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【祝3000PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第2章: ふたりだけの世界。

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30/32

第30話: 安定という、赦し。

病院へ行く日。

それは、外に出るための行動ではなく、日常の“正しさ”を確認する儀式のようなものだった。

この話では、そんな一日の静かな行程を描いています。


 朝の光は、まだやわらかく、白かった。

 カーテンの隙間から差し込むその光は、どこか消毒液のように澄みすぎていて、部屋の中のすべての輪郭を少しだけ淡くしていた。


 ミオは、テーブルの上でひとつずつ書類を整えていた。

 保険証、診察券、受給者証、自立支援医療の申請書、交通費のメモ。

 どの紙にも小さな朱の印が押されていて、その赤が白い朝の中で、かすかに息をしているように見えた。


 紙を重ねるたびに、わずかな摩擦音が立つ。

 “シャッ”という音が、静かな部屋に吸い込まれていく。

 その一枚一枚が、まるで祈りの札のように感じられた。


 テーブルの上には、昨日使い終えた体温計と、小さな薬袋がひとつ。

 どちらも、もう一度使うために磨かれたようにきれいだった。

 “生活”というより、“管理”に近い整い方。

 けれど、それが心地よかった。

 正しさの形に寄り添うことで、ようやく呼吸ができる――

 そんな錯覚が、ここでは“安心”と呼ばれていた。



 ミオの指先は、ほとんど迷いがなかった。

 角をそろえ、ずれを確かめ、ファイルの透明なポケットに滑らせる。

 動きがすべて一定で、正確すぎて、まるで呼吸のリズムのようだった。


「これで、全部かな」

 小さくつぶやいた声も、書類と同じように整っていた。


 僕は椅子に座ったまま、その光景を見ていた。

 正確さって、どうしてこんなに安心するんだろう――そんなことを、ぼんやりと考えていた。


 彼女の手元に積まれた紙の束を見ながら、胸の奥で小さく思う。


「この印があれば、今日も正しくいられる気がした」


 朱の色は、どこかあたたかく見えるのに、触れるのが怖かった。

 もしその赤が滲んだら、正しさまで崩れてしまいそうで。


 キッチンの時計が、針をひとつだけ進める。

 金属音のような短い音が鳴り、ミオが顔を上げる。


「そろそろ、行こうか」


 その声は、小さな合図のようだった。

 宗教で言うところの“始まりの鈴”に近い響き。

 思わず、僕も姿勢を正した。


 靴箱の上には、前の夜にそろえておいたスニーカー。

 白くて、少しだけ磨かれている。

 ミオは自分の靴を履く前に、僕の靴の向きを確認してから、そっと並べ直した。


「これで、きれいに出られるね」


 “出る”という言葉が、なぜか“清められる”と同じ音に聞こえた。


 玄関の外から差し込む光は、部屋の光よりもさらに白い。

 ドアノブに触れたミオの手が、その光を一瞬だけ遮る。

 そして、静かに扉を開く。


 姿見の前で、マスクの位置をそっと直す。

 鼻梁の金具を軽く押さえると、布の白が顔に馴染んだ。

 ミオも同じ動作をして、僕と視線が合う。

 鏡の向こうで並ぶ二人は、どこか“標準仕様”に近づいたみたいだった。

 決まった型に収まると、心の余白が一段落ち着く。

 準備は儀式で、儀式は呼吸の手すり――そう思えた。


 冷たい空気が足元に流れ込んできた。

 それは、まるで外の世界が“点呼”を取っているみたいだった。


 僕は靴を履き、ミオの背中を見た。

 彼女の髪が光を透かして、薄い金色の縁を帯びている。


 ――行こう。

 その一言に、反論も疑問もなかった。


 ドアが閉まる音。

 鍵がかかる音。

 世界が一度、区切られた。


 僕たちは“正しさ”の外へ、ゆっくりと足を踏み出した。


 ♢


 外に出ると、世界はもうすでに“光”のかたちをしていた。


 アスファルトは昨夜の雨を少しだけ残していて、

 雲の切れ間から射し込む朝の光を、鏡みたいに跳ね返していた。

 その眩しさは、どこか白衣の色に似ていた。


 ミオは日傘を持っていたけれど、開かなかった。

 ただ、手に提げたまま、歩幅を確かめるように一歩ずつ進んでいく。

 その歩き方には、目的地よりも“手順”のほうが大事だというような落ち着きがあった。


 通院の道は、もう何度も歩いたはずなのに、

 今日の風景は、どこか“検査されている”ように感じた。

 白い壁。白い横断歩道。白い建物。

 どれも似たような角度で立っていて、

 まるで世界全体が、僕たちの“正しさ”を映すように配置されている気がした。


 ミオがふと振り返って、微笑む。

「歩く速さ、合わせようね」


 その声が、アスファルトの照り返しに溶けていく。

 僕は少し歩幅を広げ、彼女の横に並んだ。

 靴の底が同じリズムで地面を叩く。

 カン、カン――と、ほとんど機械のような均一さ。


 信号機の電子音が鳴る。

 ピッ、ピッ、ピッ――。

 その音が、“支援センターのチャイム”に似ていた。

 思わず、一瞬、胸の奥がざらつく。

 でもすぐに、それも安心に変わっていった。

 同じ音が、同じ順序で鳴ること。

 それは、“生きることに迷いがない”という合図みたいだった。


 公園の砂場では、子どもがシャベルで小さな山をつくっていた。

 笑い声が空に向かってほどけるが、ここまで届くころには輪郭を失っている。

 僕はその無音の笑いを眺めながら、自分の靴紐を一度だけ確かめた。

 ほどけていない。

 結ばれている――ただそれだけで、今日を歩ける気がした。


「ずれないで歩けると、安心するね」


 ミオの言葉に、僕は「うん」とだけ答える。

 その“うん”の呼吸にさえ、合わせようとする自分がいた。

 足音、歩幅、呼吸――どれも少しずつ重なっていく。

 重なるたび、胸の奥のノイズが減っていく。


 風が頬を撫でる。


 それを壊さないように歩く――ただ、それだけが僕たちの“役目”のように思えた。


 街路樹の葉が、ほとんど音を立てない。

 車のエンジン音さえ遠く、

 この道だけが、まるでガラスで覆われた通路のように静かだった。


 交差点を渡るとき、ミオの影が僕の影と重なる。

 影の縁が完全に合った瞬間、なぜか呼吸が深くなった。

 ほんの少しだけ彼女の肩が僕の腕に触れて、

 その触れ方までもが“意図された偶然”みたいに思えた。


 彼女は、ただ前を見つめていた。

 病院の白い建物が、もう遠くに見えている。

 でも、そこへ向かっているというよりも――

 まるで“導かれている”ような感覚だった。


 足音が揃うたびに、思考が静まっていく。

 考えるより先に、体が“正しい位置”を覚えていく。

 まるで呼吸そのものが、訓練された行動の一部になっているみたいだった。


 僕は無意識に、彼女の呼吸に合わせて吸い、吐いた。

 空気の温度まで、同じになっていく気がする。


 そのとき――ふと、思った。


 僕たちは歩いているんじゃない。

 きっと、同じリズムを確認しているんだ。


 この足音が、僕たちの“生活音”であり、

 この呼吸が、僕たちの“祈りの拍”なんだ。


 白い建物の並ぶ街路を抜けるころには、

 僕の中の“外”という感覚は、もうほとんど消えていた。

 病院の前に立っても、どこかで思った。


 ――ここも、きっと、僕たちの世界の延長なんだ。


 ♢


 病院の自動ドアが、ゆっくりと開いた。

 空気がひとつ、入れ替わる。


 中は、白かった。

 壁も、床も、天井も、同じ白。

 色の濃淡さえも、均等に整えられていて、

 まるで「清潔」という言葉そのものが形になったみたいだった。


 受付で番号札を受け取り、待合の椅子に腰を下ろす。

 隣にはミオが座っていて、手に持った透明のファイルを膝の上にそっと置いた。

 中の紙が光を反射して、淡い虹のような輪を作っていた。


 テレビでは、健康番組の音声が流れていたが、誰も見ていなかった。

 人の声があるのに、どこか“無音”のように感じる。

 順番を呼ばれる電子音だけが、機械的に空間を刻んでいく。


 受付の脇に、透明な採尿コップの箱が積まれている。

 薄いビニールの匂いと、紙の乾いた匂い。

 箱の側面には黒いマジックで“在庫〇”と数字が記され、一本線で律儀に消されていた。

 物の数え方が丁寧な場所は、人の数え方も丁寧だ――そんな連想が静かに落ちる。

 僕は膝の上の番号札を指先でなぞり、角が丸いことに安心した。


「綴木さん、どうぞ」


 呼ばれた声が、少し遠くから届いた。


 待合室の壁に貼られたポスターのひとつに目が止まった。

 〈心を整えることは、暮らしを整えること〉と書かれていた。

 優しい書体。薄い青の背景。

 それが、まるで神託のように感じられた。

 “整える”という言葉の中に、“支配されたい”という願いが含まれていることを――

 このときの僕は、まだ知らなかった。


 僕は立ち上がり、ミオと並んで診察室へ向かう。

 ドアを開けると、そこもまた、白い。


 机の上にはモニターが一台。

 医師は眼鏡をかけ、画面を見つめたまま、抑揚のない声で言った。


「最近の睡眠は、どうですか?」


 僕が言葉を探すより先に、ミオが答える。

「安定しています。夜もちゃんと眠れています」


 医師は短く頷き、指をキーボードに走らせる。

 カタ、カタ、カタ――。

 打ち込まれる音が、鈴の音のように澄んでいた。

 文字がモニターに並ぶたび、診察室の空気がひとつずつ整列していく。


「食欲は?」

「あります。朝も、ちゃんと食べられています」


 ミオの声は、まるで報告というより“朗読”だった。

 定められた文を、正確に読み上げていくような落ち着いた調子。

 その声を聞きながら、僕はただ頷くだけだった。


 ミオは小さなメモ帳を開いて、睡眠の時刻と中途覚醒の印を医師に見せる。

 丸と棒だけで一週間が並ぶ簡単な図。

 単純な記号なのに、そこに僕の夜の温度が確かに残っていた。

 言葉にしなくても、示せる事実がある――

 そう思うと、喉の奥で硬かった何かが少しだけ溶けた。


「眠前、用量を少し戻す選択肢もありますが」

 ミオが即座に首を横に振る。「現状が最適です」

 相談の余白が空中で音もなく閉じ、胸の奥に薄い冷えが沈んだ。


 医師はまた画面に視線を戻し、短く言葉を落とす。


「安定していますね。良い傾向です」


 その“安定”という言葉が、僕には赦しに聞こえた。

 まるで神父が罪を赦すときのような、静かで決定的な響き。

 たったそれだけで、胸の奥が少し温かくなった。


 キーボードの音が再び鳴る。

 そのリズムは、まるで祈りの拍のように一定だった。

 打たれた文字の並びが、カルテの上で祈祷文に見えてくる。


 “服薬遵守良好”

 “情動安定傾向”

 “支援関係良好”


 その三行が画面に並んだ瞬間、

 僕の中で、何かが確かに“救われた”。


 白い部屋。

 白い光。

 白い言葉。


 すべてが同じ温度で、静かにひとつに融けていく。


 医師は処方箋をプリントし、紙を差し出した。

 その白も、同じ白だった。

「では、また一週間後に」


 それは、まるで“また来なさい”ではなく――

 “また祈りを続けなさい”と言われたように聞こえた。


 僕は小さく会釈して、ミオの背中を追う。

 ドアの向こうに出ると、廊下の空気がすこしだけ柔らかく感じた。

 診察室の中では呼吸の仕方まで整えられていたことに、ようやく気づく。


 ――あの白は、外の世界よりも、ずっと静かで、ずっと正しかった。


 会計窓口の上で、赤い数字が順番に切り替わる。

 電子音が一度だけ短く鳴り、財布から硬貨を三枚。

 受け皿のプラスチックに触れた金属の円が、控えめに澄んだ音を立てる。

 レシートの端に小さく打たれた時刻。

 その数字列が、今日という日の“生存の証明”に見えて、思わず胸ポケットに丁寧にしまった。


 ♢


 診察室を出て、階段を降りると、

 その先にも、もうひとつの“白”が待っていた。


 薬局の自動ドアは、病院のドアと同じ速度で開く。

 ガラスの向こうに見える光の加減まで、まるで設計されたかのように似ている。

 床の白さが照り返して、目の奥が少し痛い。


 カウンターの向こうでは、薬剤師が白衣の袖を整えながら立っていた。

 その笑顔はマスク越しで、表情の上半分しか見えなかった。

 けれど、見えない部分まで“やさしい”と信じられるような声だった。


「こんにちは。処方箋をお願いしますね」


 ミオがファイルから書類を取り出し、丁寧に両手で差し出す。

 透明のポケットに入ったままの紙が、白い光を一度反射して、

 その瞬間、ほんのわずかに部屋の空気が整う気がした。


「少しお待ちくださいね」


 薬剤師はモニターの方へ向かい、画面に視線を落とす。

 指先が滑らかに動くたび、プラスチックのキーが軽く鳴る。

 カタ、カタ、カタ――。

 その音が、診察室で聞いたキーボードの音とほとんど同じで、

 まるで、同じ祈りを別の声で繰り返しているようだった。


 待合の椅子に腰を下ろすと、白い空気がまた肺の奥に入ってきた。

 外に出たはずなのに、まだ“院内”の匂いが残っている。

 消毒液と新しい紙の匂い――それは、清潔というより、無菌の安心。


 やがて、薬剤師がカウンターに戻ってくる。

 白い紙袋を両手で持って。


「今回も同じお薬になりますね。

 とてもきれいに管理されています。

 飲み忘れもないようですし、素晴らしいですね」


 その声を聞いた瞬間、

 胸の奥で、小さく何かがほどけた。

 息が深く入ってくる。

 まるで、自分という存在が“確認”されたような感覚だった。


 ――褒められた。


 そう思った瞬間、視界が少し明るくなった。


 ミオは穏やかに微笑んで、

「ありがとうございます」と答えた。

 その声もまた、祈りの定型文のように、静かで整っていた。


 薬袋を受け取ると、

 ミオが僕の手を、そっと包むように握った。

 温度は低く、でも、確かだった。


「ね、今日もちゃんとできたね」


 その一言が、薬の説明よりもずっと深く胸に沁みた。

 その言葉の“できた”の中に、

 病院への道、診察、返答、会計、すべてが含まれている気がした。


 カウンターの奥で、ラベルプリンターが短く鳴る。

 細い紙の帯が一枚、ゆっくり吐き出される。

 そこに印字された自分の名前が、まるで“この世界での在り方”を証明しているように見えた。

 名を呼ばれるよりも、こうして“記される”ほうが確かだと思ってしまう。

 存在とは、呼吸ではなく、記録の中に宿るもの――

 そんな錯覚が、静かに根を張り始めていた。



 僕は小さく頷いて言う。

「うん。……褒められた気がする」


 言葉を口にした瞬間、喉の奥で薬袋の紙がかすかに擦れる音がした。

 それが、まるで聖書のページを閉じる音のように思えた。


 店を出ると、外の光はまだ白かった。

 風も、車の音も、遠い。

 世界全体が、まるで診察室の延長線にあるように静かだった。


 信号待ちのあいだ、ミオが日傘を一度だけ開く。

 布の内側に落ちる影が、僕たちだけの小さな室内をつくる。

 青になれば、音もなく畳まれて、白が戻る。

 その一連の動作は、まるで点と線で描く簡潔な祈りだった。


 ミオが前を歩き、僕がその後ろをついていく。

 紙袋の中の錠剤が、歩くたびに小さく音を立てた。

 それは、心臓の鼓動よりも正確に、“生きている”ことを知らせていた。


 ♢


 病院を出ると、風が白かった。


 照り返しの強いアスファルトが、空気の粒を光に変えている。

 太陽の光が、街全体に散りばめられた粉のように浮かんでいた。

 それは、光というより“熱の白”だった。


 まぶしさが強すぎて、音が遠のく。

 車の走行音も、人の話し声も、世界の輪郭ごと溶けていく。


「外って、こんなに静かだったっけ」

 思わずそう言うと、隣でミオが微笑んだ。


「音がないほうが、落ち着くでしょ」


 その声も、どこか遠くから響いてくるようだった。

 外気のなかにいるはずなのに、鼓膜の内側まで消毒されたような感覚。

 まるで、まだ“院内”にいるようだった。


 光の中を歩く。

 足元に落ちる影が、さっきより薄い。

 風の流れも、時間の進み方も、すべてが均一で、やわらかく曖昧だった。


 角を曲がるたび、街の風景が少しずつ“内側”に似ていく。

 無印の看板。白い壁。ガラスの反射。

 どれも同じ色に染まって、区別がつかない。

 まるでこの世界全体が、祈りの余韻のなかにあるようだった。


 ふたりの歩調は、病院へ向かうときと同じだった。

 ずれずに、乱れずに、正しく並んでいた。

 それが心地よくて、息まで自然に合っていく。


 やがて、見慣れたアパートの外壁が見えた。

 窓ガラスが陽を受けて白く光っている。

 その白が、まるで“帰ってきた場所の証”のように思えた。


 玄関の鍵が回る音。

 扉を押し開ける。

 中の空気が、ふわりと揺れて、すぐに落ち着いた。


 扉を閉めた瞬間、音が完全に消えた。

 換気扇の微かな低音と、時計の針の音だけが残る。

 それが“正しい静けさ”だった。


 ミオは靴を脱いで、まっすぐ机に向かった。

 通院用のファイルをそっと置く。

 透明の表紙の上で、光が薄く揺れた。


「これで次回まで、安心だね」


 彼女の声は、いつものトーンだった。

 でも、その“安心”という響きが、まるでお経の一節みたいに心に染みた。


 僕は頷いて、机の上の紙束を見た。

 診療明細書。

 右下に押された「再診料」の朱印が、少しだけ滲んでいる。

 紙の繊維に染み込んだ朱が、じわりと広がって、

 まるで体温のように見えた。


 光の下で、それが少しずつ乾いていくのを眺めながら、

 僕は静かに呟いた。


「今日も、正しく診られた。

 それだけで、きっと救われてるんだと思う」


 食卓にピルケースを広げ、今日の“夜”の小部屋を指で確かめる。

 同封の説明書の角を軽く折り、大事な行を見つけやすくしておく。

 ミオは冷蔵庫のメモを一枚更新し、次回の処方日と残数を書き直した。

 黒いペン先が紙に触れるたび、屋内の時間がひとつ締まる。

 訂正印を押す必要のない日付だけが、部屋の空気を温くする。


 ミオは何も言わなかった。

 ただ、小さく頷いて、僕の肩に手を置いた。

 その掌の重みは軽く、でも確かで――

 まるで印鑑の朱を押される瞬間みたいに、肌の奥に温度が残った。


 外の光はまだ白く、カーテン越しに部屋へ滲み込んでいた。

 それはもう、太陽の光というよりも、

 “診察室の白”が、外まで続いてきたような光だった。


 世界が静かだった。

 音のないまま、すべてが整っていた。


 ――今日も、正しく生きられた。


 時計の針は、十四時を少し過ぎていた。

 秒針が一周するたびに、部屋の光がほんのわずかに揺れる。

 ミオが冷蔵庫の扉を開け、冷たいペットボトルの水を一口飲む。

 その音さえも“生活音”というより“確認音”に近かった。

 僕もグラスに水を注ぎ、彼女の動作に遅れないように口をつける。

 ――それだけで、世界が整っていく。

 この静けさのなかでは、ズレることがいちばんの罪のように思えた。


 カーテンの裾が、エアコンの弱い風でわずかに揺れる。

 揺れ幅は、指先一節に満たない。

 僕はその一定の振幅を目で追い、呼吸の拍を合わせる。

 ミオは湯のみを洗い、布巾で縁を軽く押さえた。

 濡れた面が乾いていく速度まで、僕たちは共有している気がした。


 その事実だけが、やさしく胸の奥を満たしていった。


 ♢


 夕方の光が、白い壁をやわらかく染めていた。

 陽が傾いているはずなのに、影はできない。

 部屋全体が、淡い乳白色の膜に包まれているようだった。


 ミオは机の前に座り、

 カレンダーの小さな四角に青いペンで文字を書き込む。


 「次回受診日:7月4日」


 その文字が、紙の表面に吸い込まれる。

 インクが乾くと同時に、また一つ“予定”が形になった。

 予定は祈りのようだった。

 未来を縛るのではなく、静かに“整える”ための約束。


 ミオがペンを置き、

 そのまま静かに呼吸を整える。

 僕もつられるように息を吸い、ゆっくり吐き出す。


 秒針が、一度だけ音を立てた。

 カチリ。


 たったそれだけで、部屋の空気が少し動いた気がした。

 光がわずかに揺れ、壁に落ちた白が、ほのかに濃淡を変える。

 それでも、空間全体は静止している。


 窓の外から、鳥の声がひとつ聞こえた。

 けれど、その声は届いた瞬間に薄れて、

 まるでこの部屋の空気に溶けて消えていくようだった。


 ミオが僕の方を見る。

 その瞳は穏やかで、どこまでも透明だった。


「今日も、ちゃんとできたね」


 その言葉に、僕は小さく頷いた。

 もう、言葉はいらなかった。

 彼女の呼吸の音が、僕の呼吸と同じ間隔で響いている。


 ふたりの肺が、同じテンポで膨らみ、

 同じ温度で、同じ空気を分け合っている。


 白い世界の中で、時間だけが静かに進んでいく。

 カレンダーの“7月4日”の文字が、

 まるで次の祈りを示す印のように淡く光っていた。


 僕はノートを開き、夜のページに短く記す。

 〈本日の記録〉

 ・出発前、印を見て落ち着いた

 ・道中、足音が揃った

 ・診察、安定の言葉

 ・薬局、管理の確認

 ・帰宅、明細の朱を確認

 祈り欄には、昼より少しだけ長い一文を書いた。

 「明日も、同じ手順で、同じように、間違えずに」

 ペンを置くと、紙の呼吸がまた小さく返ってきた。


 隣の部屋では、ミオも同じようにノートを開いている。

 端の方に小さく◎をつけ、その日の“うまくいった”を三つだけ列挙する癖。

 〈うまくいった〉

 1)歩幅が揃った

 2)質問にすぐ答えられた

 3)薬の残数が計画どおり

 箇条書きの最後に点を打たず、行をそっと閉じる。

 余白は、次の呼吸のために残しておくのだと、彼女はいつも言う。



 ――白い世界の中で、僕たちは今日も、呼吸を合わせていた。

 その呼吸の音が、いつの間にか時計の音と混ざり合い、

 どちらが世界の拍動なのか、もう分からなくなっていた。

 外の光がゆっくりと白から灰へ変わる。

 それでも僕たちは動かない。

 次の一秒を待つことさえ、祈りの一部だった。


「安定していますね」という言葉ほど、優しくて、残酷なものはないかもしれません。

それは、生きていることを肯定してくれる代わりに、“正しさ”の枠に閉じ込めてしまう言葉でもあるからです。


この第30話では、外の白と内の白が溶け合い、現実と祈りの境界が少しだけ曖昧になります。

ミオとユウにとっての“安定”は、きっと幸福であり、同時に逃れられない檻の形でもある。


次に描かれるのは、その静けさが少しずつ音を失っていく過程。

“正しく生きること”の意味が、ゆっくりと反転していきます。

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