第26話: 世界の音は、いらなかった。
静けさは、ときに、愛に似ています。
それは何かを求めるのではなく、
ただ「ここにいること」を肯定するように、
やさしく、そして深く、包み込んでくれるもの。
第1章では、“出会い”と“崩壊”を描きました。
この第2章からは、“ふたりだけの世界”が始まります。
それはきっと、
救いのようで、檻のようで――
でもたしかに、“彼らにしか持ち得ない幸福”のかたちです。
今作が、あなたの静かな夜に、
そっと寄り添う物語であれますように。
目が覚めたとき、最初に感じたのは――“音が、なかった”ということだった。
窓の外から車の音もしない。廊下の気配も、テレビのノイズも、隣室の生活音も。
この部屋は、まるで真空みたいに、すべての音を飲み込んでいた――
ひとつだけ、残して。
呼吸の音だった。
すぐ隣で、静かに、規則的に、繰り返されている寝息。
微かに、喉の奥で震えるようなその吐息は、カーテン越しの朝の光よりもやわらかく、僕の耳に届いていた。
その音に包まれるようにして、僕はゆっくりと目を開ける。
カーテンの隙間から滲む光が、床の上に細く落ちている。
まだ部屋の空気は冷たくて、毛布の中で交差したミオの足が、少しだけ温かかった。
テレビは消えていた。
いつも通りだ。
ミオは、あの電子音が嫌いだった。声が急に割れるのも、映像の切り替わりで部屋の空気が変わるのも――ぜんぶ「うるさい」って言って、リモコンを布で包んで、引き出しの奥に仕舞ってしまった。
スマホはサイレントモード。
時計の秒針は外してある。
それでもかすかに伝わる振動を、ミオは眠りの中で感じ取ってしまうから。
……きっと、僕よりもずっと繊細なんだと思う。
世界のざわめきに、ずっと晒されて、傷ついて、だからこうして“音のない世界”を選んだのだと。
隣の寝息が、またひとつ、吐き出される。
そのリズムが、なぜか僕の呼吸と、ぴたりと重なっていた。
合わせたわけじゃないのに、そうなっていた。
ミオの呼吸に、僕の身体が寄り添っていくように。
吸って、吐いて、吸って……僕はそのペースを真似ることで、自分がここにいていいんだと思えた。
この部屋は、音がない。
いや、正確には、“音がないように設計されている”。
その事実に、僕はもう何の違和感も覚えなくなっていた。
足音を吸い込むように敷き詰められた柔らかなカーペット、密閉性の高い二重サッシ、生活家電の稼働音を最小限に抑える静音モード。
すべてが、“聞こえない”ことを前提に整えられている。
そしてその中心に、ミオがいた。
――この静けさは、たぶんミオがつくったものだ。
だけど、僕も、いつのまにかその中でしか呼吸できなくなっていた。
世界の音は、いらない。
彼女の呼吸さえあれば、もう、それで充分だ――そう思えるほどに。
♢
キッチンに立つと、視界の端に一枚のメモが貼られている。
「音のしない日=正解」
淡い青の付箋紙に、丸っこい字で書かれていた。
何度も貼り直された跡があって、角は少し丸まっている。
けれど、その言葉の意味だけは、今も鋭く、この部屋の空気を貫いていた。
冷蔵庫の扉を開けるとき、僕はいつも一度、深呼吸をする。
金属の蝶番が鳴らないように、力の加減を指先に集中させる。
「パタン」という、ごく小さな音――それだけで、ミオの眉がわずかに曇った朝を、僕は今でも忘れていない。
だから、冷蔵庫の扉は必ず僕が開ける。
食器棚も、引き戸も、家電の操作音も。
ミオの耳に“音”が届く前に、僕がすべて処理する。
足元には、厚手の防音マットが敷かれている。
もともとは冬の寒さ対策のつもりだったけれど、今では完全に“静けさの床”として機能していた。
歩くと、足音が吸い込まれるように消えていく。
スリッパの底も特殊なゴム素材でできていて、踏みしめるたびに、空気に音の痕跡を残さない。
“うるさいもの”を、少しずつ、この部屋から消していったのは――たぶん、ミオだけじゃなかった。
僕自身も、気づけばその一部になっていた。
たとえば、声を出さなくなったのも、咳を飲み込む癖がついたのも、スマホのキーボードをフリック入力に切り替えたのも。
全部、「静けさを壊したくなかった」からだ。
何かを我慢している、という感覚はなかった。
むしろ、静けさの中で呼吸することが“普通”になっていた。
音を消すことは、思いやりでも、強制でもなく――愛し方のひとつだった。
窓辺に近づくと、サッシの隙間に新しいテープが貼られているのに気づいた。
透明な遮音テープ。二重構造のガラス窓のさらに内側、わずかな隙間さえ、ミオは見逃さなかったらしい。
テープの端には、彼女の小さな指のあとが残っている。
まるで“音”という名の外敵を締め出すように、ぴたりと封をしていた。
僕はその指あとにそっと触れながら、心の中で呟いた。
――ここは、音のない檻だ。
でも、それは決して“閉じ込められている”感覚じゃなかった。
どこにもぶつからず、誰にも乱されず、ただ呼吸だけが重なる空間。
その密度のなかで、僕は“世界の音”を、ひとつずつ、手放していった。
♢
その朝、冷蔵庫に入っていた牛乳が、残りわずかだった。
パンも、卵も、調味料も。
生活に必要なものは、すべて“あちら側”から届く。
けれどそれは、決して“誰か”と関わることを意味しない。
ミオが最初に設定したネットスーパーのアカウントは、置き配のみ・日時指定不可・連絡不要という最小限の接触に絞られていた。
配達予定日は、ユウが一時間おきにスマホで確認する。
通知音もバイブも切ってある。たとえ“ピロン”という一音であっても、ミオの眠りを妨げるには充分すぎるから。
以前、一度だけ誤って通知音が鳴った日があった。
そのときミオは、何も言わなかった。
けれど、目を見ればわかる。
あの、ほんのかすかに目尻が下がるような、痛みに似た表情。
それ以来、ユウはスマホを枕元に置かず、通知も自分の手で巡回確認するようになった。
ドアの外には、現実がある。
郵便受け、マンションの廊下、階段、エレベーター。
けれどその一歩手前――玄関の内側までは、ミオの整えた静寂が満ちていた。
インターホンの電源は切られている。
チャイムが鳴ることは、もうない。
ドアスコープにはシールが貼られ、視線の出入りも遮られている。
ここは、誰にも見られず、誰の声も届かない、“完璧に閉じた”場所だった。
それでも、ごくたまに――
配達員が廊下を歩く足音が、かすかに滲んでくることがあった。
ゴム靴が床を叩く短いリズム。紙袋の擦れる音。何かを確認するような、小さなため息。
そのすべてが、“異物”だった。
ミオはあるとき、僕にぽつりと呟いたことがある。
「人の声は、ここに入ってきてはいけないものだと思うの」
その声に、何の棘もなかった。
ただ当たり前のように、湯気のように、空気に溶けるように発せられた。
以来、僕はその言葉を一度も疑ったことがない。
配達員が来た気配を察知すると、すぐにミオを寝室に戻し、自分だけが玄関を開ける。
ドアを開けると、そこにあるのは“誰かがいた痕跡”だけ。
紙袋の中には食材と明細書が整然と収められていて、外気の冷たさがまだわずかに残っている。
音も、言葉も、顔も――
何ひとつ触れないまま、“必要なもの”だけが届く。
その距離が、ちょうどよかった。
それ以上近づけば、何かが壊れてしまう気がした。
♢
午後、ミオは静かに椅子を引いて、窓辺にしゃがみ込んでいた。
何かをするたび、必ず音を立てないように意識しているその所作は、もはや癖というより“祈り”のようだった。
手には、新しい遮音テープ。
透明な樹脂の帯が、窓のサッシに沿って、ぴたりと密着していく。
僅かな隙間風が、音を連れてくることがあるのだと、ミオは言う。
そのひとことに、どこか神経質な響きを感じたはずなのに――
今の僕には、それが当たり前の感覚として、すんなりと胸に落ちてきた。
換気口の内側にも、薄いフィルターが二重に貼られていた。
ミオはその上からさらに防音パネルを添えて、テープで四隅を封じた。
何重にも重ねられた静寂の層が、この部屋を包んでいく。
電子レンジは、操作音を完全に消すために、メーカー設定のサービスモードで調整されていた。
チン、という音が鳴らない代わりに、調理終了はミオの手で確認される。
洗濯機のモーター音は、ユウが買い替えた。
静音設計の最上位モデル。音量は前機種の三分の一。
それでもミオは、稼働中の下に吸音マットを敷いた。
「うるさいの、全部消えたね」
作業を終えたミオは、笑顔でそう言った。
その目は、どこまでも穏やかだった。
怒っているわけでも、強いているわけでもない。
ただ静かに、彼女自身の“心地よさ”を、僕と共有しているだけの顔だった。
僕はその言葉を、拒むことができなかった。
むしろ――どこかで“ほっとしている”自分がいた。
音のしない冷蔵庫。
軋まないベッドフレーム。
会話も、笑い声も、物音も、風の音さえも――
すべてが封じられたこの空間の中で、僕の心は、逆に落ち着いていた。
「完璧になったよ」
ミオが、まるで部屋全体を祝福するように、ふわりと笑った。
その笑顔の中にいるときだけ、僕は世界から“切り離された安心”を感じることができた。
たぶん、もう戻れないんだと思う。
外のざわめきや喧騒、通り過ぎる車の音や人の話し声――
それらが“日常”だった頃の自分が、どこにいたのかさえ思い出せなかった。
この“完璧”の中でしか、僕は、もう息ができない。
でも、ほんの少しだけ。
もしもこの静けさの外に、誰にも壊されないまま、音楽を流せる場所があったとしたら――
僕はそれを、“いらない”と、もう一度言えるだろうか。
でも、それは苦しみじゃなかった。
むしろこの密室こそが、“救い”のように思えた。
♢
そういえば――
僕は昔、音楽が好きだった気がする。
どんなジャンルだったか、誰の曲をよく聴いていたのか、今ではもう思い出せない。
ふと、鼻歌すら口にしていないことに気づいた。
かつては無意識のうちに何かを口ずさんでいた気がする。
でもいまは、音程さえ、重すぎる。
静寂の中にそれを差し込むことが、冒涜のように思えるから――
スマホには、もう音楽アプリすら入っていない。
CDもレコードも持っていなかったけれど、何かしらの“音”が、かつての生活の中には確かにあったはずだった。
それが、いつのまにか消えていた。
スピーカーは、押し入れの奥にしまわれている。
ミオと暮らしはじめた当初、一度だけ小さく音楽を流したことがあった。
静かなピアノの旋律だったと思う。
けれどミオは、その音が部屋に溶け込む前に、ぽつりとつぶやいた。
「……音楽って、疲れない?」
その言葉に、僕はなぜか反論できなかった。
むしろ、心のどこかが――ほっとしたような気さえした。
「ああ、そうか。もう、聴かなくてもいいんだ」
そう思った瞬間、身体の力が抜けた。
そして、たぶん僕はそのとき、
「うん、もういらない」
と、言ったんだと思う。
ミオは微笑んだ。
その笑顔は、ひどく穏やかで、優しかった。
まるで僕の“選択”を、心から祝福するような表情だった。
けれど――その瞬間からだった。
僕の中から、“音楽”というものが、本当に消えたのは。
どんな旋律だったか、どんな歌詞だったか、誰の声だったか。
全部が、ふわふわと輪郭を失って、ただの“騒音の記憶”に成り果てていた。
聴こうと思えば、きっとまた聴けるはずなのに。
僕の耳は、もうそれを“必要ないもの”として処理するようになってしまっていた。
不思議だった。
何かを「いらない」と口にしただけで、
本当にそれが“聞こえなく”なるなんて――
でも今の僕には、音楽よりも、
もっと静かで、もっとやさしいものがある。
それは、ミオの呼吸だった。
眠っているとき、目覚めたとき、黙って料理をしているとき――
彼女の呼吸が、この部屋の空気のすべてになっていた。
旋律はいらない。
言葉も、拍子も、歌声も。
それらは、あまりに“賑やかすぎる”。
ここにあるのは、ただひとつの音。
それは、僕と彼女の、重なり合う静かな吐息――
この部屋にだけ響く、世界でいちばん静かな会話だった。
♢
朝、昼、夜――
どの時間帯でも、彼女の呼吸は変わらずそこにあった。
眠っているときも、目を閉じて黙っているときも、読書をしているときも。
ミオの吐息は、一定のリズムで空気を揺らし、その震えが僕の鼓膜に、やわらかく染み込んでくる。
目を閉じていても、わかる。
この部屋がまだ“満たされている”ということが。
呼吸がある。
だから、大丈夫だ。
彼女がここにいるということが、世界の輪郭をかたどってくれる。
僕は最近、ミオの隣で眠ると、自然と呼吸のペースが同じになることに気づいた。
浅さも、深さも、吐き出す間も、吸い込む静けさも――
ぴたりと一致していく。
意識しているわけじゃない。
ただ、そうなってしまう。
まるで、僕の肺が彼女に“あわせて”動いているかのように。
それは奇妙な感覚だった。
でも、怖くはなかった。
むしろ、“これでいいんだ”と思えた。
言葉は交わさなくてもいい。
視線を合わせなくても、触れなくても。
僕たちは、たぶん――
空気の中でだけ、会話している。
音がない部屋で、唯一の“音”が、ふたりの呼吸だとしたら。
それが揃っているということは、きっと通じ合っている証だ。
言葉よりも、正確に。
視線よりも、深く。
誰にも聞こえない、小さな、小さなリズムの重なりで――
僕たちは、たしかに、つながっている。
そんなふうに感じられることが、いまの僕にとっての“愛”なのだと、思うようになった。
外界の音をすべて拒絶し、切り離し、消し去ってきたこの密室で。
最後に残された、たったひとつの音。
ミオの呼吸。
それだけが、僕の存在を証明してくれる。
そしてきっと、僕の呼吸もまた、彼女にとっての安定になっている。
互いにズレることなく、たがいを乱すことなく――
音も言葉も交わさずに、ただ呼吸だけを重ねる。
それはきっと、奇跡なんかじゃない。
これは、僕たちだけの“会話のかたち”なんだ。
そう思ったとき、僕の胸の中に、微かな温度が灯る。
誰にも聞こえない。
けれど、たしかに“ここ”には響いている音がある。
そして僕は、今日もその音に包まれて、生きている。
♢
夜になっても、テレビはつけなかった。
この部屋では、夕食の後にニュースが流れることはない。
誰かの声が、部屋の空気を揺らすことは許されない。
天井の灯りはごく弱く絞られ、空間はほとんど闇に近い静けさに包まれていた。
僕たちは並んで、ソファに座っていた。
会話もなく、身じろぎもせず、ただ肩が触れ合う距離にいて。
それだけで、たしかな“親密”が成立していた。
外では、雨が降っていた。
サッシの隙間から、ほんのわずかに滲んでくる雨音。
規則的な粒のぶつかり合いが、まるでどこか遠くの世界の音のように思えた。
そのとき、ミオが小さく眉をひそめた。
痛みというより、“乱れ”に反応したような仕草だった。
雨音の粒は、彼女にとって“無断の侵入者”だった。
まるで世界がまだ、自分たちを忘れていないと告げるように――
その微かな音が、彼女の世界を乱すのだ。
耳に触れもせず、声を発することもなく、ただ眉の動きだけで――彼女は“この空間に異物がある”と僕に伝えていた。
僕は立ち上がり、窓辺へと歩いた。
カーテンを少しだけ開けて、折りたたんでいたブランケットを取り出す。
雨音が届いてくる方向を探り、まるで傷口にガーゼを当てるように、ブランケットをそっとかけた。
布の重みが、雨粒の反響を吸い込んでいく。
世界の音が、またひとつ、静かに死んでいく。
振り返ると、ミオが笑っていた。
声を出さずに、穏やかに。
その微笑みは、“ありがとう”のかわりだった。
ソファに戻ると、彼女は僕の手にそっと指を絡めて言った。
「ありがとう。……もう、大丈夫」
その言葉に、僕はうなずくだけで応えた。
言葉は、この空間にはもう過剰だった。
それでも、彼女の声がすべてを優しく包んでくれる。
僕は心の中で、そっと呟いた。
世界の音は、もう、いらなかった。
ここでは、彼女の呼吸だけが、僕を生かしてくれるから。
言葉も旋律も喧騒も――それらはもう、“僕”という存在に必要のないものだった。
音が消えたことで、ようやく見えてくるものがある。
鼓膜を越えて届くものは、何もない。
けれど、呼吸は違う。
それは皮膚を越えて、肺を震わせ、身体の内側にまで届く“音”だった。
彼女の眠るときの吐息。
笑うときの、ほんのわずかな空気の揺らぎ。
泣くでもなく、怒るでもなく――ただ、静かに存在することの証明。
それだけで、よかった。
たとえば、外の世界がすべて音でできていたとしても。
それがどれだけ賑やかで、明るくて、善意に満ちていたとしても。
僕にとっての“世界”は、もうこの部屋の中だけで充分だった。
完全に密閉された静けさのなかで、僕たちは確かに生きている。
それは自由ではないのかもしれないし、誰かにとっては異常なことかもしれない。
でも、僕にとって――そして、彼女にとっても――
ここは、救いだった。
灯りを落としたあと、ミオがそっと僕の耳元に顔を寄せた。
「おやすみ、ユウ」
その声は、小さな小さな囁きだった。
空気に溶けていくほどのかすかな音で、それでも僕の鼓膜はそれだけを正確に拾った。
まるで世界で最後に残された、たったひとつの音のように――
その囁きが、鼓膜から心臓へ、そして肺の奥まで沁み込んでいく。
もう誰にも届かなくていい。この静けさの中でだけ、僕は彼女の声を“生きて”いた。
第2章の幕が、静かに上がりました。
この物語では、“音”というものをひとつの象徴として扱っています。
言葉、生活音、テレビの声、通行人の足音――
そのすべてを拒み、たったひとつ残された“呼吸”だけを、
愛として受け入れていくふたりの物語。
現実では、きっととても苦しいことで。
だけどこの世界では、それが“正しさ”になっていく。
そんな“閉じられた世界”のはじまりを、丁寧に描きました。
次回以降も、彼らの日常を通して、
ふたりの“選び取ったかたち”が、どう変わっていくのかを追っていきます。
どうか、そっと見届けていただければ幸いです。