表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【祝3000PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/32

第20話:ねえユウ、今日からは、わたしの中で、生きてね。

静かに、ただ静かに、

“ふたりだけの世界”が完成する夜を描きました。

 朝の光は、まだ曖昧だった。

 カーテンの隙間から漏れるその輪郭は、まるで“目覚め”を躊躇っているように薄かった。


 わたしはベッドの端に腰かけて、ゆっくりと呼吸を整えた。

 今日、ユウは“帰ってくる”。

 だから――この部屋を、“帰れる場所”に整えなければいけない。


 椅子を引く音ひとつにも気を配る。

 冷蔵庫のドアを開けるときも、音が跳ねないように注意する。

 音は、空間の輪郭を乱すから。

 今日は特に、何も濁らせてはいけなかった。


 湯を沸かす。

 紙パックの紅茶をあらかじめ温めておく。

 マグカップを並べる位置を、ミリ単位で調整する。

 柄が見えないように、白無地の面を表に向ける。

 スプーンを置く音を殺す。


 すべては、ユウの視界を“無菌状態”に保つためだった。

 色や形や音の違和感が、彼の呼吸を乱さないように。


 引越しの日、わたしはあらかじめカーテンの裾を切りそろえた。

 床に接触しないように、光を漏らさないように、布が揺れないように。

 彼が違和感なく、ただ“ここ”に収まってくれるように。


 冷蔵庫に貼った紙も、今日の朝だけは貼り直した。

 ほんのすこし、右に傾いていたから。

 生活のノイズは、最初から“整えておく”ことが大事。

 だってユウは、それを拾ってしまうから。

 それを拾って、また、自分を責めてしまうから。


 今日のケーキも、あらかじめナイフで切っておいた。

 等分に。正確に。甘さが偏らないように。

 わたしたちに、分けられないものが生まれないように。


 “整える”という行為は、祈りに似ている。

 いびつな世界を、少しだけ“ふたりきり”にしてくれる儀式。


 あの病室で、何度も“朝”を迎えるのが怖かった。


 白い天井。乾いた点滴。視線を逸らす看護師の背中。

 笑わなきゃいけない空気の中で、わたしだけが壊れていた。


 だから今、こうして自分の意志で朝を“迎える”ことが、

 どれだけ奇跡みたいなことか――ユウは知らないだろうけど。


 ……ユウ。

 あなたは知らないと思うけれど、

 この部屋はずっと前から、“あなたの居場所”として設計されていたんだよ。


 ♢


 何度かの外泊訓練を繰り返した。


 最初の一泊は、少し緊張していた。

 ユウの寝息のリズムが病棟のときと違っていて、少し不安になったから。

 でも、わたしがそっと抱きしめると、彼は呼吸を整えた。

 ふたりで迎えた朝は、ちゃんと静かだった。


 ふたつ目の外泊は、もっと上手くいった。

 三回目には、ユウは一度も夜中に目を覚まさなかった。

 そう、問題なんて――起きなかった。

 むしろ、すべてが“完璧だった”。


 病棟の窓の外は、今日も白かった。

 春の終わりにしては陽が薄くて、でも眩しくて。

 カーテン越しの光に包まれながら、わたしはユウの隣に座っていた。


 主治医が、小さな書類束を手に部屋へ入ってくる。

 眼鏡の奥の目はいつもどおり、やさしくて、どこか距離がある。


 「真白さん。綴木くんも……ふたりとも、十分に落ち着いています」


 そう言って、医師は笑った。


 ユウは、軽く頷いただけだった。

 でもその頷きには、いつもみたいなぎこちなさがなかった。

 訓練通り。完璧だった。


 医師は続ける。


 「正式に退院しましょう。今日はその手続きです。

 すでに新しい居住先も決まっているし、外泊期間の報告書も良好です」


 後ろに控えていた女性看護師が、一瞬だけ眉を寄せた。

 わたしは気づいたけれど、医師は何も言わず、視線を合わせなかった。


 「……なにか?」と医師が訊いたとき、看護師はすぐに小さくかぶりを振った。


 「いえ。……ただ、彼女の笑顔が、最近ちょっと……強くなった気がして」


 「強く?」


 「はい。……何かを隠してるような、そういう種類の……」


 「記録上は、問題ありませんから」


 医師のその言葉は、やわらかく、でも明らかに“打ち切る”ためのものだった。


 わたしは、ただ静かに、微笑んでいた。


 “なにかを隠してる”なんて、そんなことはない。

 だって、もうすべてが整っているから。

 ユウも、わたしも、ちゃんと“この世界”に馴染んだ。

 時間をかけて、丁寧に、崩れて――静かに、形になった。


 わたしは、正しくやった。


 ユウと一緒なら、壊れない。

 わたしも、彼も。ふたりでなら、生きていける。

 誰にも壊されないかたちで、きちんと、“ここに”いられる。


 病室を出るとき、看護師がひとつだけ言葉をくれた。


 「……元気でいてね」


 その言葉に、何か特別な意味が含まれていたとしても、もう関係なかった。


 ユウは、隣にいた。

 手を繋いでいた。

 そして、わたしを見ていた。





 もう、病院はいらない。

 “世界”が完成したから。





 ♢


 玄関の鍵が回る音が、いつもより大きく感じた。

 その鈍い響きに、わたしの心臓がひとつ跳ねた気がした。


 ユウは、何も言わずに一歩、部屋に足を踏み入れた。

 ただそれだけの動作が、まるで“儀式”の一部のようだった。


 ――沈黙も、ちゃんと意味を持っている。


 私は小さく息を吸って、微笑んだ。

 声に出すことはなかったけれど、心の中でそっと呟く。


 「おかえり、ユウ」


 彼が言葉を返さないことも、想定通りだった。

 それでもいい。言葉のやりとりではなく、空気で満たすのが“この世界”の正しさだから。


 靴の音も、服の擦れる音も、全部が“舞台装置”のようだった。

 私は彼を正面から見ることを避けて、斜めの角度からそっと視線を送る。


 ――うん、大丈夫。ちゃんと“馴染んでる”。


 部屋に満ちていくのは、外界と断絶された温度。

 病棟の冷たさでもなく、外の湿気でもない――この密室だけの、閉じられた体温。


 やっと、“世界”が帰ってきた。


 部屋は、もう整っていた。


 引越し業者が帰るころには、テーブルも、炊飯器も、カーテンも、すべて“あるべき場所”に配置されていた。

 段ボールは最初から少なくて、家具はあらかじめ搬入してもらっていたから、私たちはただ、それを眺めるだけだった。


 玄関を開けた瞬間、ユウはほんの少しだけ立ち止まった。

 けれど、なにも訊かなかった。

 わたしが「おかえり」と言うと、彼は静かに頷いた。


 そう、それでいい。


 聞かなくていいの。

 驚かなくていいの。

 すべては、もう決まっているのだから。


 部屋は1Kの小さな間取りだった。

 キッチンも、バスルームも、寝室も、ひとつの空間の中に閉じ込められていた。


 ベッドはシングルサイズ。

 ふたりで眠るには少し狭いけれど、それがちょうどよかった。


 カーテンは遮光性の高い厚手の生地にした。

 外の音や光は、いらない。

 この部屋に満ちるのは、ふたりの呼吸と声だけでいい。


 時計は、部屋にひとつだけ。

 小さな壁掛け。秒針の音が、わたしたちの沈黙を正確に刻んでくれる。


 「……すごいね、もう全部、あるんだ」


 ユウがそう呟いたとき、わたしは少しだけ微笑んだ。


 「うん。だって、わたし、ちゃんと準備してたから。

 ユウが戻ってきたときに、“帰れるように”って」


 そう、これは“準備”だった。


 ふたりで暮らすための、

 ふたりでだけ、生きていくための、

 この世界を始めるための――舞台装置。


 わたしはずっと、この日のために“物語”を作ってきた。

 日々の献身も、夜ごとの言葉も、外泊訓練の成功も、すべてがこの“幕開け”のための伏線だった。


 どんな舞台も、最初の一歩で決まる。

 だからこそ、この部屋に入る“最初の沈黙”を、私は大切にしたかった。


 ユウが口を開かなかったのは偶然じゃない。

 わたしがそう“導いた”のだ。

 彼の不安を消し、選択肢をそっと手放させるように、何度も繰り返してきた。


 これは演技じゃない。

 でも、“演出”ではある。


 静けさも、準備も、整いすぎた部屋も――

 そのすべてが、“ふたりだけの世界”を成立させるための構成要素だった。


 冷蔵庫には、貼り紙が1枚。

 『朝:白湯 → 薬 → 抱擁』

 『昼:会話5分 → 目を見て微笑むこと』

 『夜:手をつないで眠る』


 わたしの字で、丁寧に書いた。

 これは“ルール”じゃない。

 “祈り”のようなもの。


 食器棚には、ふたりぶんのマグカップと、スプーンが2本。

 それだけしかない。


 誰も来ないし、誰も招かない。


 洗面台には、歯ブラシがふたつ。

 白とグレー。それ以外の色は、視界を乱すから置かなかった。


 「ここって……本当に静かだね」


 ユウがぽつりとつぶやいた。

 その言葉には、肯定も否定もなかった。ただ、状態の描写としての“音”だった。


 わたしはその沈黙に包まれた部屋を見渡して、小さく息を吐いた。


 「うん。静かでしょ。必要最低限しかないんだよ。

 だって、ここにはもう、わたしたちしかいないんだから」


 わたしの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


 “足りない”ものがあるなんて、思わなかった。

 テレビもない。観葉植物もない。壁に絵も飾られていない。


 だけど、ベッドがあって、水があって、ユウがいる。

 それだけで、いい。

 それ以外は、余計なノイズでしかない。


 ユウはしばらく黙って、部屋の端から端までをゆっくり見渡していた。

 けれど、何も言わなかった。

 そして、ベッドの端にそっと腰を下ろした。


 その姿が、わたしの胸の奥にじんわりと灯をともした。

 ああ、今――わたしは彼をこの場所に“迎えた”のだと、確かに思えた。




 この部屋は、必要最低限しかいらない。

 “わたしたち”だけで、生きていくための空間だから。


 ♢


 夜になって、部屋の温度がひとつ落ちた。

 遮光カーテンを閉めてからは、時間の感覚が曖昧になっていたけれど、時計の針は確かに八時を指していた。


 冷蔵庫から、ケーキの箱をそっと取り出す。

 ショートケーキ。白いクリームの上に、赤いイチゴがひとつだけ乗っている。

 ユウと選んだ、あのときのまま。


 棚の奥から、小さなキャンドルを取り出す。

 でも、ロウソクに火をつけるのはやめた。

 代わりに、スマートフォンのライトを使うことにした。

 画面を下向きに伏せて、灯りがじんわりとテーブルに広がるように置いた。


 暗い部屋の中、スマホの白い光が、ふたりを照らしていた。


 わたしはケーキの箱を開け、フォークをふたつ並べた。

 隣では、ユウがベッドの端に腰をかけていた。

 その背中は、少しだけ沈んで見えた。


 「ユウ、来て」


 呼びかけると、彼はゆっくりと振り向いて、無言のまま近づいてくる。

 目を見ないまま、座る位置を探すように少しだけ戸惑って――そして、わたしの向かいに腰を下ろした。


 「食べよ?」


 声をかけて、ケーキを彼のほうへ少しだけ押す。

 ユウは頷き、フォークを手に取った。


 でも、それだけだった。

 一口も食べず、何も言わず、ただケーキを見つめていた。


 ……いいの。それで。


 むしろ、その沈黙がうれしかった。


 部屋の空気が、少しだけ重く感じられた。


 小さなライトの下、白いケーキと沈黙のあいだで――わたしの心だけが、静かに熱を帯びていた。


 彼が言葉を失ったまま、ただ存在してくれている。

 それだけで、世界の密度が、完璧に整っていく気がした。


 誰にも奪われたくない。誰にも見せたくない。

 この呼吸、この沈黙、この視線のやりとりさえ、わたしだけのものにしたい。


 “共に生きる”んじゃない。

 “わたしの中で生きていてほしい”んだ――そう、確信した。



 言葉は、揺らぎを生む。

 選択肢を生む。反論を生む。

 でもユウは、今、なにも発さない。

 ただ静かに、わたしの用意した席に座り、用意されたものを受け取っている。

 まるで、命令を“必要としている”みたいに。


 ――そう、ユウはもう、自分で判断しなくていい。


 わたしがそうさせた。

 少しずつ、ゆっくりと。

 彼が“わたしだけを見るように”なるまで、何度も何度も、導いてきた。


 だから、今のこの沈黙は、わたしの勝利だった。

 声を発さないという、そのこと自体が“服従”の証だった。


 ふたりのあいだに流れる静けさが、まるで祝福の音楽のように感じられた。


 そう、わたしは思った。


 この空間で、音はわたしだけが発すればいい。

 ユウの声はいらない。

 ユウの言葉は、もうわたしの中にあるから。


 彼が何を思っているかなんて、聞かなくても、もう知っている。

 わたしたちは、もう“そういう関係”になったのだ。


 「ユウ」


 彼の名前を呼ぶ。

 その響きが、この狭い部屋の中で、少しだけ震えながら返ってきた。


 彼は顔を上げた。


 その目は、ただ光を映すだけで――

 感情があるのか、それともただ“生きる動作”として瞬いているだけなのか、わたしには分からなかった。


 その目に、光が映っていた。

 スマホライトの白が、瞳の奥に揺れていた。


 そして、そのまま――ぽろり、と涙が落ちた。


 なにも言わずに。

 痛がるでもなく、震えるでもなく。

 ただ静かに、こぼれた。


 その涙の意味を、わたしは問わなかった。

 ただ、手を伸ばして、そっと彼の頬に触れた。


 あたたかかった。


 そのまま、額に口づけを落とした。


 長く、ゆっくりと、まるで彼の中の何かを封じるように。


 それは祝福であり、祈りであり、契約だった。

 この夜、この部屋、この光の中で、ふたりだけの世界を完成させるための。


 唇を離したとき、ユウのまつげにはまだ涙が残っていた。

 わたしはその髪を撫でながら、そっとささやいた。




 「ねえユウ、今日からは、わたしの中で、生きてね」




 ユウは、なにも言わなかった。

 でも、頷いた。

 小さく、小さく。

 まるで、自分の意思じゃないみたいに。


 スマホライトの影を、頷きが生んだわずかな風が揺らした。

 それはまるで――祝福の灯火が、“肯定された”瞬間だった。

 けれどそれでよかった。

 彼の答えは、もうずっと前から、わたしの中にあったから。


 ♢


 あの言葉を囁いたあと、ユウはひとつも言葉を返さなかった。

 でも、頷いた。それだけで十分だった。


 わたしは、そっとスマホのライトを切った。

 光が消えると、部屋はすぐに闇に包まれた。

 目が慣れるまでの数秒間、わたしたちは何も見えず、ただ音もなく、呼吸の熱だけを感じていた。


 そのまま、ベッドに横になった。


 狭いシングルサイズ。

 背中と背中が触れ合う距離。


 身体を向けることはしなかった。

 でも、お互いがそこにいることを、ちゃんと感じていた。


 ――それでいい。


 声がなくても、目を合わせなくても、意思を交わさなくても。

 ここにいるだけで、もうすべては“成って”いるのだから。


 


 わたしは、ゆっくりとまぶたを閉じた。

 ユウの背中の温度が、呼吸のリズムに合わせて静かに上下している。

 その律動が、まるで“この世界の鼓動”のように思えた。


 誰にも邪魔されない。

 誰にも届かない。

 わたしとユウだけの、内側に閉じた世界。


 


 わたしは思う。


 


 これは約束。

 祈り。

 祝福。

 呪い。


 


 どんな言葉で呼ばれても、構わない。

 他人がどう見るかなんて、どうだっていい。


 


 わたしは、ユウをここに“閉じ込めたい”んじゃない。

 “一緒にいられる形”を探していたら、こうなっただけ。


 


 わたしが病院で泣きじゃくっていた夜、

 ユウは、そっと毛布をかけてくれた。

 あのとき、わたしは思ったの。

 この人がいれば、きっと世界は終わらない――って。


 でも、そんなの幻想だった。


 世界は、終わる。

 あっけなく、すぐに、脆く、終わってしまう。

 だから、せめて。


 ユウとわたしの世界だけは、永遠であってほしかった。


 


 そのためには、“閉じる”しかなかった。

 扉を。窓を。会話を。視線を。

 わたしたちを、他のすべてから切り離して、包み込むしかなかった。


 


 この部屋は、そのための器。

 この暮らしは、そのための祈り。

 この沈黙は、そのための誓い。


 


 背中越しに、ユウの声がした。


 「……ここ、あったかいね」


 その声には、色がなかった。


 部屋の外では、まだ誰かの生活が続いていた。

 隣室のテレビの音、遠くで走るバイク、どこかの窓が開け閉めされる音――。

 けれどそのすべてが、壁の厚みによって、じわじわと遮断されていく。


 やがて、音は完全に消えた。


 聞こえているはずの雑音すら、わたしの耳は拾わなかった。

 代わりに、ユウの吐息と、布がこすれるかすかな音だけが、世界のすべてになっていた。


 “ふたりきり”という言葉が、やっと現実になった気がした。


 高くも低くもなく、抑揚も感情もなく――

 まるで、“自分の声じゃない”ものを読み上げているような声だった。


 わたしは、何も返さなかった。

 ただ、静かに目を閉じて、笑った。



 そう。あたたかいね。

 ずっと、ここにいようね。

 もう、何もいらないよ。



 “ふたりだけの世界”が完成した夜だった。

 もう、誰にも、壊させない。


 わたしは、その夜の自分を、今も肯定している。


 彼の背中を感じながら、声をかけなかったこと。

 涙の意味を訊ねなかったこと。

 そして、ただ“ここにいる”という選択を、彼に強いたこと。


 全部、正しかった。


 わたしたちが本当に必要としていたのは、“わかり合う”ことじゃなかった。

 ただ、“同じ形で眠る”ことだった。


 それが、どれだけ奇跡的なことかを、わたしは知っている。


 病棟では得られなかった静けさ。

 他人の声に怯えなくていい夜。

 そして、手を伸ばせば、確かにそこにある温度。


 この夜だけは、壊れてもよかった。

 言葉が足りなくても、視線が交わらなくても、手が震えていても、心がここになくても――。


 たとえ、ユウの心が今ここになくてもいい。

 別の場所を思い出していても、過去の誰かを愛していても――

 この空間では、彼の身体だけが“わたしの隣に”あれば、それでいい。


 それでも――ふたりで同じ布団にくるまって、同じ闇の中で目を閉じたこと。

 それだけで、今夜は“完成”していた。


 だから、何も怖くなかった。

 この夜が終わっても、またわたしが“整えれば”いいだけのこと。


 明日の不安なんて、もう怖くない。

 乱れるなら、また整えればいい。

 わたしが指先ひとつで、この世界を“整地”できるかぎり、ユウは壊れない。


 

 わたしは、あの夜のすべてを肯定する。


 あれが正解だった――この形こそが、“ふたりだけの幸福”であり、もう他の形では戻れない。

誰にも邪魔されない空間で、

言葉も視線も交わさず、ただ“同じ形で眠る”こと。


それが、どれだけ奇跡的で、脆く、美しいことなのか――

本編では、その瞬間にすべてを賭けたミオの祈りと、

ユウの沈黙の肯定を描きました。


「壊れていてもいい」「壊れてしまっても、また整えればいい」

そんな危うい安堵と依存の共生は、

どこか現実に通じているような気がしています。


今夜も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

ほんのひとときでも、この静かな密室世界に触れてくださったことに、

深く感謝をこめて。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ