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【祝1500PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第2章: ふたりだけの世界。
28/28

第28話:記録だけが、祈ってくれる

今日は、書くことの意味についての話です。

祈るように、黙って記す。それだけで、心のどこかが動いてしまうこともあるのだと思います。

 朝の空気は、まだ湿っていた。


 部屋の奥に籠もるような温度を感じて、僕はふと思い立つ。

 「少し、空気を入れ替えようか」と、ぼんやりと口の中で呟く。

 意識より先に体が動く、そんな軽さだった。


 カーテンを片手で払い、窓をゆっくりと開けると、薄曇りの空が広がっていた。

 風はない。けれど、どこかで誰かが動いているような気配だけが、遠くの空気に混じっていた。


 ベランダへ出ようとして、足元に目を落とす。


 ――そこで、ふと止まった。


 スリッパが、なかった。

 いや、正確には“ある”。けれど、その向きが違っていた。


 ほんの些細なこと。

 でも、その“ほんの少し”が、いつも僕を壊すのだと、どこかで知っていた。

 きっちり揃えられた日常の中に、わずかな“異物”があるだけで、世界は音もなく軋みを上げる。

 それを言葉にすれば壊れてしまいそうで、僕は今日も黙っている。


 いつもなら、きちんと外側に揃えて置かれているはずのスリッパ。

 今朝のそれは、内側に、ベランダと反対側を向いていた。

 まるで、“出るな”と誰かに言われているような配置だった。


 ほんの些細なこと。

 きっと、偶然のズレ。


 でも――なぜか、胸の奥がきゅっと収縮する。

 その違和感に、名前がつかない。


 「……あれ?」


 声に出してみると、ますます奇妙だった。

 けれど、それ以上スリッパに手を伸ばす気には、どうしてもなれなかった。


 出てはいけない。

 そんなふうに、どこかで思ってしまった自分に気づいて、苦笑いが浮かぶ。


 ただの向き。

 ただの偶然。


 ……なのに、足が前に出なかった。


 カーテンの裾が、わずかに風で揺れていた。

 それだけが、この空間と外をつなぐ唯一の“通路”のようだった。


 数秒、そのまま立ち尽くしたあと、僕は何も言わずに窓を閉じた。


 風も、空気も、今は別に必要なかった。

 そう思えば、理由なんていくらでも作れる。


 それでも、閉じた窓越しに見えた雲の色が、やけに遠く思えたのは――きっと気のせいじゃなかった。

 その“気のせいじゃなかった”感覚は、昼を過ぎても、どこか身体の奥に残っていた。


 視線の端にスリッパが映るたび、なぜか心がかすかにざわめいた。

 ただ置かれているだけの、それ以上でも以下でもないはずのものに、目が引き寄せられてしまう。


 どうしてこんなにも、気になるんだろう。


 少しだけ、その“ズレ”を戻そうかとも思った。

 けれど、それをすると“何かが変わってしまう”気がして、手を伸ばすことができなかった。


 もしかしたらあれは、彼女なりの小さなサインなのかもしれない。

 外に出るな、という“何か”の意思――そんなふうに思ってしまった自分が、少し怖かった。

 違う。

 ただの偶然。


 そう思い込もうとするたびに、胸の奥が妙に冷えて、言葉にならない感情が喉の奥にひっかかった。



 ♢



 昼前、届いたばかりのネットスーパーの袋を、ひとつずつ台所のカウンターに並べていた。


 重さはそれほどでもない。けれど、品数が多いから、ひとつひとつ確認しながらしまう必要がある。

 ミオがいつも完璧に管理してくれている冷蔵庫の中に、入れる順番や置き場所にも“決まり”があるのだと、最近ようやく覚えてきた。


 袋の底のほう――レタスの下に何かが貼りついていた。


 ビニールのくしゃりとした音と一緒に、それが視界に落ちてくる。


 ――黄色い付箋。


 スーパーの商品にそんなものが付いているはずもなく、僕は思わず眉をひそめる。

 拾い上げてみれば、そこには見慣れた丸い文字が並んでいた。


 「今日は、なにをがんばった?」


 ……ミオ、か。


 この部屋には、彼女がいなくても“彼女の意志”がある。

 それは香りであり、整えられた棚であり、こうしてそっと忍ばされたメモのようなものだった。

 不在の中に在るもの。

 それはまるで、祈りの余韻のように、この部屋に沈殿している。


 間違いなく、彼女の字だった。

 やわらかく、でもどこか揺れの少ない、真面目な筆跡。


 僕は一瞬、どう反応していいか迷って、結局、小さく笑ってしまった。


 「……特になにも、かな」


 言葉は独り言のように、空気に溶けていった。

 頬のあたりがほんの少し緩んでいたことに、自分でも気づいていた。


 付箋は、そのまま捨てるには惜しかった。

 かといって冷蔵庫に貼るのも、なんだか大げさで、気恥ずかしい。


 だから僕は、それをそっとズボンのポケットにしまった。

 折りたたんで、小さな四角にして。誰にも見られないように。


 ……問いかけって、こんなふうに静かに届くものなんだ。

 声じゃなくても、届く。

 触れられなくても、残る。


 そう思いながら、僕は最後の買い物袋を畳み、ビニールの音をできるだけ立てないように引き出しにしまった。


 冷蔵庫の中に並んだ食材たちが、どれもいつもと同じ場所に、きちんと収まっていることに、少しだけ安心した。


 スリッパの向きは、今朝のまま変わっていない。

 それでも、こうして中にいるぶんには、何ひとつ困ることはなかった。


 ……「今日はなにをがんばった?」


 付箋の言葉が、ふと頭の奥で繰り返される。

 答えの出ない問いのはずなのに、どこか居心地のいい響きだった。


 まるで、記憶のどこかに残るような、ささやかな合図みたいに。



 ♢



 午後、書きかけの本を閉じて、ふと机に目をやると――見覚えのないノートが置かれていた。


 薄いグレーの表紙。光の加減でかすかに反射する、つるりとした質感。

 中央に小さく貼られた白いラベルには、黒いペンでこう記されている。


 「ユウの記録帳」


 見慣れた筆跡。

 ミオの字だ。


 「……また、何か始めたのかな」


 思わず小さく笑ってしまう。

 そういうところがある。彼女は、何かを“形”にするのがうまい。

 言葉や想いを、目に見えるものにして、そっと差し出してくる。


 僕はノートを手に取り、ゆっくりと表紙をめくった。


 最初のページには、整然とした表が印刷された紙が貼りつけてある。

 まるで学校の生活記録表のようなそれは、でもどこか温かみがあって、無機質とは少し違っていた。


 ⸻


【ユウの記録】

 •日付:______

 •気分:☐とても良い ☐良い ☐ふつう ☐少し疲れた ☐つらい

 → 理由や自由記述:_________________

 •今日やったこと(箇条書き):

 ・________________________

 ・________________________

 •よかったこと:__________________

 •つらかったこと:_________________

 •ミオへのメッセージ:_______________

 •祈りなんでも:________________


 ⸻


 ……すごい、これ。


 あきれるでもなく、驚くでもなく。

 どこかで、“らしいな”と、少しだけあたたかくなる感覚があった。


 僕のために、こういうものを作ってくれる。

 それが過剰だとか、重いだとか、そんなふうには思わなかった。

 むしろ、そっと手を添えるみたいな優しさに見えた。


 ただ、一つだけ引っかかったのは――

 「祈り欄」という言葉だった。


 祈り?

 何かにすがるようなもの? 願い? 呪文のような?


 ……それでも、僕はそのページを開いたまま、しばらく眺めていた。


 記録なんて、最後に書いたのはいつだったか。

 病院での気分記録も、最初はただの義務だった。

 でも、あれもいつの間にか、心を整える“習慣”になっていた気がする。


 机のペン立てから、青いインクのペンを取り出す。

 迷いながらも、僕は名前を書くような気持ちで、最初の欄に日付を記入した。


 「6月2日」


 次に、“気分”にチェックを入れる。

 「ふつう」。特別よくも悪くもない、それが今の自分にいちばん近い言葉だった。


 行動欄にはこう書いた。


 ・ベランダに出ようとしたけど、やめた

 ・スーパーの袋から付箋が出てきた


 よかったこと? ――「付箋、ちょっと嬉しかった」

 つらかったこと? ――「スリッパの向き、少しだけ気になった」


 ミオへのメッセージ欄に、なんとなく

 「ありがとう。ちょっと笑ったよ」

 と記す。


 ……最後の欄だけ、少しだけ迷った。


 “祈り”。


 別に信仰心があるわけじゃない。

 でも、何かを書きたくなった。


 「今日も、無事に終わりますように」


 その一文を書き終えたとき、胸の奥がほんの少し、すうっと軽くなる気がした。


「……やってみるもんだな」


 小さく呟きながら、僕はペンを置いた。

 肩をわずかにまわして、硬くなっていた背中をほぐすように伸びをする。

 椅子がわずかに軋む音がして、空気の密度が少し変わった気がした。


 書き終えたノートをそっと見下ろす。

 文字の列が、僕の心をなぞるようにそこに並んでいた。


 目に見えなかった気持ちが、ひとつひとつ、言葉の形になって沈んでいる。

 それは誰かに伝えるためじゃない。ただ、ここにあるという事実だけ。


 掌がほんのりと湿っていた。

 ペンを握っていた右手に、重さのようなものが残っていた。


 僕はその手をゆっくりと見つめる。

 これが僕の手で、このノートも、書かれた文字も、確かに僕自身のものだと、そう思いたくなる。


 窓の外から、わずかに鳥の声が聞こえてきた。

 遠くて、霞んでいて、それでも、この世界と繋がっている気がした。


 ……こんなふうに、自分の内側に戻っていく感覚なんて、いつ以来だっただろう。



 ♢



 机に向かうのは、いつぶりだっただろう。

 ちゃんと姿勢を正して、ペンを握るのも。


 思い出そうとしても、すぐには浮かばなかった。

 だからこそ、こうして記録帳を開いたこと自体が、どこか新鮮だった。


 最初は、ほんの少しの“義務感”だった。

 せっかくミオが作ってくれたし、何も書かないのも悪い気がして。

 とりあえず、空白を埋めるつもりで、ペンを走らせた。


 「今日は、ベランダに出ようとしたけど、やめた」


 書いているあいだ、どこか自分を外から見ているような感覚があった。

 その行動に意味なんてなかったはずなのに、文字にしてみると、それがなぜか少し重みを持つ気がした。


 「スーパーの袋に付箋が入ってた。ちょっと嬉しかった」


 たったそれだけのことなのに、書いてしまえば、もう一度“出来事”として受け取れた。

 ただ流れていくだけの時間に、形が与えられるような、そんな感覚だった。


 僕はそのまま、もう少しだけ書き進めてみた。


 「お昼は昨日と同じメニュー。なんだか落ち着いた。

 ミオがすごく静かで、でも、静けさが嫌じゃなかった」


 ……いつの間にか、ペン先が止まっていた。


 指先にかすかな汗がにじんでいることに気づいて、息をひとつ吐いた。

 肩が、少しだけ軽くなっている。


 まるで、知らず知らずのうちに抱えていた何かが、紙の上に染み出していたみたいだった。


 「……書くと、ちょっと落ち着くんだ」


 そう呟いた声は、思ったよりも穏やかだった。

 部屋の空気に溶けるように消えていくのを感じながら、僕は改めてノートを見下ろす。


 記録。

 たったこれだけのことで、こんなふうに整えられるなんて。


 言葉にするって、やっぱり、何かを“整理する”ことなんだろう。

 自分の中に渦巻いていた得体の知れない感覚が、名を与えられていくたびに、すこしずつ輪郭を持っていく。


 ふと、視線が最下段の欄に移った。


 「祈りなんでも


 ほんの余白のようなスペース。

 “自由”と書かれると逆に、何を書けばいいのかわからなくなる場所。


 でも今は、ひとつだけ浮かぶ言葉があった。


 僕はそのまま、ゆっくりと書きつけた。


 「今日も、無事に終わりますように」


 書き終えたあと、その一文をしばらく見つめた。


 誰に向けたわけでもない。

 神様なんて、特に信じてるわけでもない。


 誰にも届かない願いは、声になる前に指先へと沈んでいく。

 そのまま消えてしまわないように、言葉という衣をまとわせて、

 紙の上に、そっと置いていく。


 名づけるように。

 忘れないように。

 それはきっと、“無意識のうちに唱えてしまう”なにか。

 願いにも、祈りにも、呪いにも似た、名前のない呟き。


 僕はそっとノートを閉じた。

 カバーの硬さが、なぜか少しだけ心地よかった。


 ああ、そうか。


 きっとこの記録は、誰かに見せるためのものじゃないんだ。


 “自分”が、いまここにいた証のような――

 そんな、ささやかな足跡なのかもしれない。


 ♢


 夜の部屋は、静かだった。


 天井の灯りは消え、窓のカーテンもすでに閉じられている。

 ただベッドの脇で、小さな常夜灯が、ぼんやりと淡い光を揺らしていた。


 僕は毛布にくるまり、まだ眠りきれないまま、仰向けのまま目を閉じている。


 今日、あのノートに書いたことが、ふと頭の中に浮かんできた。


 書いているときは、ただの言葉だった。

 でも、いまこうして目を閉じて思い返してみると、なんとなくそれが“自分のための空間”だったような気がしてくる。


 誰に見せるわけでもない、正直な気持ち。

 言えなかったこと、気づけなかったこと、それをそっと紙の上に置いておくだけで、なぜか心が少しだけ軽くなった。

 あのノートは、与えられたものだった。

 でも、書き始めた瞬間から、少しずつ“僕のもの”になっていくような気がした。

 僕だけの、誰にも見られない小さな部屋みたいに。


 ――また、明日も書いてみようかな。


 書きたくなった、というより、

“書くことが正しい気がした”のかもしれない。



 思ったよりも、まぶたは重たかった。


 ノートのことを考えていたはずなのに、その輪郭はゆっくりと滲んでいく。

 けれど、不思議と心はざわつかなかった。


 ただ、深いところで沈んでいくような感覚だけが残る。


 毛布の内側、呼吸の音が身体の奥で響いていた。

 そのリズムに合わせて、思考も少しずつゆるやかに崩れていく。


 あのノートに書いたこと――それは、ほんのささやかな断片だった。

 けれど、記すという行為は、世界と自分のあいだに境界線を引くようで。

 「ここに、いる」と、自分自身に言い聞かせているようでもあった。


 やがて、何も考えなくなった。


 眠るというより、漂うような感覚。

 そのまま深く、静かに、世界の音から切り離されていった。



 そんなことを、小さく呟く。


 まぶたが自然と重くなり、呼吸も少しずつ深くなっていく。

 静かに、何も考えないまま、僕は世界からゆっくりと切り離されていった。



 眠りに沈んでいくその傍らで、時計の秒針だけが静かに歩を刻んでいた。


 

 ♢



 カメラが視点を変えるように、部屋の空気が切り替わる。


 ユウの眠る寝室を離れ、扉の向こう、隣の部屋へ。


 そこは、誰にも見せることのない“祈りの部屋”。

 規則正しく並べられた棚。

 引き出しの中の文房具。

 壁際にぴたりと寄せられた椅子。

 すべてが、そこにあるべき場所に収まっている。

 時計の針も、ここでは正確に呼吸している。


 一分、一秒のズレすら許さないように、時は静かに流れていた。

 この空間に満ちる“時間”そのものが、私の意志をなぞっている。


 日付けが書かれたラベル。ページをめくる手の動き。

 それらすべてが、“記録”という制度の一部だった。


 この部屋にあるすべての物が、記録のために在る。

 記録は日常に形を与え、祈りはその日常を正当化する。


 ……彼がこの部屋に入ってきたことは、一度もない。

 でも、彼の存在はすでにここに深く根を張っている。


 時間とは、ただ流れるものではない。

 誰かを優しく包み、同時にそっと縛るものでもある。


 そして私の愛は、時の形を借りて、彼の輪郭をやわらかくなぞっていく。


 この部屋には“乱れ”がない。


 それは単に整っている、ということではない。

 “崩れてはいけない”という意志が、空気の層にまで染み込んでいる。


 照明の色温度すら、私の“基準”に合わせている。

 時計の秒針の音も、ユウの脈拍に近いリズムを選んだ。


 ここは私の“信仰の空間”。

 彼の言葉が神聖に記録され、私だけがその文字に触れることが許される――密やかな聖域。


 すべてが“彼のために”準備されたこの部屋で、私は一人きり、愛を制度に変えていく。


 棚の引き出しが、そっと開かれる。

 中には数冊のノートが整然と並んでいた。


 ひとつ、手に取られる。

 カバーに貼られた白いラベルには、細く整った文字で記されていた。


 「ユウの記録帳」


 私は、ページを丁寧に開く。

 今日、ユウが初めて自分から書きつけた記録。


 日付。気分。今日の行動。

 彼の言葉たちが、小さく、でも真っ直ぐに並んでいた。


 私の指先が、その一行一行をなぞる。

 ……いつか見た、彼の字。

 でも今日は、ほんの少しだけ、筆跡が丁寧になっていた気がした。


 力を入れすぎないように、けれど、たしかに触れている。


 誰にも見せないその行為は、まるで祈りのようだった。


 ――言葉のすべてを知りたいわけじゃない。

 でも、こうして残してくれることで、彼が“いまもここに在る”という証になる。


 ユウが気づかないうちに、“書く”ことを始めた。

 それは偶然なんかじゃない。

 きっと、“愛されている”という実感が、彼の手を動かしたのだと、ミオは信じている。


 ページの最後、空白の余白に、私は静かにペンを置く。


 ノートの余白は、まだ彼が知らない余地。

 私はそこを、祈りで埋める。

 彼がいつか、自ら進んでこの祈りを“制度”と呼びたくなる日まで。

 そのとき、この愛はきっと完成する。


 「今日もありがとう、ユウ」


 文字は小さく、けれど丁寧に。


 それは返事ではなく、約束でもなく、ただ“見守る”という行為のかたち。


 私はペンを置き、ノートを閉じる。

 それは音を立てない、静かな儀式のようだった。


 心の中で、誰にも聞こえない声で呟く。


 「これは、誰にも見せない、ふたりだけの祈り。

  わたしの愛は、少しずつ、形を持ち始めていた。」


 彼を縛るためじゃない。

 ただ、守るために。

 記録し続ける。見つめ続ける。


 そして、いつか彼自身がその“制度”の中に、安らぎを見つけてくれるように。


 ――記録することは、わたしの愛のかたちだ。


 でも、ときどき思う。


 もしもこのノートに、“僕は苦しい”と書かれていたら。

 もしも“もう、やめたい”と、彼が綴る日が来たら。


 私は、その言葉すら“制度”の中に飲み込んでしまうのだろうか。

 祈りという名を借りて、彼の自由を少しずつ蝕んでしまうのではないか――と。


 けれど、それでも私は書き続ける。


 だって、愛するということは、見守ること。

 見守るということは、ときに“目を逸らさない”こと。


 彼がいつか、心の全部をこのノートに落としてくれるようになるまで。

 私の愛が、彼のすべてを受け入れられるほどに育つまで。


 記録は止めない。

 彼がノートを開く姿を、私は見ていない。

 だけど、あの一文――「今日も、無事に終わりますように」――その言葉が彼の手から生まれたことを、私は確かに知っている。


 それは命令ではなかった。指示でも、強制でもない。

 けれど、それでも、私の想いが彼の内側に届いたと感じた。


 彼がいつか、その“祈り”を自分自身の言葉として綴るようになる日。

 そんな日を夢見ることが、私にとってのささやかな希望だった。


 でも、同時に怖くもある。


 彼が私の意志を“自分の意志”だと信じてしまったとき。

 その境目が、完全に溶けてしまったとき――

 彼の自由が、本当に私の手の中で眠ってしまったなら。


 ……そのとき、私はまだ、彼を愛していると言えるのだろうか。

 それとも、すでに愛という名の檻に変えてしまっているのだろうか。


 もしそうだとしても――私だけは、きっと肯定してしまう。

“守る”という言葉で、すべてを包み込むように。


 それでも、いまはまだ祈るしかない。


 彼が“そうしたい”と、自分で選んだと錯覚してくれるなら。

 それが、私の祈りのかたち――

 ……それでも私は、記録を続けてしまう。

 これが愛なのか、呪いなのか――それすら、記せないままに。

最初の“スリッパの向き”は、たった一つの小さな違和感でした。

でも、その違和感を「言葉にせずに飲み込む」ことが、彼にとっての日常であり――愛でもあって、同時に静かな支配の始まりでもあるのかもしれません。


この話では、「記録する」という行為を、祈りのような、呪いのようなものとして描きました。

ミオにとってそれは愛情表現ですが、ユウにとってはそれが少しずつ“自分の意志”になっていく。その過程を、できるだけ丁寧に、静かに描きたかったのです。


「今日も、無事に終わりますように」――その一文が、誰のための祈りなのか。

書くことが救いになるのか、それとも、逃げ場のない制度になるのか。

その境界は、いつだって曖昧で、壊れやすい。


それでもミオは記録し続けます。

愛という名前で、呪いを差し出すように。

そしてユウは、きっと明日も、静かにペンを握るのでしょう。


読んでくださって、ありがとうございました。



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