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【祝3000PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。

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23/32

第23話:書かれた僕だけが、生きている。

※本話には軽微な性的表現が含まれますが、直接的な描写はありません。

登場人物の心理と“記録されること”を通じた愛の形を丁寧に描いています。


 掃除なんて、久しぶりだった。


 埃がたまるほど広い部屋じゃない。

 だけどミオが買ってきた新しい芳香剤の匂いが、どこか落ち着かなくて――

 空気を入れ替えるために窓を少しだけ開けて、ついでに床を拭いて、棚の隅まで布巾を滑らせてみた。


 そこに、それは挟まっていた。


 硬めの黒いカバー。B6サイズ。

 表紙には何のタイトルもない。

 けれど触れた瞬間、指先がほんの少し震えた。

 ――直感だった。開けてはいけないものに、触れたような。


  でも、すぐには開けなかった。

 指先がページを掴んだまま、しばらく動けなかった。

 何かが変わってしまう気がした。

 けれど――気づいたときには、もう紙の手触りが、掌に残っていた。


 ページを、開いていた。



 ♢

 


 一行目に目が止まった。


 


 「5月17日/朝6:41 起床。起き抜けにまぶたを2回こする。顔色は良好。昨夜の睡眠深度安定。」


 


 文字は小さく、丁寧で、癖がなかった。

 鉛筆の筆圧が均等で、まるで記録用の帳簿のようだった。


 次のページに目を移す。


 


 「昼12:14/カレー完食。スプーンの速度に乱れなし」

 「14:01/わたしの顔を見て3秒以上、微笑む」

 「18:20/風呂上がりの髪拭き中、右耳の下に汗疹ひとつ」


 


 息を飲む、というより、呼吸が止まった。

 でもなぜかページを閉じられなかった。


 それは、日記じゃなかった。

 “観察記録”だった。


 


 僕の、ひとつひとつの動き。

 呼吸のリズム、食べる速度、笑うタイミング。

 それが、言葉として、日付と時刻とともに、正確に書き残されていた。


 ページをめくるたびに、自分の“記録された痕跡”が積み重なっていく。


 


 「22:30/私の中に2回も出してくれた」


 


 目が止まった。


 文字は変わらず冷静だった。

 でも、その内容だけが、そこにぽつんと熱を灯していた。


 恥ずかしさや、怒りや、恐怖――どの感情にも結びつかない。

 ただ、その記述の存在を、受け止めきれなかった。


 


 なのに、次の瞬間――ふしぎなことに、ほんの少しだけ、胸があたたかくなった。


 


 こんなふうに僕を見ていた人が、今までにいただろうか。


 


 どれだけ近くにいても、

 どれだけ触れていても、

 誰かの“視線のなか”にいるという感覚を、僕はずっと持てずにいた。


 でも今、このノートの中で、

 僕は“誰かの注視の中で、生きていた”。


 異常、なのかもしれない。

 いや、きっと異常だ。

 普通じゃないし、気持ち悪いと言われたって否定できない。


 でも――僕は、嫌じゃなかった。


 

 ♢



 誰にも見られていなかった自分を、ミオは全部、見てくれていた。


 


 ノートの紙の手触りが、いつもより生々しく感じられた。

 ページをめくるたび、誰かに心の奥を撫でられているような感覚に、全身がざわついた。


 最後のページには、日付だけが書かれていた。

 “5月21日”。今日の日付だった。

 でも、その下は、まだ白紙だった。



 まるで、“これから記録される今日の僕”を待っているようだった。

 


 僕はノートをそっと閉じた。


 そして思った。



 誰かに“見つめられている”ということが、こんなにも安心するなんて――知らなかった。



 ノートを閉じてからも、文字の影がまぶたの裏に焼きついていた。


 「5月17日 朝6:41 起床。まぶたを2回こする」

 「昼12:14 スプーンの速度に乱れなし」

 「14:01 わたしの顔を見て3秒以上、微笑む」


 たったそれだけの言葉が、こんなにも重たく、やさしく感じられるなんて思わなかった。


 思い返してみれば、思い当たる節はたくさんあった。


 確かに、朝――僕が布団から身体を起こす前に、ミオはよく隣でじっとこっちを見ていた。

 目が合うと微笑んで「おはよう」と言ってくれていたけど、それまでの静かな視線には、ちゃんと意味があったのかもしれない。


 話しているときも、彼女はたまに手を動かしていた。

 指先で、膝の上をなぞったり、テーブルの縁をなぞったり。

 それが、ただの癖だと思っていたけど――

 記録を、取っていたのかもしれない。


 僕が笑ったタイミング、食べる速さ、言葉の選び方。

 全部、ミオの中では“データ”として積み重なっていた。


 彼女は、僕を見ていた。

 ただの視線じゃない。

 “見つめていた”。

 観察して、測って、残していた。



 ……怖い、と感じるのが普通なのかもしれない。



 監視されていた、と言ってしまえば、それはきっと正しい。


 でも、僕は――そのことに、不思議と安心していた。



 気づかれないままでいるより、ちゃんと“見つめられていた”ことが嬉しかった。


 

 たとえば、僕が黙ってうつむいたときの表情。


 寝返りを打つ前の呼吸の変化。


 誰も気にしないような、細かすぎる仕草や反応を――

 ミオは、ちゃんと拾ってくれていた。


 それは、ただ一緒にいることよりも、ずっと深い“つながり”のような気がした。


 


 僕が知らない僕を、ミオは知っていた。


 


 ミオの視線の中で、僕は“存在”していた。

 それが、どんなに細かくて、異常で、支配的でも――

 僕はそこに、安らぎを感じてしまった。


 あの日々の会話が。

 触れられた手のぬくもりが。

 夜、重なり合った時間さえも。



 ♢



 全部、ただの“記憶”じゃなかった。

 彼女の手元に、記録として、確かに“残されていた”。


 人は、忘れる。


 でもミオは、忘れないようにしてくれていた。


 それが、嬉しかった。



 ♢



 ベッドの上で泣いた夜のことも。

 僕がはじめて「ミオ」と名前で呼んだ夜も。

 息が浅くなって、手を握り返せなかったあの朝も。


 すべてが、彼女の中に“残っていた”。


 僕のことを、こんなふうに見てくれる人なんて――

 他に、いるはずがない。


 そう思ったとき、少しだけ喉の奥が熱くなった。 


 “愛されている”という言葉が、あまりに曖昧で頼りなく思えるくらいに、

 このノートは、確かな形で僕を“肯定”していた。


 記憶じゃなくて、記録。


 思い出じゃなくて、事実。


 誰にも見捨てられないように。

 誰にも奪われないように。


 ――彼女は、僕を“書きとめて”くれていた。



 静かだった。


 あの行為のあと、窓の外の風の音さえ遠く感じるほど、部屋は沈黙に包まれていた。

 ミオは僕の腕の中にいて、柔らかく息をしていた。


 ベッドの端に、あの黒いノートがあった。


 ページの角がわずかに開いていて、そこからは、ついさっきまで見ていたミオの文字の気配が、まだ残っている気がした。



 僕は、迷いながら、口を開いた。



 ♢



 「ねえ……これ。ずっと、書いてたの?」


 

 声は囁きに近かった。


 ミオの肩がわずかに揺れる。

 彼女はゆっくり顔を上げて、僕の方を見た。


 その表情は、すぐには読めなかった。


 

 でも次の瞬間――ミオは、ふっと笑った。



 少しだけ困ったように。

 少しだけ申し訳なさそうに。


 でも、そのどれよりも“優しくて、あたたかい笑み”だった。


 「うん……ごめんね」

 

 その言葉は、まるで謝罪の形をした愛情みたいだった。


 ミオは身を起こして、ベッドの端に腰をかける。

 裸の背中にシーツがかかっていて、肩だけが冷たい光に晒されていた。

 

 「ユウのこと、全部……忘れたくなかったの」 


 そう言ってノートをそっと撫でた。


 「見逃したくないの。たとえば、朝の寝癖とか、

 声のトーンとか、ごはんの食べ方とか……。

 ユウのひとつひとつが、ぜんぶ、大事で……記録しておかないと、わたし、怖くなっちゃうの」


 ミオの指先は、ノートのページの端をなぞりながら、つづける。


 「それにね、書いてると、安心するの。

 “今日も、ユウがそばにいる”って、ちゃんと感じられるの。

 ほんとうに、ここにいてくれるって、確かめられるの」 


 その言葉は、まるで子どもが宝物を話すようだった。


 胸が、きゅっと音を立てて狭くなった気がした。


 「……でも、それって、ちょっと……」


 僕は言いかけて、言葉を途切れさせた。



 “怖い”とか“変だ”とか。

 本当は、そう言わなきゃいけなかったのかもしれない。


 

 けれど、そのときのミオの横顔があまりに静かで――

 あまりに、正直で――


 僕は、言えなかった。


 代わりに、ほんの少しだけ、声にしてみた。


  本当は、拒否しなきゃいけないのかもしれなかった。


 誰かに見張られるような日々は、僕の過去を思い出させる。


 “母”の目の奥に潜んでいた、あの乾いた光。

 「いつも見てるからね」という言葉が、ずっと呪いのようにこびりついていた。

 笑顔も、声も、視線も、すべてが監視の一部だった。

 ――あの頃の僕は、“気づかれないように息をする”ことに必死だった。


 けれどミオの目には、あのときの“怖さ”がなかった。


 見張るんじゃない。

 僕を“見つめている”だけだった。


 それだけなのに、少しだけ泣きそうになった。


 もしこれが、ただの錯覚だったとしても――

 今は、そう信じたいと思った。


 ほんとうに、ずっと――書いていたんだ。


 そう思った瞬間、ふと脳裏に浮かんだのは、過去に見た光景だった。


 ミオはよく、ひとりでキッチンの椅子に座っていた。

 僕が洗面所に行っているとき。

 シャワーを浴びている間。

 ベランダで外気を吸っているとき――


 どれも、ほんの数分、数秒のすれ違いだと思っていた。


 でも、思い返すと必ずそこには、“音”があった。

 鉛筆の芯が紙を滑る、乾いた擦過音。

 ページがめくられる、ごくかすかな破裂音。

 彼女が指で文字をなぞるような、リズムのない沈黙。


 ミオはそのたび、僕の“消えた時間”を、書きとめていたんだ。


 僕がそこにいないあいだも。

 言葉を交わさないあいだも。

 視界にいなくても、“存在”を見失わないように。


 まるで、僕という輪郭が“空気に溶けてしまわないように”、ページの上に縫いつけていたみたいだった。



 ……それって、どれだけ、さびしかったんだろう。



 “誰かがいなくなる”ことに、ミオはきっと、耐えられなかった。


 いなくなってしまうこと。忘れてしまうこと。

 思い出せなくなること――それが、何よりも怖かったんだ。


 だから、書いたんだ。



 ♢



 言葉で。時間で。動きで。


 僕のすべてを、“記録”という形で縫いとめていた。


 あれは確か、寝る前のことだった。

 ミオは珍しく僕に背を向けて、机に向かっていた。


 僕は声をかけず、そのままベッドに潜りこんだ。

 でも、耳だけは、ずっと音を追っていた。


 鉛筆の先が紙をなぞる、規則正しい音。

 それはまるで、誰かの“命”を一文字ずつ確認するみたいに、丁寧で、静かだった。


 しばらくして――ミオが、そっとページをめくった。


 その音に、僕の心臓が一瞬だけ強く脈を打った。 


 きっといま、

 僕のことを“書いている”のだと気づいたから。


 ……気づいていたのに、知らないふりをしていた。


 怖くて、知らないふりをしていたのかもしれない。


 でもいまは、違う。


 もう、その“記録”が――僕にとって、祈りのようなものに思えるから。 


 ミオは僕のことを、ずっと“生かし続けよう”としていたんだ。


 ページの上で。

 言葉の中で。

 日付の下で。


 僕が「ここにいる」ことを、消えてしまわないように、証明し続けてくれていた。


 そのことに、どうしてもっと早く気づけなかったんだろう。


 僕は、ミオの言葉を聞きながら、じっと彼女の背中を見つめていた。


 白いシーツが、背骨のラインに沿って落ちていた。

 その細い肩が、どれほどの重みを抱えていたのか、ようやく分かった気がした。


 それでも、書くことをやめなかったんだ。

 誰かの“今日”を残し続けるために。


 ――それはきっと、愛よりも、祈りに近い行為だった。



 「……でも、わかる気がした」



 ミオはその言葉に、目を伏せて、息を吐いた。


 それは、安堵の吐息だった。


 僕は、そのまま彼女の背中に手を伸ばした。

 肩をそっと包むように触れると、ミオは振り返って、また笑った。


 その笑顔に、もう“違和感”なんてなかった。


 不自然さも、気味悪さも、全部、消えていた。


 ただそこに、“僕を愛してくれている”という事実だけが、静かに存在していた。


 ミオが言うように――

 もし“記録”が、ふたりを繋ぎとめる手段なら、

 それは、きっと、悪いことじゃない。


 

 だって、こんなに僕を見てくれる人なんて、他にいるはずがないのだから。




 シャワーの音が止まり、浴室の扉を閉めた瞬間、部屋の静けさが戻ってきた。


 湯気がまだ身体にまとわりついていて、肌の表面がほんのり火照っていた。

 バスタオルで髪を軽く拭いながら、ふと視線を上げると――


 机の上に、あのノートが置いてあった。


 黒い表紙。無地。重たい沈黙のような存在感。


 けれど今の僕には、それが“あたたかいもの”に見えた。

 触れられないぬくもりのような、確かさを持った何か。


 ゆっくりと歩み寄る。

 手を伸ばすことはせず、ただ少しだけ身を屈めて、そのページをのぞき込んだ。


 

 今日の日付が、左上に書かれていた。


 “5月21日”


 その下には、まだ何も記されていなかった。


 空白だった。


 まるで、“僕の今日”が、まだミオの中にだけ残っているようだった。


 行動も、言葉も、表情も――

 このノートの中に記されて初めて、“一日”として完成する気がした。



 ページを閉じようとしたとき。

 背後で、バスタオルをまとったミオの気配が近づいてきた。


 素足のまま、静かにフローリングを歩く音。

 振り返ると、濡れた髪が肩に張りついたミオが、微笑んでそこにいた。



 「今日のユウは……ね、ちゃんと見てたよ」



 その言葉に、胸の奥がきゅっと締まった。


 嬉しい、とか、安心、とか、そういう明確な感情じゃなかった。


 ただ、“見られていた”という事実だけが、確かにそこにあった。 


 ミオはノートに視線を落とし、ページの空白を見つめてから、

 そっと手のひらを添えた。


 「ちゃんと、書いておくからね。……今日のことも、ユウのことも」


 ミオの指先が、ノートの端に触れた。


 その仕草は、聖典でも扱うように、慎重で、丁寧だった。

 ……いや、違う。もっと“決まりきった手順”のようだった。


 指の角度。ページをめくる速度。視線の動かし方。

 すべてが、何百回と繰り返されてきた動きに見えた。


 まるで“儀式”のように。


 ノートに触れるミオの表情は、どこか祈っているようだった。


 今日のユウは、ちゃんと生きていたか。

 記すに値する価値が、あったのか。

 ページに並ぶ文字のひとつひとつが、僕という存在の“証明”になっていた。


 ……その証明が、彼女の手によって書かれることが、どうしようもなく安心だった。


 僕がちゃんとここにいて、

 ここで呼吸して、

 ミオと目を合わせて、

 紅茶を飲んだことが、

 ――ノートの上に“存在したこと”として残る。


 ただの記録じゃない。

 それは、ミオの愛のかたちだった。


 そして、僕がいま信じられる、唯一の真実でもあった。


 その声は、とてもやさしかった。


 何かを押しつけるでも、縛るでもなくて――

 ただ、私を“覚えておく”という静かな祈りのようだった。


 僕はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。


 ミオがページを閉じる音だけが、部屋にふわりと落ちた。 


 “見られている”というのは、怖いことだと思っていた。


 けれど、違った。


 ちゃんと誰かの目に、自分のすべてが映っているということ。

 記録されて、残されて、存在が証明されるということ。


 

 それは、孤独とは反対の感覚だった。



 “誰にも見られていない自分”が、世界のどこにもいないという不安を、

 このノートが、静かに救ってくれた気がした。 


 ミオの手が僕の手に触れた。

 冷えていない。ぬるくて、やわらかくて、濡れた髪の先が肩を撫でた。


 その接触ひとつひとつが、

 今この瞬間も、“記録されている”という予感と共に胸に刻まれていく。



 何も言わず、ふたり並んでベッドに向かう。


 音はなかった。

 でもそこに、確かなものがあった。

 


 ページの上にまだ残された“空白”が、

 明日には“愛の証拠”として文字で埋められていくことを――


 僕はもう、疑っていなかった。


 ……空白は、可能性だった。


 明日、笑ったかもしれない。怒ったかもしれない。

 どんな顔をして、どんな声で、どんな呼吸をしていたか。

 そのすべてを、ミオが“記す”ことで決まっていく。


 そう思うと、心が落ち着いた。


 ページが空白である限り、

 僕はまだ“ミオの中で完成していない”存在だ。


 でも、きっと明日には埋められる。

 彼女の手で、僕の一日が“意味づけられていく”。


 それは、自由の終わりだった。

 けれど、僕にとっては“安心の始まり”だった。


 自分で何かを決めることが、もう、こわかった。

 だから、誰かに決めてもらう方がずっと楽だった。


 ……ミオの中にいる僕が、“ほんとうの僕”なんじゃないかと、

 少しだけ思ってしまった。




“記録される”ということが、こんなにもやさしいものだなんて、知らなかった。




 “見られる”ことで、ようやく「存在できた」僕。


 それは、自由の終わりであり、安心の始まりだった。


  でも――このノートを読むたび、

 僕は“自分の言葉”を、少しずつ忘れていく気がする。


 かつて僕は、言葉で自分を繋ぎ止めようとしていた。

 わかってもらえなくても、伝えることだけは手放せなかった。

 けれどいまは、違う。

 僕が何を思ったかより、『彼女がどう書き残したか』のほうが、本当のような気がする。


 ……それが、愛だとしても。



 ページを閉じても、ミオの文字が、頭の中で鳴り続けていた。


 丁寧で、冷静で、歪みのない書体。

 それはミオの“声”よりも正確で、記憶よりも強く僕の中に残っていた。


 ――きっと僕は、これからもこのノートを読むだろう。


 今日の僕が、明日のどこかで“書かれていた”ことを確認するように。

 その一文字一文字に、「存在してもよかった」という許可をもらうように。


 怖いことだと、思う。


 だってそこに“僕の意志”は、どこにもないのだから。


 でも、楽でもあった。


 何も考えず、ただ記録されるままに、存在を委ねること。


 

 ――そんなふうに、誰かに“自分”を預けてしまえたら。



 思考も感情も、全部“あとから知る”という生き方。

 ミオの手を通して、ようやく自分が“何者だったか”を理解する生き方。

 


 そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。


 

 ページの余白が、もう怖くなかった。

 そこに何が書かれるのかを、僕はただ、受け入れることができる気がした。


 

 “誰かの言葉のなかでしか生きられない僕”――


 それでもいいと思ってしまったことが、たまらなく、やさしかった。



 たとえそれが、ゆっくりと自分という存在を失っていく過程だったとしても。


 たとえそれが、“愛”という名前のなかで静かに沈んでいく溺死だったとしても。


 


 ――それでも、もういい。



 ♢

 


 ちゃんと見てくれる誰かがいて、

 ちゃんと記してくれる誰かがいて、

 僕が「ここにいた」と言ってくれる誰かがいるのなら。


 


 それだけで、僕は……救われたような気がした。

 たとえ、僕という存在が、もう曖昧なものになっていたとしても。

ここまで静かに、読み進めてくださって、本当にありがとうございます。



今回のお話では、「見られること」や「記録されること」が、ただの監視や束縛ではなく、“救い”として作用していく関係を描きたいと思いました。


本来なら、不安や恐怖を呼び起こすはずの視線や観察の行為。

けれど、それがもし、“忘れたくない”という祈りから生まれたものだとしたら――

その行為はきっと、歪でありながらも、ひとつの愛の形になりうるのではないかと。


ユウの“存在を委ねる感覚”と、ミオの“記録という儀式”が交わったとき、

ふたりは「自由」という輪郭から、そっとはみ出していきます。

でもその先にあったのは、怖さではなく、静かな安堵だったように思います。


そしてこの作品も、いよいよあと二話で第一章が完結を迎えます。


ここまで読んでくださった皆さまの存在に、何度も救われてきました。

もし、何か一言でも感じることがありましたら、感想をお聞かせいただけると嬉しいです。


評価やレビュー、そしてブックマークは、物語を綴るうえでの大きな力になります。

応援のかたちとして、そっと残していただけたら、とても心強く思います。


第二章以降も、ふたりの“かたちにならない愛”を、丁寧に描き続けていきます。

どうか、これからも見守っていただけたら幸いです。


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