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【祝3000PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第2章: ふたりだけの世界。

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第29話:祈りのチェックリスト。


朝のノート。

朱の印。

「理想的です」という褒め言葉。


この話で描きたかったのは、“正しさ”がいつの間にか祈りに変わっていく瞬間です。

制度のやさしさと、ふたりの愛のやさしさが同じ温度で重なったとき、

どちらが祈りで、どちらが支配なのか――境界はもう見えなくなる。


穏やかな日常の中で、少しずつ壊れていく音を、静かに聴いてください。



 朝の光は、やわらかく、まだ白く滲んでいた。


 カーテンの隙間から射し込む光に目を細めながら、僕はゆっくりとベッドから体を起こす。

 寝癖を手で撫でつけるように整えて、寝室を出る。

 洗面台で顔を洗い、ぬるま湯を両手ですくって目元に落とすと、皮膚の奥がじわっと目を覚ましていく感覚があった。


 湯を沸かす音が、静かな部屋に溶けていく。

 キッチンタイマーのカウントが、リズムのように響く中で、僕は自然と机の前に座った。


 そこには、いつものノートが置かれている。


 表紙は、ミオが貼ってくれたラベルで「ユウの記録帳」と書かれている。

 最初は、ただの“提案”だった。

 「書いてみたら、落ち着くかもしれないよ」

 そんな軽い調子だったはずなのに――気がつけば、毎朝の“はじまり”になっていた。


 いまはもう、書かないと落ち着かない。


 何かが抜け落ちたような、生活に空白ができてしまったような、そんなそわそわした感覚があった。


 ノートを開く。

 今日のページは、白紙のままだ。


 ゆっくりとペンを取る。


 「6月6日」

 日付欄に数字を書き入れた瞬間、わずかに肩の力が抜ける。

 ペン先の動きに合わせて、空気がかすかに震える。

 ノートの紙が、音を立てて呼吸しているようだった。


 書くという行為が、まるで“お祈り”のように感じられることがある。

 日付を記すたびに、何かを差し出すような気分になる。

 書き間違えないように、ゆっくりと、一画ずつ形を確かめる。

 この線の角度ひとつにも、何か意味があるような気がして。


 文字が整うたび、世界の秩序が少しだけ定まっていく。

 それは、神さまに「今日もここにいます」と報告しているような――そんな静けさだった。

 この一行で、なぜか今日が“始まった”ような気がする。


 次に、気分欄。


 ☐とても良い

 ☐良い

 ︎︎︎︎︎︎☑︎ふつう

 ☐少し疲れた

 ☐つらい


 迷いなく「ふつう」にチェックを入れる。

 けれど、その横に小さく文字を添える。


 「ミオの機嫌は良さそうだった」


 ……気分の欄なのに、なぜか彼女のことを書いている。


 でも、それが自然だった。

 自分の気分は、きっと彼女の調子と連動している。

 そう思うようになっていた。


 「今日やること」欄に、箇条書きで書き込んでいく。


 ・皿洗い(朝の分)

 ・洗濯物たたむ

 ・ノート書く(夜)


 その下の「今日の目標」には、こう書いた。


 「ミオにありがとうを言う」


 なんとなく、昨日の夜の顔が浮かんだ。

 湯上がりに静かに微笑んでいたミオの横顔。

 あれが、ちゃんと“報われた”顔に見えた気がして――


 最後に、祈り欄。


 今日は何を願えばいいだろう。

 ふと迷って、そしてペンが動く。


 「今日も、穏やかに終われますように」


 それを書き終えると、胸の奥にゆっくりとした呼吸が満ちてくる。


 書き終えたページを眺めながら、僕は思う。

 これはきっと、自分のための言葉なんだ。

 けれど、どこかで――彼女が“読むかもしれない”ことも、ちゃんと意識している。


 だからこそ、書く言葉を、ほんの少しだけ選んでしまう。


 今日も、きみが喜んでくれますように――

 その想いが、祈りとして、記録の行間に染み込んでいく。


 ♢


 チャイムが鳴った。

 金属の粒が空気に触れるみたいに、音が一度だけ部屋の温度を下げる。


 訪問支援員が来る日だった。

 ミオが立ち上がり、鍵を回す音がして、白い靴下の足音がゆっくりと玄関に吸い込まれていく。


「こんにちは。失礼しますね」


 やわらかい声。

 書類の擦れる音、アルコールの匂い。

 支援員は名前を名乗ったけれど、僕にはその音が「制度」の呼吸に聞こえた。


 冷蔵庫の扉が開く。

 賞味期限、在庫、整列。

 「清潔に保たれていますね」「お薬も、きれいに並んでます」

 言葉はやさしいけれど、どこか検査結果の読み上げのようだった。


 卓上にはチェック表。

 観察項目の欄に、小さな丸がひとつひとつ増えていく。

 「服薬」「食生活」「対人反応」。

 丸が整列していくほどに、僕はなぜだか呼吸が浅くなる。


「理想的です」


 支援員がそう言ったとき、ミオの肩がほんの少しだけ緩んだ。

 僕も、同じように力が抜けるのを感じる。


 理想的。きっと褒め言葉だ。

 …

 なのに、その音だけが長く残った。

 誰の理想だろう――僕たちの? 紙の上の? 


 支援員はピルケースの曜日を確かめ、次回の通院の確認をする。

「来週の木曜、午前の予約、念のためメモ置いておきますね」

 冷蔵庫のマグネットに小さな紙が増える。

 書体は無機質で、きれいだった。


「何か困りごとはありますか?」


 訊かれるたび、僕は少し考えてから首を横に振る。

 困っていることは、たぶん、ない。

 “困りごと”が何かを、うまく言葉にできないだけだ。


 支援員は穏やかに笑って、玄関で靴を履く。

「変わりがあれば、いつでも」

 ドアが閉まる。カチリ。

 部屋の空気が、ふたたび“内側”に戻ってくる。


「ね、ちゃんとできてたね」


 テーブルに戻ると、支援員が置いていった薄い封筒がひとつ残っていた。

 「更新書類在中」と印字されたグレーの文字。角がやや柔らかく、何度も誰かの鞄に入れられてきた履歴が紙の繊維に残っている。


 封を開けると、折り目のついたA4が二枚。

 自立支援医療の更新申請。必要書類の欄に、小さく「診断書・保険証・マイナンバー写し」と並んでいる。

 どれもむずかしい言葉ではないのに、目で追うだけで指先が冷える。文字の並びが、まるで水の流れに逆らって歩くみたいに、少しずつ体温を奪っていく。


「あとで僕、コピーとるね」

「うん。ありがとう」

 ミオがそう言って、書類を透明のクリアファイルに滑らせる。ファイルの背はもう何色も重なり、虹のようになっていた。

 虹なのに、あまり嬉しくはない種類の色だと思う。


 棚から家計のノートを取り出す。

 表紙に小さく「記録」とだけ書いてある。

 電気、ガス、水道。冷蔵庫に貼ったレシートを一枚ずつ剥がして、糊で貼りなおす。

 貼る位置を揃えるたび、安心がすこしずつ積みあがっていく。ズレると、胸の中の針もわずかに傾く。


「来週の受診、交通費は往復でこれくらいかな」

「PASMO、チャージしとこっか」

 数字を声に出すと、現実が曖昧さを失って、言葉の形で手に残る。

 金額の小さな桁にも、僕たちの一日が詰まっているように思えた。


 ミオの声が、いつもより少し白く聞こえた。

 頷くと、胸の内側で小さな音がした。

 安堵の音。

 でも、それだけじゃない何かが、静かに沈んでいった。


 ♢


 洗濯物を畳むのは、嫌いじゃなかった。


 乾いたタオルの手触りも、整然としたシワのないTシャツの重なりも、なぜか“自分が役に立てている”という感覚をくれる。

 それはきっと、病院にいた頃にはなかったものだった。


 畳み終えた服を、決められた順番で引き出しにしまっていく。

 ミオが決めた順番。色の濃いものが下、よく使う白シャツが上。


 その通りに並べてから、ふう、と小さく息を吐いた。


「……丁寧だね。助かる」


 振り返ると、ミオがキッチンの入口でこちらを見ていた。

 笑っていた。目も、口元も、ほんのりあたたかくて。


 その一言が、胸の奥にじんわりと染みていくのを感じた。


 ありがとう、でもなく。

 上手だね、でもない。


 “助かる”――そう言われたことが、どこかで“必要とされている”ように思えた。


 何かが、報われた気がした。

 ほんの小さなことなのに、それだけで自分の輪郭が整ったような、そんな気持ちになった。


 昼は、昨日とほとんど同じ献立にした。

 同じ形の皿、同じ位置。スープの表面に浮かぶ油の輪が、左右で似た模様をつくる。

 ミオがスプーンを置くタイミングと、僕がコップを持ち上げるタイミングが、自然と重なる。


「同じって、落ち着くね」

「うん。繰り返すと、安心する」


 会話は短く、温度は保たれ、音は小さい。

 食べ終わった皿の白い面に、最後の水滴が転がって止まる。

 止まる位置までが“予定調和”のようで、僕は思わずその小さな水の楕円に見入ってしまった。


 昔は違った。


 怒られないように、否定されないように、機嫌を損ねないように。

 言葉の端に怯えていた。

 無視も、舌打ちも、ずっと怖かった。


 けれど――いまは違う。


 どうすれば、ミオに褒めてもらえるか。

 そんなことを、自然と考えるようになっていた。


 それは必死さでも、媚びでもないはずだ。

 ただ、彼女の笑顔が、見たいだけだった。


 “褒められる”って、こんなに、嬉しいことなんだな。


 子どもの頃に知らなかった感情が、ようやく自分の中に根づいてきた気がする。


 机に戻って、朝のノートを読み返す。


 「今日は、ちゃんとできた」――かつては、そう書いていた。


 でもいま、そこにはこう記してあった。


 「きっとミオが喜んでくれる」


 その言葉を見て、思わず小さく笑ってしまった。


 “怒られなかった”では、足りなかったんだ。

 “喜ばせたい”という気持ちがあることに、ようやく気づけた。


 それが、たとえ彼女の望む形に過ぎなくても――

 そこに、ちゃんと“僕の意思”があるような気がしていた。


 明日も、たぶん僕は洗濯物を畳む。

 できるだけ、きれいに。

 ミオがまた、微笑んでくれるように。


 その笑顔を思い浮かべながら、僕はノートの余白に、そっと書き足した。


 「今日は、自分のためにじゃなくて、きみのために、ちゃんと動けた気がする」


 それが“正しい”かどうかは、わからない。

 でも、心はどこか穏やかだった。


 引き出しを閉める前に、指先で木の縁をなぞる。

 木目の温度が掌に移ってきて、脈の鼓動みたいに微かに返ってくる。


 十四時の少し前、キッチンタイマーが一度だけ短く鳴った。

 頓服ではないけれど、いくつかの薬は「食後二時間」の目安がある。

 ピルケースの「木」の小部屋を開けて、錠剤を掌に落とす。半分に割って使う薬は、刻印の溝に沿ってカッターで静かに割る。

 パキン、と小さく、清潔な音がする。欠片の角が光を帯びて、一瞬だけ砂糖みたいに見えた。


「水、多めに飲んでね」

「うん」


 コップを唇に当てると、ガラスの冷たさが歯の裏に伝わる。

 飲み込む際の喉の動きが、時計の秒針に重なる。

 からだの内側で「正しい」が、目に見えない印を押すみたいに静かに鳴った。


 たぶん、こういう瞬間のために僕は生きている――そんなことまで思った。


 ♢


 ノートが開いたまま、机の上に置かれていた。


 表紙は見覚えのある色で、手に取らずとも誰のものかわかった。

 淡いピンクのカバー。背表紙に貼られた、控えめな文字。


 「M. M. 記録ノート」


 たぶん――ミオの、記録用のノート。


 名前が伏せられているのも、“記録”という響きも、彼女らしいなと思った。


 いつもなら、そっと目を逸らす。

 これはきっと、“見られること”を前提にしていない場所。

 誰にも触れられないようにしまわれている、心の形のようなもの。


 けれどその日は、ページが風でわずかにめくれていた。

 机の下から空気が流れたのか、あるいは――偶然、じゃないのかもしれなかった。


 気づけば、視線がページの行をなぞっていた。


 丁寧な文字。整った書式。どこか、僕のノートと似ている。


 「6月6日(木)」


 日付の下に、小さく書き込まれていた。


 「朝、ユウが自分から記録を書いてくれた。

 ページを見たとき、少し照れくさそうにしていた。

 でもそのあと、“お湯わかしておいたよ”って言ってくれた。

 笑っていた。……とても嬉しかった。」


 息が止まった。


 怒られていたわけじゃない。

 指摘されたわけでもない。

 ただ――僕の“行動”が、彼女の“嬉しかった”に繋がっていた。


 自発的に記録を書いたこと。

 言葉を交わしたこと。

 笑ったこと。


 それが、“彼女の嬉しさ”として、こうして残っている。


 なんだろう、この感じ。


 強制されているわけじゃない。

 でも――その一行一行が、僕の胸の奥にじわじわと沈んでいった。


 「ミオの“嬉しかった”って、僕の行動と一対になってるんだ……」


 呟くでもなく、心の中にぽたりと落ちたその実感は、不思議なくらい温かくて、でもどこか引っかかるような感触だった。


 押しつけられたルールじゃない。

 けれど、書かれた言葉が“答え合わせ”のように見えてくる。


 ああ、これが――“愛される条件”なのかもしれない。


 気づけば、そんなふうに腑に落ちていた。


 それを重いとは思わなかった。

 むしろ、ようやく“正解”がわかったような気さえしていた。


 ページを閉じても、指先に紙のざらつきが残る。

 その感触は、押したばかりの印鑑の跡に少し似ていた。

 朱肉の温度が、じわりと皮膚に移ってくる想像をして、そっと手を引っ込める。


 僕は自分のノートを開き直し、無意識に筆跡を比べた。

 文字の癖。行間の幅。余白の取り方。

 どれも、いつの間にか似てきている。

 似せたいわけじゃない。ただ、似ていないと落ち着かないのだ。


 まるで同じ鋳型に溶けた言葉を流し込んで、同じ温度で固めているみたいだ――そんなことを考える。

 “自分で書いた”はずなのに、どこかで彼女の筆圧を感じる。

 彼女の指先が、僕の中に入り込んでペンを動かしているような感覚。

 怖くはない。

 むしろ、それが“共有”の証に思えた。


 彼女と同じ形で呼吸できるなら、僕の輪郭なんて、どうでもよかった。


 ベランダの方から、風のつもりになれないほどの小さな気配がした。

 カーテンの裾が、ほんの指一本ぶんだけ動く。

 近づいてみると、スリッパが一足、壁の方を向いていた。


 前にも、こんなことがあった。

 外へ向かうはずの口が、内側に向いている配置。

 “出るな”とまでは言わない、けれど、どこかで世界がそっと手を置いているみたいな合図。


 向きを直そうとして、僕はやめた。

 直した途端に、何かが変わってしまう気がしたからだ。

 変わってしまった何かの名前は、たぶん今日のうちには思い出せない。


 窓は閉めたままにした。

 ガラス越しの白い空は、音を失った画面のように、明るさだけを残していた。



 ♢


 ノートのページを閉じたあとも、胸の奥に残る感触があった。

 ミオの記録――あの言葉たちは、あまりにも優しくて、あたたかかった。

 でもそのぶん、どこか、少しだけ怖くなった。


 “自発的に書いてくれた”

 “笑ってくれて嬉しかった”


 それはたしかに、事実だった。

 だけど、もしもその逆だったら?

 書かなかったら? 笑わなかったら?

 そのとき彼女のノートには、何が書かれるんだろう。


 一瞬、そう考えてしまった自分に、ぎゅっと背筋が冷たくなる。


 ……それって、正しいのかな?


 問いは、思ったより鋭く、心に刺さってくる。

 自分がしていること。

 自分が“選んでいる”つもりになっている日々。


 全部、ほんとうに、自分の意思だったんだろうか?


 だけど、すぐに、もうひとつの声が囁いた。


 でも、いまの自分は“守られている”――そうじゃないか。


 あの頃の、誰にも必要とされていなかった日々。

 何をしても、何を言っても、ただ空気みたいに透けていた時間。


 それに比べたら、いまはちゃんと誰かの視線の中にいる。

 誰かの「助かる」の中に、自分の行動が含まれている。


 ……それを壊したくない。


 疑って、ほどいて、問い直して、

 また一から関係を組み直すようなこと――

 それは、あまりにも怖すぎる。


 たしかに、すべてが“自由”ではないかもしれない。

 けれど、不自由のなかにも“温度”があった。


 制限の中でしか、得られないものがある。


 そう思うと、少し息がしやすくなった。


 否定するより、納得するほうが、きっと楽なんだ。


 そう結論づけることで、心の中のざわめきは、少しずつ沈静していった。


 “正しさ”なんて、結局いつだって曖昧だ。

 それよりも――目の前の誰かが笑ってくれることのほうが、よっぽど確かだと思えた。


 ――制度の中にいるほうが、きっと楽なんだ。

 ――正しさより、“喜ばれること”のほうが、温かい。


 それは、慰めのようで、どこか祈りにも似ていた。


 僕はまた、ノートを開く。


 そこに書く言葉が、自分の“本音”かどうかは、もうよくわからない。


 けれど――ミオが喜んでくれるなら、それでいいと思った。


 少しずつ、判断力は霞んでいく。

 けれどその霞の中で、形を与えられた自分は、前よりも“存在している”気がしていた。


 ♢


 気づいたのは、ある夜だった。


 ミオがいつものように、静かにノートを閉じた音。

 ページがぱたりと合わさる、その小さな音が、なぜか胸の奥に残った。


 気になって、翌朝、自分のノートを見返してみた。

 昨日書いた記録。

 「今日も、穏やかに過ごせた。ミオの声がやさしかった。」


 ……ふと、その言葉に引っかかる。


 なんとなく――昨日のミオの記録にも、似たようなことが書かれていたような気がした。


 あとで彼女が席を外した隙に、ちらりと机に置かれたノートのページを覗いた。


 そこには、小さな字でこう綴られていた。


 「今日はユウがやさしかった。

 穏やかに笑ってくれた。

 言葉の選び方が、あたたかかった」


 その瞬間、息が止まったような気がした。


 まるで、呼応しているみたいだった。

 別々に書いたはずの言葉が、まるで鏡合わせのようにぴたりと重なっていた。


 偶然――そう言うには、重なりすぎていた。


 気分欄も、ほとんど同じ。


 「ふつう」にチェックを入れた昨日。

 ミオのノートにも、同じ項目に印がついていた。


 まるで、同じ体温で、同じ湿度のなかで呼吸しているみたいに、僕たちの“記録”が重なっていく。


 その一致が、怖いとは思わなかった。

 むしろ、少しだけ安らいだ。


 なんとなく、言葉が揃うと安心する。


 彼女と、同じ気分だった。

 同じことを感じていた。

 そう思えるだけで、自分が“ひとりきりじゃない”ことが証明される気がした。


 でも、それは本当に“偶然”だっただろうか。


 思い返せば、自分は――

 ミオが喜びそうな言葉を、無意識に選んでいた。


 やさしさ。穏やかさ。微笑み。

 それを言葉にすれば、ミオの目が緩んでくれる。


 その安心が、いつの間にか指先を導くようになっていた。


 書く前に、“彼女のノートにありそうな言葉”を、自然と思い浮かべていた。


 だから、揃ってしまうのは当たり前だったのかもしれない。


 けれど、それでもいいと思っていた。


 “同じ言葉”が、ふたりのあいだに橋を架けてくれるなら。


 それは、偽物でも、ごっこ遊びでもなく――

 ちゃんと“ほんとう”に変わっていくような気がした。


 ♢


 昼過ぎ、支援センターから電話が入った。

 ミオが受話器を取り、静かな声で応対する。

「はい、大丈夫です。次回も同じ時間で」

 短い会話。内容は、通院の日時の確認と、更新書類の受け渡し。

 受話器がフックに戻る音がして、部屋はふたたび静かになった。


「来週、また先生のところね」

「うん」

「帰り、紅茶買って帰ろうか」

「……いいね」


 ささやかな会話が、部屋の真ん中をやさしく通り過ぎていく。

 それは風ではなく、規則の形をしていた。

 予定があることが、僕たちの足元を安定させる。

 予定は、祈りの時間割みたいなものだ。


 ミオは冷蔵庫のマグネットに、新しいメモをもう一つ重ねる。

 紙の角が、他の紙の角とぴたりと合う。

 角と角が重なるのを見ているだけで、僕は少し落ち着いた。


 ♢


 夜、部屋の照明を少しだけ落として、僕は机に向かっていた。

 ポットの湯気がカップのふちで静かに揺れている。

 ページをめくる音も、ペン先が紙を擦る音も、この部屋ではすべてが“生活の一部”になっていた。


 ノートを開き、日付を書き込む。

 それだけで、今日がちゃんと“存在”したことになる気がした。


 気分欄には「良い」にチェックをつけた。

 でも、それは“自分の気分”というより――彼女が笑ってくれた一日のことを思い返しての選択だった。


 昼間、洗濯物を少し丁寧に畳んだら、ミオが「きれいにできたね」と言ってくれた。

 そのときの声が、どこまでもやわらかくて、なんだか、胸の奥に小さな灯りがともったようだった。


 ノートに、今日の行動を箇条書きで記す。


 ・洗濯物たたみ

 ・皿洗い(昼・夜)

 ・記録記入(朝・夜)

 ・ミオと紅茶


 そして、一行あけて、ぼんやりと考える。


 「今日は、ちゃんと“いい一日”だったかな?」


 その問いが、ふと浮かんでくる。

 でも、それはもう“自分にとって”の問いではなかった。


 “ミオにとって”どうだったか。

 彼女の視線から見て、自分は今日、ちゃんと“優しく在れた”だろうか。

 笑って、気を配って、乱さないように、彼女の期待に沿っていられただろうか。


 そう思いながら、祈り欄にペンを走らせる。


 「きみが喜ぶように、明日もちゃんと、生きていけますように」


 それは祈りというより、“誓い”に近かった。


 自分の生き方が、誰かの喜びに沿ってあること。

 そのなかでなら、きっと間違わずに歩いていける。


 ページを閉じる。

 指先に残る紙のぬくもりが、どこか心地よかった。


 机の端には、支援員が置き忘れたチェック表が一枚。

 「観察項目:服薬遵守・清潔保持・対人反応」。

 そこに押された丸印の列が、祈りの三項のように見える。

 ミオが持ってきた朱肉の蓋が半ば開いていて、印鑑の赤がわずかに滲んでいた。

 紙の端が、僕のノートの“祈り欄”の下に重なっている。

 境目が曖昧になって、制度と祈りがひとつの印で結ばれているみたいだった。


 触れようとして、やめる。

 朱の色が指に移ってしまったら、戻れなくなる気がした。


 ♢


 夕方、ミオが透明のジッパーファイルを二つ持ってきた。

 ひとつは受診の当日用、もうひとつは提出書類の控え。

 保険証、受給者証、診察券、身分証のコピー。順番に重ね、ずれないように角を合わせる。

 重なり合うプラスチックの光が、薄い湖みたいに静かだった。


「印、押しとくね」

 ミオが朱肉を開け、提出書類の同意欄に小さく印を置く。

 赤は強い色だけれど、この部屋では不思議と静かに見える。

 印影の輪郭が少しだけ滲み、紙の繊維に吸い込まれていく。

 その滲みを、僕は息を止めて見つめてしまう。


「明日の準備、もう半分終わった感じがするね」

「うん。半分終わったら、ほとんど終わった気になる」


 ふたりで少し笑った。

 笑い声は短く、音程は低い。

 すぐに部屋の壁に吸い込まれて、あとには整った静けさが残った。


 ♢


 一方そのころ、隣の部屋。

 ミオは自分の机に座り、同じようにノートを開いていた。


 いつも通りの書式。

 整った文字で、今日一日のことを静かに綴っていく。


 「今日はユウが、穏やかに過ごしてくれた。

 お昼に“ありがとう”って言ってくれた。

 顔が優しくて、声も静かで、とても嬉しかった」


 その一文を書き終えたあと、ミオは微かに笑って、ページの端に飾りのように小さく「◎」をつけた。


 “よくできました”のように。


 ノートを閉じる音が、小さく鳴った。


 その瞬間、同じタイミングで、隣の部屋でも、もうひとつのノートが閉じられていた。


 ふたりは、互いの部屋で、互いに気づかないまま、同じ所作をしていた。


 同じ時間に、同じように記録し、同じようにページを閉じる。


 感情も、行動も、祈りさえも――

 いつの間にか、ぴたりと重なり合っていた。


 廊下にそって、二つの部屋の灯りが同時に少しずつ落ちる。

 照明の白が淡くなって、壁の影が均一になる。

 秒針が一度だけ音を立て、すぐに静かになる。


 ふたりの世界は、もうとっくに“制度”として完成していた。


 けれどそれは、強制でも脅しでもなく、ただ“やさしい選択”の積み重ねだった。


 穏やかな、でも確実な同調。

 そして、祈りという名の支配。


 夜の九時を少し過ぎたころ、スマートフォンが短く震えた。

 画面には「明日の来所予約のご案内」とだけ表示されている。

 自動送信の文面。句読点の位置まで寸分たがわず、毎回まったく同じ言葉。


「確認したよ」

「ありがとう」


 ミオが自分のノートに、今日の最後の一行を加える。

 ――通知確認。明日の準備、完了。

 それは事務的な文なのに、どこか祈りに近い温度を帯びていた。


 僕も、ノートの隅に小さく書く。

 ――同じ通知を受け取って、同じ夜を過ごした。


 画面を伏せると、光は消え、部屋はまた元の白い暗さに戻る。

 外の世界は、薄い輪郭だけをこちらに渡して、すぐに去っていった。


 ――記録することは、ふたりの愛のかたちになっていった。


 窓の向こうで、夜風がカーテンをわずかに持ち上げる。

 でも風は部屋には入ってこない。

 内側の空気は、静かに、正しく、眠ろうとしていた。


 寝室の灯りを落とすと、壁紙の白がゆっくりと灰に近づいていく。

 冷蔵庫の小さな稼働音が一度だけ息をして、止まる。

 遠くの道路を走る車の光が、カーテンの下で細く揺れ、それもやがて静まった。


 隣の部屋から、紙の端が重なる小さな音がする。

 ミオがノートを重ね、角を揃えている音だと、もう分かる。

 僕の胸の鼓動が、その音に合わせて二拍だけ遅れる。

 遅れたまま、ふたりの呼吸がゆっくり同じ深さになる。


 机の上に置き忘れたチェック表の赤い印影だけが、薄闇の中で最後まで息をしていた。

 赤は、祈りの色にも、制度の色にも見えた。

 どちらでもよくて、どちらでもこわかった。


 僕は目を閉じて、白い暗さのなかで小さくつぶやく。

 ――明日も、正しくありますように。


 その言葉は、誰にも届かない。

 けれど、届かないままで、たしかにここにあった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


この話では、“正しさ”という言葉のやさしさと残酷さを、静かに描きたかったのです。

誰かを責めるでもなく、救うでもなく、ただ――整いすぎた日常の中で、心が少しずつ形を失っていく。

そんな感覚を、朝の光や紙の手触りの中に溶かし込みました。


ユウにとって、記録を書くことは「生きている証」でした。

けれどその行為が、次第に“誰かに見せるための祈り”へと変わっていく。

支援員の言葉も、ミオの微笑みも、どれも優しいのに――

その優しさの中で、彼は少しずつ「自分の言葉」を差し出してしまう。


人は、怒鳴られなくても、支配されることがある。

それは、愛されたいという願いの形をして訪れる。


この回は、そんな“穏やかな支配”の始まりを描いたつもりです。

美しいものほど、ひとを縛る。

けれどその縛りを受け入れてしまう瞬間に、

私たちはきっと「生きている」と感じてしまうのかもしれません。


次の話でも、この静けさの続きに触れてください。

ふたりの世界は、まだ“正しく”続いていきます。


霜月ルイ

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