番外編02:ここには奇跡がありすぎる
妖精界を抱くように根を張る、神樹。
その大きく広がった枝の上に、シュテルナを膝上に乗せ、フィエーダは腰かけていた。
淡く光る、針のように細くきらめく通り雨が、日の光に照らされて、まるで宝石のように世界に降り注ぐ。
「シュテルナ、シュテルナ―――?」
「ふふ、そう何度も呼ばずとも、聞こえております」
名を呼ぶと、シュテルナはにこりと微笑んでフィエーダの腕に寄りかかった。
「そうか?」
「ええ」
預けられたその重みが嬉しくて、彼女の肩にそっと頬を擦りつける。
あの戦士の男がまるで見せつけるようにリー家の娘に触れていたわけがわかった気がした。
だって。
だって―――好きな人にふれているというだけで、こんなにも幸せだ。
「―――シュテルナ」
「はい」
―――今日で、彼女は居なくなってしまう。
考えないようにしていても、それはフィエーダの頭の大部分を占めた。
千歳草の効能は、たったの日が七日巡る間。
今日はその最終日だった。
花咲き誇るこの妖精界で、フィエーダが愛したたった一つの花が、今日散ろうとしている。
あまりにも、短く、儚い。
なのに、今、この一瞬は、まるで永遠のようで。
だからせめて、口にはせずに。
「―――大丈夫ですよ」
そんなフィエーダの心の内を見透かしたかのように、シュテルナは言った。
彼女の胸にぎゅっと抱きしめられて、シュテルナが纏う山茶花の香りに包まれて。
こんな時にさえ、人のことを抱えようとする、その優しい腕の中で。
その体に顔を押し付け、フィエーダは目を閉じる。
「愛している、シュテルナ」
フィエーダを抱きしめる手が、一瞬びくりと震えて、力が籠められる。
互いの手にこもる熱の正体を、二人とも、もうわかっている。
「愛している―――」
もう一度。
本当は何度も口にしたくて。
ずっと気を張り詰めてきたから、口にするだけで気持ちが溢れ出てしまう。
もう、我慢しなくてもいい。
地位も、身分も、立場も、もう何も関係がなかった。
この、たった数日の間だけは、何者にも邪魔されずに君を抱きしめる権利を得たから。
「わたくしね―――」
フィエーダの頭の上にシュテルナの声が降り注ぐ。
その声はいつの間にか、シュテルナがまだ十七だった頃のものに変わっていて。
驚いて顔をあげると、視線の先で微笑んでいたのは、フィエーダの心の奥に住む、あの日のシュテルナ。
「わたくし、あの日―――あなたに『ずっとここに居ればよいのに』と言われた日」
白かった髪は以前の艶を取り戻し、その瑞々しい唇が言葉を紡いでいる。
「本当は―――頷いてしまいたかった」
その柳眉を下げて、どこか申し訳なさそうに、泣き出しそうに。
「王で良かったけれど、王じゃなければよかったと。―――そう、何度思ったかしら。もっと早く、まだ私が、十七の頃のように若々しかったなら、あなたの愛に胸を張って答えられたのかしら」
豊かさを取り戻した彼女の胸の柔らかさに、フィエーダは息を止める。
囁くように、泣きながら微笑む彼女の顔は、どれだけ年を重ねようと美しいことに変わりなかった。
「言って、くれ」
身を乗り出して、涙を滲ませる彼女の目尻に口づける。
驚いたように目を見開く彼女の目を、まっすぐに見つめ返す。
「今は何も、考えなくていい。あとのことも、私のことも、国のことも―――忘れてよいから。だから―――」
シュテルナは優しいから。
言ってこの世を去れば、フィエーダがどんな日々を過ごすか想像もついたのだろう。
でもそんなことはどうでもよかった。
この先にあるだろう、寿命までの数千年よりも。
一人で歩むであろう、長い長い道のりよりも。
今のこのたった一瞬の方が、ずっと―――。
「だから私に、君の口から、聴かせてくれ―――」
彼女の白い首筋に口づける。
姿がどうであろうと、ここに居るのは、フィエーダとシュテルナ。
その、二人だけ。
その、たった、二人きり―――。
「私はもう、言ったぞ」
せっかく拭ったのに、彼女の目からはとめどなく、透き通った涙が零れ落ちてくる。
ざあっと風が吹いて、妖精界に咲く花々の花弁が舞い散る。
それは祝福か。それとも餞か。
「わたくし、は―――」
しゃくりあげながら、涙を手の甲で拭いながら。
つっかえつっかえでシュテルナは言う。
「ただの、ただのシュテルナは―――」
フィエーダの色の簪を挿したその黒髪越しに、彼女の緑の瞳が潤まって輝く。
前髪をかき分けて、その額に口づける。
(ああ、やっと―――)
やっと、やってきた。
己の千年の齢の中の―――その中の、たった数十年の待ちぼうけ。
けれどそれは、フィエーダが生きてきた他数百年よりも、ずっとずっと長かった。
そんな、フィエーダが待ち焦がれた瞬間が、やっと。
「―――フィエーダ様を、お慕いしております」
今度はフィエーダの方から、彼女を抱きしめる。
かたく、もう決して、離さないと。
「フィエーダ様」
「うん」
耳の後ろ、囁くような、吐息のような声がフィエーダの首筋を震わせる。
子供のように泣きじゃくる彼女が縋りつく先は、自分だったという事実が。
他の男は知りようもない、彼女の弱い部分を知る優越感も。
フィエーダのこんな暗い色をした感情を、シュテルナはきっと知らない。
髪に顔をうずめて、己の名を呼ぶ声に返事を返す。
「フィエーダ様」
「うん」
何年経っても変わらない。
フィエーダの心を、なによりも浮き立たせる声、香り、ぬくもりも―――そのすべてが。
「『フィエーダ様、ここはまこと、うつくしい場所でございますね』」
あの日、この木の上で、フィエーダに向かって笑いかけた。
フィエーダの心を捉えて離さなかった。
「ああ」
―――たった一人の、小さな女の子を、抱きしめる。