7 『座礁人魚』
沙織が達也を夕飯に誘いました。しつこいな、と彼は思いました。
特に予定などありませんが、仕事が終わったら早く帰りたいのです。
世のなかには他者といることで気が晴れる人間と気が滅入る人間の二種類がいますが、彼は断然後者のほうに属していました。
彼はいつものように、断りの文句を吐きました。
しかし今日の沙織はそれで終わりませんでした。まるで老獪な営業マンのように食い下がります。達也が煮え切らない返事をすると「お願い。祐介のことで話もあるし」と追撃され、ますます断りづらくなり、彼は渋々ながらもうなずきました。
「残業代、ちゃんともらいますよ」
「ええ、もちろん」
食事を振舞う上にお金まで払うことを、沙織は嫌な顔一つせず了承しました。そして淡く浮かぶ月に目を奪われている祐介に「よかったわね、祐ちゃん。今日は達也くんと一緒に晩ごはんが食べられるわよ」と言いました。祐介は何の反応もしませんでした。
沙織は肩を落とし、達也を家に招きました。家のなかへ消えていく彼らに気づくと、祐介が駆け込み乗車をするように、巨体をねじこませました。扉がその衝撃で、怯えるように震えました。
家に入るのは久しぶりでした。小学生の頃ですら、数えるほどしか達也は入ったことがありません。
この家には、入ることをためらわせる何かがあります。
目に見えるわけではありません。外観に違和感はありません。人工衛星から見ても、隣の家と何ら区別出来ないでしょう。ですが確かに、何かがあるのです。
リビングに通された達也は、食卓ではなくソファに座りました。沙織が夕飯の支度をするため、キッチンへ向かったからです。手を洗ってきなさいという沙織の言葉を無視した祐介が、達也の隣に椅子取りゲームの終盤のような勢いで座りました。
リビングにはテレビ、エレクトーン、小物や電話を置いた棚などが、以前上がったときと同じようにありました。壁や床に刻まれた傷やへこみも、そのままのように見えました。もちろん達也には、それらが一つ二つ増えていたとて、わかりようもありませんが……。
祐介が音量を最大にしたオーディオのように叫びました。祐介といると鼓膜が何枚あっても足りません。どうやらテレビが見たいようです。達也はリモコンを取り、テレビを点けてやりました。テレビは夕方のニュースを映しはじめました。チャンネルを変えるのも億劫だったので、これでいいかと訊くと、祐介は嬉しそうにうなずきました。
達也も祐介にならってテレビを見ました。
しかし内容は頭に入ってきません。画面の向こうの出来事は、すべて自分と関係のないことだからです。祐介は初めてテレビを見た猿のように、激しく移り変わる画面に興奮しました。
こいつは何か悩んだりすることがあるのだろうか、と達也は思いました。
悩むほどの頭がなければ、人生は楽しいのでしょうか。
三歳児から成長しなければ、すべてが驚きに満ちた世界になるのでしょうか。
それは、自由なのでしょうか──。
彼はぼんやりと考えました。
沙織が二人を呼ぶと、祐介はピンボールのように壁にぶつかりながら、食卓へ駆けていきました。達也はテレビを消し、ゆっくりと立ち上がりました。
小さな長方形のテーブルの、上座に達也と沙織、達也の隣に祐介という配置で座りました。
白いごはん、大根とワカメのお味噌汁、筑前煮、ほうれん草の胡麻和え、きゅうりの酢の物──並べられた料理が、地味な色合いながらも己の存在感を主張していました。達也は強張りながら手を合わせました。祐介はいただきますも言わずに、料理に飛びつきました。
達也は料理を端からつまみ、口に入れていきます。まるで機械のねじを締めてでもいるようでした。祐介は『きかんしゃトーマス』のスプーンとフォークを持ち、除雪車のように料理をかきわけて忙しないです。達也の肩に何かの汁が飛んできて、小さな染みが作られました。
「男の子だから、お肉があったほうがよかったかしら」
「いえ、今ダイエットしているので」
彼は心にもないことを言いました。彼は料理の味などわかっていませんでした。彼は、他人の家の食事が、好きではないのでした。
いえ、好きではないどころか、食べたくないとすら思っていました。
他人の家で、他人が作った料理を食べたくない──自分はこれを食べるべき人間ではない、と思ってしまうからです。
しかしそれを形にしてしまったら、相手との関係がこじれてしまいます。だから彼はこの苦役が終わることを祈り、料理を口に運び続けました。
「そんなに急いで食べなくても、なくならないわよ」
沙織は嬉しそうでした。作り手としては、相手が自分の料理をむさぼってくれることは、まんざらでないようです。けれど達也の心境としては、早く解放されたいからという以外に、理由はありませんでした。
達也が上から料理を削っていくあいだ、沙織は祐介のことを三者面談のように色々と尋ねましたが、彼は適当に返事をするだけでした。
祐介がトイレに行きたい、とわめき出しました。達也は席を立とうとしましたが、沙織が手で制しました。そしてかんしゃくを起こす息子に「今日は、一人で行けるわよね?」と言いました。
祐介は母親の言葉に、はじめてのおつかいを任された子どものようにうなずくと、床を踏み鳴らしてトイレに突撃していきました。
途端に静かになりました。鈴のような声の虫が外で鳴いていました。達也は食事を続けました。もう少しで食べ終わりそうです。
対照的に、沙織のほうはまったく減っていませんでした。
彼女は、大きなため息を吐きました。
そして祐介の様子について、あらためて訊いてきました。
「さっき言ったじゃないですか。何も問題は起こしてませんって」
「本当に? 信じていいの?」
「大丈夫ですよ。俺がついてるんですから」
しかしそれは嘘でした。図書館で騒ぎを起こし、警察沙汰になりかけました。沙織は納得がいっていない風でしたが、とりあえず疑念を引っ込ませました。
「何も心配しないでください。祐介のことは俺に任せて、沙織さんは自分の人生を楽しんでください」
そうしてくれたら、彼はいつまでも食いぶちに困りません。
けれどそれは、これからも祐介に振り回されることが前提の話でした。
沙織が、感謝の言葉を述べました。達也は困惑しました。まるで、恋人が別れ話でもするようだったからです。
沙織は、祐介を施設に入れることも考えていた、と呟きました。達也は麦茶を飲んで平静を装いました。でも出来なかった、と彼女は続けました。それは、家族を捨てるようなものだから、と。
「あんなのでも、私の子どもなのよ」
彼女は今にも崩れそうな顔で笑いました。
目をそらし続けてきた矛盾……そんなものは本人が一番よくわかっています。自分のしていることが本心と一致しているなんて稀です。
彼女は矛盾に絡め取られていました。矛盾を体現したような存在である祐介と深く関わり続けたせいで、世界における自分の立ち位置がひどく曖昧になっているのかもしれません。
人の葛藤ほどよくわかると思い、達也は小さくうなずきました。
「だから祐介に、達也くんみたいなお友達がいてくれて、私も祐介も幸せなのよ」
コップを握る手に力がこもりました。
高見沢も沙織さんも、俺を何だと思っているのか。俺と祐介を繋ぐ言葉はそれしかないのか──彼はかつてない苛立ちを感じ、この日初めて自分から口を開きました。
「沙織さんのほうはどうですか? 彼氏と上手くいってますか?」
「それ、聞きたいの?」
沙織は眉を八の字に歪めました。達也も、特に興味があるわけではありませんでした。
「おかげさまで」
彼女は恥じるように言いました。いえ、実際恥じているのでしょう。人には必ず一つや二つ、後ろめたいことがあります。そこを的確に突かれたとき、浮かべる表情はみんな同じです。
「羨ましいですね」
「もっと、責めてくれてもいいのよ?」
自虐的な目でした。いけないことをしているとき、それを他人から咎められることもまた快感になるのです。彼女はさらなる背徳感を欲していました。そしてそれをわかっているから、達也は望み通りにはしてあげませんでした。
「何で責めなきゃいけないんですか? むしろ沙織さんは、もっと羽を伸ばしていいと思いますよ。これまでいっぱい頑張ってきたじゃないですか」
彼が白々しく言うと、沙織は噛みしめるようにうなずきました。
「そうね。祐介にかかりきりで、これまで全然人間らしいことが出来なかったもの」
ちょっとくらい楽しい思いをしても、罰は当たらないわよね──そう言う彼女を、達也は適当に肯定しておきました。
彼はこの場に飽き始めていました。
祐介はまだトイレにいるのでしょうか。彼は扉のほうを見ました。
「彼もね、そう言ってくれるのよ」
沙織は、恋に恋する中学生のように言いました。
「沙織さんは頑張ってるね、偉いねって、抱きしめてくれるの」
「それはそれは。お熱いですね」
若い燕を手に入れた彼女は、とても幸せそうです。彼女は、彼に抱かれているときが一番幸せ、と言い切りました。
「何もかもをさらけ出して、お互いを求めあうのって、最高よね」
ですがその割に、日に日にやつれていっているのはなぜなのでしょう。沙織は最近特にやせ細り、目は落ちくぼんで、鼻が高くなっているように見えます。まるで自分を形作る大切な何かを、少しずつ削られているようでした。
「私、あんなに人に優しくされたことって、今までなかった。私の人生、いつも嫌なことばっかりで、どうして私だけ、っていつも思ってた……」
沙織が涙をこぼし始めました。しかし達也は、それをテレビのニュースと同じようにしか見られませんでした。
二十余年も、祐介と一つ屋根の下で暮らす──それは想像を絶するほどの偉業です。達也のような他人にはわからない、母親ならではの苦労が無限にあったでしょう。いくらお腹を痛めて産んだわが子と言えど、現実を直視し続けるのは、とても辛かったでしょう。
そんな険しすぎる壁は、本来であれば夫婦で乗り越えていくものですが、祐介の父親はその先に絶望しか待っていない子育てから、早々に離脱しました。
賢明な判断だ、と達也は思います。達也は彼を責めたりしません。同じ立場になったら、きっと彼もそうするだろうからです。
他人は無関係ゆえあれこれ好き勝手に言いますが、いざ当事者となれば、ころっと意見を変えるに違いありません。
しかし彼は子育てから父親としては逃げたものの、社会人としては逃げませんでした。
祐介の父親は離婚してもなお、養育費の送金だけは今日まで欠かしませんでした。沙織が達也に潤沢な報酬を渡せるのも、そういった事情があるからなのです。
もちろん彼女の心は、お金では癒せませんでした。彼女は学生時代にいじめられていたことや、他に好きな人がいたのにお見合いで無理やり結婚させられたことや、元夫に祐介を産んだことで暴言を吐かれたり暴力を振るわれたことなど、いかに自分が恵まれない人生を送ってきたのかを震えながら語りました。達也は時計を見て、この話はいつ終わるのかと嘆息しました。
「ごめんね。私ばかり喋っちゃって」
「いいですよ。たまには自分の気持ちを吐き出すのも大切ですから」
「ありがとう。やっぱり優しいのね、達也くんって」
「優しいのだけが取り柄なもので」
「今、恋人はいないの?」
「優しさだけじゃ恋人は出来ないみたいで」
「寂しくならないの?」
「前はなりましたけど、もう慣れました」
自分には何もないと自覚して、分相応に生きる──それが、彼が身に着けた処世術でした。
「そんな悲しいこと言わないで」
沙織が彼の手に、自分の手を重ねました。
「達也くんも、幸せになっていいのよ」
彼女の手は冷たく、まるで体温がないようでした。
そう言われても、達也にはどうすればいいかわかりませんでした。
幸せとは何か。何がどうなれば幸せなのか……。
彼は自分の幸せの条件を、何も設定出来ていませんでした。
幸せになる方法なんて、誰も教えてくれませんでした。
達也は、自分なんかが幸せになっていいのかと呟きました。それに「なっていいの」と沙織がうなずきます。
「私は彼に幸せにしてもらった。だから今度は、達也くんを幸せにしてあげたい」
彼女は小さな体をいっぱいに乗り出して、達也の手を自分の胸に当てがいました。沙織の膨らみが、手のひらに伝わります。薄汚いエプロン越しでも、それは圧倒的な存在感を放ち、達也の意識を鋭くさせました。
沙織の顔が薄赤く染まっています。達也は、自分が幻覚を見ているのではないかと疑いました。そちらのほうがまだ現実的に思えました。
「こんなところ、祐介に見られたらどうするつもりですか?」
「わからないわよ、あの子には。私たちが何をしているかなんて」
言葉がありませんでした。彼らと祐介では、見ている世界が違うのですから。
「ねえ、一緒に幸せになりましょう。私たち、きっと深い関係になれると思うの。達也くんが小さい頃から、ずっとそう思っていたわ」
沙織は達也の手を胸の上で動かします。達也は唾を呑み、沙織の目を見つめました。見つめあっていると、そこに自分が薄っすらと映っているのがわかりました。瞳に映る男は、世界で一番まぬけな顔をしているように見えました。その顔に、彼は激しい怒りを覚えました。
彼は手を振りほどこうとしました。すると扉が勢いよく開かれました。扉を開けた主は高らかに、トイレが終わったことを宣言しました。
その声に達也は安堵しました。これほど祐介に感謝したのは初めてでした。彼は救いを求めるように振り向きます。沙織も同じように、視線をそちらにやりました。
ですが次の瞬間、彼らは同時に息を呑みました。
祐介の顔や体に、茶色い何かが大量にこびりついていたからです。
祐介は、雨が降った後の砂場に飛びこんだ子どものようでした。それが泥なら、どれほどよかったでしょう。
祐介が跳びはねながら近づいてきます。そのたびに泥のような何かが壁や床に飛んでいきます。
メロンが腐ったような刺激臭が、達也の鼻をえぐりました。
沙織は悲鳴を上げると、達也の手を離しました。
「祐ちゃん、どうしたのそれ!」
慌てる沙織に、祐介は、一人でトイレが出来たと誇らしげに言いました。しかしそれはどう見ても、出来たとは言いがたい姿でした。
祐介が全身にまとっているのは、泥ではなくウンチでした。
沙織は祐介の腕を押さえようとしましたが、そんな制止もむなしく、祐介は手を振り払うと、壺から出てきた蛇のように踊りました。
いつもトイレは誰かに手伝ってもらっています。
その誰かなしでトイレに行ったのですから、これは当然の結果でした。
沙織が祐介の服を脱がせようとしますが、なかなか上手くいきません。ウンチが飛び散り、沙織の顔や服を汚していきます。
達也は目に浮かんできた涙を拭いました。
沙織が「ごめんね達也くん、ちょっと手伝ってもらえないかしら?」と振り向きました。
親子揃って、肥溜めに落ちたようでした。
糞みたいな親子にはお似合いの姿だ、と達也は思いました。彼は立ち上がるとリビングから出て行きました。
「達也くん、どこに行くの」
後ろから悲壮な声が響きました。
「帰ります」
彼は唾を吐くように言いました。
沙織が、先ほどのことを怒っているなら謝る、ちょっとした気の迷いだったのだと弁解しました。
そのとき祐介の手が顔に当たり、沙織が床に倒れました。骨と骨がぶつかった鈍い音は、玄関で靴を履いていた達也にも聴こえました。
そして何秒かの沈黙の後、すすり泣く声が生まれました。それはこの世の不幸をすべて背負ったかのような、聴いているほうが身を引き裂かれるような嗚咽でした。ですが彼はその声を無視し、吐き気をこらえながら外に出ました。
体の奥が熱く、どろどろに溶けてしまいそうでした。彼は薄暗い夜道を、大股で進んでいきました。
しばらくすると雨が降ってきました。傘を差すほどではない、水滴の存在だけが感じられる雨でした。いっそ土砂降りだったらよかったのに、と彼は苛立ちました。
行きつけのパチンコ店へ向かいましたが、店は暗く、シャッターが閉まっていました。どうやら店内改装のため、休みとのことでした。彼はシャッターを蹴り、雷のような音を辺りに轟かせた後、陥没させんばかりに地面を踏み、帰路につきました。
小雨はいつまで経っても止まず、ただ静かに降り続きました。




