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【祝3000PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。

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第10話:わたしの中で、生きていて。

過剰な依存と、「好き」の境界線が曖昧になる夜。

ミオの中でしか“生きられない”ユウの現実を、どうか最後まで見届けてください。

 夜が落ちるたび、ミオは決まってその言葉を囁いてくる。


 「ユウ……好き」


 「もう、ユウだけ」


 「愛してるの……ユウ」


 震えた甘い吐息が、僕の鼓膜に静かに触れる。その声は囁きというには熱すぎて、叫びというにはか細すぎて、けれど確かに、僕の中の柔らかい場所に爪を立てる。


 ミオの身体は、いつだって僕の上で震えている。

まるで何かを押し出すように、あるいは掻き消そうとするように、肌と肌のあいだに意味を埋めようとしてくる。

指が絡まり、舌が触れ、息が混じるたびに、僕の輪郭が曖昧になっていくのがわかる。

 ミオは、僕の熱をその奥深くまで吸い込むようにして、目を細める。

その表情は、どこかうっとりとしていて――けれど、そこには「快楽」でも「喜び」でもない、もっと別の何か、静かな空虚が漂っていた。


 満たされた顔をしているのに、目の奥は笑っていなかった。

口元がゆるむたび、逆に僕の胸がきゅっと締めつけられる。


 ユウ、ユウ、ユウ――

名前を呼ばれるたびに、僕は“僕”を少しずつ手放していく。

ミオに溶かされる。

ミオに埋められていく。

それは、抱かれるというよりも、沈められていく感覚だった。


 やめたいと、思わなかったわけじゃない。

拒みたいと、思った夜もあった。

けれど、その夜にミオが泣いていた姿が、どうしても焼きついて離れない。


 「ごめんね……わたし、変なんだって。分かってるの。でも、でも……怖いの……。ひとりにされるの、もう無理なの……」


 その声を聞いたとき、僕の中で何かが終わった気がした。

“優しさ”って、たぶん――自分を明け渡す覚悟のことなんだ。


 そして僕は、静かにそれを選んだ。


 それからというもの、夜が来るたび、僕の身体は“証明”の道具になった。

彼女が“ここにいる”と確かめるための、媒体。

僕の体温、声、鼓動、すべてを使って、ミオは“存在”を貼りつけてくる。

まるで自分のなかに、“生きた証”を刻むかのように。


 そして僕は、何度でもその“証”を差し出した。

ミオが、僕の奥を覗き込んでくるたびに。


 ♢


 あの夜を境に、ミオは“変わった”。


 いや、正確に言えば――変わったふりをした。


 朝の病室で目覚めた彼女は、何事もなかったように身を起こし、

洗面所で髪を整え、食堂では看護師に笑顔で挨拶をした。


 「おはようございます」


 「今日は天気いいですね」


 「……ええ、大丈夫です」


 口調も、語尾の抑揚も、完璧に整っていた。

まるで何度も練習してきたかのような、無駄のない受け答えだった。

短く、けれど礼儀正しく。

ごく自然に交わされる会話。

作られた笑顔。

頬の角度、目の動き、声の張り――それら全てが、完璧に“社会的な人間”の仮面だった。


 看護師たちは、少しだけ安心したような顔をしていた。

ミオが“快方に向かっている”と、そう信じて疑っていない顔だった。

 

 僕は、知っていた。


 夜の彼女を知っている僕だけが、その笑顔の下にある「沈殿物」に気づいていた。


 ミオは、明るくなった。

でもそれは、“内側から灯った光”じゃなかった。

火をつけられた蝋燭のように、誰かに見せるためだけに燃やされている明るさだった。


 表情だけが、笑っていた。

けれどその奥にある“沈黙”は、決して笑ってなどいなかった。

瞬きのたび、感情が貼り付けられているように見えた。

声は柔らかく、所作は穏やかで――けれどその皮膚の内側で、何かがじっとりと澱んでいるのがわかった。


 僕は、日中の彼女を見つめながら、

夜に囁かれた言葉のひとつひとつを思い出していた。


 「ユウ……好き。好き、なんだよ……」


 「ほかの誰か見ないで。触れないで」


 「私だけで……いっぱいになって」


 その声が、耳の奥で何度もよみがえる。

昨夜、僕の上で震えていたミオの顔と、今、職員に会釈する彼女の顔。

それが同じものであることが、どこか“間違い”のように思えた。


 ――僕は知っている。

この仮面は、壊れかけた彼女が生き延びるために、無理やり顔に貼りつけている薄い皮膚だ。

 

 昼間の彼女は、“誰かに見せるためのミオ”。

 そして夜の彼女は、“僕にしか見せないミオ”。


 その乖離が、日に日に激しくなっていった。

演技が巧くなるほど、夜の執着は濃く、深く、重くなる。


 瞳の奥に沈む“何か”――

あれは、決して消えたわけじゃない。

夜の闇にだけ浮かび上がる、執着の色だった。


 きっと、看護師も、主治医も、気づいているのだろう。

ミオが、快方に向かっているわけではないことを。

夜に、僕に何が起きているのか――そのすべてを。


 誰も、それを指摘しようとしなかった――見えていないふりをした。

なぜなら、表面上はすべてが“うまくいっているように見える”から。

ミオは笑っている。食べている。会話している。

“回復の兆し”を演じきっている。


 そして僕もまた、何も言わない。

目を伏せて、口を閉ざし、何事もないふりをしている。

苦しみも、疲労も、恐怖も――すべてを無言の中に押し込めたまま。


 僕たちは、“回復しているふり”をすることで、

この病棟での居場所を守っているに過ぎないのだと、どこかで理解していた。


 毎晩、僕の中に沈み込んでくる彼女の温度を思い出すたび、

その真綿のような笑顔が、ますます息苦しく感じられていく。


 ♢


 「今日、先生に褒められたよ」


 それは、何気ない囁きだった。


 夕食後、病室の灯りが落ちて、二人きりの静寂が戻った頃――

布団の中、僕の腕に頬を押しつけながら、ミオがそう言った。


 まるで、恋人にだけ秘密を打ち明ける少女のような声色だった。


 「えらいねって。顔色もいいし、食事もできてるって……。ふふ、私の“彼氏くん”のおかげだね」


 “私の彼氏くん”


 その言葉が、やけに耳に残った。

独占の響きと、関係性の拘束を含んだ、甘く濃い音。


 その日を境に、ミオの中で僕は“彼氏”になった。

正式にそう言われたわけではない。

ただ、彼女の中の世界では、そう“決定された”のだろう。

それ以降、看護師の前で「彼氏くんが〜」と笑いながら僕の名前を出すようになった。


 僕は、何も言えなかった。


 言葉にできなかった。

違う、と否定する気力もなかった。

ただ、その笑顔の奥に――どこまでも僕しか見ていない視線が潜んでいるのを、感じていた。


 その瞳は、愛でも憧れでもなかった。

信仰に近い“執着”の色をしていた。


 ♢


 気づけば、僕の生活は――完全にミオ基準になっていた。


 朝、ミオが目を覚ます時間に僕も起きる。

彼女が歯を磨く間、僕も隣で歯を磨く。

食事も、排泄も、洗顔も――

そのすべてが“彼女の機嫌”と“安心”のための儀式になっていた。


 たとえば、ミオより先に食堂に行くことはない。

彼女が僕に「行こう」と言うまでは、椅子から立ち上がれない。

ミオがスプーンを置いたら、僕も箸を置く。

ミオがうつむいたら、僕も喋るのをやめる。


 それが“日常”になっていた。


 まるで僕は、彼女という生命体の“外付け装置”になったみたいだった。

自分で呼吸しているのかさえ、ときどきわからなくなる。


 “僕”という主体が、少しずつ希薄になっていく感覚があった。


 ♢


 一人になる時間が、怖いのは――もうミオだけじゃなかった。


 ほんの数分でも、病室から離れると、胸がざわつくようになった。

どこかで「早く戻らなきゃ」と思ってしまう。

その焦りは、彼女を守るためじゃなく――

自分が責められたくないから。


 責められることもないのに、罪悪感が胸を満たしていく。

自分の自由が、彼女の不安の代償になるような気がして、

「少し休もう」と思うことさえ、罪深く感じるようになっていた。


 ミオが笑うたび、僕の中の何かが擦り減っていく。

彼女の安心と安定が、僕という“対価”で保たれていることを、どこかで知っているから。


 そしてそれを、誰も止めようとしない。


 看護師たちは、今日も言う。


 「ミオさん、最近すごく落ち着いてますね」


 「綴木くんがいてくれるおかげかな?」


 笑顔で、軽く。

その言葉は無邪気だった。

けれど僕の中では、錘のように重く沈んでいった。


 


 僕の心は、もう“個”ではなかった。


 ミオに寄り添う“機能”。

彼女の情緒を支える“足場”。

そして夜には、その不安を受け止める“器”。


 ミオの“回復”という名の幻想が続くかぎり、

僕は、そこに在り続ける義務を負わされているのかもしれない。


 


 そんな日々が、繰り返されていった。


 同じ時間、同じ動き、同じ微笑み――

それは、穏やかというにはあまりにひび割れていた平穏だった。


 そして僕は、その“割れ目”に少しずつ足を取られていく。

自分がどこまで“本物”で、どこから“演技”なのか、わからなくなっていく。


 ♢


 その夜は、ほんの少しだけ、体が重かった。


 頭が鈍くて、目の奥が焼けるように痛んだ。

眠気があったわけじゃない。

どこかで「これ以上はもう、無理だ」と、体が告げているようだった。


 ミオは、僕の隣で静かに横たわっていた。

そして、いつものように――肌を寄せてきた。


 「……ユウ」


 その呼び声は、もう“合図”のようなものだった。

僕も、いつものように応じる……はずだった。


 けれど、その夜は違った。


 わずかに、ほんのわずかにだけ――僕の指先が動かなかった。

身体を寄せられても、応えられなかった。

目を閉じて、呼吸を整えようとした。

ただ、それだけの間だった。


 でも、ミオはすぐに察した。


 「……ユウ、どうしたの?」


 耳元に落ちてきた声は、かすかに震えていた。

僕はすぐに「なんでもないよ」と言いかけた。

けれど、それよりも先に、彼女の手が僕の胸元を掴んだ。


 「……嫌いになったの?」


 その言葉に、喉が詰まった。


 「そんなわけない」と言えなかった。

「違うよ」とも、なぜか言えなかった。


 ミオは、くしゃりと顔を歪めた。

まるで、自分で自分の首を絞めるような顔で。


 「ごめんね、ごめんね……」


 声が震え、息が途切れる。

涙混じりの唇が、僕の頬に、口元に、額に、何度も触れてくる。

それはキスではなく、赦しを請う儀式のようだった。


 「ごめんね、私が、変だから……うまくできてないから……嫌になっちゃったんだよね……?」


 違う、違うよ、と言おうとしても、喉が動かない。

そのたびに、彼女の口づけは深く、濃く、荒くなっていく。


 涙の味がした。

なのにその中に、甘さと熱が混じっていた。

切実な吐息の中で、ミオは僕の身体に縋るようにしがみついた。


 「大丈夫にするから……ちゃんとするから……ちゃんと“好きになってもらえる”ようにするから……だから、だから、嫌いにならないで……」


 その言葉のすべてが、どうしようもなく哀しかった。


 そして僕は――また、応じてしまった。


 彼女の細い肩を抱き、

掠れた吐息に身を委ね、

「大丈夫だよ」と嘘をついた。


 ミオの身体は震えていた。

けれど、その奥の奥は、熱と渇きに濡れていた。

彼女の中に沈むたび、僕は確かに“求められている”実感を得た。

それだけが、存在の証明のように感じられた。


 そして、行為が終わったあと――


 ミオは、穏やかに微笑んだ。


 まるで、すべてが元通りになったかのように。

まるで、何も問題などなかったかのように。


 「ね、ちゃんと私のこと、好き?」


 その問いかけは、あまりにまっすぐすぎた。


 澄んだ瞳。揺るがない声音。

どこにも歪みも疑念もなかった。

ただ、愛されていることを、確認したいだけの少女の顔。


 ――でも、僕は心の底から、「わからない」と思っていた。


 好きなのか? それともただ、必要とされているだけなのか?

愛しているのか? それとも、自分を失っているだけなのか?


 けれど、そんな言葉は喉から出てこなかった。


 僕は、笑って頷いた。

 その瞬間、自分の内側で、何かが小さく砕ける音がした。


 ♢


 それは、些細な変化からだった。


 廊下を歩く看護師の目線が、どこか長くなった。

食堂で声をかけられる頻度が、わずかに増えた。

定期診察のたび、主治医がほんの少しだけ、長く黙るようになった。


 ――でも、ミオに対する評価はむしろ好転していった。


 「だいぶ安定してきたね」

 

「この調子なら、リハビリの段階に入れそうだよ」


「綴木くんが一緒にいてくれるのも、大きいみたいだね」


 そう、言われるようになっていた。


 確かに、彼女は笑っていた。

朝にはきちんと起き、食堂に来て、洗顔も欠かさない。

看護師の話にも頷き、会話もできる。

ごく普通の、“快方に向かう患者”だった。


 けれど――僕は知っていた。


 夜になるたび、ミオの手が僕を求めるその強さ。

何度も「好きだよ」と囁いて、身体の奥にまで僕を引きずり込もうとする温度。

そのすべてが、“癒えたから”ではない。

癒えないものを、他者に押し込めることで誤魔化しているだけなのだと。


 ミオは、壊れたまま、明るくなった。


 そして僕は、その光の仮面の裏側で、

じわじわと、影に沈んでいた。



 ある日の午後。

配膳の手伝いで食堂にいたとき、ふと、名前を呼ばれた。


 「綴木くん」


 声の主は、よく見かける看護師だった。

やわらかな目元の女性。ミオのこともよく気にかけている人だった。


 「最近……少し、疲れてない?」


 不意に、そんなふうに聞かれた。


 僕は笑った。

反射的に、何も考えずに、ただ笑顔を貼りつけた。


 「大丈夫です、問題ないので」


 けれど、自分の声がどこか遠かった。

口が動いている感覚と、心の動きが、かみ合っていなかった。


 「そう……でも、無理しないでね。もし何かあったら、ちゃんと話してね。私たちは、君の味方だから」


 そう言って、看護師はほんの少しだけ、僕の肩に手を置いた。


 優しい手だった。

 だけど、その優しさが痛かった。


 (……話すって、何を? 誰のことを? 僕は今、誰のために“平気なふり”をしている?)


 わからなかった。

自分が「大丈夫」と言うたびに、心の中で何かが静かに死んでいく気がしていた。


 その日の夜も、ミオは笑っていた。

明るく、無邪気に、恋人のような顔で。


 「今日ね、先生に褒められたの。ユウが一緒だからだって」


 嬉しそうな声。光を帯びた目。


 だけどその笑顔の奥に、僕は――確かに、沈んでいった。


 ♢


 その夜、ミオの腕は、いつも以上に深く僕の身体に絡みついていた。


 息を潜めるように布団の中に潜り込んできて、背中に密着する温度。

震える指先が、僕の胸元に触れる。

まるでそこにしか、自分を繋ぎ止める“鍵穴”がないように。


 「……ユウがいないと、わたし、壊れちゃうよ?」


 囁きは、甘く、優しく。


「……わたしの中にいれば、ずっと大丈夫だから。外に出ないで……ね?」


 けれどその奥に、じっとりと張りつくような、粘ついた狂気がにじんでいた。


 「ねえ、ずっとこうしてて……お願い……」


 「ユウの中で眠りたいの……ずっと……ずっと……」


 「わたしを、いっぱいにして……」


 言葉の一つ一つが、粘膜のように肌を這い、

胸の奥に溜まっていた冷たい空気を、じわじわと押し潰していく。


 ミオの手が、僕の手を握る。

その細い指が震えながら、肌に縋るように重なってくる。


 (もう……だめだ)


 自分の中の、“拒否”という機能が、完全に壊れていることに気づいていた。

何かを「嫌だ」と思う感情は、もはや“彼女を悲しませたくない”という回路の中で、自動的に塗り潰されてしまう。


 僕は、ただ“従う”ことしかできなくなっていた。


 それが、優しさなのか、諦めなのか、あるいは共犯なのかも、もうわからない。


 ミオがそっと顔を上げ、僕の唇に触れる。

吐息が重なり、身体が重なり、そして――感情が、擦れていく。


 ミオは何度も、僕の名前を呼んだ。

 

「ユウ、ユウ、ユウ……」

 

名前が呪文のように繰り返されるたび、僕の中の“輪郭”が崩れていくのを感じた。


 (僕は……何をしているんだろう)


 その問いすら、遠くなっていた。

この密室、この温度、この呼吸――

そのすべてが、現実か夢かの境目を曖昧にしていく。


 ミオの吐息が落ち着いていくたび、僕の中で何かがひとつ、静かに剥がれていった。

けれどその笑顔は、まるで“餌をもらって安心した野生動物”のようだった。


 安心しているけれど、狂気を孕んだ目。


 僕は、もう“彼女に愛されている”という感覚すら、錯覚なのかもしれないと思い始めていた。

けれど、愛されていると思わなければ、今ここに存在する理由すら見失ってしまう。


 だから、すがるように“錯覚”に寄り添う。

ミオの言葉を、呼吸を、体温を、全身で受け入れる。

それが僕にできる、唯一の“生”の実感だった。


 その夜――


 僕の中にあった“最後の部屋”が、音もなく開いた。


 そこは、誰にも触れさせたことのない、僕だけの領域だった。

なのにミオは、ためらいもなく足を踏み入れた。

何の前触れもなく。まるで最初から、そこにいたみたいに。


 (もう、どこまでが自分なのか、わからない)


 ミオの指先が、胸の奥に触れたような気がした。

それが幻でも、現実でも、どちらでもよかった。

もう僕は、自分の境界を知覚する術を、失っていた。


 あたたかな布団の中。

湿った吐息と、塩味の汗と、微かな震えだけが、まだ“存在”を訴えていた。


 僕は静かに目を閉じた。

そして、“ミオの中に沈んでいく自分”を、もう誰にも止められないのだと理解した。


 ♢


 陽が、昇っていた。


 病棟の窓から差し込む光は、やわらかく、どこか無慈悲だった。

昨日と同じ色をしているのに、何もかもが違って見える。

布団の中、僕は目を覚まして、ぼんやりと天井を見上げた。


 隣にいる気配が、そっと動く。

毛布の下からのぞく細い指先が、僕の腕を撫でた。


 「……ユウ、おはよう」


 ミオが微笑んでいた。

明るく、無邪気に――まるで、何もなかったかのように。


 その笑顔には、昨日の夜も、一昨日の夜も、そしてすべての“夜”がなかったことになっているような軽やかさがあった。

僕だけが、それを知っていた。

その目の奥に沈んでいるものが、何なのか――


 「……おはよう」


 返したその瞬間、自分の口が誰の言葉を喋っているのか、わからなかった。

そう返しながら、僕は思った。


 (今日も、“彼女のための僕”を演じよう)


 好きかどうかも、愛しているかどうかも、もはや関係なかった。

“そうであること”を求められる限り、僕はその形を保ち続ける。

彼女の中で生きるために。

彼女の中だけで、生かされるために。


 ミオは、朝の光を受けながら、僕の髪を撫でていた。

その仕草は優しく、慈しむようでいて――檻だった。


 瞼を閉じる。

 思考を止める。

 感情を沈める。


 そして、ゆっくりと、心の奥底で、ただひとつの言葉が滲み上がってくる。


 「君は、わたしの中でだけ、生きる」


 それは呪いでも、愛でも、もうなかった。

ただ――僕たちが“選ばされた日常”の、静かな定義だった。


 柔らかな朝の光に照らされながら、

僕は今日も、ミオの中だけで、生きていく。


 それが僕にとっての、“終わりのない朝”だった。

今回も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


第10話『わたしの中で、生きていて。』は、過去の実体験をベースに、静かに沈んでいく関係の輪郭をなぞるように描きました。


愛されることが苦しくて、でも必要とされることだけが生きる理由になってしまう――

そんな夜を、確かにわたしも生きていました。


だからこそ、ミオが囁く「ユウがいないと、わたし壊れちゃうよ?」という言葉には、空想では届かない重みを乗せています。


ユウは、自分の意思よりも“彼女の安心”を優先することで、“個”としての境界を失っていきます。

けれどそれは、彼自身が望んだ「優しさ」でもあり、そこに救いがあると信じていた“嘘”でもありました。


朝の光の中で、ただ撫でられるだけの存在に変わっていく彼を、どうか覚えていてください。


これからも、ミオとユウのふたりがどこまで堕ちていくのかを、丁寧に綴っていきます。


どうか、見失わずについてきていただけたら幸いです。



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