第17話:優しい毒。
※本話には自死衝動・精神的支配・共依存など、心に重く響く描写が含まれます。
読まれる方の心の状態にご留意ください。
目を覚ましたのは、まだ部屋の空気がひんやりとしている時間帯だった。
なのに、胸の奥だけが、ほんのりと熱を持っていた。
まるで何かが“はじまってしまった”ことに、身体のどこかが気づいているようだった。
隣で眠るミオの呼吸は、浅く、規則正しく続いている。布団の中でぴったりと僕の身体に沿うように丸まっていて、まるで寄り添うというより、重なり合うことを前提にした“かたち”だった。
ゆっくりと、できるだけ音を立てないように身を起こす。
ミオの腕が、僕の胸から滑り落ちる。
その瞬間、彼女の眉がわずかに動いたように見えたけれど、目を覚ますことはなかった。
僕はそっと布団を抜け出し、カーテンを押し広げる。
窓を少しだけ開けると、朝の空気が、冷たく喉に降りてきた。
外の景色が、ゆっくりと朝焼けに染まりはじめていた。
サナトリウムの庭園、その先に広がる街並み、建物の輪郭が橙色の光に縁取られていく。
けれど、僕には――その“色”が、うまく見えなかった。
ただ明るくなっただけの世界。
ただ切り替わった照明のように、夜が朝へ変わったというだけ。
その美しさに心が反応しないことに、僕自身が驚いていた。
「……色が、見えない」
ぽつりと、呟いた。
正確には“色がない”のではなく、“心が反応しない”だけ。
それでも、僕にはその違いがどうでもよく思えた。
ミオが起きる前の、ほんのわずかなこの時間。
誰にも触れられていない空気の中に立っているはずなのに、全身が、誰かの気配に縛られているようだった。
(僕は、何をしてるんだろう)
胸の奥が、じんと熱くなった。
その熱がゆっくりと目の裏に滲んで、視界がぼやける。
涙だった。
理由は、なかった。
けれど、確かに涙が溢れていた。
静かに、誰にも気づかれないように。
嗚咽もなく、ただ、頬をすべるように。
僕の生活は、もうミオの呼吸のリズムに支配されていた。
彼女の安心のために起き、笑い、歩き、眠る。
すべてが“彼女の感情の地雷を踏まないようにするため”に設計された動作。
それを誰にも言えない。
言ってはいけない気がする。
それが、僕の存在理由になってしまったから。
朝の光が、窓枠に沿って、ゆっくりと僕の足元を照らす。
けれど、あたたかくはなかった。
その光はまるで、“この朝が君を照らしているわけじゃない”と告げているように、透明で、冷たかった。
ベッドの上で、ミオは眠っているように見えた。
けれど、その呼吸には、わずかな違和感があった。
深くも浅くもない、中途半端なリズム。
身体は静かに横たわっているのに、どこか“目覚めている”気配を感じた。
僕はそれを、見て見ぬふりをした。
そっとパーカーを羽織り、音を立てないようにベッドを離れる。
その間じゅう、ミオは微動だにしない。
まぶたは閉じたまま、顔は枕に埋もれている。
けれど、その肩のあたりがほんの僅かに、規則的な動きとは異なる波を描いていた。
(……起きてる)
確信めいた予感が、胸の奥に落ちた。
けれど、僕は立ち止まらなかった。
このままそっとドアを開けて、廊下に出て、数分でも外の空気を吸う――
それだけのことなのに、まるで脱獄のような罪悪感が背中に張りついていた。
ドアノブに手をかけた、そのときだった。
「……どこ行くの?」
背後から、声が落ちてきた。
静かで、淡く、けれどまっすぐに僕の背中を貫いてくる声だった。
ゆっくりと振り返ると、ミオがこちらを見ていた。
いつ起きたのか、彼女はすでに上体を起こしていた。
毛布を肩まで引き上げたまま、灰色の瞳だけが、じっと僕を捉えていた。
その表情は――微笑だった。
けれど、それは“安堵”でも“親愛”でもない。
むしろ、無理に貼りつけたような笑顔。
恐怖と不安をごく薄く上塗りして、なんとか保っている表情だった。
「……ちょっと、屋上。空気吸いに」
そう答えた自分の声が、思いのほか小さくて、弱かった。
ミオは、数秒間、何も言わなかった。
その間、視線がまるで“心の奥”を覗き込むように沈んでいた。
やがて彼女は、ゆっくりとベッドを出た。
スリッパの音を立てないように歩いてきて、僕の手首をそっと取る。
冷たい指だった。
でも、その握力には、“ただのスキンシップ”を超えた緊張が込められていた。
「……ユウ、帰ってくるよね?」
その言葉には、縋るような柔らかさがあった。
でも、その奥にひそむ“絶対に帰らせなければならない”という、切実な狂気が、僕の心を締めつけた。
そう問いかけられたわけではなかった。
けれど、その言葉が確かに瞳の奥で震えていた。
僕は、笑うことしかできなかった。
笑って、頷いた。
それがどれほど無責任な表情か、わかっていたのに。
ミオは、微笑み返した。
不安を飲み込んだような、作られた笑顔。
その表情の奥に沈む“何か”が、僕の胸を締めつけた。
「いってらっしゃい」
その一言は、まるで“送り出してはいけないもの”を見送るような声音だった。
僕はドアを開けて、外へ出た。
扉が閉まる音が、まるでひとつの世界の終わりを告げるように、静かに、重く響いた。
♢
風が、冷たかった。
屋上に出た瞬間、足元のタイルをなぞるように吹き抜けた風が、パジャマの裾をくすぐっていく。ほんのわずかな湿り気を帯びた風だった。季節が変わろうとしているのだろうか。それとも、ただの錯覚だろうか。
鉄柵の先に、空があった。
青くもなく、灰色でもない――曖昧で、遠い空。ぼやけた雲がいくつか浮かんでいて、その切れ端が風に引き裂かれていく様子を、僕はただ無言で見つめていた。
(……静かだ)
耳をすませば、遠くで鳥の声がした。
でもその鳴き声さえも、まるで“この世界の音”じゃない気がした。
白い手すり。ひび割れたコンクリート。開け放たれた空の果て――
どこかが、“終わっている”気がした。
僕は、ゆっくりと鉄柵の前に立つ。
手すりに手をかけると、鉄の冷たさが皮膚に吸い付いてきた。
ふと、柵越しに身を乗り出す。
下は、見えなかった。
でも、遠くの通路に、人の影がひとつ――
点のように歩くその姿が、どこまでも遠くて、現実的だった。
この高さを落ちたら、あれも、もう見えない。
下は見えない。
けれど、“ある”ことだけは、確かにわかる。
「……落ちてしまいたい」
言葉が、無意識に口をついて出た。
それは願望というよりも、“報告”に近かった。
誰にも聞かれることのない、心の実況。
僕の中で、何かが壊れていた。
感情ではなく、“位置”のようなものが。
“ここにいていい”という確信が、どこにもなかった。
ミオの笑顔が浮かんだ。
いつも通りの、穏やかな、けれどどこか硬直した笑顔。
その奥に沈む、支配と不安と、執着。
――君は、わたしの中でだけ、生きる。
その言葉が、耳の奥で繰り返される。
優しく、甘く、けれど逃げ場のない鎖のように。
(……生きてるって、なんだろう)
今の僕は、“彼女の安心装置”でしかない。
僕が笑えば、ミオも笑う。
僕が喋れば、ミオの呼吸が整う。
逆に、僕が無表情でいると、彼女の瞳から光が消える。
“僕”という人格は、彼女の情緒を保つための、ただの設定項目に過ぎない。
そんな日々を繰り返しているうちに、思考が曇っていった。
怒りも、哀しみも、喜びさえも、彼女のために“調整”するものになってしまった。
……それって、本当に生きてるって言えるのか。
足元に視線を落とす。
遠く、遠く、景色の下。
見えない地面が、静かに僕を誘っている気がした。
片足を、ゆっくりと鉄柵にかける。
冷たい風が、素肌を撫でる。
バランスが少し崩れた。
心臓が、一度だけ大きく鳴った。
怖い、と思った。
でも、それ以上に――
(このままじゃ……生きてるふりを続けるしかない)
誰かに「助けて」と言うこともできない。
「もう限界だ」と口にすることすら、彼女の不安を刺激してしまう。
だから、何も言えない。
ただ、“支える人形”として日々を繰り返すしかない。
空は、静かだった。
風の音が耳を撫でる。
僕は、そっと目を閉じた。
(……もう、消えてしまってもいいのかもしれない)
そう思った瞬間――
後ろから、足音がした。
――カツン。
足音だった。
遠く、誰かが階段を上がってくる気配がした。
その音は、不意打ちのように世界へ割り込んできて、僕の背中をぴたりと凍らせた。
(誰か、来る……?)
鼓膜がわずかに震えた。
空の広がるこの無音の屋上に、たった一つの音が浮かび上がってくる。
それは、職員かもしれない。
他の患者かもしれない。
誰だってよかった。
その「誰か」の存在が、確かに“現実”を呼び戻していた。
片足を柵にかけたまま、僕の身体はそこで止まっていた。
動かない。
けれど、戻れもしない。
喉の奥が、かすかに鳴った。
吸い込んだ空気が肺をひりつかせる。
まるで、その存在を受け入れないとでも言うように。
――やめろ。
頭のどこかで、そんな声がした。
けれど、その声は、僕自身のものじゃなかった。
ずっと奥で、ずっと昔から、黙り込んでいた“もう一人の僕”が、ようやく小さな声で呟いたような気がした。
「やめたい」と、思っていたのかもしれない。
本当は、誰かに止めてほしかった。
見つけてほしかった。
ただ「大丈夫?」と、声をかけてほしかっただけなのかもしれない。
でも――
でも、その声を“信号”として受け取れるほど、僕はもう正常ではなかった。
誰かが来るという気配は、すぐに遠ざかっていった。
きっと別の階で足を止めたのだろう。
ああ、と心のどこかが空気を漏らすように崩れた。
救いのような、その気配が――届かない場所へ消えていく。
誰にも見られていない。
誰にも気づかれていない。
今なら、できる。
僕の中で、そう告げる声があった。
自分が消えることで、誰も傷つかないと思っていた。
むしろ、それが彼女のためになるような気さえしていた。
でもその“優しさ”が、実は逃避であり、自分勝手な独善だと、頭の片隅では分かっていた。
それでも、他の選択肢が浮かばなかった。
――できるうちに、やってしまおう。
その言葉には、絶望ではなく、“無感覚”があった。
怖さよりも、痛みよりも、ただ“終われる”という一点にだけ、理由を見つけようとしていた。
光は優しく、ただし無慈悲だった。
死を照らすには、十分すぎるほど静かだった。
僕は、もう一度、手すりに力をこめた。
柵の上に足をかける。
重心がほんの少しだけ、空のほうへ傾く。
風が、少しだけ強くなった。
その風が、背中を押すのか、引きとめるのか――
わからなかった。
わからなくて、ただ――
「終わってしまいたい」と思った。
それだけが、真実のように感じられた。
――もう、飛べる。
その瞬間、不意に脳裏に浮かんだのは――
♢
あの夜、ミオが初めて涙を見せた時のことだった。
「ユウがいなくなったら、わたし、わたし……」
言葉の続きを言えなかった彼女の表情だけが、焼きついたように蘇った。
柵の上にかけた足は、わずかに宙に浮いていた。
風が、足首を撫でる。
このまま、ただ、前に体を傾ければいいだけ。
痛みはわからない。
怖さも、もうどこかに置き忘れていた。
息を吸うたびに、「終われるかもしれない」という希望だけが、身体を支えていた。
手足の先から少しずつ感覚が薄れていくのを感じた。
体温も、重力も、声すらも、誰のものでもないように遠ざかっていく。
まるで僕の肉体が、意志とは別に“帰る場所”を探しているようだった。
足音は、静かに階段を上ってきた。
一段ずつ、ためらうように、音が近づいてくる。
途中で止まりかけた。
それでも、また一段。
――確かに来ている。
この“ここ”に向かって。
そのときだった。
「……ねえ」
風に乗って、声が届いた。
背筋が凍る。
振り返れない。
振り返ったら、終わらせられなくなると、本能が警鐘を鳴らしていた。
それでも、その声は、近づいてくる。
「もしさ……ふたりだけの世界があったら、どうする?」
あまりに静かな声音だった。
驚きも、怒りも、哀しみもなかった。
ただ、そこに“願い”だけがあった。
背後を振り返ると、ミオが立っていた。
フェンスの向こうに立つ僕を見て、微笑んでいた。
その顔は、優しかった。
けれど、その優しさは、まるで“深い底の静けさ”だった。
ユウ、と彼女が呟いた。
呼ばれるたびに、自分が“人間”に戻っていくような感覚がした。
「……逃げたい」
唇が勝手に動いた。
どこか遠くへ行きたいわけじゃない。
消えてしまいたいわけでもない。
ただ、この空気から、この重みから、“逃れたい”とだけ思った。
ミオは、一歩、こちらに近づいた。
そして――
「逃げるんじゃなくて、そこにずっと、ふたりきりでいたい」
空の色が、にじんだ。
朝焼けは、静かに世界を照らしていた。
その光は、優しく、無慈悲だった。
彼女の言葉には、何の押し付けもなかった。
ただ、祈るように、願うように。
誰にも届かないはずの“理想”を、そっと差し出してきた。
――ふたりきりの世界。
それは、救いではない。
でも、それはきっと“理解されることのない孤独の共有”だった。
ユウ、とまた呼ばれた。
その名前に、僕の中の“終わりたい”が少しだけ揺れた。
たったそれだけのことで、足が柵の上から少しずり落ちた。
ミオは、何も言わなかった。
ただ立っていた。
引き止めるでもなく、泣くでもなく、抱きしめるでもなく。
ただ、“そこにいた”。
その存在が、どんな言葉よりも重かった。
時間が止まったかのような静けさの中で、
僕はゆっくりと、柵の外にかけた足を戻した。
そして、フェンスの内側に立ち直った。
それでも、地面に足をつけた感覚がなかった。
風の中で、自分がまだ“半分、あちら側”にいるような気がした。
ミオが、そっと僕の手に触れた。
その手は、冷たかった。
けれど、芯にわずかな熱を宿していた。
まるでこの世界から、僕を繋ぎ止めるためだけに存在しているような手だった。
冷たくて、柔らかくて、だけど絶対に離さない手。
「……ふたりだけの世界を、壊さないって、約束して?」
その声は、優しい毒だった。
僕は何も言えず、ただその手を握り返した。
本当は、拒むこともできた。
でもその手を振り払ってしまったら、次に自分がどこに行ってしまうのか――想像することすら、怖かった。
“ふたりだけの世界”――
それは、光のない部屋に、息の詰まるような沈黙と体温だけが漂っている空間。
誰にも見られず、誰にも邪魔されず、
ただ、永遠に続く“閉じた循環”だった。
その中でなら、きっと僕は壊れてもいいと思えた。
壊れたまま、彼女の中でだけ、生きていられるのなら――。
その瞬間、自分が“戻った”のではなく、“引き戻された”ことを知った。
それは救済ではなく、共犯。
生きることの合意ではなく、終わらない地獄への延長だった。
でも、それでも――
ミオの手の中にいる僕だけが、“生きている”と錯覚できた。
空は、もうそこにはなかった。
僕たちは、何も言わずに部屋へ戻った。
ミオは、いつものように笑っていた。
けれどその笑顔の輪郭は、どこか、ほんのわずかに滲んで見えた。
僕は、何も訊かれなかったことに、安堵してしまった自分がいた。
そして、その安堵が、またひとつ、僕を壊していくような気がした。
「壊れてもいい」と思える瞬間がある。
もう元には戻れないと知っていても、
誰かの中でだけ生きられるのなら――
そう錯覚できる場所が、きっと“生きる理由”になってしまうことがある。
この話は、綴木ユウが「終わらなかった朝」の中で、
ほんの少しだけ“死ねなかった理由”に触れてしまう、そんな物語です。
救いはありません。
希望もありません。
けれど、その“絶望の静けさ”に名前をつけておきたくて、この回を書きました。
ミオという存在は、祈りであり、毒であり、
そして“ふたりきりの世界”という共犯の始まりでもあります。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
霧野ルイ