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君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく
18/21

第18話:檻へ、ただいま。

※この話には、精神的な支配・拘束を含む描写が登場します。

恋愛・共依存・境界の消失といった重たいテーマを扱っておりますので、苦手な方はご注意ください。



 靴音だけが、長い廊下に静かに滲んでいた。


 僕とミオは、並んで歩いていた。

 けれど、その歩幅はそろっていなかった。

 ミオの歩調が、ほんのわずかに遅れている。


 その理由は、僕の袖に絡められた彼女の指にあった。

 握られているわけではなかった。ただ、布の端をつまむようにして、そっと触れているだけ。

 けれど、そのかすかな重みが、やけに肌に残った。


 病棟の明かりは、まるで何も知らないかのように眩しかった。

 階段を下り、白い壁の前を通るたび、僕は無意識に視線を下げていた。

 ただ歩くだけなのに、足がやけに重かった。


 無言だった。

 言葉はひとつも交わされなかった。

 屋上でのあの瞬間を、なかったことにはできないとわかっているのに――

 なぜか、触れるのが怖かった。


 誰の気配もない、早朝の病棟。

 夜勤の看護師がナースステーションでなにか書きものをしていたが、僕たちには目を向けなかった。

 その無関心が、今はむしろ救いだった。


 廊下の突き当たり、病室が近づいてくる。

 何も言わずに、その扉を見つめる。


 (あそこに、戻るんだ)

 扉が近づくにつれて、空気が少しずつ重たくなるのを感じた。

 足元のタイルは、まるで同じ模様が延々と続いているようで、視界がゆがんで見えた。

(この廊下は、出口じゃない。入り口だった)

 ミオの指が、布を引く感触が、まるで鎖のように思えた。

 白い壁。静かな蛍光灯。

 それらはすべて、脱出不可能な「檻」の内装だった。


 そう思った瞬間、足が一瞬だけ止まりかけた。


 けれど、ミオの指が布をほんの少し引いた。

 それは「戻ろう」という合図にも、「逃げないで」という念押しにも感じられた。

 どちらかは、わからない。


 ただ一つ、はっきりしていたのは――

 あの屋上から、僕は“帰ってきてしまった”ということだった。


 「……帰ってきちゃったな」


 小さく、呟いた。


 隣のミオは、何も言わなかった。

 けれどその指先の力が、ほんの少しだけ、強くなった気がした。


 僕たちは、ゆっくりと歩き出した。

 何も変わっていない廊下を、昨日と同じ速度で。


 でも、確かに何かは変わっていた。


 僕の中で、何かひとつ、音を立てずに“諦め”が降りてきていた。


 病室の前まで、あと数歩――


 その時だった。

 廊下の奥から、看護師が歩いてきた。


 当直明けなのだろうか。髪は少し乱れ、名札のストラップが軽く揺れている。

 彼女は僕たちに気づくと、穏やかに微笑んだ。


 「おはよう、ミオさん、ユウくん。ふたりでお散歩?」


 その言葉に、僕は言葉を返す前に、隣の気配に視線を向けた。


 ミオが――満面の笑みを浮かべていた。


 「はい、おはようございます。ちょっとだけ、空気を吸いに」


 声音まで完璧だった。

 抑揚も、語尾の柔らかさも、言葉を選ぶ速度さえも。

 まるで、“正しい答え”をすでに用意していたみたいだった。


 僕の手元では、まだ彼女の指が布をつまんでいる。

 けれどその力はもう抜けていた。

 握る必要がなくなったのだろう――“ユウが戻ってきた”から。


 ♢


 (……ああ、これは)


 僕はようやく理解した。

 この笑顔は、ミオの“安堵”なのだと。


 “逃げ損なった”ことへの、静かな勝利の表情。

 僕が戻ったこと、それ自体が、彼女にとっての“証明”だった。

 屋上のことなど、まるでなかったかのように――


 看護師は、まるで何も感じていないような笑顔で言葉を続ける。


 「それはよかった。最近、ミオさんの調子も安定してるし……。ふたりでの時間、大事にしてね」


 “ふたりでの時間”。


 その言葉が、なぜか鋭く胸に刺さった。

 “ふたり”のうちの“片方”が、確実に摩耗しているというのに。

 “支え合っている”のではなく、“片方がもう片方に沈められている”というのに。

 どうして、この病棟の中では、それが“良いこと”として扱われるのだろう。


 「ありがとうございます、わたしも……ユウがいてくれるおかげです」


 ミオの笑顔が、またひとつ深まる。

 その瞳の奥に、“僕しか見えていない”色があった。


 そして看護師は、なにも気づかないまま、満足げにうなずき、ナースステーションのほうへと去っていった。


 その背中が遠ざかっていく間、ミオはまだ笑っていた。

 笑って、僕の袖をすっとなでた。

 まるで「ね、よかったでしょ?」とでも言いたげに。


 僕は、何も言えなかった。

 言葉の奥が、全部、氷のように冷えていた。


 あの屋上で死に損ねたことも。

 こうして“ふたり”で歩いていることも。

 すべてが、なぜか他人の出来事のように感じられた。


 (あの笑顔は――誰のためのものだったんだろう)


 答えは出なかった。

 でも、確かなことがひとつだけあった。


 ――あの笑顔は、ミオの“本心”ではなかった。


 彼女が本当に“満たされている”ときは、

 僕を抱きしめながら、誰にも見えない場所で、涙を落とす夜の中にしかない。


 配膳のワゴンが、廊下を軋ませながら通り過ぎていく。

 白いプレートが、いつものように音もなく置かれていく。

 食堂には柔らかな光が灯っていて、それは優しさのように見えたけれど――僕には、薄く濁った沈黙の膜のようにしか感じられなかった。


 ミオは、笑っていた。

 いつもより少し、明るく。


 「今日のスープ、コンソメじゃないんだね。珍しい」


 ほんの些細な感想だった。けれどそれすら、彼女が“努力して発している”言葉のように感じられた。


 「うん、そうだね……たぶん味噌かな」


 僕も、笑って返す。


 笑顔は、自然だったと思う。

 少なくとも“形”だけは。


 でも、味は――わからなかった。

 舌が味を捉えるよりも前に、咀嚼と嚥下の機能だけが先に動いていた。

 もはやそれは“食べる”という行為ではなく、“流し込む”という工程に近かった。


 ミオの箸の動きは、几帳面だった。

 ご飯を少し、スープを一口、焼き魚の皮を丁寧に剥がす。

 動きに迷いがなかった。

 それは、習慣というよりも――“演技の完成度”のようだった。


 僕の向かいに座る彼女は、まるで“良い子”のふりをした女優のようだった。

 カメラのない舞台で、観客のいない劇を、完璧に演じきろうとしている。


 それが――ひどく痛々しかった。


 「……ユウ、どうしたの?」


 ふと、箸が止まる。

 僕が無意識のうちに、彼女を見つめていたらしい。


 「ううん、なんでもない。ただ……元気そうだなって思って」


 僕の言葉に、ミオはふふっと笑った。

 その笑いは、嬉しさからではなかった。

 “安堵”だった。

 僕が“壊れていないふり”をしてくれたことに対する、微かな安堵。


 「そっか。……ユウが一緒だと、なんでも頑張れるの」


 その言葉は、甘やかで、優しかった。

 けれど同時に、逃げ場をひとつ塞がれた気がした。


 ミオの瞳は、灰色のまま揺れていなかった。

 そこには涙も怒りもなかったけれど――“諦められない執着”だけが沈んでいた。


 僕はもう、どう返せばいいのか、わからなかった。

 “嬉しい”とも、“ありがとう”とも言えなかった。


 だから、沈黙が落ちた。


 スプーンの音が、プレートを小さく叩いた。

 その音だけが、二人のあいだを行き交っていた。


 やがてミオは、そっと僕の皿の隅にあった小さな煮物を、自分の箸で取った。


 「これ、ユウ好きでしょ?」


 僕は頷いた。

 味なんて、もうどうでもよかった。

 ただ、その“交換”の動作が、彼女の“独占の証”であることを理解していた。


 (誰にも触れさせない。誰にも渡さない。

 だから、あなたの好物さえも、私が与える)


 その無言の支配が、テーブルの上に静かに広がっていた。


 看護師が遠くから、ふたりを見て微笑んでいた。

 “今日も仲良しね”とでも言いたげに。


 でも――誰も気づかない。

 この食卓が、どれほどゆがんだ“演目”でできているかなんて。


 僕は、ごくりとスープを飲み込んだ。


 ぬるかった。

 味は、やっぱり、わからなかった。


 病室に戻ると、ミオは何も言わず、ただベッドに向かった。

 どこか意志を抜いたような足取り。

 けれど、それは“日常”として染みついた動作だった。


 シーツをめくり、彼女はその下に身を滑らせる。

 顔は見えない。背を向けたまま、微動だにしなかった。


 僕はしばらく、その背中を見つめていた。

 声をかけることも、寄り添うこともできなかった。


 ただ、沈黙の中で“呼ばれるのを待っている”自分に気づいた。


 やがて――


 「……ユウ、来て」


 背を向けたままのミオが、ぽつりと呟いた。


 その声に、迷いはなかった。

 感情の揺れも、熱もない。

 ただ、“定められた手順”のように。


 僕は無言で近づき、ベッドに身を沈めた。

 次の瞬間、ミオの身体が、ふわりとこちらに乗ってきた。


 重くはなかった。

 けれど、“重さ以上の圧”が胸にのしかかった。


 ミオが、僕を押し倒した。

 ごく自然に、当たり前のように、彼女の太ももが僕の腰にまたがる。


 照明は落ちていない。

 だがその薄暗さすら、“舞台装置”のように見えた。


 ミオの顔が、僕を覗き込む。

 その目は、まるで生き物のように、光を持っていた。

 けれど、その光の中に――理性は、なかった。


 そして、彼女の両手が、ゆっくりと僕の首に添えられる。

 爪の先が、皮膚に触れる。


 「……ねえ、ユウ」


 指が、少しだけ動く。

 その圧は、まだ優しかった。


「次、いなくなったら……わたし、ほんとうに、消えるよ?」


 その言葉と同時に、手に“力”が入った。


 ぎゅっ――


 喉が少しだけ押し込まれる感覚。

 息はできた。

 けれど、それ以上“深く息を吸うこと”ができなかった。


 その圧は、身体を殺すためではなかった。

 “確認”のための圧。

 逃げられないことを、自分の手で知るための力。


 僕の目が、うっすらと見開かれる。


 けれど、そこに恐怖はなかった。

 むしろ、何も感じない自分に――驚いていた。


 鼓動だけが、皮膚の内側で静かに跳ねる。

 けれど、それもすぐに平坦になっていった。


 「……はい」


 その返事は、感情のない、ただの応答だった。

 恐怖でも、同意でもない。

 “感情を失った人間の返事”――それが、そのまま口からこぼれ落ちた。


 「……良かった」


 ミオが、そっと笑った。

 その笑みは、安堵のように見えて、どこか“快感”の色すら孕んでいた。


 「愛してるよ、ユウ」


 その言葉と同時に、彼女の手の力がふっと緩む。

 けれど、首から手が離れることはなかった。

 手のひらの圧は、“絞める”から“繋ぎとめる”へと変化していた。


 そして、唇が降ってきた。


 ふわりと、頬に。

 そのまま滑るように、口元へ。


 舌が、迷いなくすべり込んでくる。

 ゆっくりと、けれど確実に奥へ奥へと侵入してくる。


 僕の身体は、ただ“器”のように沈黙していた。

 意志も、欲望も、そこにはなかった。

 まぶたが静かに閉じられるたび、“僕”という存在が、ゆっくりと消えていく気がした。


 ミオの呼気が鼻先にかかる。

 その吐息は湿っていて、微かに震えていた。


 “狂気”というものがあるとすれば、

 それはきっと、こういう温度のことを言うのだろう――そう思った。


 甘くて、優しくて、そして冷たい。

 表面だけが柔らかく、中身が見えない。

 それが、今、彼女のすべてだった。


 キスは深くなり、口腔が混じるたび、

 僕の内側にあった“わずかな抵抗”が静かに溶けていくのがわかった。


 唇が離れる。


 ミオの指が、再び僕の首元に触れる。

 今度は優しく、なぞるように。


 「ねぇ、ユウ」


 彼女の声が、喉奥でくぐもるように落ちる。


 「もう“どこにも行かない”って、約束だよ」


 その一言は、祈りではなかった。

 命令でもなかった。


 それは、“契約”だった。


 一方的で、選択肢のない、

 けれど逃げ道のない種類の“誓約”。


 ミオの手が、ゆっくりと僕の手を探し出す。

 そして、その指にそっと自分の指を絡めた。


 ぴたり、と重なる掌。

 まるで印を刻むように、ミオの手が僕の手をぎゅっと包み込む。


 その感触が――“重み”だった。


 言葉で交わされる約束よりも、

 どんな愛の表現よりも、

 ずっと無慈悲で、確実で、そして逃れられない、

 “現実の圧”。


 (……もう、戻れない)


 僕は、そう思った。


 泣くことも、怒ることも、笑うことも、できなかった。

 ただ、静かに目を閉じた。


 ミオの体温が、ゆっくりと滲み込んでくる。

 血管の奥に、骨の隙間に、思考の輪郭にまで染みてくる。


 それは、甘い毒だった。

 中毒ではない。共依存ではない。

 これは、“存在を塗り潰される感覚”。


 ――けれど、心はすでに、それを拒まなかった。


 夜の静寂が、ぴたりと訪れる。

 まるでこの行為を“祝福するかのように”。


 布団の中。

 指と指が重なったまま、動かない。

 身体の境界が、じわじわと溶けていく。


 “僕”という意識が、“彼女の中にある名前”になっていく。


 聴こえていたはずの心音も、いつの間にか遠ざかっていた。

 僕の内側から音が消えていく。

 それは“静寂”ではなかった。

“吸収”だった。

 僕の存在音が、ミオの中に沈んでいく音だった。


 それが、

 今夜の“儀式の終わり”だった。


 ♢


 静かだった。

 どこにも音がなかった。


 ミオの身体が、まだ僕の上に重なっている。

 けれど、その重みは次第に“質量”を持たなくなっていった。

 皮膚の感覚が鈍くなる。

 僕の体温なのか、彼女の体温なのか、もう区別がつかない。


(この身体が、自分だけのものじゃなくなっていく)


 僕の中で、彼女が脈打っているような錯覚。

 ミオの爪痕が、首に微かに残っていて、

 それが――


 “境界線”のように思えた。


 境界を越えて、彼女は入り込んだ。

 僕の中に。


 そしてたぶん、僕も――

 自分の輪郭の中に“彼女”を飼っている。


 ♢


 いや、もしかするとそれを“愛している”とすら、思ってしまったのかもしれない。

 境界が消えていくことを、“幸福”だと錯覚していた。




こんばんは。

今夜も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


第18話では、ユウとミオの「ふたりだけの世界」が、

完全な“檻”として完成する瞬間を描きました。


これは、単なる依存関係やヤンデレの物語ではありません。

一方が他方を愛することで、相手の“輪郭”を塗り潰してしまう。

その結果、自分の“存在意義”までも、相手のなかに溶かしてしまう。


そんな、“幸福の皮をかぶった暴力”のような瞬間が、

この物語の中心にあります。


今回、首に触れる・絞める・命を握る――そうした描写もありました。

けれどそれは、”「殺すための力」ではなく、「手放さないための圧」”です。

愛しているからこそ、消えられることが怖い。

愛しているからこそ、相手の自由を“奪ってしまう”。


そしてそのすべてを、ユウは”「受け入れることが愛だ」と錯覚してしまった”。


ここから、物語はさらに“閉ざされたふたり”の先へ進みます。

次回からは第19話。仮退院と、外泊訓練。


でもそれは、“ふたりの自由”ではなく、

“世界からふたりを隠すための予行演習”です。


第1章は、残りわずか。

どうか、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。


霧野ルイ

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