第3話:まだ壊れてないのが、一番こわかった。
※本話には、家庭内暴力・性的被害・心的外傷・自傷行為など、強い心理的負荷を伴う描写が含まれます。
ご自身の体調やご経験に応じて、どうかご無理のない範囲でお読みください。
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第3話では、ヒロイン・真白 澪の過去が語られます。
美しさという言葉に押し潰され、
家庭という名の密室に“壊されていった”少女の記憶。
これは、完全なフィクションではありません。
書き手自身の記憶の破片と、かつて抱えていた痛みをもとに、
限界まで現実に即して描いています。
どこにも届かなかった声。
誰にも救われなかった夜。
そうしたものを、一つずつ拾い上げて、
少しでも“物語”にしていけたらと願っています。
私は小さいころから、「綺麗だね」と言われて育ってきた。
近所の人も、親戚も、学校の先生も、みんなそう言った。
髪は、光に透けるような色をしていた。
肌は白くて、血管がすぐ浮いて見えると言われた。
灰色がかった瞳は、「何を考えてるかわからない」と、大人たちに笑われた。
「澪ちゃんは綺麗な子ね」「お人形さんみたいね」――そう言われるたびに、
私は少しずつ、「人間じゃなくなっていく」ような気がしていた。
母は、それが気に入らなかったらしい。
私の髪を引っ張って、「色ばっかり薄くて、色素が足りないだけじゃない」と言った。
私がそんな顔をしていたのを見て、母は怒鳴った。
「そんな顔、どこで覚えたの!」
どんな顔だったのか、私にはわからなかった。
ただ鏡に映った自分は、泣いているわけでも、笑っているわけでもなかった。
何も感じていないような、ただ空っぽな表情だったと思う。
でも母は、それを見て怒った。
たぶん――
私が「可哀想なふり」をしているように見えたのかもしれない。
何もしていないのに、何かを責められているような、
そんな気持ちだけが、ずっと胸に残っていた。
アイスを買ってもらった帰り道、母は急に黙って歩き出して、私はずっと後ろから追いかけるしかなかった。
鏡を見るたびに思った。
“綺麗”って、誰のためにある言葉なんだろう。
私は、私のままじゃだめだったのに――
どうして“綺麗”だと怒られるのか、ずっとわからなかった。
♢
父は、あまり喋らなかった。
でも、沈黙の中で、私のことを“見ていた”。
テレビの音が流れるなかで、リモコンを持った手が止まって、
視線だけが私の脚や胸元を、舐めるように往復していた。
笑っていても、その目は、冷たかった。
あたたかさなんてなかった。
“そういう目”だって、子どもでもわかる。
父からはよく手が伸びてきた。
撫でるような、確かめるような触れ方だった。
嫌だと言うと、「抱っこしてるだけだろ」と笑った。
ある日、眠っているときにふと目を覚ましたら、
部屋のドアが、少しだけ開いていた。
風かもしれない。
気のせいかもしれない。
でも――どうしてだろう、朝起きたとき、パジャマのボタンが外れていた。
母に言おうかと思ったこともある。
でも、言葉が喉まで出かけた瞬間、母が無言で箸を置く音を聞いて、やめた。
見て見ぬふりをするというのは、たぶん、ああいうことなんだと思う。
それ以来、私は人に近づかれると息を止めるようになった。
触れられることが、ただの「触れられること」じゃない気がして。
優しい声でも、急に冷たく感じるときがあった。
ある日、夕飯のあと、父が私の髪を撫でた。
「大きくなったな」と言って、笑っていた。
そのねっとりとした笑い方が、私は気持ち悪いと思った。
でも、母はそれを黙って見ていた。
食器を片づけている途中、母がふいに振り向いた。
目が合った瞬間、空気がきしんだ気がした。
「男を誘うような目をしないで」
そう言って、母は私の頬を平手で叩いた。
何も言い返せなかった。
なぜ叩かれたのか、本当にわからなかったから。
母は続けた。
「女ってのはね、自分が女じゃなくなったときに、娘が一番憎たらしく見えるのよ。鏡みたいに、全部こっちに映すから」
そう言いながら、また髪を引っ張った。
私はそのとき、“母は私を女として見ていた”のだと気づいた。
母が見ていたのは、「娘」じゃなかった。
父の視線を奪う“何か”だった。
だから私は、いつの間にか“敵”になっていた。
あのときの手の平の感触は、今でも左の頬に残っている気がする。
♢
誰かに言ったこともある。
保健室の先生、学童のスタッフ、近所の親戚――
でも、みんな「そんなこと言っちゃだめ」「親御さんは立派な方でしょ」と目を逸らした。
母に告げ口されたときは、髪を掴まれて押し入れに閉じ込められた。
押し入れの中は真っ暗で、埃の匂いがして、私はずっと息を潜めていた。
母の声が遠くで響いていた。
「うちの恥さらし」「誰に似たのかしら」「淫売」
私は、何も答えなかった。
答えたら、もっと悪いことが起きる気がしていた。
いつからだったか、自分の体の感覚が、わからなくなった。
風が冷たいと思っても、それが寒いのかどうかが分からなかった。
誰かに触れられても、それが優しいのか、汚いのか、判断できなくなった。
笑ってるのに、涙が出るときがあった。
でもそれを誰に言っても、伝わらないと知っていたから、何も言わなかった。
いつからだったか、体の境界がわからなくなった。
誰かに触れられても、それが「他人」なのか、自分なのか、
ただの“何かが動いてる”だけにしか思えなかった。
♢
深夜になると父が私の部屋に来るのが当たり前になった。
それが嫌だったのもあるが、私は家の外に居場所を求めるようになった。
人と繋がっていないと、呼吸が止まってしまいそうだった。
優しくされたいわけじゃない。
大事にされたいわけでもない。
ただ、誰かの体温で、自分のかたちを確かめたかった。
知らない男の人の部屋に、黙ってついていったこともあった。
何をされても、もう驚かなかった。
怖くなかったし、恥ずかしくもなかった。
ただ、「ああ、まだちゃんと壊れてないんだな」って思っただけだった。
“好き”って言われると、ぞっとした。
“可愛いね”って言われると、消えたくなった。
それでも、自分から求めた。
「このくらいで壊れますように」って、願うように。
ある晩、知らない男に抱きしめられたとき、突然、吐き気が込み上げてきた。
何も言わずに逃げた。逃げながら、足が震えていた。
ああ、私はまだ“壊れてない”んだ――
そう思ったら、悔しさとも怒りともつかないものが喉の奥に詰まった。
泣けなかった。怒れなかった。
私は、ただ“消えたかった”。
壊れてしまうことよりも、壊れないまま生きていることの方が、よほど恐ろしかった。
♢
夜、家に帰れなかった。
ドアの前まで来て、何度もチャイムを押そうとして、結局、背を向けた。
真夜中のコンビニの前で座り込んでいたら、警察に声をかけられた。
「家、どこ?」って訊かれても、何も言えなかった。
「帰りたくない」って、声に出した瞬間、涙が止まらなくなった。
そのとき、初めて、「助けて」って言ったと思う。
そのあとのことは、よく覚えていない。
警察署の部屋は、ひどく明るかった。
どこかで書類をめくる音と、カツカツという靴の音がしていた。
私の名前を呼ぶ声がして、
大人たちが何かを話していたけれど、
そのほとんどは、意味を持たない音にしか聞こえなかった。
「親御さんとは連絡が取れましたが――」
「真白さん、あなたの証言は、記録されます」
「ここから先は、弁護士と――」
誰かが、私のことを“保護対象”って言った。
それが、いいことなのか悪いことなのかも、わからなかった。
「ご両親は今――」
その言葉の続きは、聞こえなかった。
あるいは、聞きたくなかったのかもしれない。
私の父と母が、どうなったかは知らない。
誰も説明してくれなかったし、私は訊こうともしなかった。
その日から私は、「あの家の子じゃなくなった」だけだった。
♢
次に目を覚ましたとき、
私は白い天井の下にいた。
その日の夜、誰もいないはずの部屋で、
足音のような気配が聞こえると、息が止まりそうになる。
鍵がかかっていても、安心できなかった。
光の角度、物音の反響、空気の湿度――全部が、あの家を思い出させる。
夢の中で、父が私の名前を呼び、生暖かい感触が蘇る。
母の足音が階段を上がってくる。
目が覚めても、その声が耳の奥に残っていて、
自分の爪を、無意識に噛んでいた。
誰かが少しでも早口になると、心臓がひゅっと縮む。
白衣の人がドアを開ける音に、背中が凍る。
そんなとき、自分の腕がどこにあるかもわからなくなって、
体が誰かのものみたいに勝手に震えていた。
記憶は断片しか残っていない。
でも、怖かった感覚だけが、いつまでも消えてくれなかった。
眠っていても、誰かの視線に肩をすくめて起きることがあった。
誰にも触れられていないのに、背中がぞわりと冷たくなる。
あの家の気配が、いまだに皮膚の裏にこびりついている気がする。
“終わったこと”になっているのは、大人たちの世界だけだった。
私だけがまだ、あの夜の中にいた。
第3話、ここまで読んでくださり本当にありがとうございます。
この章を書くにあたって、何度も手が止まりました。
過去の記憶が波のように押し寄せてきて、
何を書き残すべきで、何を伏せるべきなのか――何度も悩みました。
けれど、この物語がただの「暗い話」では終わらないために。
ヒロインの“これまで”を、どうしても丁寧に描いておきたかったのです。
傷つきながら、それでも生き延びた少女のことを、
どうか、ほんの少しでも覚えていていただけたらうれしいです。
次話から、物語は再び“現在”へと戻ります。
彼女が“他者と共にいる”ことをどう受け止めていくのか――
その静かな変化を、見守っていただけたら幸いです。