8 『Misfire』
それから二週間、達也は無収入で過ごしました。
彼は玉を弾きながら、苦い顔をしました。
自分はなんて早まったことをしたのだろう。自分がとった行動は、犬が飼い主の手を噛むことに等しかった。人として最低限度の生活を営むには、彼女に絶対服従している必要があったのに……。
ですが同時に、こうも思います。
自分は間違ったことはしていない、と。
あの日の沙織は何もかもが違っていました。あんな彼女は初めて見ました。
達也は想像します。
祐介の母親として生きることが、どれだけ苛酷な道なのかを。
それは想像するのも恐ろしい現実でした。
今はそっとしておこう──彼はそう思い、画面に意識を集中させました。
画面に変化がありました。演出が変わり、光がいっそう激しいものになりました。ハンドルを握る手に力がこもります。この血沸き肉躍る瞬間があるからパチンコは止められない、と彼は気合いを入れ直しました。
そのとき、彼女はもう限界ですよ、と声が降ってきました。
それは天からのお告げのような、不思議な声でした。
透明感のあるその声は、大騒音が響く店内でも、はっきりと聴こえました。
達也は振り向きます。
そこには背の低い、色白の青年が立っていました。
達也は彼を知っていました。
話したことはありませんし、直接見たこともありませんが、その存在は深く認識していました。
彼女は僕が救います──青年は言うと、紡いだばかりの絹のような髪をなびかせて去っていきました。
達也は呆気に取られていましたが、突然爆発的なエネルギーがビッグバンのように湧いてくると席を立ち、青年を追いかけました。
台と台のあいだを抜け、大通りに出ると、その背中を見つけました。
ですがそれは一瞬のことで、扉が閉まると見えなくなりました。彼も店の外へ出ます。まるで白いウサギでも追いかけているようでした。
「おい、今のはどういう意味だよ」
達也は駆け寄り、肩を掴みました。
しかし振り向かせた瞬間、思わず手を離してしまいました。
青年の目が、あまりに異様だったからです。
生まれたての赤ん坊のような、吸い込まれそうなという表現が違和感なくあてはまる目だったからです。
青年は口角を上げ、そのままの意味ですよ、と言いました。
「あなたに彼女は救えません」
「彼女──」
もちろん達也のなかに答えはありました。ですが、それが正解かどうか、相手から言ってほしかったのです。青年が鼻で笑いました。身長は自分より低いのに、遥か高みから見下ろされているようでした。
「もうすべて手遅れです。呪うなら、自分の運命を呪ってください」
青年はそう言い残し、また歩き出しました。達也はその遠ざかっていく背中に、一歩も近づけませんでした。その姿が完全に消えると、達也は長い息を吐きました。そして青年が吐いた言葉の意味を考えました。
扉の向こうから、景気のいい音が響いています。彼は一刻も早く続きに戻らねばなりません。
しかしどうしても、戻る気になれませんでした。
彼はそのまま帰路につきました。小石や空き缶でも蹴ってやりたかったですが、街はちょうど掃除されたばかりで、ごみ一つ落ちていませんでした。
●
夜の帳が落ちた頃、携帯が震えました。
達也はその振動に一瞬だけ固まった後、携帯を取りました。
誰からの電話かは、わかっています。
彼は慎重に、電話に出ました。
しかし相手は何も喋りません。彼は繰り返し呼びかけますが、それでも反応はありません。電波が悪いのでしょうか。なら一度切ってかけ直すか──そう思った矢先、聴こえてくる音がありました。
それは遠くで虫が鳴いているような、耳をすませないと聴こえないような、とても小さな音でした。
人の息遣いです。息は少しずつ大きくなり、鮮明に聴こえるようになりました。それは間違いなく沙織のものでした。
達也は何度も沙織を呼びました。沙織は苦しそうに喘いでいます。そこには色気などありませんでした。ただ尋常ならざることが起きていることしかわかりません。
救急車を呼んだほうがいいかもしれません。突発的な体調不良に、救急ではなく知人に連絡してしまうことは少なくありません。きっと彼女もそれでしょう。達也は電話を切ろうとしましたが、そこにようやく言葉らしい言葉が生まれました。
それは彼の名前でした。
彼は「はい、俺はここにいますよ」と言いました。
「大丈夫ですか? 今救急車を呼びますから」
『達也くん、私もう駄目みたい』
まるで何時間も歌った後のような声でした。
「駄目って、何がですか」
『今まで頑張って、一人で祐介を育ててきたけど、もう限界。疲れちゃった』
声は、消える直前の焚き火のように揺らめいていました。
『あの子を産んで、いいことなんて一つもなかった。辛くて、悲しくて、痛いだけだった。ねえ、私これでも頑張ったのよ? 必死にあの子と向き合ってきたのよ? だからもういいでしょ。これからもこんな思いをするなら、死んだほうがましよ』
「もしかして、この前のことが原因ですか?」
自分が最後の一押しをしてしまったのかもしれない、と彼は思いました。彼は打算なしに謝罪しました。電話越しなのに、頭も下げました。ですが彼女は達也のせいではない、悪いのは弱い自分のほうだと笑いました。
「沙織さんは、弱くありません」
むしろ自分なんかより、遥かに強い人間だ、彼は心をこめて言いました。けれど彼女にはもうそんな言葉は届きませんでした。
『結局、最初から間違いだったのよ。産む前からわかっていたのに、みんなの反対を押し切って産んだ私が馬鹿だったのね』
「沙織さんは母親なんです。そんなこと言ったら……」
産んだことが間違いだった、とは母親が子どもに一番言ってはいけない言葉です。彼も言われたことがあるからわかります。
それは子どものすべてを殺すのです。彼は胸を引き裂かれたように感じました。
『だから、もうやめるね、母親』
「えっ」
『私は人間になりたい。人間らしく幸せになりたい。ねえ、それっていけないこと? 私は幸せになっちゃいけないの? 全部自己責任だって言うの? 誰も助けてくれなかった! みんな私を馬鹿にした! それでも幸せになろうと頑張ったよ! 祐介を立派に育てて、馬鹿にした連中を見返してやるんだって! でも駄目だった! あの子がいる限り私は幸せになれない! もう嫌なの! 全部嫌! どうして私ばっかりこんな目に遭うの? 神さまって意地悪よね! こんな試練を私に与えてどうしろって言うのよ! 私の人生って何だったの? 人から馬鹿にされるために私は生まれてきたの? それってあんまりじゃない? 私は誰かの踏み台なの? 誰かの犠牲になるために存在するの? 私は幸せになっちゃいけないの? ねえ、教えてよ達也くん! 私って何のために生まれてきたの? ねえ、答えてよ! ねえ!』
達也は何も答えませんでした。
ですが、電話を切ることも出来ませんでした。
『答えろよ! 黙ってんじゃねえよ! お前も本当は私のこと馬鹿にしてるんだろ! 全部わかってんだからな! お前が私のことどれだけ見下してるか! 気づいてないとでも思ったか! ええそうよ、私は最底辺の人間よ、何の価値もないカスよ! でもね、あんたもそうなのよ! あんただって負け犬なんだからね! ふざけるな! 私は幸せになるのよ! お前と違ってね! これからは自分の人生を好きなだけ生きてやるわ! ざまあみろ!』
哄笑が響きます。
達也は涙を浮かべました。
なぜ、こうなってしまったのでしょう。何がいけなかったのでしょう……。
そのとき電話の向こうから別の声がしました。
聖歌をうたう少年のような、透き通った声が沙織の名前を呼びました。沙織はぴたっと笑うのをやめました。よく訓練されたイルカのようでした。
そして声に爽やかさをまとわせて『さようなら、達也くん。今までありがとう。あの子のこと、よろしくね』と電話が切られました。
達也は恋人に一方的に別れを告げられたようにすがりましたが、沙織は何度かけ直しても出ませんでした。
電話の向こうで、あの青年が高らかに笑っているような気がしました。
達也は散らかしていた服に着替えると、燃え上がるように家を飛び出しました。