第18話:檻へ、ただいま。
※この話には、精神的な支配・拘束を含む描写が登場します。
恋愛・共依存・境界の消失といった重たいテーマを扱っておりますので、苦手な方はご注意ください。
靴音だけが、長い廊下に静かに滲んでいた。
僕とミオは、並んで歩いていた。
けれど、その歩幅はそろっていなかった。
ミオの歩調が、ほんのわずかに遅れている。
その理由は、僕の袖に絡められた彼女の指にあった。
握られているわけではなかった。ただ、布の端をつまむようにして、そっと触れているだけ。
けれど、そのかすかな重みが、やけに肌に残った。
病棟の明かりは、まるで何も知らないかのように眩しかった。
階段を下り、白い壁の前を通るたび、僕は無意識に視線を下げていた。
ただ歩くだけなのに、足がやけに重かった。
無言だった。
言葉はひとつも交わされなかった。
屋上でのあの瞬間を、なかったことにはできないとわかっているのに――
なぜか、触れるのが怖かった。
誰の気配もない、早朝の病棟。
夜勤の看護師がナースステーションでなにか書きものをしていたが、僕たちには目を向けなかった。
その無関心が、今はむしろ救いだった。
廊下の突き当たり、病室が近づいてくる。
何も言わずに、その扉を見つめる。
(あそこに、戻るんだ)
扉が近づくにつれて、空気が少しずつ重たくなるのを感じた。
足元のタイルは、まるで同じ模様が延々と続いているようで、視界がゆがんで見えた。
(この廊下は、出口じゃない。入り口だった)
ミオの指が、布を引く感触が、まるで鎖のように思えた。
白い壁。静かな蛍光灯。
それらはすべて、脱出不可能な「檻」の内装だった。
そう思った瞬間、足が一瞬だけ止まりかけた。
けれど、ミオの指が布をほんの少し引いた。
それは「戻ろう」という合図にも、「逃げないで」という念押しにも感じられた。
どちらかは、わからない。
ただ一つ、はっきりしていたのは――
あの屋上から、僕は“帰ってきてしまった”ということだった。
「……帰ってきちゃったな」
小さく、呟いた。
隣のミオは、何も言わなかった。
けれどその指先の力が、ほんの少しだけ、強くなった気がした。
僕たちは、ゆっくりと歩き出した。
何も変わっていない廊下を、昨日と同じ速度で。
でも、確かに何かは変わっていた。
僕の中で、何かひとつ、音を立てずに“諦め”が降りてきていた。
病室の前まで、あと数歩――
その時だった。
廊下の奥から、看護師が歩いてきた。
当直明けなのだろうか。髪は少し乱れ、名札のストラップが軽く揺れている。
彼女は僕たちに気づくと、穏やかに微笑んだ。
「おはよう、ミオさん、ユウくん。ふたりでお散歩?」
その言葉に、僕は言葉を返す前に、隣の気配に視線を向けた。
ミオが――満面の笑みを浮かべていた。
「はい、おはようございます。ちょっとだけ、空気を吸いに」
声音まで完璧だった。
抑揚も、語尾の柔らかさも、言葉を選ぶ速度さえも。
まるで、“正しい答え”をすでに用意していたみたいだった。
僕の手元では、まだ彼女の指が布をつまんでいる。
けれどその力はもう抜けていた。
握る必要がなくなったのだろう――“ユウが戻ってきた”から。
♢
(……ああ、これは)
僕はようやく理解した。
この笑顔は、ミオの“安堵”なのだと。
“逃げ損なった”ことへの、静かな勝利の表情。
僕が戻ったこと、それ自体が、彼女にとっての“証明”だった。
屋上のことなど、まるでなかったかのように――
看護師は、まるで何も感じていないような笑顔で言葉を続ける。
「それはよかった。最近、ミオさんの調子も安定してるし……。ふたりでの時間、大事にしてね」
“ふたりでの時間”。
その言葉が、なぜか鋭く胸に刺さった。
“ふたり”のうちの“片方”が、確実に摩耗しているというのに。
“支え合っている”のではなく、“片方がもう片方に沈められている”というのに。
どうして、この病棟の中では、それが“良いこと”として扱われるのだろう。
「ありがとうございます、わたしも……ユウがいてくれるおかげです」
ミオの笑顔が、またひとつ深まる。
その瞳の奥に、“僕しか見えていない”色があった。
そして看護師は、なにも気づかないまま、満足げにうなずき、ナースステーションのほうへと去っていった。
その背中が遠ざかっていく間、ミオはまだ笑っていた。
笑って、僕の袖をすっとなでた。
まるで「ね、よかったでしょ?」とでも言いたげに。
僕は、何も言えなかった。
言葉の奥が、全部、氷のように冷えていた。
あの屋上で死に損ねたことも。
こうして“ふたり”で歩いていることも。
すべてが、なぜか他人の出来事のように感じられた。
(あの笑顔は――誰のためのものだったんだろう)
答えは出なかった。
でも、確かなことがひとつだけあった。
――あの笑顔は、ミオの“本心”ではなかった。
彼女が本当に“満たされている”ときは、
僕を抱きしめながら、誰にも見えない場所で、涙を落とす夜の中にしかない。
配膳のワゴンが、廊下を軋ませながら通り過ぎていく。
白いプレートが、いつものように音もなく置かれていく。
食堂には柔らかな光が灯っていて、それは優しさのように見えたけれど――僕には、薄く濁った沈黙の膜のようにしか感じられなかった。
ミオは、笑っていた。
いつもより少し、明るく。
「今日のスープ、コンソメじゃないんだね。珍しい」
ほんの些細な感想だった。けれどそれすら、彼女が“努力して発している”言葉のように感じられた。
「うん、そうだね……たぶん味噌かな」
僕も、笑って返す。
笑顔は、自然だったと思う。
少なくとも“形”だけは。
でも、味は――わからなかった。
舌が味を捉えるよりも前に、咀嚼と嚥下の機能だけが先に動いていた。
もはやそれは“食べる”という行為ではなく、“流し込む”という工程に近かった。
ミオの箸の動きは、几帳面だった。
ご飯を少し、スープを一口、焼き魚の皮を丁寧に剥がす。
動きに迷いがなかった。
それは、習慣というよりも――“演技の完成度”のようだった。
僕の向かいに座る彼女は、まるで“良い子”のふりをした女優のようだった。
カメラのない舞台で、観客のいない劇を、完璧に演じきろうとしている。
それが――ひどく痛々しかった。
「……ユウ、どうしたの?」
ふと、箸が止まる。
僕が無意識のうちに、彼女を見つめていたらしい。
「ううん、なんでもない。ただ……元気そうだなって思って」
僕の言葉に、ミオはふふっと笑った。
その笑いは、嬉しさからではなかった。
“安堵”だった。
僕が“壊れていないふり”をしてくれたことに対する、微かな安堵。
「そっか。……ユウが一緒だと、なんでも頑張れるの」
その言葉は、甘やかで、優しかった。
けれど同時に、逃げ場をひとつ塞がれた気がした。
ミオの瞳は、灰色のまま揺れていなかった。
そこには涙も怒りもなかったけれど――“諦められない執着”だけが沈んでいた。
僕はもう、どう返せばいいのか、わからなかった。
“嬉しい”とも、“ありがとう”とも言えなかった。
だから、沈黙が落ちた。
スプーンの音が、プレートを小さく叩いた。
その音だけが、二人のあいだを行き交っていた。
やがてミオは、そっと僕の皿の隅にあった小さな煮物を、自分の箸で取った。
「これ、ユウ好きでしょ?」
僕は頷いた。
味なんて、もうどうでもよかった。
ただ、その“交換”の動作が、彼女の“独占の証”であることを理解していた。
(誰にも触れさせない。誰にも渡さない。
だから、あなたの好物さえも、私が与える)
その無言の支配が、テーブルの上に静かに広がっていた。
看護師が遠くから、ふたりを見て微笑んでいた。
“今日も仲良しね”とでも言いたげに。
でも――誰も気づかない。
この食卓が、どれほどゆがんだ“演目”でできているかなんて。
僕は、ごくりとスープを飲み込んだ。
ぬるかった。
味は、やっぱり、わからなかった。
病室に戻ると、ミオは何も言わず、ただベッドに向かった。
どこか意志を抜いたような足取り。
けれど、それは“日常”として染みついた動作だった。
シーツをめくり、彼女はその下に身を滑らせる。
顔は見えない。背を向けたまま、微動だにしなかった。
僕はしばらく、その背中を見つめていた。
声をかけることも、寄り添うこともできなかった。
ただ、沈黙の中で“呼ばれるのを待っている”自分に気づいた。
やがて――
「……ユウ、来て」
背を向けたままのミオが、ぽつりと呟いた。
その声に、迷いはなかった。
感情の揺れも、熱もない。
ただ、“定められた手順”のように。
僕は無言で近づき、ベッドに身を沈めた。
次の瞬間、ミオの身体が、ふわりとこちらに乗ってきた。
重くはなかった。
けれど、“重さ以上の圧”が胸にのしかかった。
ミオが、僕を押し倒した。
ごく自然に、当たり前のように、彼女の太ももが僕の腰にまたがる。
照明は落ちていない。
だがその薄暗さすら、“舞台装置”のように見えた。
ミオの顔が、僕を覗き込む。
その目は、まるで生き物のように、光を持っていた。
けれど、その光の中に――理性は、なかった。
そして、彼女の両手が、ゆっくりと僕の首に添えられる。
爪の先が、皮膚に触れる。
「……ねえ、ユウ」
指が、少しだけ動く。
その圧は、まだ優しかった。
「次、いなくなったら……わたし、ほんとうに、消えるよ?」
その言葉と同時に、手に“力”が入った。
ぎゅっ――
喉が少しだけ押し込まれる感覚。
息はできた。
けれど、それ以上“深く息を吸うこと”ができなかった。
その圧は、身体を殺すためではなかった。
“確認”のための圧。
逃げられないことを、自分の手で知るための力。
僕の目が、うっすらと見開かれる。
けれど、そこに恐怖はなかった。
むしろ、何も感じない自分に――驚いていた。
鼓動だけが、皮膚の内側で静かに跳ねる。
けれど、それもすぐに平坦になっていった。
「……はい」
その返事は、感情のない、ただの応答だった。
恐怖でも、同意でもない。
“感情を失った人間の返事”――それが、そのまま口からこぼれ落ちた。
「……良かった」
ミオが、そっと笑った。
その笑みは、安堵のように見えて、どこか“快感”の色すら孕んでいた。
「愛してるよ、ユウ」
その言葉と同時に、彼女の手の力がふっと緩む。
けれど、首から手が離れることはなかった。
手のひらの圧は、“絞める”から“繋ぎとめる”へと変化していた。
そして、唇が降ってきた。
ふわりと、頬に。
そのまま滑るように、口元へ。
舌が、迷いなくすべり込んでくる。
ゆっくりと、けれど確実に奥へ奥へと侵入してくる。
僕の身体は、ただ“器”のように沈黙していた。
意志も、欲望も、そこにはなかった。
まぶたが静かに閉じられるたび、“僕”という存在が、ゆっくりと消えていく気がした。
ミオの呼気が鼻先にかかる。
その吐息は湿っていて、微かに震えていた。
“狂気”というものがあるとすれば、
それはきっと、こういう温度のことを言うのだろう――そう思った。
甘くて、優しくて、そして冷たい。
表面だけが柔らかく、中身が見えない。
それが、今、彼女のすべてだった。
キスは深くなり、口腔が混じるたび、
僕の内側にあった“わずかな抵抗”が静かに溶けていくのがわかった。
唇が離れる。
ミオの指が、再び僕の首元に触れる。
今度は優しく、なぞるように。
「ねぇ、ユウ」
彼女の声が、喉奥でくぐもるように落ちる。
「もう“どこにも行かない”って、約束だよ」
その一言は、祈りではなかった。
命令でもなかった。
それは、“契約”だった。
一方的で、選択肢のない、
けれど逃げ道のない種類の“誓約”。
ミオの手が、ゆっくりと僕の手を探し出す。
そして、その指にそっと自分の指を絡めた。
ぴたり、と重なる掌。
まるで印を刻むように、ミオの手が僕の手をぎゅっと包み込む。
その感触が――“重み”だった。
言葉で交わされる約束よりも、
どんな愛の表現よりも、
ずっと無慈悲で、確実で、そして逃れられない、
“現実の圧”。
(……もう、戻れない)
僕は、そう思った。
泣くことも、怒ることも、笑うことも、できなかった。
ただ、静かに目を閉じた。
ミオの体温が、ゆっくりと滲み込んでくる。
血管の奥に、骨の隙間に、思考の輪郭にまで染みてくる。
それは、甘い毒だった。
中毒ではない。共依存ではない。
これは、“存在を塗り潰される感覚”。
――けれど、心はすでに、それを拒まなかった。
夜の静寂が、ぴたりと訪れる。
まるでこの行為を“祝福するかのように”。
布団の中。
指と指が重なったまま、動かない。
身体の境界が、じわじわと溶けていく。
“僕”という意識が、“彼女の中にある名前”になっていく。
聴こえていたはずの心音も、いつの間にか遠ざかっていた。
僕の内側から音が消えていく。
それは“静寂”ではなかった。
“吸収”だった。
僕の存在音が、ミオの中に沈んでいく音だった。
それが、
今夜の“儀式の終わり”だった。
♢
静かだった。
どこにも音がなかった。
ミオの身体が、まだ僕の上に重なっている。
けれど、その重みは次第に“質量”を持たなくなっていった。
皮膚の感覚が鈍くなる。
僕の体温なのか、彼女の体温なのか、もう区別がつかない。
(この身体が、自分だけのものじゃなくなっていく)
僕の中で、彼女が脈打っているような錯覚。
ミオの爪痕が、首に微かに残っていて、
それが――
“境界線”のように思えた。
境界を越えて、彼女は入り込んだ。
僕の中に。
そしてたぶん、僕も――
自分の輪郭の中に“彼女”を飼っている。
♢
いや、もしかするとそれを“愛している”とすら、思ってしまったのかもしれない。
境界が消えていくことを、“幸福”だと錯覚していた。
こんばんは。
今夜も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
第18話では、ユウとミオの「ふたりだけの世界」が、
完全な“檻”として完成する瞬間を描きました。
これは、単なる依存関係やヤンデレの物語ではありません。
一方が他方を愛することで、相手の“輪郭”を塗り潰してしまう。
その結果、自分の“存在意義”までも、相手のなかに溶かしてしまう。
そんな、“幸福の皮をかぶった暴力”のような瞬間が、
この物語の中心にあります。
今回、首に触れる・絞める・命を握る――そうした描写もありました。
けれどそれは、”「殺すための力」ではなく、「手放さないための圧」”です。
愛しているからこそ、消えられることが怖い。
愛しているからこそ、相手の自由を“奪ってしまう”。
そしてそのすべてを、ユウは”「受け入れることが愛だ」と錯覚してしまった”。
ここから、物語はさらに“閉ざされたふたり”の先へ進みます。
次回からは第19話。仮退院と、外泊訓練。
でもそれは、“ふたりの自由”ではなく、
“世界からふたりを隠すための予行演習”です。
第1章は、残りわずか。
どうか、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
霧野ルイ