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君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
最終章:君と死ぬために生きてきた

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34/40

第34話:君と死ぬために生きてきた-2

 

 朝の光は、きのうより少しだけ白かった気がした。

 同じ角度で差し込んでいるはずなのに、目の奥に触れる質感が違う。痛いわけではない。眩しいわけでもない。ただ、薄い膜を一枚隔てたみたいに、光が“届くまで”に遅れがある。


 ユウはまぶたを開けたまま、その遅れを眺めていた。


 起き上がる理由はあった。

 台所から水の音がする。食器の触れ合う乾いた音も、すぐに続く。ミオは起きている。いつも通りの時間に、いつも通りの順番で、いつも通りに。


 それなのに身体が動かない。


 動かない、と言うと大げさだ。

 動ける。起き上がれる。歩ける。呼吸もできる。

 ただ、身体の内側に沈んだ重さが、前日からそのまま持ち越されている。眠って軽くなった、という手応えがない。睡眠が回復ではなく、切り替えの“手続き”に変わってしまったみたいだった。


 ユウは息を吸って、吐く。

 吐いたはずの息が、胸の奥にまだ残っているような気がする。


 ベッドのシーツが肌に擦れる。

 その擦れが、少しだけ強い。

 強いというより、皮膚の側が薄くなったような感覚がある。布の存在を、余計に拾ってしまう。触れられている、という情報が多すぎて、どれが大事な感覚なのかを選べない。


 ユウはゆっくりと起き上がった。

 背骨が一本ずつ組み立てられていくような動き。最後に首が上がるまで、時間がかかる。


 足を床に下ろす。

 ひやりともしない。温かくもない。

 いつも通りの床のはずなのに、足裏が置かれる位置がわずかにずれる。距離感が狂うというより、“当然”の精度が落ちている。床が悪いわけじゃない。自分が、少しだけ鈍くなっている。


 立ち上がると、視界が一瞬だけ揺れた。

 揺れはすぐに止まる。

 倒れそうにはならない。

 ただ、揺れたことを「揺れた」と認識するまでの間が、いつもより長い。


 ユウは自分の頬に手を当てた。

 冷たい。

 いや、冷たいのかどうか、よく分からない。

 温度の判断はできるのに、判断した温度が自分の感情に繋がらない。冷たいから驚く、という反応がない。


 洗面所に向かう。

 扉を開ける。

 鏡がそこにある。


 顔を洗う。水が頬を伝う。

 その感触が、二拍遅れて届く。

 水滴が落ちていく音が、少し遠い。耳で聞いているのに、身体の中で響かない。


 鏡の中の自分は、いつもと同じ顔をしていた。

 同じ、というのは、記憶の中の“自分”と比べて、という意味だ。

 でもその記憶が曖昧だ。昨日の自分の顔が、思い出せない。


 目の下に影がある。

 影は前からあったはずだ。

 頬のあたりの肉が、少しだけ削げたように見える。

 けれど「痩せた」と断言するほどの根拠はない。髭も、伸びているわけじゃない。肌荒れも、ひどくはない。


 ただ、血の気が遠い。

 青白い、というほどではない。

 青白いと言い切るには、もっと劇的な変化が必要だ。

 そうではなくて、血が“奥”に引っ込んでいる。皮膚の表面から一段、距離ができた感じがする。生きている色が、顔の中にしまわれてしまっている。


「疲れてる?」


 鏡に向かって、声には出さずに問いかける。

 問いかけた瞬間、答えが必要だと思った。

 答えが必要なら、結論が必要だ。

 結論が必要なら、次の行動が必要だ。


 休む。


 その言葉が、喉元まで来て、戻っていく。

 戻っていった理由が分からない。


 疲れている。

 だから休む。

 その直結が、ここ数日で途切れている。


 疲れという言葉に、具体がない。

 痛いところがない。

 熱があるわけでもない。

 吐き気も、眩暈も、明確にはない。

 だから、“休むべき”という確定が生まれない。


 ユウは顔を拭き、髪を整えようとして、手が止まった。

 髪が少し伸びている。爪も、いつの間にか切っていない。

 それに気づくのが遅い。

 気づいた後も、手入れをする気力が湧かない。


 湧かない、というのも違う。

 気力はあるはずだ。

 ただ、優先順位が決まらない。

 どれを先にやればいいか、判断の輪郭がぼやけている。


 判断がぼやけていると、身体は“流れ”に頼る。

 流れは、いつもミオが作る。


 キッチンに入ると、ミオが振り返った。

 穏やかな顔。

 きのうと同じ声。


「おはよう」


 ユウは「うん」と返そうとして、喉の奥が引っかかった。

 出せないほどじゃない。

 出せる。

 でも、声の出方が“重い”。


 ミオはそれを気にした様子もなく、テーブルに皿を置く。

 音が柔らかい。

 皿と木の間に布が敷かれている。ミオはいつもそうする。

 整えることが好きだ。整っていることが、安心だ。


 パン。スープ。果物。

 量は多くない。

 ちょうどいい、と思う。

 ちょうどいい、と思えるのが不思議だった。身体が足りていないはずなのに、“足りない”という感覚が来ない。空腹の針が、どこかで止まっている。


 ユウは食べ始める。

 噛む。飲み込む。

 味は分かる。

 美味しい、も分かる。

 それなのに、食べるという行為が、身体の回路を通らずに処理されていく感じがする。自分が食べているのに、どこか別の人の映像を見ているような、薄い距離。


 ミオは向かいに座らない。

 立ったまま、ユウの皿を見て、スープを少し足す。

 動きに無駄がない。

 声も、距離も、触れ方も、いつも通りだ。


「大丈夫?」


 聞かれる。

 優しい声。

 心配しているようで、心配の深さは見せない声。


 ユウは頷く。

 頷ける理由があるわけではない。

 頷かない理由がない。


「大丈夫だよ」


 言ってしまう。

 言った後で、言ったことが自分の中でどこにも引っかからない。嘘をついた罪悪感がない。罪悪感がないことに驚く余裕もない。


 食べ終わる。

 満腹にもならない。空腹にもならない。

 ただ、食事が終わる。


 ミオが皿を下げる。

 水の音がする。泡が立つ。

 その音は、生活の音だ。

 生活の音がある限り、世界は壊れていないと思える。


 ユウは椅子から立ち上がろうとして、手を膝に置いた。

 その動作が、いつもより慎重になる。

 慎重になっている自覚はない。

 ただ、身体が自然にそうする。


 洗濯物を回す。

 ボタンを押す。

 洗剤を入れる。


 ――入れたよな。


 引き出しを開けて、洗剤の容器を見る。

 残量は減っているように見える。

 減っている、という確信がない。


 ユウはもう一度、洗剤の引き出しを開けた。

 洗剤が入っている。

 入っているのは“今”見える事実だ。

 さっき入れたかどうかは、証明できない。


 結局、少しだけ足した。

 足した量も、適量なのか分からない。

 多すぎても少なすぎても、どうでもいい気がする。

 どうでもいい、というより、どうでもいいと感じることで“判断のコスト”を払わずに済ませている。


 干す。

 洗濯物を持ち上げる。

 腕がだるい。

 だるいのに、だるさを「だるい」と言葉にする前に、身体が次の動作へ移っていく。


 ハンガーを取ろうとして、別のハンガーを掴んだ。

 違う、と気づく。

 戻す。

 また取る。

 今度は正しい。

 その小さな失敗に、感情が湧かない。


 以前なら、ほんの少し苛立ったかもしれない。

 苛立ちが湧かなければ、落ち込んだかもしれない。

 でも今は、どちらもない。

 失敗が失敗として残らず、ただ消える。


 消えるから、改善が起きない。

 改善が起きないから、同じ抜けが繰り返される。

 繰り返されると、それは“普通”になる。


 ミオが近くにいる。

 近くにいるのに、邪魔はしない。

 手伝いもしない。

 ただ、いる。

 その「いる」が、空気の密度を変えていく。


 ユウは、ミオが自分を見ているのを感じた。

 見張っているわけではない。

 確認しているわけでもない。

 ただ、視線がそこにある。

 視線があるだけで、ユウの行動は整う。

 整うことが、自分の意志なのか、視線の効果なのか、判断ができない。


 昼になったのかどうか分からない。

 カーテンの向こうの光の角度が少し変わっている気がする。

 気がする、で止まる。

 確かめようとしない。

 確かめるほどの意味がない。


 ミオが食事を用意する。

 また同じような量。

 同じような味。

 同じような手順。


 ユウは食べる。

 食べている途中で、箸が止まった。


 ――何を考えてた?


 自分に問いかけても、答えが出ない。

 箸が止まった理由が分からない。

 理由が分からないまま、箸を動かす。

 動かせるなら、それでいい。

 それでいい、と思えてしまう。


 ミオが「美味しい?」と聞く。

 ユウは頷く。

 頷いた後で、頷いたことを忘れそうになる。


 食事が終わる。

 また終わる。

 終わりが増えるほど、区切りが薄くなる。

 区切りが薄いと、次の行為が“侵入”してくる。


 ユウは自分の身体の状態を把握しようとした。

 胸の奥。腹の奥。喉の奥。

 どこかが痛いわけじゃない。

 ただ、全体が均等に重い。

 均等な重さは、対処ができない。

 対処ができない重さは、持つしかない。


 持っていると、慣れていく。

 慣れていくと、重さが“自分の一部”になる。

 自分の一部になった重さは、もう異常ではない。


 夕方。

 たぶん夕方。

 カーテンの色が少し沈んだ。

 沈んだ色を見て、ようやく時間の存在を思い出す。


 ミオが台所で包丁を使っている。

 一定のリズム。

 そのリズムが、ユウの呼吸を勝手に整える。

 整えられることが、少し怖い。

 怖いのに、その怖さも長続きしない。

 感情が立ち上がる前に、呼吸の方が先に整ってしまう。


「もうすぐできるよ」


 ミオが言う。

 ユウは頷く。

 返事が、体に染みついていく。

 返事をした後で、「自分は今、何に頷いた?」と考えない。


 考えないことは楽だ。

 楽だと感じることが、危ない。

 危ないと分かっても、その危なさを止める道具がない。


 食事。

 食後。

 薬。


 薬の瓶を開ける音が、いつもより大きく聞こえる。

 錠剤を手のひらに出す。

 白い粒が、皮膚の上で小さく滑る。

 その白さが、妙に“はっきり”している。


 水を口に含んで、飲み込む。

 喉を通る感触が少し重い。

 引っかかる。

 引っかかるのに、吐き出したくならない。


 ミオが見ている。

 見ていることが分かる。

 確認する視線ではない。

 でも、視線がある。


 ユウは「今日は休もう」という言葉を、頭の中で探した。

 探した。

 探したのに、どこにもない。


 休もう。

 誰に向けて言う?

 ミオに? 自分に?

 言ったところで、何が変わる?

 何かが変わるという確証がない。


 ユウは自分の身体を、証拠として使えない。

 痛みがない。

 熱がない。

 倒れていない。

 吐いていない。

 血も出ていない。

 だから“休むべき”と断言する根拠がない。


 根拠がないなら、休むのはただの気分になる。

 気分で生活を止めるのは、許されない気がする。

 誰に許されないのか分からない。

 自分かもしれないし、ミオかもしれないし、世界かもしれない。


 ミオが何も言わない。

 何も言わないから、ユウは「休もう」と言えない。

 言えないのではなく、言う理由が出てこない。

 理由が出てこないから、言葉が生まれない。

 言葉が生まれないから、選択肢が存在しない。


 その構造が、静かに完成していく。


 夜。

 照明が落とされる。

 暗さが来る。

 暗さが来ても、切り替わった実感がない。

 明るい部屋と暗い部屋が同じ濃度で繋がっていく。


 布団に入るまでの記憶が、ところどころ抜ける。

 歩いたはずなのに、歩いた感触がない。

 横になったはずなのに、横になった瞬間が分からない。


 分からないことが増える。

 増えるのに、焦らない。

 焦らないことが、いちばん怖い。


 ユウはノートを開いた。

 記録帳。

 日付を書く。

 ペン先が紙に触れる感触だけが、はっきりしている。

 そのはっきりさが、逆に不自然だった。

 紙の白さが、さっきの錠剤の白さと似ている。

 白いものが、やけに目につく。


 気分欄で手が止まった。

 良い。

 悪い。

 どちらも違う。


 少し疲れた。

 それも違う気がした。

 疲れたと言うほどの“理由”が書けない。

 理由が書けないなら、疲れたと書くのは不正確になる。

 不正確な言葉を書くのが、怖い。


 怖い、というほどの感情も立ち上がらない。

 ただ、ペンが止まる。


 理由欄を見る前に、視線を逸らした。

 最初から見ない。

 見ると、書かなければいけなくなる。

 書かなければいけないと感じることが、今の自分には重い。


 ユウは、気分欄に小さく線を引いた。

 丸でも、三角でもなく、ただの線。

 言葉ではなく、記号。

 記号なら、正確さを問われない。

 問われないことが、救いになる。


 ページを閉じる。

 閉じる動作が、早い。

 閉じた瞬間、何かを閉じ込めた気がした。

 閉じ込めたのは出来事ではなく、問いだった。


 布団に入る。

 体を横たえると、意識が落ちる。

 落ちる速度が早い。

 早いのに、眠りが深いかどうか分からない。


 暗さの中で、ミオの気配がする。

 その気配は、いつも通りの距離。

 いつも通りの温度。

 その“いつも通り”が、ユウの抵抗を溶かしていく。


 抵抗したいと思う前に、身体が受け入れる。

 受け入れた自分を責める前に、責める言葉が消える。


 次に意識が浮上したとき、朝だった。


 光がある。

 光があるから朝だと分かる。

 夜が終わった瞬間は持っていない。

 朝が始まった瞬間も持っていない。

 ただ、光が“そこにある”。


 身体は重い。

 きのうより少し重い。

 重いのに、異常だと言い切れない。

 言い切れないものは、放置される。

 放置された重さは、習慣になる。

 習慣になった重さは、やがて身体の一部になる。


 キッチンから音がする。

 ミオはもう起きている。


「よく眠れた?」


 声がする。

 ユウは少しだけ間を置いた。

 眠れたかどうかは分からない。

 眠ったことは分かる。

 けれど“眠り”を抱えて起きた感触がない。


 それでも頷く。

 頷かない理由がない。


 ユウは口を開けて、何か言おうとした。

「今日は休もう」

 その言葉を、言うべきだと、どこかで思った。


 けれど、言えなかった。

 言えないのではない。

 言う理由が見つからない。


 痛くない。

 熱もない。

 倒れていない。

 泣いてもいない。

 だから“休む”は、ただのわがままになってしまう気がする。


 その気がする、という感覚だけが残り、

 言葉が発生する前に消えた。


 ユウはベッドの上で、朝の光を見つめた。

 同じ角度の光。

 同じ場所に落ちる白い帯。


 その夜、ユウは「今日は休もう」という言葉を、一度も使わなかった。

 使わなかった理由を考えようとして、

 その理由を探すこと自体を、途中でやめてしまった。


この回は、「壊れる瞬間」ではなく、「壊れていく手続き」を書きました。

痛みも熱もないのに、確かに削れていく。断る理由が見つからないまま、言葉だけが先に減っていく。

ミオが優しいままでいることが、救いであり、同時に逃げ道を塞ぐ――その静かな矛盾を、ユウの身体感覚と記録の短さで追っています。


明日も同じ角度で光は差し込む。

その“同じ”が、いつから祈りではなく檻になったのか。

その答えだけが、ページの外に残ってしまいました。

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