第29話:祈りのチェックリスト。
朝のノート。
朱の印。
「理想的です」という褒め言葉。
この話で描きたかったのは、“正しさ”がいつの間にか祈りに変わっていく瞬間です。
制度のやさしさと、ふたりの愛のやさしさが同じ温度で重なったとき、
どちらが祈りで、どちらが支配なのか――境界はもう見えなくなる。
穏やかな日常の中で、少しずつ壊れていく音を、静かに聴いてください。
朝の光は、やわらかく、まだ白く滲んでいた。
カーテンの隙間から射し込む光に目を細めながら、僕はゆっくりとベッドから体を起こす。
寝癖を手で撫でつけるように整えて、寝室を出る。
洗面台で顔を洗い、ぬるま湯を両手ですくって目元に落とすと、皮膚の奥がじわっと目を覚ましていく感覚があった。
湯を沸かす音が、静かな部屋に溶けていく。
キッチンタイマーのカウントが、リズムのように響く中で、僕は自然と机の前に座った。
そこには、いつものノートが置かれている。
表紙は、ミオが貼ってくれたラベルで「ユウの記録帳」と書かれている。
最初は、ただの“提案”だった。
「書いてみたら、落ち着くかもしれないよ」
そんな軽い調子だったはずなのに――気がつけば、毎朝の“はじまり”になっていた。
いまはもう、書かないと落ち着かない。
何かが抜け落ちたような、生活に空白ができてしまったような、そんなそわそわした感覚があった。
ノートを開く。
今日のページは、白紙のままだ。
ゆっくりとペンを取る。
「6月6日」
日付欄に数字を書き入れた瞬間、わずかに肩の力が抜ける。
ペン先の動きに合わせて、空気がかすかに震える。
ノートの紙が、音を立てて呼吸しているようだった。
書くという行為が、まるで“お祈り”のように感じられることがある。
日付を記すたびに、何かを差し出すような気分になる。
書き間違えないように、ゆっくりと、一画ずつ形を確かめる。
この線の角度ひとつにも、何か意味があるような気がして。
文字が整うたび、世界の秩序が少しだけ定まっていく。
それは、神さまに「今日もここにいます」と報告しているような――そんな静けさだった。
この一行で、なぜか今日が“始まった”ような気がする。
次に、気分欄。
☐とても良い
☐良い
︎︎︎︎︎︎☑︎ふつう
☐少し疲れた
☐つらい
迷いなく「ふつう」にチェックを入れる。
けれど、その横に小さく文字を添える。
「ミオの機嫌は良さそうだった」
……気分の欄なのに、なぜか彼女のことを書いている。
でも、それが自然だった。
自分の気分は、きっと彼女の調子と連動している。
そう思うようになっていた。
「今日やること」欄に、箇条書きで書き込んでいく。
・皿洗い(朝の分)
・洗濯物たたむ
・ノート書く(夜)
その下の「今日の目標」には、こう書いた。
「ミオにありがとうを言う」
なんとなく、昨日の夜の顔が浮かんだ。
湯上がりに静かに微笑んでいたミオの横顔。
あれが、ちゃんと“報われた”顔に見えた気がして――
最後に、祈り欄。
今日は何を願えばいいだろう。
ふと迷って、そしてペンが動く。
「今日も、穏やかに終われますように」
それを書き終えると、胸の奥にゆっくりとした呼吸が満ちてくる。
書き終えたページを眺めながら、僕は思う。
これはきっと、自分のための言葉なんだ。
けれど、どこかで――彼女が“読むかもしれない”ことも、ちゃんと意識している。
だからこそ、書く言葉を、ほんの少しだけ選んでしまう。
今日も、きみが喜んでくれますように――
その想いが、祈りとして、記録の行間に染み込んでいく。
♢
チャイムが鳴った。
金属の粒が空気に触れるみたいに、音が一度だけ部屋の温度を下げる。
訪問支援員が来る日だった。
ミオが立ち上がり、鍵を回す音がして、白い靴下の足音がゆっくりと玄関に吸い込まれていく。
「こんにちは。失礼しますね」
やわらかい声。
書類の擦れる音、アルコールの匂い。
支援員は名前を名乗ったけれど、僕にはその音が「制度」の呼吸に聞こえた。
冷蔵庫の扉が開く。
賞味期限、在庫、整列。
「清潔に保たれていますね」「お薬も、きれいに並んでます」
言葉はやさしいけれど、どこか検査結果の読み上げのようだった。
卓上にはチェック表。
観察項目の欄に、小さな丸がひとつひとつ増えていく。
「服薬」「食生活」「対人反応」。
丸が整列していくほどに、僕はなぜだか呼吸が浅くなる。
「理想的です」
支援員がそう言ったとき、ミオの肩がほんの少しだけ緩んだ。
僕も、同じように力が抜けるのを感じる。
理想的。きっと褒め言葉だ。
…
なのに、その音だけが長く残った。
誰の理想だろう――僕たちの? 紙の上の?
支援員はピルケースの曜日を確かめ、次回の通院の確認をする。
「来週の木曜、午前の予約、念のためメモ置いておきますね」
冷蔵庫のマグネットに小さな紙が増える。
書体は無機質で、きれいだった。
「何か困りごとはありますか?」
訊かれるたび、僕は少し考えてから首を横に振る。
困っていることは、たぶん、ない。
“困りごと”が何かを、うまく言葉にできないだけだ。
支援員は穏やかに笑って、玄関で靴を履く。
「変わりがあれば、いつでも」
ドアが閉まる。カチリ。
部屋の空気が、ふたたび“内側”に戻ってくる。
「ね、ちゃんとできてたね」
テーブルに戻ると、支援員が置いていった薄い封筒がひとつ残っていた。
「更新書類在中」と印字されたグレーの文字。角がやや柔らかく、何度も誰かの鞄に入れられてきた履歴が紙の繊維に残っている。
封を開けると、折り目のついたA4が二枚。
自立支援医療の更新申請。必要書類の欄に、小さく「診断書・保険証・マイナンバー写し」と並んでいる。
どれもむずかしい言葉ではないのに、目で追うだけで指先が冷える。文字の並びが、まるで水の流れに逆らって歩くみたいに、少しずつ体温を奪っていく。
「あとで僕、コピーとるね」
「うん。ありがとう」
ミオがそう言って、書類を透明のクリアファイルに滑らせる。ファイルの背はもう何色も重なり、虹のようになっていた。
虹なのに、あまり嬉しくはない種類の色だと思う。
棚から家計のノートを取り出す。
表紙に小さく「記録」とだけ書いてある。
電気、ガス、水道。冷蔵庫に貼ったレシートを一枚ずつ剥がして、糊で貼りなおす。
貼る位置を揃えるたび、安心がすこしずつ積みあがっていく。ズレると、胸の中の針もわずかに傾く。
「来週の受診、交通費は往復でこれくらいかな」
「PASMO、チャージしとこっか」
数字を声に出すと、現実が曖昧さを失って、言葉の形で手に残る。
金額の小さな桁にも、僕たちの一日が詰まっているように思えた。
ミオの声が、いつもより少し白く聞こえた。
頷くと、胸の内側で小さな音がした。
安堵の音。
でも、それだけじゃない何かが、静かに沈んでいった。
♢
洗濯物を畳むのは、嫌いじゃなかった。
乾いたタオルの手触りも、整然としたシワのないTシャツの重なりも、なぜか“自分が役に立てている”という感覚をくれる。
それはきっと、病院にいた頃にはなかったものだった。
畳み終えた服を、決められた順番で引き出しにしまっていく。
ミオが決めた順番。色の濃いものが下、よく使う白シャツが上。
その通りに並べてから、ふう、と小さく息を吐いた。
「……丁寧だね。助かる」
振り返ると、ミオがキッチンの入口でこちらを見ていた。
笑っていた。目も、口元も、ほんのりあたたかくて。
その一言が、胸の奥にじんわりと染みていくのを感じた。
ありがとう、でもなく。
上手だね、でもない。
“助かる”――そう言われたことが、どこかで“必要とされている”ように思えた。
何かが、報われた気がした。
ほんの小さなことなのに、それだけで自分の輪郭が整ったような、そんな気持ちになった。
昼は、昨日とほとんど同じ献立にした。
同じ形の皿、同じ位置。スープの表面に浮かぶ油の輪が、左右で似た模様をつくる。
ミオがスプーンを置くタイミングと、僕がコップを持ち上げるタイミングが、自然と重なる。
「同じって、落ち着くね」
「うん。繰り返すと、安心する」
会話は短く、温度は保たれ、音は小さい。
食べ終わった皿の白い面に、最後の水滴が転がって止まる。
止まる位置までが“予定調和”のようで、僕は思わずその小さな水の楕円に見入ってしまった。
昔は違った。
怒られないように、否定されないように、機嫌を損ねないように。
言葉の端に怯えていた。
無視も、舌打ちも、ずっと怖かった。
けれど――いまは違う。
どうすれば、ミオに褒めてもらえるか。
そんなことを、自然と考えるようになっていた。
それは必死さでも、媚びでもないはずだ。
ただ、彼女の笑顔が、見たいだけだった。
“褒められる”って、こんなに、嬉しいことなんだな。
子どもの頃に知らなかった感情が、ようやく自分の中に根づいてきた気がする。
机に戻って、朝のノートを読み返す。
「今日は、ちゃんとできた」――かつては、そう書いていた。
でもいま、そこにはこう記してあった。
「きっとミオが喜んでくれる」
その言葉を見て、思わず小さく笑ってしまった。
“怒られなかった”では、足りなかったんだ。
“喜ばせたい”という気持ちがあることに、ようやく気づけた。
それが、たとえ彼女の望む形に過ぎなくても――
そこに、ちゃんと“僕の意思”があるような気がしていた。
明日も、たぶん僕は洗濯物を畳む。
できるだけ、きれいに。
ミオがまた、微笑んでくれるように。
その笑顔を思い浮かべながら、僕はノートの余白に、そっと書き足した。
「今日は、自分のためにじゃなくて、きみのために、ちゃんと動けた気がする」
それが“正しい”かどうかは、わからない。
でも、心はどこか穏やかだった。
引き出しを閉める前に、指先で木の縁をなぞる。
木目の温度が掌に移ってきて、脈の鼓動みたいに微かに返ってくる。
十四時の少し前、キッチンタイマーが一度だけ短く鳴った。
頓服ではないけれど、いくつかの薬は「食後二時間」の目安がある。
ピルケースの「木」の小部屋を開けて、錠剤を掌に落とす。半分に割って使う薬は、刻印の溝に沿ってカッターで静かに割る。
パキン、と小さく、清潔な音がする。欠片の角が光を帯びて、一瞬だけ砂糖みたいに見えた。
「水、多めに飲んでね」
「うん」
コップを唇に当てると、ガラスの冷たさが歯の裏に伝わる。
飲み込む際の喉の動きが、時計の秒針に重なる。
からだの内側で「正しい」が、目に見えない印を押すみたいに静かに鳴った。
たぶん、こういう瞬間のために僕は生きている――そんなことまで思った。
♢
ノートが開いたまま、机の上に置かれていた。
表紙は見覚えのある色で、手に取らずとも誰のものかわかった。
淡いピンクのカバー。背表紙に貼られた、控えめな文字。
「M. M. 記録ノート」
たぶん――ミオの、記録用のノート。
名前が伏せられているのも、“記録”という響きも、彼女らしいなと思った。
いつもなら、そっと目を逸らす。
これはきっと、“見られること”を前提にしていない場所。
誰にも触れられないようにしまわれている、心の形のようなもの。
けれどその日は、ページが風でわずかにめくれていた。
机の下から空気が流れたのか、あるいは――偶然、じゃないのかもしれなかった。
気づけば、視線がページの行をなぞっていた。
丁寧な文字。整った書式。どこか、僕のノートと似ている。
「6月6日(木)」
日付の下に、小さく書き込まれていた。
「朝、ユウが自分から記録を書いてくれた。
ページを見たとき、少し照れくさそうにしていた。
でもそのあと、“お湯わかしておいたよ”って言ってくれた。
笑っていた。……とても嬉しかった。」
息が止まった。
怒られていたわけじゃない。
指摘されたわけでもない。
ただ――僕の“行動”が、彼女の“嬉しかった”に繋がっていた。
自発的に記録を書いたこと。
言葉を交わしたこと。
笑ったこと。
それが、“彼女の嬉しさ”として、こうして残っている。
なんだろう、この感じ。
強制されているわけじゃない。
でも――その一行一行が、僕の胸の奥にじわじわと沈んでいった。
「ミオの“嬉しかった”って、僕の行動と一対になってるんだ……」
呟くでもなく、心の中にぽたりと落ちたその実感は、不思議なくらい温かくて、でもどこか引っかかるような感触だった。
押しつけられたルールじゃない。
けれど、書かれた言葉が“答え合わせ”のように見えてくる。
ああ、これが――“愛される条件”なのかもしれない。
気づけば、そんなふうに腑に落ちていた。
それを重いとは思わなかった。
むしろ、ようやく“正解”がわかったような気さえしていた。
ページを閉じても、指先に紙のざらつきが残る。
その感触は、押したばかりの印鑑の跡に少し似ていた。
朱肉の温度が、じわりと皮膚に移ってくる想像をして、そっと手を引っ込める。
僕は自分のノートを開き直し、無意識に筆跡を比べた。
文字の癖。行間の幅。余白の取り方。
どれも、いつの間にか似てきている。
似せたいわけじゃない。ただ、似ていないと落ち着かないのだ。
まるで同じ鋳型に溶けた言葉を流し込んで、同じ温度で固めているみたいだ――そんなことを考える。
“自分で書いた”はずなのに、どこかで彼女の筆圧を感じる。
彼女の指先が、僕の中に入り込んでペンを動かしているような感覚。
怖くはない。
むしろ、それが“共有”の証に思えた。
彼女と同じ形で呼吸できるなら、僕の輪郭なんて、どうでもよかった。
ベランダの方から、風のつもりになれないほどの小さな気配がした。
カーテンの裾が、ほんの指一本ぶんだけ動く。
近づいてみると、スリッパが一足、壁の方を向いていた。
前にも、こんなことがあった。
外へ向かうはずの口が、内側に向いている配置。
“出るな”とまでは言わない、けれど、どこかで世界がそっと手を置いているみたいな合図。
向きを直そうとして、僕はやめた。
直した途端に、何かが変わってしまう気がしたからだ。
変わってしまった何かの名前は、たぶん今日のうちには思い出せない。
窓は閉めたままにした。
ガラス越しの白い空は、音を失った画面のように、明るさだけを残していた。
♢
ノートのページを閉じたあとも、胸の奥に残る感触があった。
ミオの記録――あの言葉たちは、あまりにも優しくて、あたたかかった。
でもそのぶん、どこか、少しだけ怖くなった。
“自発的に書いてくれた”
“笑ってくれて嬉しかった”
それはたしかに、事実だった。
だけど、もしもその逆だったら?
書かなかったら? 笑わなかったら?
そのとき彼女のノートには、何が書かれるんだろう。
一瞬、そう考えてしまった自分に、ぎゅっと背筋が冷たくなる。
……それって、正しいのかな?
問いは、思ったより鋭く、心に刺さってくる。
自分がしていること。
自分が“選んでいる”つもりになっている日々。
全部、ほんとうに、自分の意思だったんだろうか?
だけど、すぐに、もうひとつの声が囁いた。
でも、いまの自分は“守られている”――そうじゃないか。
あの頃の、誰にも必要とされていなかった日々。
何をしても、何を言っても、ただ空気みたいに透けていた時間。
それに比べたら、いまはちゃんと誰かの視線の中にいる。
誰かの「助かる」の中に、自分の行動が含まれている。
……それを壊したくない。
疑って、ほどいて、問い直して、
また一から関係を組み直すようなこと――
それは、あまりにも怖すぎる。
たしかに、すべてが“自由”ではないかもしれない。
けれど、不自由のなかにも“温度”があった。
制限の中でしか、得られないものがある。
そう思うと、少し息がしやすくなった。
否定するより、納得するほうが、きっと楽なんだ。
そう結論づけることで、心の中のざわめきは、少しずつ沈静していった。
“正しさ”なんて、結局いつだって曖昧だ。
それよりも――目の前の誰かが笑ってくれることのほうが、よっぽど確かだと思えた。
――制度の中にいるほうが、きっと楽なんだ。
――正しさより、“喜ばれること”のほうが、温かい。
それは、慰めのようで、どこか祈りにも似ていた。
僕はまた、ノートを開く。
そこに書く言葉が、自分の“本音”かどうかは、もうよくわからない。
けれど――ミオが喜んでくれるなら、それでいいと思った。
少しずつ、判断力は霞んでいく。
けれどその霞の中で、形を与えられた自分は、前よりも“存在している”気がしていた。
♢
気づいたのは、ある夜だった。
ミオがいつものように、静かにノートを閉じた音。
ページがぱたりと合わさる、その小さな音が、なぜか胸の奥に残った。
気になって、翌朝、自分のノートを見返してみた。
昨日書いた記録。
「今日も、穏やかに過ごせた。ミオの声がやさしかった。」
……ふと、その言葉に引っかかる。
なんとなく――昨日のミオの記録にも、似たようなことが書かれていたような気がした。
あとで彼女が席を外した隙に、ちらりと机に置かれたノートのページを覗いた。
そこには、小さな字でこう綴られていた。
「今日はユウがやさしかった。
穏やかに笑ってくれた。
言葉の選び方が、あたたかかった」
その瞬間、息が止まったような気がした。
まるで、呼応しているみたいだった。
別々に書いたはずの言葉が、まるで鏡合わせのようにぴたりと重なっていた。
偶然――そう言うには、重なりすぎていた。
気分欄も、ほとんど同じ。
「ふつう」にチェックを入れた昨日。
ミオのノートにも、同じ項目に印がついていた。
まるで、同じ体温で、同じ湿度のなかで呼吸しているみたいに、僕たちの“記録”が重なっていく。
その一致が、怖いとは思わなかった。
むしろ、少しだけ安らいだ。
なんとなく、言葉が揃うと安心する。
彼女と、同じ気分だった。
同じことを感じていた。
そう思えるだけで、自分が“ひとりきりじゃない”ことが証明される気がした。
でも、それは本当に“偶然”だっただろうか。
思い返せば、自分は――
ミオが喜びそうな言葉を、無意識に選んでいた。
やさしさ。穏やかさ。微笑み。
それを言葉にすれば、ミオの目が緩んでくれる。
その安心が、いつの間にか指先を導くようになっていた。
書く前に、“彼女のノートにありそうな言葉”を、自然と思い浮かべていた。
だから、揃ってしまうのは当たり前だったのかもしれない。
けれど、それでもいいと思っていた。
“同じ言葉”が、ふたりのあいだに橋を架けてくれるなら。
それは、偽物でも、ごっこ遊びでもなく――
ちゃんと“ほんとう”に変わっていくような気がした。
♢
昼過ぎ、支援センターから電話が入った。
ミオが受話器を取り、静かな声で応対する。
「はい、大丈夫です。次回も同じ時間で」
短い会話。内容は、通院の日時の確認と、更新書類の受け渡し。
受話器がフックに戻る音がして、部屋はふたたび静かになった。
「来週、また先生のところね」
「うん」
「帰り、紅茶買って帰ろうか」
「……いいね」
ささやかな会話が、部屋の真ん中をやさしく通り過ぎていく。
それは風ではなく、規則の形をしていた。
予定があることが、僕たちの足元を安定させる。
予定は、祈りの時間割みたいなものだ。
ミオは冷蔵庫のマグネットに、新しいメモをもう一つ重ねる。
紙の角が、他の紙の角とぴたりと合う。
角と角が重なるのを見ているだけで、僕は少し落ち着いた。
♢
夜、部屋の照明を少しだけ落として、僕は机に向かっていた。
ポットの湯気がカップのふちで静かに揺れている。
ページをめくる音も、ペン先が紙を擦る音も、この部屋ではすべてが“生活の一部”になっていた。
ノートを開き、日付を書き込む。
それだけで、今日がちゃんと“存在”したことになる気がした。
気分欄には「良い」にチェックをつけた。
でも、それは“自分の気分”というより――彼女が笑ってくれた一日のことを思い返しての選択だった。
昼間、洗濯物を少し丁寧に畳んだら、ミオが「きれいにできたね」と言ってくれた。
そのときの声が、どこまでもやわらかくて、なんだか、胸の奥に小さな灯りがともったようだった。
ノートに、今日の行動を箇条書きで記す。
・洗濯物たたみ
・皿洗い(昼・夜)
・記録記入(朝・夜)
・ミオと紅茶
そして、一行あけて、ぼんやりと考える。
「今日は、ちゃんと“いい一日”だったかな?」
その問いが、ふと浮かんでくる。
でも、それはもう“自分にとって”の問いではなかった。
“ミオにとって”どうだったか。
彼女の視線から見て、自分は今日、ちゃんと“優しく在れた”だろうか。
笑って、気を配って、乱さないように、彼女の期待に沿っていられただろうか。
そう思いながら、祈り欄にペンを走らせる。
「きみが喜ぶように、明日もちゃんと、生きていけますように」
それは祈りというより、“誓い”に近かった。
自分の生き方が、誰かの喜びに沿ってあること。
そのなかでなら、きっと間違わずに歩いていける。
ページを閉じる。
指先に残る紙のぬくもりが、どこか心地よかった。
机の端には、支援員が置き忘れたチェック表が一枚。
「観察項目:服薬遵守・清潔保持・対人反応」。
そこに押された丸印の列が、祈りの三項のように見える。
ミオが持ってきた朱肉の蓋が半ば開いていて、印鑑の赤がわずかに滲んでいた。
紙の端が、僕のノートの“祈り欄”の下に重なっている。
境目が曖昧になって、制度と祈りがひとつの印で結ばれているみたいだった。
触れようとして、やめる。
朱の色が指に移ってしまったら、戻れなくなる気がした。
♢
夕方、ミオが透明のジッパーファイルを二つ持ってきた。
ひとつは受診の当日用、もうひとつは提出書類の控え。
保険証、受給者証、診察券、身分証のコピー。順番に重ね、ずれないように角を合わせる。
重なり合うプラスチックの光が、薄い湖みたいに静かだった。
「印、押しとくね」
ミオが朱肉を開け、提出書類の同意欄に小さく印を置く。
赤は強い色だけれど、この部屋では不思議と静かに見える。
印影の輪郭が少しだけ滲み、紙の繊維に吸い込まれていく。
その滲みを、僕は息を止めて見つめてしまう。
「明日の準備、もう半分終わった感じがするね」
「うん。半分終わったら、ほとんど終わった気になる」
ふたりで少し笑った。
笑い声は短く、音程は低い。
すぐに部屋の壁に吸い込まれて、あとには整った静けさが残った。
♢
一方そのころ、隣の部屋。
ミオは自分の机に座り、同じようにノートを開いていた。
いつも通りの書式。
整った文字で、今日一日のことを静かに綴っていく。
「今日はユウが、穏やかに過ごしてくれた。
お昼に“ありがとう”って言ってくれた。
顔が優しくて、声も静かで、とても嬉しかった」
その一文を書き終えたあと、ミオは微かに笑って、ページの端に飾りのように小さく「◎」をつけた。
“よくできました”のように。
ノートを閉じる音が、小さく鳴った。
その瞬間、同じタイミングで、隣の部屋でも、もうひとつのノートが閉じられていた。
ふたりは、互いの部屋で、互いに気づかないまま、同じ所作をしていた。
同じ時間に、同じように記録し、同じようにページを閉じる。
感情も、行動も、祈りさえも――
いつの間にか、ぴたりと重なり合っていた。
廊下にそって、二つの部屋の灯りが同時に少しずつ落ちる。
照明の白が淡くなって、壁の影が均一になる。
秒針が一度だけ音を立て、すぐに静かになる。
ふたりの世界は、もうとっくに“制度”として完成していた。
けれどそれは、強制でも脅しでもなく、ただ“やさしい選択”の積み重ねだった。
穏やかな、でも確実な同調。
そして、祈りという名の支配。
夜の九時を少し過ぎたころ、スマートフォンが短く震えた。
画面には「明日の来所予約のご案内」とだけ表示されている。
自動送信の文面。句読点の位置まで寸分たがわず、毎回まったく同じ言葉。
「確認したよ」
「ありがとう」
ミオが自分のノートに、今日の最後の一行を加える。
――通知確認。明日の準備、完了。
それは事務的な文なのに、どこか祈りに近い温度を帯びていた。
僕も、ノートの隅に小さく書く。
――同じ通知を受け取って、同じ夜を過ごした。
画面を伏せると、光は消え、部屋はまた元の白い暗さに戻る。
外の世界は、薄い輪郭だけをこちらに渡して、すぐに去っていった。
――記録することは、ふたりの愛のかたちになっていった。
窓の向こうで、夜風がカーテンをわずかに持ち上げる。
でも風は部屋には入ってこない。
内側の空気は、静かに、正しく、眠ろうとしていた。
寝室の灯りを落とすと、壁紙の白がゆっくりと灰に近づいていく。
冷蔵庫の小さな稼働音が一度だけ息をして、止まる。
遠くの道路を走る車の光が、カーテンの下で細く揺れ、それもやがて静まった。
隣の部屋から、紙の端が重なる小さな音がする。
ミオがノートを重ね、角を揃えている音だと、もう分かる。
僕の胸の鼓動が、その音に合わせて二拍だけ遅れる。
遅れたまま、ふたりの呼吸がゆっくり同じ深さになる。
机の上に置き忘れたチェック表の赤い印影だけが、薄闇の中で最後まで息をしていた。
赤は、祈りの色にも、制度の色にも見えた。
どちらでもよくて、どちらでもこわかった。
僕は目を閉じて、白い暗さのなかで小さくつぶやく。
――明日も、正しくありますように。
その言葉は、誰にも届かない。
けれど、届かないままで、たしかにここにあった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この話では、“正しさ”という言葉のやさしさと残酷さを、静かに描きたかったのです。
誰かを責めるでもなく、救うでもなく、ただ――整いすぎた日常の中で、心が少しずつ形を失っていく。
そんな感覚を、朝の光や紙の手触りの中に溶かし込みました。
ユウにとって、記録を書くことは「生きている証」でした。
けれどその行為が、次第に“誰かに見せるための祈り”へと変わっていく。
支援員の言葉も、ミオの微笑みも、どれも優しいのに――
その優しさの中で、彼は少しずつ「自分の言葉」を差し出してしまう。
人は、怒鳴られなくても、支配されることがある。
それは、愛されたいという願いの形をして訪れる。
この回は、そんな“穏やかな支配”の始まりを描いたつもりです。
美しいものほど、ひとを縛る。
けれどその縛りを受け入れてしまう瞬間に、
私たちはきっと「生きている」と感じてしまうのかもしれません。
次の話でも、この静けさの続きに触れてください。
ふたりの世界は、まだ“正しく”続いていきます。
霜月ルイ




