗に、感情が湧かない。以前なら苛立ったかもしれない。苛立たない。苛立たないことが、今のユウには楽だった。楽だと感じることが、危ない。危ないと分かっても、危なさを止める道具がない。
スマホが机の上で光った。
通知ではない。ただ画面が点いた。理由は分からない。手が触れたのかもしれない。触れた感覚がない。ないのに、画面が点いている。
画面には広告が表示されていた。
淡い色の、柔らかい文字。ベビー用品。紙おむつ。ミルク。肌に優しい、という言葉。
検索していないのに、とユウは思った。思った瞬間、そういう仕組みだったことを思い出して、口の中が乾いた。検索しなくても、世界はそれを出してくる。世界は未来を「当たり前」として出してくる。
当たり前。
普通。
その単語がまた増える。
当たり前って、何だ。
普通って、誰のことだ。
ユウはスマホを伏せた。伏せても、画面の光が目の裏に残る。残った光が、朝の光と同じ種類の白さに見える。白いものが、目につく。白が増えるほど、頭の中の“病棟”が呼び出される。
白い壁。白い天井。時間がただ存在しているだけの場所。
そこに、ミオがいた。
初めて出会った場所。
思い出そうとすると、思い出せる。
思い出せるのに、今の時間の輪郭は思い出せない。
ミオの声が台所から聞こえる。
「お昼、どうする?」
質問は軽い。軽いから答えられる。答えられるから生活が進む。進むから、また単語が増える。
育てる。
育てるって、何だ。
育てる、という単語の中に、守る、が含まれている気がした。守る、という単語の中に、働く、が含まれている気がした。働く、という単語の中に、責任、が含まれている気がした。
責任という単語が、すべてを吸い込んでいく。
吸い込まれると、選択肢が減る。
減っていく、ということだけが確かになっていく。
昼食を食べる。味は分かる。美味しいも分かる。けれど、食べる映像を見ているだけの距離がある。距離があるから、そこに感情がつかない。感情がつかないから、判断ができない。判断ができないから、選べない。
ユウは箸を置きかけて、止まった。
――今、何を考えていた。
問いかけても答えが出ない。箸が止まった理由が分からない。理由が分からないまま、箸を動かす。動かせるなら、それでいい。それでいい、と思えてしまう。
ミオが「美味しい?」と聞く。
ユウは頷く。頷いた後で、頷いたことを忘れそうになる。忘れそうになることに驚かない。驚かないことが、いちばん怖い。
食後、ミオが少しだけ顔をしかめた。
ほんの一瞬。匂いに反応したような動き。湯気に触れたときの、あの眉の寄せ方。喉元に手を当てる仕草。咳を堪えるみたいな一拍。
ユウの胸の奥で「守る」という単語が跳ねた。
守る。
今すぐ。
でも、何をどう守ればいいのか分からない。
「大丈夫?」
ユウは言った。言える。言えるけれど、深掘りできない。深掘りすると、未来が具体になりそうで怖い。具体になると、決めなければいけない。決めることができない。できないことを認めたくない。
ミオは笑って、いつもの温度で言った。
「大丈夫。ちょっとだけ」
軽い。
軽い言葉は、重い現実を覆う布になる。覆われると、ユウはそれを剥がす理由を失う。剥がす理由がないから、覆われたまま生活が進む。
生活が進むほど、ユウの頭の中の単語だけが増える。
当たり前。
普通。
責任。
ユウは家の外へ出た。理由は明確じゃない。ミオが何か買ってきてほしいと言ったわけでもない。ただ、部屋の空気の中に「同居人」みたいに座っている未来が、息をする場所を狭くしていて、外へ出れば少しは薄まる気がした。
玄関を出ると、風が肌に触れた。冷たいのか暖かいのか判断が遅れる。遅れて「寒い」と思う頃には歩き始めている。歩いているから寒いという情報は遅れて届いても、行動を変えない。
コンビニの自動ドアが開く音がした。
店内は明るい。光が白い。棚の包装の白さ。紙パックの白さ。レジ横の広告の白さ。白が、ここにもある。
ベビー用品の棚が目に入った。
紙おむつ。ベビーフード。哺乳瓶。肌に優しい、という言葉が並ぶ。並んだ言葉は整っている。整っている言葉は正しい顔をしている。正しい顔をしているから、ユウの中で「責任」という単語が強くなる。
レジの前に、家族連れがいた。
小さな子どもが、親の袖を引いている。笑っているわけでも泣いているわけでもない。ただそこにいて、当たり前に守られている。守られていることが、特別に見えない。当たり前に見える。
当たり前。
普通。
ユウの胸の奥で、その単語が冷たく刺さる。
羨望ではない。罪悪感でもない。憎しみでもない。ただ、“そこに行けない感じ”がある。行けない理由を説明できない。説明できないから、行けないという事実だけが残る。
ユウは何も買わずに店を出た。出たことに意味はない。意味をつける余裕がない。ただ、外に出る。外に出ても、単語はついてくる。
帰宅すると、ミオは台所にいた。包丁の音が一定の間隔で続く。そのリズムが、ユウの呼吸を勝手に整える。整えられることが怖い。怖いのに、その怖さも長続きしない。感情が立ち上がる前に、呼吸の方が先に整ってしまう。
ミオが振り返り、穏やかに言った。
「おかえり」
声も距離も、いつも通り。いつも通りだから、ユウは安心するはずなのに、安心が“逃げ道を塞ぐ”感覚になっていく。安心すると、疑う理由が消える。疑う理由が消えると、止まる理由も消える。
ミオがふと、予定表の前に立った。
壁に掛けられた予定表。線が色分けされている。区切りがある。空白がない。空白がないことが最近の基本になっている。ミオの指先が止まる。
「再検査、いつにする?」
その問いは、未来を“仮”のまま置いておくための問いだった。日付を決めても、確定ではない。確定ではないから、決断ではない。決断ではないから、言葉にできる。
ユウは返事が遅れた。
遅れたことに理由がない。迷ったわけでもない。迷ったのに気づいていないだけかもしれない。迷いの感覚が薄い。薄いから、言葉が遅れる。
ミオは急かさない。急かさない優しさが、ユウの逃げ道を消す。急かされないと、「今決める理由」がなくなる。理由がないと、決められない。
ミオは予定表のある日を指で押さえた。
「じゃあ、ここでいい?」
“仮”の指先。
ユウはその指先を見て、頷いた。
「……うん」
その「うん」で、ユウの選択肢がひとつ減った気がした。
日付を選んだのではない。日付を受け入れた。受け入れたことで、未来が少しだけ具体に近づいた。具体に近づくと、責任という単語が太くなる。太くなると、息がしづらくなる。
でも、息はできる。
できるから、休む理由がない。
夕食を食べる。味は分かる。美味しいも分かる。それなのに、食べる映像を見ているだけの距離がある。ミオは穏やかだ。声も距離も触れ方も、いつも通りだ。いつも通りがあるから、ユウは「壊れていない」と思い込める。思い込めるから、壊れに気づけない。
食後、薬を飲む。
錠剤の白さが、やけに目につく。白い粒が手のひらの上で小さく滑る。今日の白は、朝の光と、病院の壁と、コンビニの棚と、予定表の紙と、全部同じところに繋がっている気がした。
ユウは喉に水を含み、錠剤を流し込んだ。喉を通る感触が少し重い。引っかかる。引っかかるのに吐き出したくならない。吐き出す理由がない。理由がないから、飲み込める。飲み込めることが、怖い。
夜になった。
照明が落とされる。暗さが来る。暗さが来ても切り替わった実感がない。明るい部屋と暗い部屋が同じ濃度で繋がっていく。今日という一日の境界も薄くなる。境界が薄いと、生活の中に同じものが混ざり続ける。混ざり続けるものは、止まれない。
ユウはノートを開いた。
記録帳。
日付を書く。
ペン先が紙に触れる感触だけが、はっきりしている。はっきりしていることが、逆に不自然だった。紙の白さが、さっきの錠剤の白さと似ている。白いものが目につくほど、単語が増える。
気分欄で手が止まった。
良い。
悪い。
少し疲れた。
どれも違う。
違うのに、代わりの言葉が出てこない。言葉が出ないのではない。言葉を選ぶ理由が見つからない。理由が見つからないと、正確さが担保できない。正確でない言葉を書くのが怖い。怖い、という感情も立ち上がりきらない。ただ、ペンが止まる。
理由欄が視界に入る前に、ユウは目を逸らした。
見たら、書かなければいけなくなる。
書かなければいけないと感じることが、今の自分には重い。
重い、と言葉にしてしまったら、休むという選択肢が出てしまう。休むという選択肢が出ると、その選択肢を選べない自分が露わになる。露わになると、責任という単語がさらに重くなる。
ユウは気分欄に、線を引こうとした。
線なら、記号なら、正確さを問われない。
けれど、その線を引く手が止まった。
線ですら、違う気がした。
記号に逃げることが、逃げだと分かってしまう。逃げだと分かってしまうと、責任という単語が刺さる。刺さるのに、抜けない。抜けないから、手が止まる。
止まったまま、時間だけが過ぎる。
台所の水音が遠くなる。食器の音が遠くなる。ミオの気配だけが近い。ミオの呼吸の音。衣擦れの音。床を歩く音。整える音。整える音は、今日も正しい。
正しい音の中で、ユウだけが書けない。
書けないという事実だけが、ここにある。
ユウは、何も書かないままページを閉じた。
閉じる動作が、早い。
早いということは、決めたということだ。決めたのではない。決めざるを得なかった。決めざるを得なかったという感覚も、言葉にはならない。
ページを閉じても、空白は閉じられなかった。
閉じたノートの中に、今日の空白が残っている。それは休息ではなく欠落だった。欠落は、埋めるための言葉を要求する。要求するのに、言葉が出てこない。出てこないから、欠落はそのまま残る。
残る欠落は、責任という単語を強くする。
責任という単語だけが残って、選べるものが何も残らなくなる。
ユウは布団に入った。
横になったはずなのに、その瞬間がぼやける。眠るまでの記憶が途切れる。途切れが増えても焦らない。焦らないことがいちばん怖い。
暗さの中で、ミオの気配がする。
いつも通りの距離。いつも通りの温度。いつも通りの呼吸。
その“いつも通り”が、ユウの抵抗を溶かしていく。抵抗したいと思う前に、身体が受け入れる。受け入れた自分を責める前に、責める言葉が消える。言葉が消えると、責めも消える。責めが消えると、止める理由も消える。
眠りは浅い。
浅いのに、目覚めた感触がない。
次に意識が浮上したとき、朝だった。
光がある。光があるから朝だと分かる。夜が終わった瞬間は持っていない。朝が始まった瞬間も持っていない。ただ、光がそこにある。
カーテンの隙間から落ちる白い帯は、今日も同じ角度で床を切っていた。
世界は同じなのに、ユウだけが少しずつ変わっていく。
ユウは目を開けたまま、その白さを見つめた。
責任という言葉が、胸の奥に残っている。
責任の中身はまだない。
なのに、重さだけが確かだった。
そしてその重さは、休む理由にも、逃げる理由にも、話す理由にもならなかった。
ユウはゆっくりと息を吸って、吐いた。
吐いたはずの息が、胸の奥にまだ残っている気がした。
「責任」という言葉だけが先に来て、何を選べばいいのかが削れていく回でした。
確定していない未来に、確定した重さだけが居座る。
ユウは守ろうとするほど、自分を守る選択肢を失っていきます。
そして初めての“空白”。
書けなかった一日が、いちばんはっきりした記録になりました。




