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【祝3000PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第2章: ふたりだけの世界。

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32/32

第32話:やさしさの刃。

目を閉じているあいだに、

世界が少しずつ「正しい形」に整えられていく。

優しさは、いつも少しだけ遅れて刺さる。

――そんな夜の話です。


 目が覚めた瞬間、体の奥に“重し”があるのを感じた。

 砂袋を、薄く全身にかぶせられているような感覚。痛みじゃない。けれど、力を入れようとしても、筋肉が思った方向に動かない。自分の体じゃないみたいだ――そんな違和感が、まぶたの裏に残ったまま、朝が始まった。


 枕元の時計が、秒針をひとつ刻む。


 窓枠の影が、床の目地にぴたりとはまっていた。

 時間が“置き直されて”いる。昨夜の存在の痕は、もうどこにも残っていない。


 “カチ、カチ”という音が、いつもより近い。耳の奥で鳴っているようで、ひどくうるさい。


 喉が乾いていた。口の中の粘つきを押し出すように、舌を動かす。

 ベッドから起き上がって、キッチンへ向かう。

 コップを取って水を飲む。

 最初の一口に、わずかな金属の味が混じっていた。

 ステンレスの蛇口のせいか、あるいは――。

 すぐに「冷房の乾燥だろう」と自分で結論を出して、思考を止めた。


 リビングの白いテーブルには、すでに朝食が整っていた。

 パンは二枚。端がぴたりと揃い、皿の中心から少しもずれていない。

 その隣に置かれたナイフは、刃の角度が左右対称。

 バターの表面には、空気ひとつ入らない滑らかな膜が張っていて、光を鏡のように跳ね返していた。


 ミオは、もうエプロンを外していた。

 肩にかかった髪が、朝の光を受けて静かに透けている。

 振り返ると、柔らかい声で言った。


 「今日は、よく眠れた?」


 問いというより、“正解を誘導する”ような言い方だった。

 少しだけ首をかしげて、答えを待つ姿勢。

 その表情があまりにも穏やかで、「うん」と頷く以外の選択肢が見つからなかった。


 「よかった。顔色もいいし、安心した」


 彼女の声は、いつもより高く、やけに弾んでいた。

 小鳥の鳴き声と重なるようなリズムで、リビングの白を満たしていく。


 パンを口に運ぶ。

 焼き目が完璧だった。外は硬すぎず、中はふわりと温かい。

 けれど、味が薄かった。

 何を食べているのか、舌が覚えようとしない。


 「寝違えたかな」

 自分に言い訳のように呟く。

 肩を軽く回すと、関節の奥に、鈍い鈍痛が広がった。

 でも、それを“疲労”と呼ぶには、どこか違う気がした。


 ミオはすぐに気づき、振り返る。

 「冷房つけっぱなしにしてたからね。風、強かったかも」


 笑いながら、彼女はテーブルクロスの端を指で整えた。

 皺を伸ばす指の動きは、まるで“形を戻す儀式”のように慎重だった。

 正しさを撫でるように。


 「今日はゆっくりしよっか。無理しないでね」


 その声を聞いた瞬間、体の奥で何かが沈黙した。

 安心したはずなのに、重さは消えなかった。

 むしろ、言葉の優しさが重りを増やしていくようだった。


 からだが、使い慣れない道具になったみたいだ。

 持て余す。けれど、痛いわけじゃない。

 だから、何も言えない。


 窓の外では、光が白く反射していた。

 ガラスに映るふたりの姿も、どこか平面だった。

 きれいに整った朝。

 整いすぎていて、少しだけ怖かった。


 ♢


 昼の光が、街全体を消毒しているように見えた。

 どの店の看板も白く反射していて、輪郭が溶ける。

 歩道のブロックには影がほとんどなく、ただ光の粒だけが舞っていた。


 病院の自動ドアが開く。

 空気の層が変わったのを、肌が覚えている。

 ミオはいつも通り、会計カウンターの前で一歩先に立った。

 財布のファスナーを開ける音。診察券、受給者証、処方箋。

 その動作の流れが、まるで水のように途切れない。


 「今日も、早く終わってよかったね」


 彼女がそう言うときの笑顔は、見慣れた形だった。

 けれど、その形の中で――目の奥の温度と、口角の位置が少しだけ合っていない気がした。

 表情の上で、どこかがほんの少しズレている。

 それでも僕は、それを“安定”と呼ぶほかなくて、頷く。


 改札のICタッチも、エレベータのボタンも、彼女の指先は迷わない。

 混雑した廊下でも、人と肩が触れないように自然に間を取る。

 僕の歩幅に合わせて足音を刻むテンポは、いつもとまったく同じ。

 ただ、完璧すぎる。


 手順というものには、練習の痕跡がある。

 彼女の動きには、その痕跡が見えなかった。

 それが逆に、怖かった。


 横断歩道の電子音が鳴る。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 その一定のリズムが、支援センターのチャイムを思い出させた。

 あの頃も、あの音で一日の区切りが決まっていた。

 止まって、歩いて、また止まる。

 正しいテンポで生きることだけが、安心だった。


 音が鳴る前に、彼女の足が半歩だけ先に出る。

 合図より早い合図。練習でしか身につかないタイミングだと思った。


 「歩く速さ、合わせようね」


 ミオがそう言って、微笑む。

 彼女の手が一瞬、僕の袖口を軽く引いた。

 その仕草が、まるで僕を世界に繋ぎとめる紐のように感じた。


 「……うん」


 返事をすると、ミオは嬉しそうに目を細めた。

 それだけで、胸の奥のだるさが少しだけ和らぐ。

 でも、歩き続けるうちに――また重さが戻ってきた。


 太ももの裏が、わずかに張っている。

 歩幅を変えるたび、筋肉が伸びたり縮んだりする感覚がいつもより鮮明だった。

 使った後のような疲れ方。

 寝違えでも、筋肉痛でもない、説明できない違和感。


 「大丈夫? 顔、少し赤いよ」


 彼女が心配そうに覗き込む。

 その声のやわらかさが、少しだけ遅れて胸に届く。

 まるで“予定通り”の優しさみたいに、完璧だった。


 「うん、大丈夫。ちょっと日差しが強いだけ」


 僕がそう言うと、ミオは満足したように頷いた。

 手にした日傘を開き、僕の方へ角度を調整する。

 日傘の白い布地の下は、まるで結界みたいに静かだった。

 外の光も音も、少し遠のく。

 僕らだけが、白の中で呼吸していた。


 歩道の端を、二人分の影が並んで進んでいく。

 その影の動きまで、奇妙に一致していた。

 まるで、あらかじめ型を作っておいたみたいに。


 僕はミオの横顔を見た。

 彼女の睫毛が、白い光の粒を受けて微かに光っている。

 風が吹くたび、髪の先が頬に触れる。

 それなのに、彼女はまったく乱れなかった。


 整いすぎた姿。

 完璧な優しさ。

 それは安心のはずなのに、どうしてだろう。

 胸の奥が、すこし息苦しい。


 彼女のやさしさには、段取りがある。

 段取りは正しい。

 正しさは、いつも少し息苦しい。


 歩道の先で信号が変わる。

 青になっても、赤になっても、歩き出すタイミングは彼女が決めていた。

 僕はただ、それに合わせて歩いた。


 呼吸を合わせるように、足音を揃える。

 そのたび、僕の中の“わずかなズレ”が消えていく。

 それが、どうしようもなく気持ちよかった。

 だから僕は、疑うことをやめた。



 ♢


 一日目


 朝の光は、いつもと同じ角度で差し込んでいた。

 だけど、体の奥に、ゆるい熱がこもっていた。

 微熱のような、けれど体温計を当てても数字にはならない重さ。

 指を握るたび、皮膚が自分のものじゃないみたいに鈍い。


 「よく眠れてたね」

 ミオが笑って言った。

 トーストの焼き目が、昨日と同じ色。

 ナイフの刃先が、昨日と同じ角度。

 彼女の声は、昨日と同じ高さ。


 僕は「うん」と頷いて、水を飲む。

 金属の味は、まだ少し残っていた。


 ミオは機嫌がよく、よく笑った。

 笑うたび、首筋のあたりがほんの少し痛んだ。

 でも、それを口に出す理由が見つからなかった。

 彼女の“ご機嫌”を壊すのが、いけないことのように思えたから。




 二日目


 朝の光は、昨日と同じ角度で差し込んでいた。

 同じ時間、同じ音、同じ温度。

 でも、首のあたりが少し重かった。

 寝違えたのかと思った。そう思うことにした。


 ミオは、シーツの端を整えていた。

 動きはいつもより丁寧だった。

 シーツを一度持ち上げて、空気を含ませてから、

 真っすぐに引く。

 手の甲の角度が、正確すぎて、まるで儀式を見ているようだった。


 「昨日より眠れてたみたいだね」


 その言葉に、ぼくは何も返せなかった。

 “昨日より”という言い方が、時間の区切りを曖昧にした。

 昨日と今日が、きちんと分かれていない気がした。


 テーブルの上のパンは、同じ焼き目。

 同じ位置にバターの光。

 ナイフの角度まで、昨日と寸分違わない。


 ミオは笑って言う。

 「こうしてちゃんと朝を迎えられると、ほっとするね」


 その“ちゃんと”という言葉が、耳に引っかかった。

 何が“ちゃんと”なのか、ぼくには分からない。

 けれど、彼女は分かっているように見えた。




 三日目


 朝の光は、今日も同じ角度で差し込んでいた。

 まぶしさの度合いまで、昨日と同じ。

 でも、体は違っていた。


 脛の内側に、筋肉痛のような痛みが残っている。

 伸ばすと、筋が少しだけ引き攣る。

 走ったわけでも、重いものを持ったわけでもないのに。


 指先に、微かに消毒液の匂いが残っていた。

 嗅ぎ分けられるはずのない薄さなのに、体だけが先に思い出す。

 匂いの名前よりも、順序の名前で記憶しているみたいだった。

 嗅いだ瞬間、頭の奥で何かがひやりとする。

 どこで嗅いだのか、思い出せない。

 けれど、確かに“何かを消した後”の匂いだった。


 「ねえ、ユウ。今日もよく眠れてたね」

 ミオが微笑む。

 笑顔はやさしい。

 けれど、その“やさしさ”が一秒長く続きすぎた。


 彼女はパンを焼き、皿を並べ、コップを揃える。

 その一連の動作が、完全に昨日と同じ。

 同じ手順を、同じ角度でなぞるように。

 そして、同じ言葉をくれる。


 「ちゃんと、眠れてるね」


 僕は、頷いた。

 でも、その頷きの中に“自分”がいない気がした。

 確かに眠っているのに、

 起きるたびに、別の体に入れ替わっているみたいだった。




 窓の外の景色も、音も、

 三日間、何ひとつ変わっていなかった。


 鳥の鳴き声。

 冷蔵庫のモーター音。

 テーブルの上の光の反射。

 ミオの笑顔。


 それらが、すべて同じ“角度”を保ったまま、

 ひとつの映像のように繰り返される。


 朝という名前の再生。

 再生されるたび、ぼくの体は少しずつ軽くなり、

 代わりに、内側だけが重くなっていく。


 今日が今日である確信が、少しずつ薄れていった。

 まるで、世界そのものが“ループ”を正義として動いているようだった。


 ♢


 夜の重さは、布団の重さとよく似ている。

 そのどちらも、最初は安心をくれるのに、長く身を委ねるほど、内側に沈んでいく。


 ランプの光は弱く、天井の一点を淡く染めていた。

 光の範囲が、息をするたびに少しずつ広がったり縮んだりしている。

 まるで部屋そのものが呼吸しているみたいだった。


 体を横たえると、布団の重みが背中に馴染む。

 それは“記憶の重さ”のようでもあった。

 この重みを、僕はもう何度も抱いてきた気がする。

 どれも同じ夜の形をしていて、どれも少しずつ違っていた。


 目を閉じる。

 まぶたの裏に、静けさの粒が降り積もっていく。

 鼓動がひとつ遅れるたび、遠くで何かが沈む音がした。

 眠りに落ちるというより、薄い膜の下に潜り込むような感覚。

 その膜は冷たくて、破れやすい。


 夢なのに、音が小さすぎる。

 静かさが、耳の裏側から押してくる。

 まるで“外の音”が、部屋の外で立ち止まっているみたいだった。


 ――そのとき。


 額に、冷たいものが触れた。

 氷嚢のようにひやりとした感触。

 けれど、重さが違う。

 それは液体を包むものではなく、血の通った“冷たさ”だった。

 静脈の細い流れが、皮膚を通して伝わってくる。


 その冷たさが、ゆっくりと動く。

 額からこめかみ、頬へ。

 指の腹が、体温の境界を確かめるように撫でていく。

 痛みはない。

 けれど、“位置”を定められていく感覚があった。


 肩と腰。

 見えない何かに、そっと押さえられている。

 動かそうとすれば動くはずなのに、動かす理由が思いつかない。

 まるで身体の配置が、別の手によって“正しい場所”に戻されていくようだった。


 呼吸が、重なる。

 すぐ近くで、誰かが息をしている。

 甘い匂いはしなかった。

 漂っていたのは、消毒液と洗剤の薄い残り香。

 どちらも、生活の匂いのはずなのに、この夜の中では異様に冷たかった。


 音がない。

 沈黙が、皮膚の下に潜り込んでくる。

 心臓の鼓動だけが、部屋の形を保っている。


 ――目を開けようと思った。

 でも、まぶたの裏側で光が明滅するだけだった。

 開く直前で、何かに戻される。

 それを何度も繰り返した。

 ひらく/戻る/ひらく/戻る。

 まぶたの裏がメトロノームになる。僕の意志は、拍ではなかった。

 起きるでもなく、眠るでもなく、ただ“見ない”ことを強制されるみたいに。


 世界の輪郭が曖昧になる。

 音も、匂いも、触れた感覚も、すべてが“途中”のまま揺れていた。

 夢と呼ぶには生々しく、現実と呼ぶには静かすぎた。


 喉が少し乾く。

 けれど、唇は濡れている気がした。

 その濡れた理由だけが、どうしても思い出せなかった。


 ♢


 午後の光は、いつもより白かった。

 朝とは違う種類の白。

 少し濁っていて、どこかよそよそしい。

 その光が机の上のカップを照らしていた。


 カップの縁に、指の跡があった。

 輪になっているわけじゃない。

 布で一度拭われたような、薄い擦れ跡。

 乾いた線が、光を細く反射していた。


 僕はその跡を指でなぞる。

 カップの表面は冷たく、滑らかだった。

 けれど、その線の上だけが、少しだけざらついていた。


 拭ったのではなく、拭い直した手触りだった。

 最初の跡を消して、正しい跡に置き換えるやり方。



 ――僕じゃない。

 そう思うまでに、少し時間がかかった。

 自分が触れた記憶を探したけれど、思い出の中にこの“拭われ方”はなかった。


 ミオが気づいたように、後ろから声をかけた。

 「ねえ、午後の薬、ちゃんと飲んだ?」

 振り返ると、彼女はいつも通りだった。

 柔らかい声。淡い笑顔。

 窓際の光を背に受けて、白い輪郭だけが浮かんでいる。


 机の上には、ピルケースが置かれていた。

 ふたの向きも、ケースの位置も、テーブルの線とぴたりと合っている。

 まるで写真の中の配置みたいだった。

 乱れた形が存在しない。

 正しすぎて、かえって現実感が薄れる。


 洗面所に行くと、タオルが昨日と違う畳み方をしていた。

 昨日までは、端が手前を向いていた。

 今日は奥。

 小さなことだ。

 けれど、その「小さなこと」に、心臓がわずかに跳ねた。


 ミオの畳み方だ。

 彼女はいつも、端を奥に隠す。

 “見える部分はきれいであるべき”という癖。


 ――つまり、このタオルは彼女が触った。

 けれど、僕はそれを“今朝”ではなく、“いつ”のことか思い出せない。

 この部屋の時間が、少しずつ曖昧になっていく。


 部屋に戻ると、机の上の空気がわずかに変わっていた。

 風も入っていないのに、何かが動いたような気配。

 ピルケースの隣に置いたはずのノートのページが、少しずれていた。

 ほんの一枚、開いた跡。


 ページの隙間に、別の紙の影が見えた。

 白い紙。

 折り目がない。

 表紙よりも新しい質感。


 それを指で引き抜こうとして、やめた。

 やめたのに、胸の奥ではもう答えを知っていた。

 ――ミオのノートだ。


 いつからここにあったのか、思い出せない。

 “置かれた”のか、“置かせた”のか。

 その違いを考えるほど、思考が鈍くなっていく。


 午後の光が、また少し濁った。

 外の世界の音が遠のく。

 耳の奥に、時計の音だけが残る。


 カチ、カチ。

 音の一つひとつが、机の上のものの位置を確かめるように鳴っていた。


 ミオが台所から声をかける。

 「ねえ、ユウ、紅茶でいい?」

 いつも通りの声。

 温度も、響きも、何も変わらない。


 でも、その“何も変わらない”という事実が、

 何よりも恐ろしかった。


 ぼくの一日には、ぼくの知らない“整える手”が混ざっている。


 気づいた瞬間、体の奥で小さく音がした。

 それは、壊れる音ではなく――

 静かに“慣れていく”音だった。


 ♢


 ミオが風呂に入っているあいだ、部屋の中が急に静かになった。

 湯の流れる音が、壁越しに低く響いている。

 その音が、まるで“外の世界”みたいに遠く感じた。

 この部屋の空気だけ、時間が止まっているようだった。


 机の上に、透明のファイルが置かれていた。

 いつもなら、きっちり棚に戻してあるはずのもの。

 光の角度で、中の紙の縁が薄く光っている。


 見なければいい。

 けれど、目が勝手にそこを向いた。


 ファイルの中には、トレーシングペーパーが挟まっていた。

 半透明のその向こうに、青い方眼のノートが見える。

 罫線が光を吸って、薄く揺れていた。


 指先が勝手に動いた。

 ビニールの擦れる音が、部屋に広がる。

 紙の手触りが、妙に現実的だった。

 ノートの背をなぞると、少しだけ温かい。

 まるで誰かの手の跡が、まだそこに残っているみたいだった。


 表紙をゆっくり開く。


 最初の見開きには、日付と数字が整列していた。

 黒ペンで細かく、きっちりと。

 「6月28日(火) 気温26.2℃/湿度59%」

 その下に「就寝 0:41/起床 6:52」と書かれている。

 字の間隔は均等で、罫線の中央をぴったりと踏んでいる。

 まるで機械が書いたみたいに、正確だった。


 ページをめくる。

 紙の擦れる音が、やけに重く聞こえた。


 次のページ。

 黒い文字が、整然と並んでいた。


 「深夜 1:42 今日は呼吸ゆっくり。合わせられた」

 「深夜 2:10 ちゃんとできた」

 「深夜 2:28 今夜も中にいる」

 「翌 3:05 体温が戻るのを待つ」

 「翌 5:50 洗濯(短縮コース)」

 「朝 だるいって言った。きっと大丈夫」


 淡々とした筆跡。

 抑揚がないのに、どの文字にも“意図”があった。

 「呼吸」「できた」「中」「戻る」――

 どれも単語としては無害なのに、

 並べられると、まるで“儀式の記録”に見えた。


 ページの右下には、小さな朱の印が押されていた。

 丸い印影が、薄く紙に滲んでいる。

 その印の上には、小さく「管理良好」と書かれていた。

 まるで自分で自分の祈りに判を押したようだった。


 ページの余白には、鉛筆の細い丸印が三つ並んでいた。

 「◎ずれなかった」

 「◎きれいにできた」

 「◎静かだった」


 その並びがあまりにも丁寧で、

 僕は息をするのを忘れた。


 視界が少し揺れた。

 光がにじみ、ノートの罫線が波打つ。

 そこに書かれていることは、

 祈りじゃない。


 祈りみたいに整った、事実だ。


 指の腹で紙を押さえると、

 薄く沈んでいたインクの跡が指に伝わる。

 それは、もう乾いているのに、まだ温度を持っていた。


 風呂場の方から、水の流れる音がした。

 その音が、現実を思い出させた。

 僕はノートを閉じた。

 けれど、閉じた拍子に、最後のページが一瞬だけ開いた。


 ――朱の印が並んでいた。

 まるで祝福のように。

 まるで、終わりのない“合格”の記録みたいに。


 視界の端で、ドアの蝶番が軋んだ。

 浴室の湯気が、廊下を伝ってこちらに近づいてくる。


 舌の縁に、うすい金属の味が戻ってきた。

 文字にも温度があると、初めて知る。


 僕はノートを戻した。

 何事もなかったように。

 けれど、手のひらの感覚だけが、ずっと残っていた。

 紙の温度。

 インクの重さ。

 そして、“できた”という言葉の響き。


 ――僕は知っている。

 でも、知らないふりをしている。


 ♢


 ノートを閉じたあと、僕は机の角とぴったり揃えて戻した。

 位置がずれてはいけない気がした。

 もし斜めになっていたら、この部屋全体が傾いてしまいそうだった。


 表紙の端を指先で押さえ、角の影が机の木目と一致するのを確かめる。

 完璧に揃った。

 その瞬間、息が浅くなった。

 整うことが、なぜか怖かった。


 椅子を静かに引き、音を立てないように立ち上がる。

 カーペットの上を歩くと、毛の方向が逆立って足の裏に違う感触を残す。

 その違いすら、誰かに見られているように感じた。


 廊下に出る。

 壁の白が、夜の光で少しだけ青く見えた。

 影が浅い。

 闇なのに、どこにも深さがない。

 白い影が床に溶けて、輪郭が消えていく。

 世界が、明るすぎる夢の中みたいだった。


 風呂場の方から、水滴の音が聞こえた。

 “ポトン、ポトン”――

 そのリズムが、さっきノートで見た時刻の数字に似ている気がした。

 1:42、2:10、2:28――

 滴の間隔が、まるで記録の再生みたいに正確だった。


 僕の中で何かが静かに軋んだ。

 音を立てないように息を止める。

 体が、まだ“知らないふり”の姿勢を保っている。


 ドアがわずかに開く。

 湯気が流れ出て、廊下の白い光と混ざった。

 その中から、ミオが現れた。


 滴は落ちない。彼女は水を音にしない方法を知っている。

 音がないやり方は、きれいだ。きれいなやり方は、怖い。


 パジャマの袖が、手首を包み込んでいる。

 髪はタオルで軽く挟まれていて、水を吸う音もしない。

 その静かさの中に、彼女の動作だけが淡く浮かんでいた。


 ミオは立ち止まり、僕を見る。

 何も言わない。

 ただ、いつも通りの笑みを浮かべていた。

 目の形も、口角の角度も、昨日とまったく同じ。

 整いすぎていて、そこに“偶然”が一滴もなかった。


 僕は喉の奥で言葉を探した。

 けれど、どの言葉を選んでも“遅い”ことを知っていた。

 遅れる前から、もう結果が決まっているような遅さだった。


 ミオの視線が、僕の胸のあたりで止まる。

 その動きも柔らかく、呼吸のように自然だった。

 湯気がゆっくりと昇っていく。

 その中に、彼女の輪郭が薄れていく。


 たぶん、僕はもう知っている。

 知らないふりを、やめるだけだ。


 ミオの唇が、ほんの少しだけ動いた。

 でも、音は出なかった。

 その無音の口の形だけで、僕の体は反応していた。


 胸の奥で、何かが“合う”音がした。

 それは、許しの音にも、終わりの音にも聞こえた。


 僕は息を吐いた。

 その吐息の温度が、廊下の白をほんの一瞬だけ曇らせた。


 そして、ミオは微笑んだまま――

 ゆっくりと、僕の方へ歩き出した。


 ♢


 ふくらはぎの内側で、うすく遅れて脈が打つ。

 その一拍が、現実の合図のように響いた。


 部屋は暗くもなく、明るくもなかった。

 ランプの光が、白い壁の上で小さく呼吸している。

 カーテンの向こうの夜は、音を持たないまま止まっていた。


 ミオが一歩、近づいた。


 消毒と洗剤のごく薄い匂いが、衣の繊維からほどけてきた。昼間より薄いのに、確かだった。


 床板が、きしむほどでもない。

 ただ空気がわずかに押し出されて、僕の喉の奥で形を変えた。

 熱が上に逃げていく。


 ベッドの前。

 彼女との距離は、もう測れなかった。

 光と影の境が、ちょうど二人の間に落ちている。

 その境を越えたのが、どちらだったのか分からない。


 ミオは立ち止まったまま、僕を見ていた。

 視線はまっすぐ。

 けれど、何かを“問う”目ではなかった。

 「ノート、見たの?」とは言わない。

 代わりに、まぶたの動きと呼吸のリズムで、答えを確かめる。


 その視線の中には、

 言葉の代わりに“了解”の気配があった。

 問いも、説明も、もういらないという確信。

 すべてが整った儀式の後の、静かな確認。


 僕は息を吸い、吐く。

 それだけで、体の奥の音が変わる。

 喉の裏で、言葉が生まれかけて、溶けた。


 「……今夜は、眠れるかな」


 自分の声が、思っていたよりも小さかった。

 それでも、部屋の空気を割るには十分だった。


 ミオはその言葉を聞くと、

 ほんの一瞬だけ目を細めた。

 頬に柔らかい影が落ちる。

 その影が、ゆっくりと笑みに変わる。


 光の中で、唇がわずかに動いた。

 彼女の声は、空気を傷つけないほどの優しさで――


 「……あは、バレちゃった」


 その声は、甘くて、どこまでも優しかった。


 優しさの形をした刃が、音もなく、世界の中心を切り裂いた。


 夜が、また静かになった。


優しさに溺れた夜は、痛みよりも静かでした。

わたしは昔、自分の身体を“触れられることでしか確かめられなかった”人間でした。

愛してほしいのに、愛されるほど壊れていく。

それでも、やめられなかった。

あの「正しさに似た優しさ」が、いちばん深く侵してくれたから。


だから書きました。

これはただの創作じゃない。

“治らなかった自分”の記録の延長です。


もし、読んだあとであなたの中に小さな違和感が残ったなら――

それはきっと、まだ誰かの手があなたを「整えようとしている」証拠です。

その違和感が、わたしにとっての“救い”でした。

感想やブックマーク、評価をもらえたら嬉しいです。

きっとまた、次の夜も書けるから。


霜月ルイ

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