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君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく
17/21

第17話:優しい毒。

※本話には自死衝動・精神的支配・共依存など、心に重く響く描写が含まれます。

読まれる方の心の状態にご留意ください。


 目を覚ましたのは、まだ部屋の空気がひんやりとしている時間帯だった。

 なのに、胸の奥だけが、ほんのりと熱を持っていた。

 まるで何かが“はじまってしまった”ことに、身体のどこかが気づいているようだった。


 隣で眠るミオの呼吸は、浅く、規則正しく続いている。布団の中でぴったりと僕の身体に沿うように丸まっていて、まるで寄り添うというより、重なり合うことを前提にした“かたち”だった。


 ゆっくりと、できるだけ音を立てないように身を起こす。

 ミオの腕が、僕の胸から滑り落ちる。

 その瞬間、彼女の眉がわずかに動いたように見えたけれど、目を覚ますことはなかった。


 僕はそっと布団を抜け出し、カーテンを押し広げる。

 窓を少しだけ開けると、朝の空気が、冷たく喉に降りてきた。


 外の景色が、ゆっくりと朝焼けに染まりはじめていた。

 サナトリウムの庭園、その先に広がる街並み、建物の輪郭が橙色の光に縁取られていく。


 けれど、僕には――その“色”が、うまく見えなかった。


 ただ明るくなっただけの世界。

 ただ切り替わった照明のように、夜が朝へ変わったというだけ。

 その美しさに心が反応しないことに、僕自身が驚いていた。


 「……色が、見えない」


 ぽつりと、呟いた。


 正確には“色がない”のではなく、“心が反応しない”だけ。

 それでも、僕にはその違いがどうでもよく思えた。


 ミオが起きる前の、ほんのわずかなこの時間。

 誰にも触れられていない空気の中に立っているはずなのに、全身が、誰かの気配に縛られているようだった。


 (僕は、何をしてるんだろう)


 胸の奥が、じんと熱くなった。

 その熱がゆっくりと目の裏に滲んで、視界がぼやける。


 涙だった。


 理由は、なかった。

 けれど、確かに涙が溢れていた。


 静かに、誰にも気づかれないように。


 嗚咽もなく、ただ、頬をすべるように。


 僕の生活は、もうミオの呼吸のリズムに支配されていた。

 彼女の安心のために起き、笑い、歩き、眠る。

 すべてが“彼女の感情の地雷を踏まないようにするため”に設計された動作。


 それを誰にも言えない。

 言ってはいけない気がする。

 それが、僕の存在理由になってしまったから。


 朝の光が、窓枠に沿って、ゆっくりと僕の足元を照らす。


 けれど、あたたかくはなかった。


 その光はまるで、“この朝が君を照らしているわけじゃない”と告げているように、透明で、冷たかった。


 ベッドの上で、ミオは眠っているように見えた。


 けれど、その呼吸には、わずかな違和感があった。

 深くも浅くもない、中途半端なリズム。

 身体は静かに横たわっているのに、どこか“目覚めている”気配を感じた。


 僕はそれを、見て見ぬふりをした。


 そっとパーカーを羽織り、音を立てないようにベッドを離れる。

 その間じゅう、ミオは微動だにしない。

 まぶたは閉じたまま、顔は枕に埋もれている。

 けれど、その肩のあたりがほんの僅かに、規則的な動きとは異なる波を描いていた。


 (……起きてる)


 確信めいた予感が、胸の奥に落ちた。


 けれど、僕は立ち止まらなかった。

 このままそっとドアを開けて、廊下に出て、数分でも外の空気を吸う――

 それだけのことなのに、まるで脱獄のような罪悪感が背中に張りついていた。


 ドアノブに手をかけた、そのときだった。


 「……どこ行くの?」


 背後から、声が落ちてきた。


 静かで、淡く、けれどまっすぐに僕の背中を貫いてくる声だった。


 ゆっくりと振り返ると、ミオがこちらを見ていた。

 いつ起きたのか、彼女はすでに上体を起こしていた。

 毛布を肩まで引き上げたまま、灰色の瞳だけが、じっと僕を捉えていた。


 その表情は――微笑だった。


 けれど、それは“安堵”でも“親愛”でもない。

 むしろ、無理に貼りつけたような笑顔。

 恐怖と不安をごく薄く上塗りして、なんとか保っている表情だった。


 「……ちょっと、屋上。空気吸いに」


 そう答えた自分の声が、思いのほか小さくて、弱かった。


 ミオは、数秒間、何も言わなかった。

 その間、視線がまるで“心の奥”を覗き込むように沈んでいた。


 やがて彼女は、ゆっくりとベッドを出た。

 スリッパの音を立てないように歩いてきて、僕の手首をそっと取る。


 冷たい指だった。

 でも、その握力には、“ただのスキンシップ”を超えた緊張が込められていた。


 「……ユウ、帰ってくるよね?」


 その言葉には、縋るような柔らかさがあった。

 でも、その奥にひそむ“絶対に帰らせなければならない”という、切実な狂気が、僕の心を締めつけた。


 そう問いかけられたわけではなかった。

 けれど、その言葉が確かに瞳の奥で震えていた。


 僕は、笑うことしかできなかった。

 笑って、頷いた。

 それがどれほど無責任な表情か、わかっていたのに。


 ミオは、微笑み返した。

 不安を飲み込んだような、作られた笑顔。

 その表情の奥に沈む“何か”が、僕の胸を締めつけた。


 「いってらっしゃい」


 その一言は、まるで“送り出してはいけないもの”を見送るような声音だった。


 僕はドアを開けて、外へ出た。

 扉が閉まる音が、まるでひとつの世界の終わりを告げるように、静かに、重く響いた。


 ♢


 風が、冷たかった。


 屋上に出た瞬間、足元のタイルをなぞるように吹き抜けた風が、パジャマの裾をくすぐっていく。ほんのわずかな湿り気を帯びた風だった。季節が変わろうとしているのだろうか。それとも、ただの錯覚だろうか。


 鉄柵の先に、空があった。


 青くもなく、灰色でもない――曖昧で、遠い空。ぼやけた雲がいくつか浮かんでいて、その切れ端が風に引き裂かれていく様子を、僕はただ無言で見つめていた。


 (……静かだ)


 耳をすませば、遠くで鳥の声がした。

 でもその鳴き声さえも、まるで“この世界の音”じゃない気がした。

 白い手すり。ひび割れたコンクリート。開け放たれた空の果て――


 どこかが、“終わっている”気がした。


 僕は、ゆっくりと鉄柵の前に立つ。

 手すりに手をかけると、鉄の冷たさが皮膚に吸い付いてきた。


 ふと、柵越しに身を乗り出す。

 下は、見えなかった。

 でも、遠くの通路に、人の影がひとつ――

 点のように歩くその姿が、どこまでも遠くて、現実的だった。


 この高さを落ちたら、あれも、もう見えない。

 下は見えない。

 けれど、“ある”ことだけは、確かにわかる。


 「……落ちてしまいたい」


 言葉が、無意識に口をついて出た。

 それは願望というよりも、“報告”に近かった。

 誰にも聞かれることのない、心の実況。


 僕の中で、何かが壊れていた。

 感情ではなく、“位置”のようなものが。

 “ここにいていい”という確信が、どこにもなかった。


 ミオの笑顔が浮かんだ。


 いつも通りの、穏やかな、けれどどこか硬直した笑顔。

 その奥に沈む、支配と不安と、執着。


 ――君は、わたしの中でだけ、生きる。


 その言葉が、耳の奥で繰り返される。

 優しく、甘く、けれど逃げ場のない鎖のように。


 (……生きてるって、なんだろう)


 今の僕は、“彼女の安心装置”でしかない。

 僕が笑えば、ミオも笑う。

 僕が喋れば、ミオの呼吸が整う。

 逆に、僕が無表情でいると、彼女の瞳から光が消える。


 “僕”という人格は、彼女の情緒を保つための、ただの設定項目に過ぎない。


 そんな日々を繰り返しているうちに、思考が曇っていった。

 怒りも、哀しみも、喜びさえも、彼女のために“調整”するものになってしまった。


 ……それって、本当に生きてるって言えるのか。


 足元に視線を落とす。

 遠く、遠く、景色の下。

 見えない地面が、静かに僕を誘っている気がした。


 片足を、ゆっくりと鉄柵にかける。


 冷たい風が、素肌を撫でる。

 バランスが少し崩れた。

 心臓が、一度だけ大きく鳴った。


 怖い、と思った。


 でも、それ以上に――


 (このままじゃ……生きてるふりを続けるしかない)


 誰かに「助けて」と言うこともできない。

 「もう限界だ」と口にすることすら、彼女の不安を刺激してしまう。

 だから、何も言えない。

 ただ、“支える人形”として日々を繰り返すしかない。


 空は、静かだった。

 風の音が耳を撫でる。


 僕は、そっと目を閉じた。


 (……もう、消えてしまってもいいのかもしれない)


 そう思った瞬間――


 後ろから、足音がした。


 ――カツン。


 足音だった。


 遠く、誰かが階段を上がってくる気配がした。

 その音は、不意打ちのように世界へ割り込んできて、僕の背中をぴたりと凍らせた。


 (誰か、来る……?)


 鼓膜がわずかに震えた。

 空の広がるこの無音の屋上に、たった一つの音が浮かび上がってくる。


 それは、職員かもしれない。

 他の患者かもしれない。

 誰だってよかった。


 その「誰か」の存在が、確かに“現実”を呼び戻していた。


 片足を柵にかけたまま、僕の身体はそこで止まっていた。

 動かない。

 けれど、戻れもしない。


 喉の奥が、かすかに鳴った。

 吸い込んだ空気が肺をひりつかせる。

 まるで、その存在を受け入れないとでも言うように。


 ――やめろ。


 頭のどこかで、そんな声がした。

 けれど、その声は、僕自身のものじゃなかった。

 ずっと奥で、ずっと昔から、黙り込んでいた“もう一人の僕”が、ようやく小さな声で呟いたような気がした。


 「やめたい」と、思っていたのかもしれない。


 本当は、誰かに止めてほしかった。

 見つけてほしかった。

 ただ「大丈夫?」と、声をかけてほしかっただけなのかもしれない。


 でも――


 でも、その声を“信号”として受け取れるほど、僕はもう正常ではなかった。


 誰かが来るという気配は、すぐに遠ざかっていった。

 きっと別の階で足を止めたのだろう。


 ああ、と心のどこかが空気を漏らすように崩れた。

 救いのような、その気配が――届かない場所へ消えていく。


 誰にも見られていない。

 誰にも気づかれていない。

 今なら、できる。


 僕の中で、そう告げる声があった。


 自分が消えることで、誰も傷つかないと思っていた。

 むしろ、それが彼女のためになるような気さえしていた。

 でもその“優しさ”が、実は逃避であり、自分勝手な独善だと、頭の片隅では分かっていた。


 それでも、他の選択肢が浮かばなかった。


 ――できるうちに、やってしまおう。


 その言葉には、絶望ではなく、“無感覚”があった。

 怖さよりも、痛みよりも、ただ“終われる”という一点にだけ、理由を見つけようとしていた。


 光は優しく、ただし無慈悲だった。

 死を照らすには、十分すぎるほど静かだった。


 僕は、もう一度、手すりに力をこめた。

 柵の上に足をかける。

 重心がほんの少しだけ、空のほうへ傾く。


 風が、少しだけ強くなった。

 その風が、背中を押すのか、引きとめるのか――

 わからなかった。


 わからなくて、ただ――


 「終わってしまいたい」と思った。


 それだけが、真実のように感じられた。


 ――もう、飛べる。



 その瞬間、不意に脳裏に浮かんだのは――


 ♢


 あの夜、ミオが初めて涙を見せた時のことだった。

 「ユウがいなくなったら、わたし、わたし……」

 言葉の続きを言えなかった彼女の表情だけが、焼きついたように蘇った。


 柵の上にかけた足は、わずかに宙に浮いていた。

 風が、足首を撫でる。

 このまま、ただ、前に体を傾ければいいだけ。


 痛みはわからない。

 怖さも、もうどこかに置き忘れていた。


 息を吸うたびに、「終われるかもしれない」という希望だけが、身体を支えていた。


 手足の先から少しずつ感覚が薄れていくのを感じた。

 体温も、重力も、声すらも、誰のものでもないように遠ざかっていく。

 まるで僕の肉体が、意志とは別に“帰る場所”を探しているようだった。





 足音は、静かに階段を上ってきた。


 一段ずつ、ためらうように、音が近づいてくる。

 途中で止まりかけた。

 それでも、また一段。


 ――確かに来ている。


 この“ここ”に向かって。


 そのときだった。


 「……ねえ」


 風に乗って、声が届いた。


 背筋が凍る。

 振り返れない。

 振り返ったら、終わらせられなくなると、本能が警鐘を鳴らしていた。


 それでも、その声は、近づいてくる。


 「もしさ……ふたりだけの世界があったら、どうする?」


 あまりに静かな声音だった。

 驚きも、怒りも、哀しみもなかった。

 ただ、そこに“願い”だけがあった。


 背後を振り返ると、ミオが立っていた。

 フェンスの向こうに立つ僕を見て、微笑んでいた。


 その顔は、優しかった。

 けれど、その優しさは、まるで“深い底の静けさ”だった。


 ユウ、と彼女が呟いた。

 呼ばれるたびに、自分が“人間”に戻っていくような感覚がした。


 「……逃げたい」


 唇が勝手に動いた。


 どこか遠くへ行きたいわけじゃない。

 消えてしまいたいわけでもない。

 ただ、この空気から、この重みから、“逃れたい”とだけ思った。


 ミオは、一歩、こちらに近づいた。

 そして――


 「逃げるんじゃなくて、そこにずっと、ふたりきりでいたい」


 空の色が、にじんだ。


 朝焼けは、静かに世界を照らしていた。

 その光は、優しく、無慈悲だった。


 彼女の言葉には、何の押し付けもなかった。

 ただ、祈るように、願うように。

 誰にも届かないはずの“理想”を、そっと差し出してきた。


 ――ふたりきりの世界。


 それは、救いではない。

 でも、それはきっと“理解されることのない孤独の共有”だった。


 ユウ、とまた呼ばれた。


 その名前に、僕の中の“終わりたい”が少しだけ揺れた。

 たったそれだけのことで、足が柵の上から少しずり落ちた。


 ミオは、何も言わなかった。

 ただ立っていた。

 引き止めるでもなく、泣くでもなく、抱きしめるでもなく。


 ただ、“そこにいた”。


 その存在が、どんな言葉よりも重かった。


 時間が止まったかのような静けさの中で、

 僕はゆっくりと、柵の外にかけた足を戻した。


 そして、フェンスの内側に立ち直った。

 それでも、地面に足をつけた感覚がなかった。

 風の中で、自分がまだ“半分、あちら側”にいるような気がした。


 ミオが、そっと僕の手に触れた。

 その手は、冷たかった。

 けれど、芯にわずかな熱を宿していた。

 まるでこの世界から、僕を繋ぎ止めるためだけに存在しているような手だった。



 冷たくて、柔らかくて、だけど絶対に離さない手。


「……ふたりだけの世界を、壊さないって、約束して?」


 その声は、優しい毒だった。


 僕は何も言えず、ただその手を握り返した。

 本当は、拒むこともできた。

 でもその手を振り払ってしまったら、次に自分がどこに行ってしまうのか――想像することすら、怖かった。


 “ふたりだけの世界”――

 それは、光のない部屋に、息の詰まるような沈黙と体温だけが漂っている空間。

 誰にも見られず、誰にも邪魔されず、

 ただ、永遠に続く“閉じた循環”だった。


 その中でなら、きっと僕は壊れてもいいと思えた。

 壊れたまま、彼女の中でだけ、生きていられるのなら――。


 その瞬間、自分が“戻った”のではなく、“引き戻された”ことを知った。


 それは救済ではなく、共犯。

 生きることの合意ではなく、終わらない地獄への延長だった。


 でも、それでも――


 ミオの手の中にいる僕だけが、“生きている”と錯覚できた。



 空は、もうそこにはなかった。


 僕たちは、何も言わずに部屋へ戻った。

 ミオは、いつものように笑っていた。

 けれどその笑顔の輪郭は、どこか、ほんのわずかに滲んで見えた。


 僕は、何も訊かれなかったことに、安堵してしまった自分がいた。

 そして、その安堵が、またひとつ、僕を壊していくような気がした。



「壊れてもいい」と思える瞬間がある。

もう元には戻れないと知っていても、

誰かの中でだけ生きられるのなら――

そう錯覚できる場所が、きっと“生きる理由”になってしまうことがある。


この話は、綴木ユウが「終わらなかった朝」の中で、

ほんの少しだけ“死ねなかった理由”に触れてしまう、そんな物語です。


救いはありません。

希望もありません。

けれど、その“絶望の静けさ”に名前をつけておきたくて、この回を書きました。


ミオという存在は、祈りであり、毒であり、

そして“ふたりきりの世界”という共犯の始まりでもあります。


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。


霧野ルイ

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