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君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
最終章:君と死ぬために生きてきた

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35/40

第35:君と死ぬために生きてきた-3


 朝の光は、部屋の中に入ってきた瞬間から、どこか遠かった。


 カーテンの隙間から落ちる白い帯は、いつもと同じ角度で床を切っている。木目の上に、細い刃のように横たわっている。それが今日に限っては、刃ではなく、薄い紙のように見えた。切れない。刺さらない。ただ、そこにあるだけの白さ。


 ユウは目を開けたまま、その白さを眺めていた。


 眺めていた、というより、視界の中に置いていた。置いておけば、朝だと判断できる。判断できれば、起き上がる理由を作れる。理由があれば、身体は動くはずだった。


 台所の方から、水の音がする。蛇口をひねる音。食器の触れ合う乾いた音。湯気の立つ気配。ミオは起きている。いつも通りに、生活を始めている。生活が始まっているなら、自分もそこに参加すればいい。


 それなのに、身体がすぐには追いつかなかった。


 眠って回復した、という手応えがない。眠りが、回復ではなく、区切りの「手続き」になってしまったみたいだった。夜から朝へ、ただ書類に判を押しただけ。疲れは疲れのまま、持ち越される。重さが、昨日の続きで座っている。


 ユウは息を吸って、吐いた。


 吐いたはずの息が、胸の奥にまだ残っているような気がした。吐いても出ていかない。空気の出入りではなく、胸の内側で何かが動いているだけのように感じた。


 シーツが肌に擦れる。擦れが少しだけ強い。布が荒くなったわけじゃない。皮膚のほうが薄くなったみたいに、触れられている情報だけが増える。情報が増えると、身体はどれを拾えばいいか分からなくなる。分からないまま、すべてを拾ってしまう。すべてを拾うから、疲れる。


 ユウはゆっくりと起き上がった。


 背骨が一本ずつ組み立て直されていくような動きだった。肩が上がり、首が持ち上がるまでに、小さな時間が挟まる。その時間の中で、起き上がったことを自分が理解する。理解してから、次の動作へ移る。そういう順番になっている。


 足を床に下ろす。


 床は冷たくも温かくもない。いつも通りのはずの感触なのに、足裏が置かれる位置が少しだけずれる。距離感が狂うというほどではない。ただ、“当然”の精度が落ちている。床が悪いわけじゃない。自分が、ほんの少しだけ鈍くなっている。


 立ち上がると、視界が一瞬揺れた。


 揺れはすぐに止まる。倒れそうにはならない。けれど、揺れたことを「揺れた」と認識するまでの間が、いつもより長い。その遅れが、朝の光の遅れと似ていた。外と内の遅れが、同じ拍で起きている。


 ユウは自分の頬に手を当てた。


 冷たい――のかどうか、よく分からない。温度は判断できるはずなのに、判断した温度が感情に繋がらない。冷たいから驚く、という反応がない。冷たい、という情報だけがそこに置かれている。


 洗面所へ向かう。扉を開ける。鏡がそこにある。


 顔を洗う。水が頬を伝う。感触が二拍遅れて届く。水滴が落ちる音が少し遠い。耳で聞いているのに、身体の中で響かない。音が外側を滑っていくだけで、胸の内側まで届かない。


 鏡の中の自分は、いつもと同じ顔をしていた。


 同じ、というのは記憶の中の自分と比べて、という意味だ。でも、その記憶が曖昧だった。昨日の自分の顔が、思い出せない。昨日の自分がどんな表情をしていたか、どんな声で喋ったか、いつ眠ったか。輪郭がない。生活の時間が輪郭を失っていく。


 目の下に影がある。影は前からあったはずだ。


 頬のあたりの肉が、少しだけ削げたように見える。けれど「痩せた」と断言するほどの根拠はない。髭も、伸びているわけじゃない。肌荒れも、ひどくはない。


 ただ、血の気が遠い。


 青白い、というほどではない。青白いと言い切るにはもっと劇的な変化が必要だ。そうじゃなくて、血が“奥”に引っ込んでいる。皮膚の表面から一段、距離ができた感じがする。生きている色が、顔の中にしまわれてしまっている。


 ――疲れてる?


 鏡に向かって、声には出さずに問いかける。


 問いかけた瞬間、答えが必要だと思った。答えが必要なら結論が必要だ。結論が必要なら、次の行動が必要だ。


 休む。


 その言葉が喉元まで来て、戻っていく。


 戻っていった理由が分からない。


 疲れている。だから休む。その直結が、ここ数日で途切れている。疲れという言葉に具体がない。痛いところがない。熱があるわけでもない。吐き気も眩暈も、明確にはない。だから、“休むべき”という確定が生まれない。


 確定が生まれないと、言葉が出ない。


 言葉が出ないと、選択肢が存在しない。


 ユウは顔を拭き、髪を整えようとして手が止まった。


 髪が少し伸びている。爪も、いつの間にか切っていない。気づくのが遅い。気づいた後も、手入れをする優先順位が決まらない。どれを先にやればいいか、判断の輪郭がぼやけている。


 判断がぼやけると、身体は“流れ”に頼る。


 流れは、いつもミオが作る。


 キッチンに入ると、湯気が立っていた。鍋の蓋が少しだけずれていて、そこから白い蒸気が細く漏れている。味噌か、スープか、何か温かい匂い。鼻の奥に触れる匂いの熱。


 ミオが鍋の蓋を開ける。


 瞬間、湯気が勢いよく上がって、ミオの顔に触れた。


 ミオはほんの一瞬だけ、眉を寄せた。喉の奥がひゅっと鳴りかけて、咳き込みそうになるのを堪えた。喉元に手を当て、息を一つ飲み込んでから、何事もなかったように笑った。


「……熱いね」


 声は穏やかだった。調子も、いつも通りだった。


 いつも通り過ぎて、ユウは「今の」を事件にできなかった。


「大丈夫?」


 言える。言えるけれど、深掘りできない。


 ミオは肩をすくめるみたいに笑う。


「大丈夫。ちょっと、匂いがね」


 その「ちょっと」が軽い。


 「無理しなくていい」と同じ温度で、空気の中に落ちる。軽い言葉が軽いまま落ちると、拾い上げる手が見つからない。拾い上げる必要性が消える。


 テーブルの上には、朝食とも昼食とも言い切れない量の食事が並んでいた。


 パン。温かい汁物。果物。白い皿。木のテーブル。敷かれた布。皿と木の間の薄い布が、音を柔らかくする。


 整っている。


 ミオは向かいに座らない。立ったまま、ユウの皿を見て、足りないものを足す。動きに無駄がない。声も距離も触れ方も、いつも通りだ。


 ユウは食べ始める。


 噛む。飲み込む。味は分かる。美味しい、も分かる。それなのに、食べるという行為が身体の回路を通らずに処理されていくような感覚がある。自分が食べているのに、どこか別の人の映像を見ているみたいに、薄い距離。


 食事が終わっても、満腹が来ない。空腹でもない。真ん中の、どちらでもない場所が続く。身体が「終わり」を知らないみたいだった。


 ミオが皿を下げ、流しへ運ぶ。水の音。泡が立つ音。布巾を絞る音。整える音。


 生活の音がある限り、世界は壊れていないと思える。


 思えるはずだった。


 ミオが予定表の前で、指先を止めた。


 壁に掛けられた予定表。線が色分けされている。区切りがある。空白がない。空白がないことが、最近の基本になっている。その前で、ミオの指先が少しだけ止まる。


 ユウはその止まり方を見て、何が止まったのかを探した。


 ミオは、指先をほんの少しだけ動かして、そこにないものを確認するみたいに、空間をなぞった。


「……ねえ」


 声が、普段より少しだけ低かった気がした。低いというより、息が少し短い。


「ちょっと、遅れてる」


 ユウは「何が」と口にしそうになって、言ってから気づく未来が怖かった。だから、声が喉の手前で止まった。


 止まったけれど、止まったことに意味を与えるほどの力もなかった。


 ミオは言う。


「いつもの。……それだけ」


 いつもの。


 それなのに、いつもじゃない空気が流れた。


 部屋の中の音が薄くなる。水の音が遠くなる。布巾が絞られる音だけが残って、そこから先が届かない。ユウの頭の中で、ある言葉だけが輪郭を持って浮かぶ。


 可能性。


 言葉としては出ない。出ないまま、そこに居座る。妊娠という単語に触れずに、読者の脳内に同じ映像を流すみたいに、“未来”という質量だけが落ちる。


 ユウは「病院」と言うべきか迷った。


 迷う前に、口が先に動くべきだと分かっているのに、口は動かない。動かないのではない。動かす理由が固まらない。


 ミオの態度は穏やかだった。焦らない。焦らないことが、ユウの焦りを増幅させる。


 焦りは大声ではなく、内側の静かな摩擦として現れた。摩擦があるのに、火がつかない。火がつかないから、方向が決まらない。


「……念のため、行こうか」


 やっと出た言葉は、決断ではなかった。


 “念のため”。


 未来の重さを、仮定のまま持ち運ぶための言葉。


 ミオはすぐに頷いた。


「うん」


 その頷きが早すぎて、ユウの中の“ためらい”が行き場を失った。ためらいは、返事をする場所がないとき、身体の奥へ沈んでいく。沈むほど、重さだけが残る。


 外に出る準備をする。


 ミオは身支度を整えすぎる。髪を整え、服の皺を指で伸ばし、鞄の中身を確認し、薬を入れ、ハンカチを折り直す。整えることが好きだ。整っていることが安心だ。


 ユウはその“いつも通りの整え方”を見て、逆に怖くなる。


 いつも通りがあるのに、いつも通りじゃないものが混ざっている。


 その混ざり方が、まるで最初から混ざっていたみたいで、境界が分からない。


 玄関を出る。


 風が肌に触れた。冷たいのか暖かいのか、判断が遅れる。遅れて「寒い」と思う頃には、すでに歩き始めている。歩いているから、寒いという情報は遅れて届いても、行動を変えない。


 信号待ち。車の音。人の話し声。


 全部が遠い。遠いのに、耳には入る。入るけれど、胸の内側に響かない。音が外側を滑っていく。世界が膜の向こうにあるみたいに、薄い。


 ミオの歩幅が少し狭い。


 ユウは半歩合わせる。合わせることが自然にできる。自然にできることが、怖い。自然に合わせられるなら、自然に“未来”も受け入れてしまう気がする。


 もしも違ったら?


 もしもそうだったら?


 もしも、もしも、もしも。


 どちらにも答えがないので、思考が疲れる。疲れるのに、疲れていると断言できる根拠がない。根拠がないから、思考は止まらない。止まらないから、さらに疲れる。


 病院の建物は、白かった。


 白い壁。白い床。白い蛍光灯。白い案内板。白い紙。白い消毒液の匂い。


 白が多い場所に入ると、ユウは一瞬だけ、第1話の病棟を思い出した。


 白い壁と白い天井に囲まれた小さな病棟。音が最初から存在しないような場所。時間がただ存在しているだけの場所。


 ここはその場所と違う。人もいるし、声もあるし、雑音もある。


 それなのに、白さが記憶を引っ張り上げる。過去の白と、未来の白が重なって、逃げ場がなくなる。


 受付。問診票。ペン。


 紙の白さが、妙にはっきりしている。白いものが、目につく。白が視界の中心に座る。


 待合の椅子は硬い。硬さが腰に刺さるほどではない。けれど、その硬さが「ここに座って待て」と命令してくる感じがした。


 消毒液の匂いが鼻の奥に残る。紙コップの水を飲む。水の味が薄い。薄いのに、喉を通る感触だけが強い。飲み込む動作が、いつもより意識を必要とする。


 他人の会話が断片的に耳に入る。


「……次の健診、来週で……」

「……まだ小さいから、気をつけてね……」


 直接的すぎない。けれど十分だった。


 壁にはポスターがある。赤ちゃん用品の広告。母子手帳の案内。カレンダーの月表示。


 未来がそこら中にある。


 未来が、言葉ではなく、物として置かれている。


 ユウは自分の膝の上に置いた手を見た。手の甲の血管が、前より少し浮いている気がした。気がする、で止まる。確かめる意味がない。確かめたところで、結論が出ない。


 隣に座るミオを見た。


 ミオは落ち着いているように見える。手を膝の上に置いて、背筋を伸ばしている。目は前を向いている。視線は一点ではなく、全体をぼんやり見ている。


 その落ち着きが、ユウの中に重さとして残る。


 ミオは恐れていないのではない。


 恐れの扱い方を決めている。


 呼び出しの音が鳴る。名前が呼ばれる。ユウの名前ではない。ミオの名前でもない。呼び出しの音が増えるほど、時間が進む。時間が進むほど、仮定の重さが増える。


 やがて、ミオの名前が呼ばれた。


 診察室へ入る。


 医師は事務的に丁寧だった。年齢も性別も、ユウの視界ではただ「白衣の人」でしかない。白衣の白さが、ここでも強い。


 問診。症状。生理周期。遅れ。


 ミオは淡々と答える。声が震えない。震えないことが、ユウの胃をきゅっと縮める。震えないなら、大丈夫なのか。震えないなら、もう覚悟があるのか。覚悟があるなら、自分はどうすればいいのか。


 検査。


 短い時間。長い時間。どちらでもない時間。


 医師は言う。


「現時点では、断定できません」


 その言葉が、刃だった。


 刃は切らない。刺さない。けれど、そこにある。そこにあるから、触れたくないのに触れてしまう。触れたら傷がつくのに、傷がついたと断言できない。断言できないから、手当もできない。


「週数が浅い場合もありますし」

「体調やストレスで遅れることもあります」

「念のため、数日後にもう一度確認しましょう」


 保留の言葉が並ぶ。


 まだ分からない。


 とりあえず。


 念のため。


 その全部が、未来を“仮定のまま”にする。


 検査結果ははっきりしない。反応が薄い、と言われる。薄い、という言葉が、ユウの世界でいちばん怖いものになっている。薄いということは、確定しないということだ。確定しないということは、決められないということだ。


 決められないまま、時間だけが増える。


 医師の言葉は丁寧だった。丁寧だからこそ、逃げ道がない。丁寧な保留は、優しい牢屋の壁になる。


 ミオは頷いた。


「分かりました」


 受け止めるのが早い。


 受け止めたことが、ユウに刺さる。ユウは受け止められない。受け止められないのに、受け止めるふりをする言葉も出てこない。


 診察室を出る。


 廊下の白さが、また戻ってくる。待合の雑音。消毒液。紙コップ。ポスター。カレンダー。未来がそこら中にある。


 病院を出た瞬間、空気が変わった。


 外の空気は、冷たい。冷たいと判断するのが少し遅れる。それでも、冷たい。頬に触れる風が、現実の触感として戻ってくる。


 戻ってくるのに、心は戻らない。


 病院を出た直後は無言だった。


 言葉が出ないのではない。言葉を選ぶ理由が見つからない。言葉を選ぶ理由がないと、口は開かない。開かないまま、歩く。


 コンビニの前を通る。自動ドアが開く音。店内の明るさ。商品棚の色。おにぎりの包装。雑誌の表紙。全部が普通だ。


 普通の景色が、怖い。


 普通の景色は、未来を「生活」として扱う。生活は続く。続くことを前提にしている。続くなら、そこに何かが増える可能性もある。増える可能性があるなら、責任が生まれる。責任が生まれるなら、選ぶ必要がある。


 ユウは選べない。


 選べないまま、横断歩道を渡る。


 信号が青になる。人が動く。車が止まる。ルールがある。ルールがあるから、動ける。ルールがあるから、迷わない。迷わないことが、今のユウには救いだった。


 夕方の光が、街の輪郭を少しだけ柔らかくする。


 その光の中で、ミオがぽつりと言った。


「……それでも、いい」


 歩きながら。独り言みたいに。ユウに向けたようで、向けていないような声。


 それでも。


 違っても、なのか。


 そうでも、なのか。


 どちらでも含むように、曖昧なまま落ちる言葉。


 ユウは返事を探した。


 「そうだね」――嘘になる。


 「よくない」――責めになる。


 「分からない」――今さら過ぎる。


 どれも選べない。


 返事が見つからない。


 ミオは返事を求めない。


 求めない優しさが、ユウの逃げ道を消す。逃げ道が消えると、立っている場所が細くなる。細くなると、落ちそうになる。落ちそうなのに、落ちない。落ちないから、危機感も確定しない。


 確定しないものは、ずっと居座る。


 帰宅する。


 玄関の扉が閉まる音が、いつもより重く聞こえた。重いのに、その重さを事件にする言葉がない。言葉がないから、音はただ鳴って消える。


 ミオはいつものように整える。


 鞄の中身を戻す。上着を払う。靴を揃える。手を洗う。うがいをする。キッチンへ立ち、夕食の準備を始める。包丁の音が一定の間隔で続く。そのリズムが、ユウの呼吸を勝手に整える。


 整えられることが怖い。


 怖いのに、その怖さも長続きしない。感情が立ち上がる前に、呼吸の方が先に整ってしまう。


 いつも通り。


 いつも通りだから、何も変わっていないように見える。


 けれど、何も戻らない。


 病院で聞いた「まだ分からない」は、玄関で靴を揃えても、手を洗っても、夕食を食べても、消えない。消えないどころか、部屋の空気に混ざっていく。未来が「予定」ではなく「同居人」になる。


 予定表が目に入る。空白がない。薬の瓶が目に入る。白い錠剤。ノートが目に入る。記録が短くなっている。カレンダーが目に入る。次の検査日を仮で書くか迷う。


 仮。


 仮定。


 未来の重さが“仮定”として置かれる。


 夕食を食べる。味は分かる。美味しいも分かる。それでも、食べている映像を見ているだけの距離がある。ミオは穏やかだ。声も距離も触れ方も、いつも通りだ。


 それが、ユウの中の逃げ道をさらに塞ぐ。


 食後、薬を飲む。錠剤の白さが、今日はいちばんはっきりしている。白いものが、やけに目につく。紙の白さ。壁の白さ。朝の光の白さ。錠剤の白さ。


 白が全部、同じところに繋がっていく。


 ユウはノートを開いた。


 日付を書く。ペン先が紙に触れる感触だけが、はっきりしている。はっきりしていることが、逆に不自然だった。紙の白さが、さっきの錠剤の白さと似ている。


 気分欄で手が止まった。


 良い。


 悪い。


 どちらも違う。


 少し疲れた。


 それも違う気がした。疲れたと言うほどの“理由”が書けない。理由が書けないなら、疲れたと書くのは不正確になる。不正確な言葉を書くのが、怖い。


 怖い、という感情も立ち上がりきらない。ただ、ペンが止まる。


 理由欄を見る前に、視線を逸らした。最初から見ない。見ると、書かなければいけなくなる。書かなければいけないと感じることが、今の自分には重い。


 ユウは、気分欄に小さく線を引いた。


 丸でも三角でもない、ただの線。


 言葉ではなく、記号。


 記号なら正確さを問われない。問われないことが救いになる。


 ページを閉じる。


 閉じる動作が、早い。


 閉じた瞬間、何かを閉じ込めた気がした。閉じ込めたのは出来事ではなく、問いだった。問いが閉じ込められると、未来は部屋の中で自由に歩ける。


 照明が落とされる。


 暗さが来る。暗さが来ても、切り替わった実感がない。明るい部屋と暗い部屋が同じ濃度で繋がっていく。今日という一日の境界も、薄くなる。


 布団に入るまでの記憶が、ところどころ抜ける。歩いたはずなのに、歩いた感触がない。横になったはずなのに、横になった瞬間が分からない。


 分からないことが増える。


 増えるのに、焦らない。


 焦らないことが、いちばん怖い。


 暗さの中で、ミオの気配がする。いつも通りの距離。いつも通りの温度。いつも通りの呼吸。


 その“いつも通り”が、ユウの抵抗を溶かしていく。


 抵抗したいと思う前に、身体が受け入れる。受け入れた自分を責める前に、責める言葉が消える。言葉が消えると、責めも消える。責めが消えると、止める理由も消える。


 次に意識が浮上したとき、朝だった。


 光がある。光があるから朝だと分かる。夜が終わった瞬間は持っていない。朝が始まった瞬間も持っていない。ただ、光が“そこにある”。


 身体は重い。


 昨日より少し重い。


 重いのに、異常だと言い切れない。言い切れないものは放置される。放置された重さは習慣になる。習慣になった重さは、やがて身体の一部になる。


 キッチンから音がする。


 ミオはもう起きている。


「よく眠れた?」


 声がする。


 ユウは少しだけ間を置いた。


 眠れたかどうかは分からない。眠ったことは分かる。けれど“眠り”を抱えて起きた感触がない。眠りが手続きになっている。


 それでも頷く。


 頷かない理由がない。


 ユウは口を開けて、何か言おうとした。


 病院で言われたこと。再検査。仮。念のため。まだ分からない。


 その全部の上に、別の言葉を置くべきだと、どこかで思った。


「……」


 言葉が出ない。


 出ないのではない。


 言う理由が見つからない。


 未来が確定していないから、喜べない。怯えきれない。逃げられない。だから、言葉が定まらない。定まらない言葉は、口から出せない。


 ユウはベッドの上で、朝の光を見つめた。


 同じ角度の光。


 同じ場所に落ちる白い帯。


 その白さの中に、昨日の「まだ分からない」が混ざっている。


 その日、ユウは「大丈夫」という言葉を、一度も使えなかった。


 使えなかった理由を考えようとして、理由を探すこと自体が、途中でやめになった。


 “確定しない未来”が、確定したものみたいにそこに座っていた。



「まだ分からない」と言われた瞬間から、未来は“出来事”ではなく“物”になって部屋に入り込む。

決められないのは弱さじゃなくて、決めるための根拠が世界から消えていくからだ――という回でした。


ミオの「それでも、いい」は、希望でも覚悟でもなく、ただ受け入れの形を先に決めてしまう言葉です。

その優しさが、ユウから返事の居場所を奪っていく。


確定しないまま居座るものが、いちばん重い。

この章は、その重さを“言葉が減っていく速度”で描きました。

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