第30話: 安定という、赦し。
病院へ行く日。
それは、外に出るための行動ではなく、日常の“正しさ”を確認する儀式のようなものだった。
この話では、そんな一日の静かな行程を描いています。
朝の光は、まだやわらかく、白かった。
カーテンの隙間から差し込むその光は、どこか消毒液のように澄みすぎていて、部屋の中のすべての輪郭を少しだけ淡くしていた。
ミオは、テーブルの上でひとつずつ書類を整えていた。
保険証、診察券、受給者証、自立支援医療の申請書、交通費のメモ。
どの紙にも小さな朱の印が押されていて、その赤が白い朝の中で、かすかに息をしているように見えた。
紙を重ねるたびに、わずかな摩擦音が立つ。
“シャッ”という音が、静かな部屋に吸い込まれていく。
その一枚一枚が、まるで祈りの札のように感じられた。
テーブルの上には、昨日使い終えた体温計と、小さな薬袋がひとつ。
どちらも、もう一度使うために磨かれたようにきれいだった。
“生活”というより、“管理”に近い整い方。
けれど、それが心地よかった。
正しさの形に寄り添うことで、ようやく呼吸ができる――
そんな錯覚が、ここでは“安心”と呼ばれていた。
ミオの指先は、ほとんど迷いがなかった。
角をそろえ、ずれを確かめ、ファイルの透明なポケットに滑らせる。
動きがすべて一定で、正確すぎて、まるで呼吸のリズムのようだった。
「これで、全部かな」
小さくつぶやいた声も、書類と同じように整っていた。
僕は椅子に座ったまま、その光景を見ていた。
正確さって、どうしてこんなに安心するんだろう――そんなことを、ぼんやりと考えていた。
彼女の手元に積まれた紙の束を見ながら、胸の奥で小さく思う。
「この印があれば、今日も正しくいられる気がした」
朱の色は、どこかあたたかく見えるのに、触れるのが怖かった。
もしその赤が滲んだら、正しさまで崩れてしまいそうで。
キッチンの時計が、針をひとつだけ進める。
金属音のような短い音が鳴り、ミオが顔を上げる。
「そろそろ、行こうか」
その声は、小さな合図のようだった。
宗教で言うところの“始まりの鈴”に近い響き。
思わず、僕も姿勢を正した。
靴箱の上には、前の夜にそろえておいたスニーカー。
白くて、少しだけ磨かれている。
ミオは自分の靴を履く前に、僕の靴の向きを確認してから、そっと並べ直した。
「これで、きれいに出られるね」
“出る”という言葉が、なぜか“清められる”と同じ音に聞こえた。
玄関の外から差し込む光は、部屋の光よりもさらに白い。
ドアノブに触れたミオの手が、その光を一瞬だけ遮る。
そして、静かに扉を開く。
姿見の前で、マスクの位置をそっと直す。
鼻梁の金具を軽く押さえると、布の白が顔に馴染んだ。
ミオも同じ動作をして、僕と視線が合う。
鏡の向こうで並ぶ二人は、どこか“標準仕様”に近づいたみたいだった。
決まった型に収まると、心の余白が一段落ち着く。
準備は儀式で、儀式は呼吸の手すり――そう思えた。
冷たい空気が足元に流れ込んできた。
それは、まるで外の世界が“点呼”を取っているみたいだった。
僕は靴を履き、ミオの背中を見た。
彼女の髪が光を透かして、薄い金色の縁を帯びている。
――行こう。
その一言に、反論も疑問もなかった。
ドアが閉まる音。
鍵がかかる音。
世界が一度、区切られた。
僕たちは“正しさ”の外へ、ゆっくりと足を踏み出した。
♢
外に出ると、世界はもうすでに“光”のかたちをしていた。
アスファルトは昨夜の雨を少しだけ残していて、
雲の切れ間から射し込む朝の光を、鏡みたいに跳ね返していた。
その眩しさは、どこか白衣の色に似ていた。
ミオは日傘を持っていたけれど、開かなかった。
ただ、手に提げたまま、歩幅を確かめるように一歩ずつ進んでいく。
その歩き方には、目的地よりも“手順”のほうが大事だというような落ち着きがあった。
通院の道は、もう何度も歩いたはずなのに、
今日の風景は、どこか“検査されている”ように感じた。
白い壁。白い横断歩道。白い建物。
どれも似たような角度で立っていて、
まるで世界全体が、僕たちの“正しさ”を映すように配置されている気がした。
ミオがふと振り返って、微笑む。
「歩く速さ、合わせようね」
その声が、アスファルトの照り返しに溶けていく。
僕は少し歩幅を広げ、彼女の横に並んだ。
靴の底が同じリズムで地面を叩く。
カン、カン――と、ほとんど機械のような均一さ。
信号機の電子音が鳴る。
ピッ、ピッ、ピッ――。
その音が、“支援センターのチャイム”に似ていた。
思わず、一瞬、胸の奥がざらつく。
でもすぐに、それも安心に変わっていった。
同じ音が、同じ順序で鳴ること。
それは、“生きることに迷いがない”という合図みたいだった。
公園の砂場では、子どもがシャベルで小さな山をつくっていた。
笑い声が空に向かってほどけるが、ここまで届くころには輪郭を失っている。
僕はその無音の笑いを眺めながら、自分の靴紐を一度だけ確かめた。
ほどけていない。
結ばれている――ただそれだけで、今日を歩ける気がした。
「ずれないで歩けると、安心するね」
ミオの言葉に、僕は「うん」とだけ答える。
その“うん”の呼吸にさえ、合わせようとする自分がいた。
足音、歩幅、呼吸――どれも少しずつ重なっていく。
重なるたび、胸の奥のノイズが減っていく。
風が頬を撫でる。
それを壊さないように歩く――ただ、それだけが僕たちの“役目”のように思えた。
街路樹の葉が、ほとんど音を立てない。
車のエンジン音さえ遠く、
この道だけが、まるでガラスで覆われた通路のように静かだった。
交差点を渡るとき、ミオの影が僕の影と重なる。
影の縁が完全に合った瞬間、なぜか呼吸が深くなった。
ほんの少しだけ彼女の肩が僕の腕に触れて、
その触れ方までもが“意図された偶然”みたいに思えた。
彼女は、ただ前を見つめていた。
病院の白い建物が、もう遠くに見えている。
でも、そこへ向かっているというよりも――
まるで“導かれている”ような感覚だった。
足音が揃うたびに、思考が静まっていく。
考えるより先に、体が“正しい位置”を覚えていく。
まるで呼吸そのものが、訓練された行動の一部になっているみたいだった。
僕は無意識に、彼女の呼吸に合わせて吸い、吐いた。
空気の温度まで、同じになっていく気がする。
そのとき――ふと、思った。
僕たちは歩いているんじゃない。
きっと、同じリズムを確認しているんだ。
この足音が、僕たちの“生活音”であり、
この呼吸が、僕たちの“祈りの拍”なんだ。
白い建物の並ぶ街路を抜けるころには、
僕の中の“外”という感覚は、もうほとんど消えていた。
病院の前に立っても、どこかで思った。
――ここも、きっと、僕たちの世界の延長なんだ。
♢
病院の自動ドアが、ゆっくりと開いた。
空気がひとつ、入れ替わる。
中は、白かった。
壁も、床も、天井も、同じ白。
色の濃淡さえも、均等に整えられていて、
まるで「清潔」という言葉そのものが形になったみたいだった。
受付で番号札を受け取り、待合の椅子に腰を下ろす。
隣にはミオが座っていて、手に持った透明のファイルを膝の上にそっと置いた。
中の紙が光を反射して、淡い虹のような輪を作っていた。
テレビでは、健康番組の音声が流れていたが、誰も見ていなかった。
人の声があるのに、どこか“無音”のように感じる。
順番を呼ばれる電子音だけが、機械的に空間を刻んでいく。
受付の脇に、透明な採尿コップの箱が積まれている。
薄いビニールの匂いと、紙の乾いた匂い。
箱の側面には黒いマジックで“在庫〇”と数字が記され、一本線で律儀に消されていた。
物の数え方が丁寧な場所は、人の数え方も丁寧だ――そんな連想が静かに落ちる。
僕は膝の上の番号札を指先でなぞり、角が丸いことに安心した。
「綴木さん、どうぞ」
呼ばれた声が、少し遠くから届いた。
待合室の壁に貼られたポスターのひとつに目が止まった。
〈心を整えることは、暮らしを整えること〉と書かれていた。
優しい書体。薄い青の背景。
それが、まるで神託のように感じられた。
“整える”という言葉の中に、“支配されたい”という願いが含まれていることを――
このときの僕は、まだ知らなかった。
僕は立ち上がり、ミオと並んで診察室へ向かう。
ドアを開けると、そこもまた、白い。
机の上にはモニターが一台。
医師は眼鏡をかけ、画面を見つめたまま、抑揚のない声で言った。
「最近の睡眠は、どうですか?」
僕が言葉を探すより先に、ミオが答える。
「安定しています。夜もちゃんと眠れています」
医師は短く頷き、指をキーボードに走らせる。
カタ、カタ、カタ――。
打ち込まれる音が、鈴の音のように澄んでいた。
文字がモニターに並ぶたび、診察室の空気がひとつずつ整列していく。
「食欲は?」
「あります。朝も、ちゃんと食べられています」
ミオの声は、まるで報告というより“朗読”だった。
定められた文を、正確に読み上げていくような落ち着いた調子。
その声を聞きながら、僕はただ頷くだけだった。
ミオは小さなメモ帳を開いて、睡眠の時刻と中途覚醒の印を医師に見せる。
丸と棒だけで一週間が並ぶ簡単な図。
単純な記号なのに、そこに僕の夜の温度が確かに残っていた。
言葉にしなくても、示せる事実がある――
そう思うと、喉の奥で硬かった何かが少しだけ溶けた。
「眠前、用量を少し戻す選択肢もありますが」
ミオが即座に首を横に振る。「現状が最適です」
相談の余白が空中で音もなく閉じ、胸の奥に薄い冷えが沈んだ。
医師はまた画面に視線を戻し、短く言葉を落とす。
「安定していますね。良い傾向です」
その“安定”という言葉が、僕には赦しに聞こえた。
まるで神父が罪を赦すときのような、静かで決定的な響き。
たったそれだけで、胸の奥が少し温かくなった。
キーボードの音が再び鳴る。
そのリズムは、まるで祈りの拍のように一定だった。
打たれた文字の並びが、カルテの上で祈祷文に見えてくる。
“服薬遵守良好”
“情動安定傾向”
“支援関係良好”
その三行が画面に並んだ瞬間、
僕の中で、何かが確かに“救われた”。
白い部屋。
白い光。
白い言葉。
すべてが同じ温度で、静かにひとつに融けていく。
医師は処方箋をプリントし、紙を差し出した。
その白も、同じ白だった。
「では、また一週間後に」
それは、まるで“また来なさい”ではなく――
“また祈りを続けなさい”と言われたように聞こえた。
僕は小さく会釈して、ミオの背中を追う。
ドアの向こうに出ると、廊下の空気がすこしだけ柔らかく感じた。
診察室の中では呼吸の仕方まで整えられていたことに、ようやく気づく。
――あの白は、外の世界よりも、ずっと静かで、ずっと正しかった。
会計窓口の上で、赤い数字が順番に切り替わる。
電子音が一度だけ短く鳴り、財布から硬貨を三枚。
受け皿のプラスチックに触れた金属の円が、控えめに澄んだ音を立てる。
レシートの端に小さく打たれた時刻。
その数字列が、今日という日の“生存の証明”に見えて、思わず胸ポケットに丁寧にしまった。
♢
診察室を出て、階段を降りると、
その先にも、もうひとつの“白”が待っていた。
薬局の自動ドアは、病院のドアと同じ速度で開く。
ガラスの向こうに見える光の加減まで、まるで設計されたかのように似ている。
床の白さが照り返して、目の奥が少し痛い。
カウンターの向こうでは、薬剤師が白衣の袖を整えながら立っていた。
その笑顔はマスク越しで、表情の上半分しか見えなかった。
けれど、見えない部分まで“やさしい”と信じられるような声だった。
「こんにちは。処方箋をお願いしますね」
ミオがファイルから書類を取り出し、丁寧に両手で差し出す。
透明のポケットに入ったままの紙が、白い光を一度反射して、
その瞬間、ほんのわずかに部屋の空気が整う気がした。
「少しお待ちくださいね」
薬剤師はモニターの方へ向かい、画面に視線を落とす。
指先が滑らかに動くたび、プラスチックのキーが軽く鳴る。
カタ、カタ、カタ――。
その音が、診察室で聞いたキーボードの音とほとんど同じで、
まるで、同じ祈りを別の声で繰り返しているようだった。
待合の椅子に腰を下ろすと、白い空気がまた肺の奥に入ってきた。
外に出たはずなのに、まだ“院内”の匂いが残っている。
消毒液と新しい紙の匂い――それは、清潔というより、無菌の安心。
やがて、薬剤師がカウンターに戻ってくる。
白い紙袋を両手で持って。
「今回も同じお薬になりますね。
とてもきれいに管理されています。
飲み忘れもないようですし、素晴らしいですね」
その声を聞いた瞬間、
胸の奥で、小さく何かがほどけた。
息が深く入ってくる。
まるで、自分という存在が“確認”されたような感覚だった。
――褒められた。
そう思った瞬間、視界が少し明るくなった。
ミオは穏やかに微笑んで、
「ありがとうございます」と答えた。
その声もまた、祈りの定型文のように、静かで整っていた。
薬袋を受け取ると、
ミオが僕の手を、そっと包むように握った。
温度は低く、でも、確かだった。
「ね、今日もちゃんとできたね」
その一言が、薬の説明よりもずっと深く胸に沁みた。
その言葉の“できた”の中に、
病院への道、診察、返答、会計、すべてが含まれている気がした。
カウンターの奥で、ラベルプリンターが短く鳴る。
細い紙の帯が一枚、ゆっくり吐き出される。
そこに印字された自分の名前が、まるで“この世界での在り方”を証明しているように見えた。
名を呼ばれるよりも、こうして“記される”ほうが確かだと思ってしまう。
存在とは、呼吸ではなく、記録の中に宿るもの――
そんな錯覚が、静かに根を張り始めていた。
僕は小さく頷いて言う。
「うん。……褒められた気がする」
言葉を口にした瞬間、喉の奥で薬袋の紙がかすかに擦れる音がした。
それが、まるで聖書のページを閉じる音のように思えた。
店を出ると、外の光はまだ白かった。
風も、車の音も、遠い。
世界全体が、まるで診察室の延長線にあるように静かだった。
信号待ちのあいだ、ミオが日傘を一度だけ開く。
布の内側に落ちる影が、僕たちだけの小さな室内をつくる。
青になれば、音もなく畳まれて、白が戻る。
その一連の動作は、まるで点と線で描く簡潔な祈りだった。
ミオが前を歩き、僕がその後ろをついていく。
紙袋の中の錠剤が、歩くたびに小さく音を立てた。
それは、心臓の鼓動よりも正確に、“生きている”ことを知らせていた。
♢
病院を出ると、風が白かった。
照り返しの強いアスファルトが、空気の粒を光に変えている。
太陽の光が、街全体に散りばめられた粉のように浮かんでいた。
それは、光というより“熱の白”だった。
まぶしさが強すぎて、音が遠のく。
車の走行音も、人の話し声も、世界の輪郭ごと溶けていく。
「外って、こんなに静かだったっけ」
思わずそう言うと、隣でミオが微笑んだ。
「音がないほうが、落ち着くでしょ」
その声も、どこか遠くから響いてくるようだった。
外気のなかにいるはずなのに、鼓膜の内側まで消毒されたような感覚。
まるで、まだ“院内”にいるようだった。
光の中を歩く。
足元に落ちる影が、さっきより薄い。
風の流れも、時間の進み方も、すべてが均一で、やわらかく曖昧だった。
角を曲がるたび、街の風景が少しずつ“内側”に似ていく。
無印の看板。白い壁。ガラスの反射。
どれも同じ色に染まって、区別がつかない。
まるでこの世界全体が、祈りの余韻のなかにあるようだった。
ふたりの歩調は、病院へ向かうときと同じだった。
ずれずに、乱れずに、正しく並んでいた。
それが心地よくて、息まで自然に合っていく。
やがて、見慣れたアパートの外壁が見えた。
窓ガラスが陽を受けて白く光っている。
その白が、まるで“帰ってきた場所の証”のように思えた。
玄関の鍵が回る音。
扉を押し開ける。
中の空気が、ふわりと揺れて、すぐに落ち着いた。
扉を閉めた瞬間、音が完全に消えた。
換気扇の微かな低音と、時計の針の音だけが残る。
それが“正しい静けさ”だった。
ミオは靴を脱いで、まっすぐ机に向かった。
通院用のファイルをそっと置く。
透明の表紙の上で、光が薄く揺れた。
「これで次回まで、安心だね」
彼女の声は、いつものトーンだった。
でも、その“安心”という響きが、まるでお経の一節みたいに心に染みた。
僕は頷いて、机の上の紙束を見た。
診療明細書。
右下に押された「再診料」の朱印が、少しだけ滲んでいる。
紙の繊維に染み込んだ朱が、じわりと広がって、
まるで体温のように見えた。
光の下で、それが少しずつ乾いていくのを眺めながら、
僕は静かに呟いた。
「今日も、正しく診られた。
それだけで、きっと救われてるんだと思う」
食卓にピルケースを広げ、今日の“夜”の小部屋を指で確かめる。
同封の説明書の角を軽く折り、大事な行を見つけやすくしておく。
ミオは冷蔵庫のメモを一枚更新し、次回の処方日と残数を書き直した。
黒いペン先が紙に触れるたび、屋内の時間がひとつ締まる。
訂正印を押す必要のない日付だけが、部屋の空気を温くする。
ミオは何も言わなかった。
ただ、小さく頷いて、僕の肩に手を置いた。
その掌の重みは軽く、でも確かで――
まるで印鑑の朱を押される瞬間みたいに、肌の奥に温度が残った。
外の光はまだ白く、カーテン越しに部屋へ滲み込んでいた。
それはもう、太陽の光というよりも、
“診察室の白”が、外まで続いてきたような光だった。
世界が静かだった。
音のないまま、すべてが整っていた。
――今日も、正しく生きられた。
時計の針は、十四時を少し過ぎていた。
秒針が一周するたびに、部屋の光がほんのわずかに揺れる。
ミオが冷蔵庫の扉を開け、冷たいペットボトルの水を一口飲む。
その音さえも“生活音”というより“確認音”に近かった。
僕もグラスに水を注ぎ、彼女の動作に遅れないように口をつける。
――それだけで、世界が整っていく。
この静けさのなかでは、ズレることがいちばんの罪のように思えた。
カーテンの裾が、エアコンの弱い風でわずかに揺れる。
揺れ幅は、指先一節に満たない。
僕はその一定の振幅を目で追い、呼吸の拍を合わせる。
ミオは湯のみを洗い、布巾で縁を軽く押さえた。
濡れた面が乾いていく速度まで、僕たちは共有している気がした。
その事実だけが、やさしく胸の奥を満たしていった。
♢
夕方の光が、白い壁をやわらかく染めていた。
陽が傾いているはずなのに、影はできない。
部屋全体が、淡い乳白色の膜に包まれているようだった。
ミオは机の前に座り、
カレンダーの小さな四角に青いペンで文字を書き込む。
「次回受診日:7月4日」
その文字が、紙の表面に吸い込まれる。
インクが乾くと同時に、また一つ“予定”が形になった。
予定は祈りのようだった。
未来を縛るのではなく、静かに“整える”ための約束。
ミオがペンを置き、
そのまま静かに呼吸を整える。
僕もつられるように息を吸い、ゆっくり吐き出す。
秒針が、一度だけ音を立てた。
カチリ。
たったそれだけで、部屋の空気が少し動いた気がした。
光がわずかに揺れ、壁に落ちた白が、ほのかに濃淡を変える。
それでも、空間全体は静止している。
窓の外から、鳥の声がひとつ聞こえた。
けれど、その声は届いた瞬間に薄れて、
まるでこの部屋の空気に溶けて消えていくようだった。
ミオが僕の方を見る。
その瞳は穏やかで、どこまでも透明だった。
「今日も、ちゃんとできたね」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
もう、言葉はいらなかった。
彼女の呼吸の音が、僕の呼吸と同じ間隔で響いている。
ふたりの肺が、同じテンポで膨らみ、
同じ温度で、同じ空気を分け合っている。
白い世界の中で、時間だけが静かに進んでいく。
カレンダーの“7月4日”の文字が、
まるで次の祈りを示す印のように淡く光っていた。
僕はノートを開き、夜のページに短く記す。
〈本日の記録〉
・出発前、印を見て落ち着いた
・道中、足音が揃った
・診察、安定の言葉
・薬局、管理の確認
・帰宅、明細の朱を確認
祈り欄には、昼より少しだけ長い一文を書いた。
「明日も、同じ手順で、同じように、間違えずに」
ペンを置くと、紙の呼吸がまた小さく返ってきた。
隣の部屋では、ミオも同じようにノートを開いている。
端の方に小さく◎をつけ、その日の“うまくいった”を三つだけ列挙する癖。
〈うまくいった〉
1)歩幅が揃った
2)質問にすぐ答えられた
3)薬の残数が計画どおり
箇条書きの最後に点を打たず、行をそっと閉じる。
余白は、次の呼吸のために残しておくのだと、彼女はいつも言う。
――白い世界の中で、僕たちは今日も、呼吸を合わせていた。
その呼吸の音が、いつの間にか時計の音と混ざり合い、
どちらが世界の拍動なのか、もう分からなくなっていた。
外の光がゆっくりと白から灰へ変わる。
それでも僕たちは動かない。
次の一秒を待つことさえ、祈りの一部だった。
「安定していますね」という言葉ほど、優しくて、残酷なものはないかもしれません。
それは、生きていることを肯定してくれる代わりに、“正しさ”の枠に閉じ込めてしまう言葉でもあるからです。
この第30話では、外の白と内の白が溶け合い、現実と祈りの境界が少しだけ曖昧になります。
ミオとユウにとっての“安定”は、きっと幸福であり、同時に逃れられない檻の形でもある。
次に描かれるのは、その静けさが少しずつ音を失っていく過程。
“正しく生きること”の意味が、ゆっくりと反転していきます。




