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番外編03:救いようがなさすぎる1


 ―――どうして自分はこんな目に合っているのか。


 それは、馬車から放り出されたマティアスが、先ほどから雪山で孤独に震えながら考えていることだった。

 こんな冬の時期にこんな場所で下ろされて、金など役に立つものか。


 王室御用達のマントがなければ今頃間違いなく凍死している。

 冬の雪山を舐めずに防寒対策バッチリの装備をしてきた自分を褒めつつ、東諸国の能無しどもを頭の中で罵る。


「それもこれも、全部東諸国シェールレクスグードのやつらのせいだ」


 東諸国のやつらは総じてこうだ。

 野蛮で、権力にかしずかず、情で物事を測ろうとする馬鹿どもの集まり。


「いや、ちがうか―――」


 マティアスの頭の中に、一人の娘の金髪が思い出された。

 自分の閨に相応しい、美しくも愛らしい顔。

 ルルフィーナの命令で結婚したはずなのに、その夫からもらった飾りに、愛おしそうに触れた白い指先も。


「あの女の―――フィアリルの、せいだ」


 吹雪く山をたった一人で歩く惨めさと言ったらない。

 ひどく空腹だった。

 金を持っていても食べ物を売る店がない。


 知らない風景は、それだけでマティアスを恐怖させた。

 おそらくこっちの方角にセントランドがある、というあてずっぽうでもって、マティアスは足を動かしていく。


 ただただ不安で仕方がなかった。

 死が、すぐそこにある。


 先ほどから手先足先にひどいかゆみを感じていた。

 それが、今ではすでに感覚すらなくなってきている。

 鼻から出た汁は凍り、息が嫌にしづらい。


 風呂に入りたかった。

 セントランドの王太子だったときは、毎日当たり前のように浸かっていたあたたかい湯舟を思い出す。

 ルルフィーナの策にはまり、あの男ルーベルにフィアリルを奪われなければ、今でももちろん、当たり前にマティアスの傍にあったもの。


 あまりにも寒くて、惨めだった。

 屈辱だった。


「―――どいつも、こいつも……」


 それを呟いて、マティアスの意識は途切れた。


***


「―――……ン。おい、ニンゲン」

「ひょえぁ!」


 大地が唸るような、威厳を含んだ声が耳に触れ、マティアスは本能的な恐怖のままに飛び起きた。

 辺りを見渡すと、そこは岩に囲まれた洞窟で、自分の発した間抜けな叫びははるか遠くまで反響していく。


「なんだニンゲン、けったいな声を出しおって。我はまだ何もしとらん」


 それくらいは許してほしかった。

 だって、目の前に居るのは―――。


「竜……」


「なんだおぬし。竜に会うのは初めてか? 我は―――そうだなぁ、ひと月ぶりくらいだ」


 そのひと月前の人間がどうなったのか、あまり想像したくない。

 竜が人の言葉をしゃべっており、その鱗は深い紅。


 紅竜は竜の王。

 この大陸に住む人間の常識と言ってもいい。


 そんな不幸な人間の末路など、容易く想像がつこうというものだ。


「ふむ。そう怖がらずともよいではないか。雪山で意識を失っておったそなたをここまで運んで来たは我ぞ」


 のそりと身を起こした紅竜は、その巨大な体を屈め、ゆっくりとマティアスに近づいてくる。


「ち、近寄るな!」


 マティアスが持っているたった一本の武器である剣を腰から抜き、構える。

 剣を向けられた竜はと言えば、きょとんとした目でこちらを見てくる。


「そうは言ってもなぁ……。おぬし、竜の加護の効き目が絶望的によくないから、今我が力を分けてやらねばそのうち……」


 竜が話している途中で、マティアスの膝からふっと力が抜けた。

 ついでに、意識が物凄い力で引っ張られる。


「ああほら……だから言っておろうに」


 竜は仕方なさそうにマティアスに近づくのをやめ、少し離れた位置で片足を持ち上げた。


「まあちと遠くはあるが、仕方ない……」


 紅竜が持ち上げた足先から、穏やかな光が溢れた。

 それはマティアスの元まで届き、その体を包み込む。


「少し安静にしておれ。傷口が開くぞ」


 猛烈な眠気がマティアスを襲う。

 それに抗うことなどできるはずもなく、だんだんとまぶたが下がってくるのをマティアスはおとなしく受け入れた。


―――


「おい、ニンゲン。食えるか」


 半日経って、ようやく目を覚ましたマティアスの枕元に紅竜が持ってきたのは、この辺りに自生するバールベリーの実と、ヤマモモ、他に、マティアスが見たことも無い、甘そうな木の実だった。


「僕に、か?」

「我は果実は好かん」


 なら何を食べて生きているのかと問おうとしたが、人の肉と言われても困るので触れないことにした。

 世の中知らない方がいいことなど山ほどある。


「……食べられる。ありがたくいただこう」


 優しさに触れたのはずいぶん久しぶりだった。

 人からのものではなかったが、情というものに飢えていたマティアスにとって、それは甘露のようにうまかった。


 城で振舞われるどんなごちそうも、今目の前にある木の実ほどの価値はないのではないかと、マティアスはそんなことを考える。


 そんな、自分のためだけを想って振舞われた物の、味がした。


「そなたは、中央の方の顔立ちをしておるな。―――セントランドの方から来たのか」

「ああ」


「ひと月ほど前に会ったやつらも、中央の血が混じっておった。不思議なやつらだったが―――」


 紅竜は、どこか懐かしげに金の目を細めると、そのままのまなざしでマティアスを見た。


「一人は、そなたと同じ、金髪だったぞ」


 だからか、と思った。

 竜は、自分の縄張りに他種族の者が入ることをひどく嫌う。

 ましてや人間は、古くから竜との諍いが絶えず、互いが互いにとって忌むべき存在だった。


 その竜が、人間であるマティアスを連れ帰り、あまつさえ手当をしようとするなど、普通であれば考えられない。


「そやつは、とんでもないやつでな。勘違いで殺気を放ってしまった我に『許す』だなどとぬかして行きよった」


 その時のことを思い出したのか、竜の口元が、笑んだように弧を描く。

 その口調は、まるで友人のことを話すかのごとくに親しげで、気安げだった。


 紅竜と、紅竜が『そやつ』と呼ぶ人間との間にあるのは、信頼だった。

 マティアスがこれまで生きて来て一度も得たことの無かったもの。


 まただ、とマティアスは思った。

 それは焦りのようであり、諦めのようでもあった。マティアスでは知りえない、得体のしれない感情が襲う。


「もう一人も、これまたおかしなやつでな。クマみたいにでかい図体なのに、どうも奥手でな。その金髪の娘を好いておったが、言い出せなんだ。……まあ、両思いだからそのうちなるようになるはずだろうが」


 紅竜がそこまで言ったときだった―――マティアスの記憶の中で、彼女の甘やかな金茶が、風に乗ってふわりと広がる。


「―――まさか……」


 そのことに思い当って目を瞠った瞬間―――あの日、彼女の隣にいた戦士がマティアスに向けた、そのまっすぐな眼差しと目が合う。


「その者たちの、名は……名は、なんと言った―――?」


 マティアスの狼狽ぶりに、紅竜は訝しげな顔をした。

 だが、必死で尋ねたマティアスを見、特に疑うこともなく口を開く。


「片方は知らぬが……男の方は、ルーベルと名乗っておった」


 ああ、と口から出したつもりの声は、ほとんどが吐息と重なって、音として世界に放たれることはなかった。

 腹の底から、震えるような恐怖と、怒りと、憎しみとが蘇ってくるようだった。


 自分の元からフィアリルを連れ出し、攫って行った不届きな男。

 ルルフィーナの命令で―――おこぼれの、まぐれで選ばれただけの結婚相手の分際で、一丁前にフィアリルの夫面をし、フィアリルの心さえも奪おうとしている。


 そして、目の前の紅竜の信頼をも。


「―――どうしていつも、おまえらなんだ」


 頭を抱え、うめくようにして言ったマティアスに、紅竜が怪訝な顔をした。


「よくも僕の前であいつの話をしてくれたな」

「……なに?」

「おまえのような、下等な……下等な生き物風情が! よくも僕を傷つけたな」


「なん、だと……?」


 紅竜が、一瞬―――ものすごく、ものすごくものすごく、背中から刺されたような、顔をした気がした。

 なぜかその表情を見ていられなくて。どうしてか、取り返しのつかない言葉を言ってしまった気がして。


 けれどマティアスは知らなかった。挽回の方法も、分からなかった。


 今までずっと、自分のことだけを考えて生きてきたから。他者を慮るということについて、一度として、真剣に向き合ったことなどなかったから。


 それを一瞥し、マティアスはその洞窟から走り去る。

 マティアスはもう一秒たりとてこの場に居たくなかった。


「いつも―――いつもいつもいつも!」


 いつも、おまえらばかりがもてはやされる。

 誰も、マティアスを見ようともしない。


 紅竜がマティアスを助けてくれたのは、フィアリルたちとの関係があったからだ。

 王太子になれとまで評価されたのは、フィアリルに政を押し付けていたからだ。

 ルルフィーナが取り戻したかったのは、マティアスとの関係ではなくフィアリルとの友情だった。


 民にも、王にも、竜にも―――果ては己の婚約者にも。評価されているのはマティアスじゃなく、フィアリルであり、あるいはルーベルだった。


「―――どうして……」


 今更、思い知らされる。

 自分が誰の記憶にも残っていないこと。誰の心にも、棲めなかったこと。


「―――どうして……?」


 答えるものは、居なかった。

 高くそびえたつ過酷な雪山で、マティアスはただ、孤独だった。


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