第2話:その家には、言葉がなかった。
今回は、主人公・悠の過去が描かれます。
“ふつう”になれなかった少年。
音や言葉のなかでうまく息ができなかった日々。
これは、私自身の記憶と痛みをもとにした物語です。
誰にも理解されなかった「生きづらさ」。
それがどんなふうに、ひとりの人間の形を変えてしまうのか――
読んでくださる方に、静かに届くものがありますように。
曇った窓の隙間から、光が静かに入り込んでいた。
まだ陽は昇りきっていないはずなのに、カーテンの端だけが、ほんの少しだけ白く染まっていた。
台所から、食器が触れ合う音が聞こえる。
それ以外に、何の音もなかった。
テレビはついていない。
父は新聞を読み、母は味噌汁をすすっている。
それ以上は、なかった。
そして、そこに声はなかった。
「……おはよう」
僕は、ぼそりと呟いた。
言ったつもりだった。
けれど、その声が届いたかどうかはわからなかった。
誰も顔を上げず、誰も返事をしなかった。
僕の言葉は、まるでこの部屋の空気に溶けて、どこかへ消えてしまったみたいだった。
食卓に座って、味のしないご飯を口に運ぶ。
父の顔は新聞の向こうに隠れたままだった。
母はちらりと視線を向けたけれど、すぐに目を逸らした。
それが――
いつもの朝だった。
僕が箸を落としたとき、カツンという音が床に響いた。
その瞬間、母の手がピクリと止まる。
静かに、顔だけがこちらを向いた。
口元は動かない。眉ひとつ動かさない。
でも、その目だけがはっきりと語っていた。
――うるさい。
そう言われた気がした。
僕は無言で箸を拾い、また何も言わずにご飯を食べ始めた。
この家では、音を立てることが罪だった。
声を出すことも、何かを訊ねることも、笑うことも、すべてが許されないことのように思えた。
♢
学校でも、僕はうまくやれていなかった。
母はよく僕に、「ふつうにしなさい」と言った。
何が“ふつう”なのかは、教えてくれなかった。
声の大きさなのか、話す順番なのか、タイミングなのか。
それとも、僕という存在そのものがふつうじゃないのか。
僕が一生懸命に話そうとすると、「早口すぎる」と言われた。
ゆっくり話そうとすると、「何モタモタしてるの」とため息を吐かれた。
言葉を探して間を空けると、「人前で黙るなんて失礼」と叱られた。
どうすればいいのか、わからなかった。
どこを直せば、愛される側に行けるのかが見えなかった。
音が苦手だった。
人の話す声、食器の擦れる音、電車のアナウンス、ドアの開閉音――
すべてが一度に押し寄せると、頭の中が割れそうになった。
でもそれを訴えると、母は「はぁ?」と眉をしかめて、
「そんな神経質に育てた覚えはないわよ」と吐き捨てた。
繰り返し訊ねてしまう癖もあった。
予定やルールを、何度も確認しないと不安で仕方なかった。
母は最初のうちは答えてくれたけれど、
何度目かには「さっきも言ったでしょ」とピシャリと叱った。
「いい加減にして。あんたといると疲れるの」
その「疲れる」という言葉が、
まるで僕が人間じゃないものになったような気がして、
ひどく冷たく、深く、胸に残った。
父は何も言わなかった。
僕を責めもしない代わりに、かばいもしなかった。
「そういうのは母さんのほうがよくわかってるだろ」と言って、
全部を母に押しつけていた。
父にとって僕は、きっと“面倒なノイズ”でしかなかったのだろう……たぶん、そうだったのだと思う。
僕は、努力していた。
周りを見て、マネして、間の取り方を考えて、
空気を読もうとして、笑い方を覚えて――
でも、うまくできなかった。
結局、全部ズレていた。
そうして僕は、誰にも好かれない子になった。
先生に同じことを何度も訊いてしまった。
誰かと話していても、相手の言葉の意味がすぐにわからなくなる。
ノートの線を越えずに文字を書くことができなかった。
先生は、「丁寧に」と言った。
僕は、ちゃんと“線の内側”に収まろうとしたつもりだった。
「集中力が足りない」
「ちゃんと話を聞け」
いつもそう言われた。
でも僕は、わからなかった。
どこまでが“普通”で、どこからが“異常”なのか。
自分がどのくらい間違っているのか――それを誰も教えてくれなかった。
家に帰れば、父の無言。母の溜息。
何かを訊ねようとすれば、「またか」と呆れた顔で見られる。
その視線が、ただただ、つらかった。
♢
ある日、僕は教室に入れなかった。
校門の前で足が動かなくなって、
それからは、電車にも乗れなくなって、
誰とも話せなくなって、
ついには、家の中でも動けなくなった。
声をかけられても反応できなくて、
何を言われても言葉が意味を持たなくなって、
ただ、ただ、うずくまっていた。
そのときの母の怒鳴り声だけは、今でもはっきりと覚えている。
「何度言わせるの!? いつまで甘えてるの!?
もう知らない。あんたなんか、うちの子じゃなきゃよかった!!
恥ずかしいったらありゃしない。近所にも何て言えばいいのよ!?
毎日毎日、うるさいし、暗いし、わけわかんない! 病気のフリしてるんでしょ!?」
僕は何も言えなかった。
息をするのもやっとで、喉の奥が詰まっていた。
でも母は止まらなかった。
「ねぇ、どうしてそんなふうに育ったの? なんで“普通”になれないの?
もう顔見るだけでイライラする。あんたと話すと頭おかしくなりそう
お願いだから、黙ってて。せめて、見えないところにいてくれない?」
その「見えないところにいてくれない?」という言葉だけが、
静かに、でも確実に、僕の中の何かを殺した。
怒鳴られるよりも、叩かれるよりも、
僕という存在そのものを「いなければいい」と扱われたことが――
いちばん、こわかった。
♢
そして、気づいたら、真っ白な天井を見ていた。
病院のベッドの上だった。
鼻の奥にツンとくる消毒液の匂い。
チッ、チッ、と心電図の機械音だけが、空気を支配していた。
「ご家族、同意されています」
そんな声が、カーテン越しに聞こえた。
声の主が誰なのかはわからなかった。
何に“同意”したのかも、本当は、わかっていなかった。
でも、その言葉にはっきりと――僕の意思なんて、最初から必要とされていなかったことだけは伝わった。
「ご家族」って、誰のことだろう。
僕のことを見ようともしなかった、あの人たちのこと?
その人たちが、僕の行き先を決めたのだとしたら。
僕は、もう自分の人生を生きていないのかもしれない。
ただベッドの上で、誰かの同意に従って運ばれていくだけの――
“なにか”になったような気がした。
♢
それから、何日が経ったのかはわからない。
白い廊下を車椅子で運ばれて、別の施設に移された。
窓は小さく、天井は高かった。
その建物には、時計の音も、誰かの話し声もなかった。
「ようこそ」
そう言った誰かの顔は、もう覚えていない。
でもそのとき僕は、はっきりとこう思った。
――ここでは、怒鳴られない。
それは安心ではなかった。
安らぎでもなかった。
ただ、何もないことに、少しだけ“安心に似た感情”を感じただけだった。
あの家には、言葉がなかった。
だから僕も、言葉を失った。
そのことに気づくのに、あまりに時間がかかりすぎた。
そして僕は、“壊れた子ども”として、
白い部屋のなかで、ただ静かに息をしていた。
そこに、彼女が現れたのは――
もっとずっと、あとになってからのことだ。
第2話、ここまで読んでくださりありがとうございます。
この話は実体験を土台に、記憶と感覚を掘り起こしながら書いています。
怒鳴り声よりも、無関心のほうが怖かった。
傷つけられることより、「存在をなかったことにされる」ことのほうが苦しかった。
そうして言葉を失っていった日々が、
“澪”という存在に出会う準備になっていきます。
次回、第3話からは――ふたりの物語が、ゆっくりと始まっていきます。
どうかこれからも、見届けてくださるとうれしいです。