表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【祝1500PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第2章: ふたりだけの世界。
26/27

第26話: 世界の音は、いらなかった。

 静けさは、ときに、愛に似ています。


 それは何かを求めるのではなく、

 ただ「ここにいること」を肯定するように、

 やさしく、そして深く、包み込んでくれるもの。


 第1章では、“出会い”と“崩壊”を描きました。

 この第2章からは、“ふたりだけの世界”が始まります。


 それはきっと、

 救いのようで、檻のようで――

 でもたしかに、“彼らにしか持ち得ない幸福”のかたちです。


 今作が、あなたの静かな夜に、

 そっと寄り添う物語であれますように。



 目が覚めたとき、最初に感じたのは――“音が、なかった”ということだった。


 窓の外から車の音もしない。廊下の気配も、テレビのノイズも、隣室の生活音も。


 この部屋は、まるで真空みたいに、すべての音を飲み込んでいた――

 ひとつだけ、残して。


 呼吸の音だった。

 すぐ隣で、静かに、規則的に、繰り返されている寝息。

 微かに、喉の奥で震えるようなその吐息は、カーテン越しの朝の光よりもやわらかく、僕の耳に届いていた。


 その音に包まれるようにして、僕はゆっくりと目を開ける。


 カーテンの隙間から滲む光が、床の上に細く落ちている。

 まだ部屋の空気は冷たくて、毛布の中で交差したミオの足が、少しだけ温かかった。


 テレビは消えていた。

 いつも通りだ。

 ミオは、あの電子音が嫌いだった。声が急に割れるのも、映像の切り替わりで部屋の空気が変わるのも――ぜんぶ「うるさい」って言って、リモコンを布で包んで、引き出しの奥に仕舞ってしまった。


 スマホはサイレントモード。

 時計の秒針は外してある。

 それでもかすかに伝わる振動を、ミオは眠りの中で感じ取ってしまうから。


 ……きっと、僕よりもずっと繊細なんだと思う。

 世界のざわめきに、ずっと晒されて、傷ついて、だからこうして“音のない世界”を選んだのだと。


 隣の寝息が、またひとつ、吐き出される。

 そのリズムが、なぜか僕の呼吸と、ぴたりと重なっていた。

 合わせたわけじゃないのに、そうなっていた。

 ミオの呼吸に、僕の身体が寄り添っていくように。

 吸って、吐いて、吸って……僕はそのペースを真似ることで、自分がここにいていいんだと思えた。


 この部屋は、音がない。

 いや、正確には、“音がないように設計されている”。


 その事実に、僕はもう何の違和感も覚えなくなっていた。

 足音を吸い込むように敷き詰められた柔らかなカーペット、密閉性の高い二重サッシ、生活家電の稼働音を最小限に抑える静音モード。

 すべてが、“聞こえない”ことを前提に整えられている。

 そしてその中心に、ミオがいた。


 ――この静けさは、たぶんミオがつくったものだ。


 だけど、僕も、いつのまにかその中でしか呼吸できなくなっていた。


 世界の音は、いらない。

 彼女の呼吸さえあれば、もう、それで充分だ――そう思えるほどに。



 ♢



 キッチンに立つと、視界の端に一枚のメモが貼られている。


 「音のしない日=正解」


 淡い青の付箋紙に、丸っこい字で書かれていた。

 何度も貼り直された跡があって、角は少し丸まっている。

 けれど、その言葉の意味だけは、今も鋭く、この部屋の空気を貫いていた。


 冷蔵庫の扉を開けるとき、僕はいつも一度、深呼吸をする。

 金属の蝶番が鳴らないように、力の加減を指先に集中させる。

 「パタン」という、ごく小さな音――それだけで、ミオの眉がわずかに曇った朝を、僕は今でも忘れていない。


 だから、冷蔵庫の扉は必ず僕が開ける。

 食器棚も、引き戸も、家電の操作音も。

 ミオの耳に“音”が届く前に、僕がすべて処理する。


 足元には、厚手の防音マットが敷かれている。

 もともとは冬の寒さ対策のつもりだったけれど、今では完全に“静けさの床”として機能していた。

 歩くと、足音が吸い込まれるように消えていく。

 スリッパの底も特殊なゴム素材でできていて、踏みしめるたびに、空気に音の痕跡を残さない。


 “うるさいもの”を、少しずつ、この部屋から消していったのは――たぶん、ミオだけじゃなかった。


 僕自身も、気づけばその一部になっていた。

 たとえば、声を出さなくなったのも、咳を飲み込む癖がついたのも、スマホのキーボードをフリック入力に切り替えたのも。

 全部、「静けさを壊したくなかった」からだ。


 何かを我慢している、という感覚はなかった。

 むしろ、静けさの中で呼吸することが“普通”になっていた。

 音を消すことは、思いやりでも、強制でもなく――愛し方のひとつだった。


 窓辺に近づくと、サッシの隙間に新しいテープが貼られているのに気づいた。

 透明な遮音テープ。二重構造のガラス窓のさらに内側、わずかな隙間さえ、ミオは見逃さなかったらしい。


 テープの端には、彼女の小さな指のあとが残っている。

 まるで“音”という名の外敵を締め出すように、ぴたりと封をしていた。


 僕はその指あとにそっと触れながら、心の中で呟いた。


 ――ここは、音のない檻だ。


 でも、それは決して“閉じ込められている”感覚じゃなかった。

 どこにもぶつからず、誰にも乱されず、ただ呼吸だけが重なる空間。

 その密度のなかで、僕は“世界の音”を、ひとつずつ、手放していった。



 ♢



 その朝、冷蔵庫に入っていた牛乳が、残りわずかだった。

 パンも、卵も、調味料も。

 生活に必要なものは、すべて“あちら側”から届く。


 けれどそれは、決して“誰か”と関わることを意味しない。


 ミオが最初に設定したネットスーパーのアカウントは、置き配のみ・日時指定不可・連絡不要という最小限の接触に絞られていた。

 配達予定日は、ユウが一時間おきにスマホで確認する。

 通知音もバイブも切ってある。たとえ“ピロン”という一音であっても、ミオの眠りを妨げるには充分すぎるから。


 以前、一度だけ誤って通知音が鳴った日があった。


 そのときミオは、何も言わなかった。

 けれど、目を見ればわかる。

 あの、ほんのかすかに目尻が下がるような、痛みに似た表情。

 それ以来、ユウはスマホを枕元に置かず、通知も自分の手で巡回確認するようになった。


 ドアの外には、現実がある。

 郵便受け、マンションの廊下、階段、エレベーター。

 けれどその一歩手前――玄関の内側までは、ミオの整えた静寂が満ちていた。


 インターホンの電源は切られている。

 チャイムが鳴ることは、もうない。

 ドアスコープにはシールが貼られ、視線の出入りも遮られている。

 ここは、誰にも見られず、誰の声も届かない、“完璧に閉じた”場所だった。


 それでも、ごくたまに――


 配達員が廊下を歩く足音が、かすかに滲んでくることがあった。

 ゴム靴が床を叩く短いリズム。紙袋の擦れる音。何かを確認するような、小さなため息。


 そのすべてが、“異物”だった。


 ミオはあるとき、僕にぽつりと呟いたことがある。


 「人の声は、ここに入ってきてはいけないものだと思うの」


 その声に、何の棘もなかった。

 ただ当たり前のように、湯気のように、空気に溶けるように発せられた。


 以来、僕はその言葉を一度も疑ったことがない。

 配達員が来た気配を察知すると、すぐにミオを寝室に戻し、自分だけが玄関を開ける。


 ドアを開けると、そこにあるのは“誰かがいた痕跡”だけ。

 紙袋の中には食材と明細書が整然と収められていて、外気の冷たさがまだわずかに残っている。


 音も、言葉も、顔も――

 何ひとつ触れないまま、“必要なもの”だけが届く。


 その距離が、ちょうどよかった。

 それ以上近づけば、何かが壊れてしまう気がした。



 ♢



 午後、ミオは静かに椅子を引いて、窓辺にしゃがみ込んでいた。

 何かをするたび、必ず音を立てないように意識しているその所作は、もはや癖というより“祈り”のようだった。


 手には、新しい遮音テープ。

 透明な樹脂の帯が、窓のサッシに沿って、ぴたりと密着していく。

 僅かな隙間風が、音を連れてくることがあるのだと、ミオは言う。


 そのひとことに、どこか神経質な響きを感じたはずなのに――

 今の僕には、それが当たり前の感覚として、すんなりと胸に落ちてきた。


 換気口の内側にも、薄いフィルターが二重に貼られていた。

 ミオはその上からさらに防音パネルを添えて、テープで四隅を封じた。

 何重にも重ねられた静寂の層が、この部屋を包んでいく。


 電子レンジは、操作音を完全に消すために、メーカー設定のサービスモードで調整されていた。

 チン、という音が鳴らない代わりに、調理終了はミオの手で確認される。


 洗濯機のモーター音は、ユウが買い替えた。

 静音設計の最上位モデル。音量は前機種の三分の一。

 それでもミオは、稼働中の下に吸音マットを敷いた。


 「うるさいの、全部消えたね」

 作業を終えたミオは、笑顔でそう言った。


 その目は、どこまでも穏やかだった。

 怒っているわけでも、強いているわけでもない。

 ただ静かに、彼女自身の“心地よさ”を、僕と共有しているだけの顔だった。


 僕はその言葉を、拒むことができなかった。

 むしろ――どこかで“ほっとしている”自分がいた。


 音のしない冷蔵庫。

 軋まないベッドフレーム。

 会話も、笑い声も、物音も、風の音さえも――

 すべてが封じられたこの空間の中で、僕の心は、逆に落ち着いていた。


 「完璧になったよ」

 ミオが、まるで部屋全体を祝福するように、ふわりと笑った。


 その笑顔の中にいるときだけ、僕は世界から“切り離された安心”を感じることができた。


 たぶん、もう戻れないんだと思う。

 外のざわめきや喧騒、通り過ぎる車の音や人の話し声――

 それらが“日常”だった頃の自分が、どこにいたのかさえ思い出せなかった。


 この“完璧”の中でしか、僕は、もう息ができない。


 でも、ほんの少しだけ。

 もしもこの静けさの外に、誰にも壊されないまま、音楽を流せる場所があったとしたら――

 僕はそれを、“いらない”と、もう一度言えるだろうか。


 でも、それは苦しみじゃなかった。

 むしろこの密室こそが、“救い”のように思えた。



 ♢



 そういえば――

 僕は昔、音楽が好きだった気がする。


 どんなジャンルだったか、誰の曲をよく聴いていたのか、今ではもう思い出せない。


 ふと、鼻歌すら口にしていないことに気づいた。

 かつては無意識のうちに何かを口ずさんでいた気がする。

 でもいまは、音程さえ、重すぎる。

 静寂の中にそれを差し込むことが、冒涜のように思えるから――


 スマホには、もう音楽アプリすら入っていない。

 CDもレコードも持っていなかったけれど、何かしらの“音”が、かつての生活の中には確かにあったはずだった。


 それが、いつのまにか消えていた。


 スピーカーは、押し入れの奥にしまわれている。

 ミオと暮らしはじめた当初、一度だけ小さく音楽を流したことがあった。


 静かなピアノの旋律だったと思う。

 けれどミオは、その音が部屋に溶け込む前に、ぽつりとつぶやいた。


 「……音楽って、疲れない?」


 その言葉に、僕はなぜか反論できなかった。

 むしろ、心のどこかが――ほっとしたような気さえした。

 「ああ、そうか。もう、聴かなくてもいいんだ」

 そう思った瞬間、身体の力が抜けた。


 そして、たぶん僕はそのとき、

 「うん、もういらない」

 と、言ったんだと思う。


 ミオは微笑んだ。

 その笑顔は、ひどく穏やかで、優しかった。

 まるで僕の“選択”を、心から祝福するような表情だった。


 けれど――その瞬間からだった。


 僕の中から、“音楽”というものが、本当に消えたのは。


 どんな旋律だったか、どんな歌詞だったか、誰の声だったか。

 全部が、ふわふわと輪郭を失って、ただの“騒音の記憶”に成り果てていた。

 聴こうと思えば、きっとまた聴けるはずなのに。

 僕の耳は、もうそれを“必要ないもの”として処理するようになってしまっていた。


 不思議だった。


 何かを「いらない」と口にしただけで、

 本当にそれが“聞こえなく”なるなんて――


 でも今の僕には、音楽よりも、

 もっと静かで、もっとやさしいものがある。


 それは、ミオの呼吸だった。

 眠っているとき、目覚めたとき、黙って料理をしているとき――

 彼女の呼吸が、この部屋の空気のすべてになっていた。


 旋律はいらない。

 言葉も、拍子も、歌声も。

 それらは、あまりに“賑やかすぎる”。


  ここにあるのは、ただひとつの音。

 それは、僕と彼女の、重なり合う静かな吐息――

 この部屋にだけ響く、世界でいちばん静かな会話だった。



 ♢



 朝、昼、夜――

 どの時間帯でも、彼女の呼吸は変わらずそこにあった。


 眠っているときも、目を閉じて黙っているときも、読書をしているときも。

 ミオの吐息は、一定のリズムで空気を揺らし、その震えが僕の鼓膜に、やわらかく染み込んでくる。


 目を閉じていても、わかる。


 この部屋がまだ“満たされている”ということが。


 呼吸がある。

 だから、大丈夫だ。

 彼女がここにいるということが、世界の輪郭をかたどってくれる。


 僕は最近、ミオの隣で眠ると、自然と呼吸のペースが同じになることに気づいた。


 浅さも、深さも、吐き出す間も、吸い込む静けさも――

 ぴたりと一致していく。


 意識しているわけじゃない。

 ただ、そうなってしまう。


 まるで、僕の肺が彼女に“あわせて”動いているかのように。


 それは奇妙な感覚だった。

 でも、怖くはなかった。


 むしろ、“これでいいんだ”と思えた。


 言葉は交わさなくてもいい。

 視線を合わせなくても、触れなくても。

 僕たちは、たぶん――


 空気の中でだけ、会話している。


 音がない部屋で、唯一の“音”が、ふたりの呼吸だとしたら。

 それが揃っているということは、きっと通じ合っている証だ。


 言葉よりも、正確に。

 視線よりも、深く。

 誰にも聞こえない、小さな、小さなリズムの重なりで――


 僕たちは、たしかに、つながっている。


 そんなふうに感じられることが、いまの僕にとっての“愛”なのだと、思うようになった。


 外界の音をすべて拒絶し、切り離し、消し去ってきたこの密室で。

 最後に残された、たったひとつの音。


 ミオの呼吸。

 それだけが、僕の存在を証明してくれる。


 そしてきっと、僕の呼吸もまた、彼女にとっての安定になっている。

 互いにズレることなく、たがいを乱すことなく――

 音も言葉も交わさずに、ただ呼吸だけを重ねる。


 それはきっと、奇跡なんかじゃない。


 これは、僕たちだけの“会話のかたち”なんだ。


 そう思ったとき、僕の胸の中に、微かな温度が灯る。


 誰にも聞こえない。

 けれど、たしかに“ここ”には響いている音がある。


 そして僕は、今日もその音に包まれて、生きている。



 ♢



 夜になっても、テレビはつけなかった。


 この部屋では、夕食の後にニュースが流れることはない。

 誰かの声が、部屋の空気を揺らすことは許されない。

 天井の灯りはごく弱く絞られ、空間はほとんど闇に近い静けさに包まれていた。


 僕たちは並んで、ソファに座っていた。

 会話もなく、身じろぎもせず、ただ肩が触れ合う距離にいて。

 それだけで、たしかな“親密”が成立していた。


 外では、雨が降っていた。


 サッシの隙間から、ほんのわずかに滲んでくる雨音。

 規則的な粒のぶつかり合いが、まるでどこか遠くの世界の音のように思えた。


 そのとき、ミオが小さく眉をひそめた。

 痛みというより、“乱れ”に反応したような仕草だった。

 雨音の粒は、彼女にとって“無断の侵入者”だった。

 まるで世界がまだ、自分たちを忘れていないと告げるように――


 その微かな音が、彼女の世界を乱すのだ。

 耳に触れもせず、声を発することもなく、ただ眉の動きだけで――彼女は“この空間に異物がある”と僕に伝えていた。


 僕は立ち上がり、窓辺へと歩いた。

 カーテンを少しだけ開けて、折りたたんでいたブランケットを取り出す。


 雨音が届いてくる方向を探り、まるで傷口にガーゼを当てるように、ブランケットをそっとかけた。


 布の重みが、雨粒の反響を吸い込んでいく。

 世界の音が、またひとつ、静かに死んでいく。


 振り返ると、ミオが笑っていた。


 声を出さずに、穏やかに。

 その微笑みは、“ありがとう”のかわりだった。


 ソファに戻ると、彼女は僕の手にそっと指を絡めて言った。


 「ありがとう。……もう、大丈夫」


 その言葉に、僕はうなずくだけで応えた。

 言葉は、この空間にはもう過剰だった。

 それでも、彼女の声がすべてを優しく包んでくれる。


 僕は心の中で、そっと呟いた。


 世界の音は、もう、いらなかった。


 ここでは、彼女の呼吸だけが、僕を生かしてくれるから。

 言葉も旋律も喧騒も――それらはもう、“僕”という存在に必要のないものだった。


 音が消えたことで、ようやく見えてくるものがある。

 鼓膜を越えて届くものは、何もない。

 けれど、呼吸は違う。


 それは皮膚を越えて、肺を震わせ、身体の内側にまで届く“音”だった。


 彼女の眠るときの吐息。

 笑うときの、ほんのわずかな空気の揺らぎ。

 泣くでもなく、怒るでもなく――ただ、静かに存在することの証明。


 それだけで、よかった。


 たとえば、外の世界がすべて音でできていたとしても。

 それがどれだけ賑やかで、明るくて、善意に満ちていたとしても。

 僕にとっての“世界”は、もうこの部屋の中だけで充分だった。


 完全に密閉された静けさのなかで、僕たちは確かに生きている。

 それは自由ではないのかもしれないし、誰かにとっては異常なことかもしれない。

 でも、僕にとって――そして、彼女にとっても――


 ここは、救いだった。


 灯りを落としたあと、ミオがそっと僕の耳元に顔を寄せた。


 「おやすみ、ユウ」


 その声は、小さな小さな囁きだった。

 空気に溶けていくほどのかすかな音で、それでも僕の鼓膜はそれだけを正確に拾った。


 まるで世界で最後に残された、たったひとつの音のように――

 

 その囁きが、鼓膜から心臓へ、そして肺の奥まで沁み込んでいく。

 もう誰にも届かなくていい。この静けさの中でだけ、僕は彼女の声を“生きて”いた。






 第2章の幕が、静かに上がりました。


 この物語では、“音”というものをひとつの象徴として扱っています。

 言葉、生活音、テレビの声、通行人の足音――

 そのすべてを拒み、たったひとつ残された“呼吸”だけを、

 愛として受け入れていくふたりの物語。


 現実では、きっととても苦しいことで。

 だけどこの世界では、それが“正しさ”になっていく。

 そんな“閉じられた世界”のはじまりを、丁寧に描きました。


 次回以降も、彼らの日常を通して、

 ふたりの“選び取ったかたち”が、どう変わっていくのかを追っていきます。


 どうか、そっと見届けていただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ