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【祝1500PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。
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第2話:その家には、言葉がなかった。


今回は、主人公・ユウの過去が描かれます。


“ふつう”になれなかった少年。

音や言葉のなかでうまく息ができなかった日々。


これは、私自身の記憶と痛みをもとにした物語です。


誰にも理解されなかった「生きづらさ」。

それがどんなふうに、ひとりの人間の形を変えてしまうのか――


読んでくださる方に、静かに届くものがありますように。


 曇った窓の隙間から、光が静かに入り込んでいた。

 まだ陽は昇りきっていないはずなのに、カーテンの端だけが、ほんの少しだけ白く染まっていた。


 台所から、食器が触れ合う音が聞こえる。

それ以外に、何の音もなかった。

テレビはついていない。

父は新聞を読み、母は味噌汁をすすっている。

それ以上は、なかった。


 そして、そこに声はなかった。


「……おはよう」


 僕は、ぼそりと呟いた。

言ったつもりだった。

けれど、その声が届いたかどうかはわからなかった。

誰も顔を上げず、誰も返事をしなかった。

 僕の言葉は、まるでこの部屋の空気に溶けて、どこかへ消えてしまったみたいだった。


 食卓に座って、味のしないご飯を口に運ぶ。

父の顔は新聞の向こうに隠れたままだった。

母はちらりと視線を向けたけれど、すぐに目を逸らした。


 それが――

いつもの朝だった。


 僕が箸を落としたとき、カツンという音が床に響いた。

その瞬間、母の手がピクリと止まる。

静かに、顔だけがこちらを向いた。

口元は動かない。眉ひとつ動かさない。

でも、その目だけがはっきりと語っていた。


 ――うるさい。


 そう言われた気がした。

僕は無言で箸を拾い、また何も言わずにご飯を食べ始めた。


 この家では、音を立てることが罪だった。

声を出すことも、何かを訊ねることも、笑うことも、すべてが許されないことのように思えた。


 ♢


 学校でも、僕はうまくやれていなかった。

母はよく僕に、「ふつうにしなさい」と言った。


 何が“ふつう”なのかは、教えてくれなかった。

声の大きさなのか、話す順番なのか、タイミングなのか。

それとも、僕という存在そのものがふつうじゃないのか。


 僕が一生懸命に話そうとすると、「早口すぎる」と言われた。

ゆっくり話そうとすると、「何モタモタしてるの」とため息を吐かれた。

言葉を探して間を空けると、「人前で黙るなんて失礼」と叱られた。

どうすればいいのか、わからなかった。

どこを直せば、愛される側に行けるのかが見えなかった。


 音が苦手だった。

人の話す声、食器の擦れる音、電車のアナウンス、ドアの開閉音――

すべてが一度に押し寄せると、頭の中が割れそうになった。

でもそれを訴えると、母は「はぁ?」と眉をしかめて、

「そんな神経質に育てた覚えはないわよ」と吐き捨てた。


 繰り返し訊ねてしまう癖もあった。

予定やルールを、何度も確認しないと不安で仕方なかった。

母は最初のうちは答えてくれたけれど、

何度目かには「さっきも言ったでしょ」とピシャリと叱った。


 「いい加減にして。あんたといると疲れるの」


 その「疲れる」という言葉が、

まるで僕が人間じゃないものになったような気がして、

ひどく冷たく、深く、胸に残った。


 父は何も言わなかった。

僕を責めもしない代わりに、かばいもしなかった。

「そういうのは母さんのほうがよくわかってるだろ」と言って、

全部を母に押しつけていた。

父にとって僕は、きっと“面倒なノイズ”でしかなかったのだろう……たぶん、そうだったのだと思う。


 僕は、努力していた。

周りを見て、マネして、間の取り方を考えて、

空気を読もうとして、笑い方を覚えて――

でも、うまくできなかった。

結局、全部ズレていた。

そうして僕は、誰にも好かれない子になった。


 先生に同じことを何度も訊いてしまった。

誰かと話していても、相手の言葉の意味がすぐにわからなくなる。

ノートの線を越えずに文字を書くことができなかった。

先生は、「丁寧に」と言った。

僕は、ちゃんと“線の内側”に収まろうとしたつもりだった。


「集中力が足りない」

「ちゃんと話を聞け」


 いつもそう言われた。


 でも僕は、わからなかった。

どこまでが“普通”で、どこからが“異常”なのか。

自分がどのくらい間違っているのか――それを誰も教えてくれなかった。


 家に帰れば、父の無言。母の溜息。

何かを訊ねようとすれば、「またか」と呆れた顔で見られる。

その視線が、ただただ、つらかった。



 ある日、僕は教室に入れなかった。

校門の前で足が動かなくなって、

それからは、電車にも乗れなくなって、

誰とも話せなくなって、

ついには、家の中でも動けなくなった。


 声をかけられても反応できなくて、

何を言われても言葉が意味を持たなくなって、

ただ、ただ、うずくまっていた。


 そのときの母の怒鳴り声だけは、今でもはっきりと覚えている。


「何度言わせるの!? いつまで甘えてるの!?

 もう知らない。あんたなんか、うちの子じゃなきゃよかった!!

 恥ずかしいったらありゃしない。近所にも何て言えばいいのよ!?

 毎日毎日、うるさいし、暗いし、わけわかんない! 病気のフリしてるんでしょ!?」


 僕は何も言えなかった。

息をするのもやっとで、喉の奥が詰まっていた。

でも母は止まらなかった。


「ねぇ、どうしてそんなふうに育ったの? なんで“普通”になれないの?

 もう顔見るだけでイライラする。あんたと話すと頭おかしくなりそう

 お願いだから、黙ってて。せめて、見えないところにいてくれない?」


 その「見えないところにいてくれない?」という言葉だけが、

静かに、でも確実に、僕の中の何かを殺した。


 怒鳴られるよりも、叩かれるよりも、

僕という存在そのものを「いなければいい」と扱われたことが――

いちばん、こわかった。

 


 そして、気づいたら、真っ白な天井を見ていた。


 病院のベッドの上だった。

鼻の奥にツンとくる消毒液の匂い。

チッ、チッ、と心電図の機械音だけが、空気を支配していた。


「ご家族、同意されています」


 そんな声が、カーテン越しに聞こえた。

声の主が誰なのかはわからなかった。

何に“同意”したのかも、本当は、わかっていなかった。


 でも、その言葉にはっきりと――僕の意思なんて、最初から必要とされていなかったことだけは伝わった。


 「ご家族」って、誰のことだろう。

僕のことを見ようともしなかった、あの人たちのこと?


 その人たちが、僕の行き先を決めたのだとしたら。

僕は、もう自分の人生を生きていないのかもしれない。


 ただベッドの上で、誰かの同意に従って運ばれていくだけの――

“なにか”になったような気がした。



 それから、何日が経ったのかはわからない。

白い廊下を車椅子で運ばれて、別の施設に移された。


 窓は小さく、天井は高かった。

その建物には、時計の音も、誰かの話し声もなかった。


「ようこそ」


 そう言った誰かの顔は、もう覚えていない。

でもそのとき僕は、はっきりとこう思った。

――ここでは、怒鳴られない。


 それは安心ではなかった。

安らぎでもなかった。

ただ、何もないことに、少しだけ“安心に似た感情”を感じただけだった。


 あの家には、言葉がなかった。

だから僕も、言葉を失った。

そのことに気づくのに、あまりに時間がかかりすぎた。


 そして僕は、“壊れた子ども”として、

白い部屋のなかで、ただ静かに息をしていた。


  そこに、彼女が現れたのは――




 もっとずっと、あとになってからのことだ。




第2話、ここまで読んでくださりありがとうございます。


この話は実体験を土台に、記憶と感覚を掘り起こしながら書いています。


怒鳴り声よりも、無関心のほうが怖かった。

傷つけられることより、「存在をなかったことにされる」ことのほうが苦しかった。


そうして言葉を失っていった日々が、

ミオ”という存在に出会う準備になっていきます。


次回、第3話からは――ふたりの物語が、ゆっくりと始まっていきます。


どうかこれからも、見届けてくださるとうれしいです。


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― 新着の感想 ―
静かな絶望が胸に迫る物語でした。言葉のない家庭で育った主人公の息苦しさが痛いほど伝わり、心に深く残ります。
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