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[human]  作者: 和泉龍一郎
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6  『レーテンシー』


 仕事を断る日もあります。

 そんな日の達也は、昼過ぎまで惰眠をむさぼります。まるで惰眠をむさぼることが、何かに対する反逆であるかのように。

 目を覚ましたとき、汗でシャツが背中にぴったりと張りついていると、彼は表しようもない多幸感を覚えます。そして勢いよく跳ね起き、シャワーを浴び、その汗を洗い流すのです。


 その後は更なる惰眠をむさぼるため、もう一度横になるか、もはや体の一部となっているパチンコ店へ向かうかの二択になります。今日の彼は後者を選びました。


 パチンコはいい、と彼は思います。強烈な光と音に包まれていると、人生の複雑なあれやこれやを考えずにいられるからです。気がつくと、時間が経っています。


 もちろん得るものはありません。

 たまに勝つこともありますが、トータルで見ればかなりの大損をこいています。

 今までパチンコにつぎ込んだお金と時間を、資格の取得にでも使っていれば、今とは全然違う自分になっていたことでしょう。

 彼は突き出した釘に当たって無慈悲に落ちていく銀色の玉を追い続けました。


 気がつくと、期待通り夜になっていました。

 店から出て、光と闇のギャップを感じるのも愉しみの一つでした。

 彼は重力が違う惑星に降り立ったような気持ちのまま、スーパーで半額になった弁当と安いビールを買い、アパートへ帰りました。


 ちんけなアパートです。

 震度五くらいの地震が来たら、すぐにでも倒壊してしまいそうな、掘っ立て小屋のような家でした。

 万年床と小さなちゃぶ台、読み古した何冊かの本、うず高く積まれたゴミ袋の山──六畳一間のスペースに、それらが混然一体となっていました。

 彼はゴミ袋の隙間から当たり屋のように出てきたゴキブリをスプレーで手早く殺すと、ティッシュに包み、ゴミ袋の一つにねじ込みました。


 食事を終えると、弁当の容器と空き缶を放置したまま、食後の一服ならぬ、食後の一冊と洒落込みました。


『アルジャーノンに花束を』──それは彼が何度も、何度も、繰り返し読んでいる本でした。


 主人公チャーリイは、幼児の知能しかないパン屋の店員でしたが、頭がよくなる手術を受け、天才へと変貌する……というのが導入です。

 初めてこの本を読んだとき、祐介もこんな手術が受けられたらいいのに、と彼は思いました。

 ですがそんな都合のいい奇跡はありません。これはフィクションです。祐介はどこまで生きても、動く植物のような人生を送らなければいけません。


 そしてそんな人生を送るためには、誰かがその枝や葉やトゲを剪定しないといけません。枝は鞭のようにしなり、葉は剃刀のように鋭く傷つけ、トゲはそのまま人に刺さるからです。


 それは一体、どのような人生なのでしょうか。

 いえ、果たしてそれは人生と呼べるものなのでしょうか。

 彼は自らに問いましたが、答えらしい答えは今日も出ませんでした。


 携帯が鳴りました。沙織かと思い、彼は本を閉じて電話に出ました。しかし聴こえた声は予想と違ったものでした。


「母さんか。何?」


 彼は威嚇するように言いました。相手は母親でした。彼の母親は、その威嚇にまったく動じないどころか、吠えるように言いました。


『何じゃないわよ。せっかく電話してあげたのに』


 誰がいつ電話をしてくれと頼んだのか、と彼は毒づきました。母親の声を聴いただけで、頭痛と腹痛が同時に襲ってきたような不快感を覚えました。彼は床を移動し、壁に背をくっつけました。


 母親は鋭い声で、今仕事は何をしているのかと訊いてきました。彼は適当な返事をしました。正社員でもなく、アルバイトでもありませんが、今のところ生活費をまかなえる程度には稼げています。余ったお金をパチンコにつぎ込めるくらいには、余裕がありました。


 しかし母親は、そのお金は祐介の面倒を見ることで沙織からもらっているのではないか、と事件の真相を看破する名探偵のように、ずばり言い当てました。

 もちろん彼はそのことを母親には言っていません。彼は言い訳などせず、それを認めました。


 すると母親は烈火のごとくという慣用句を体現するように爆発しました。電話越しでも唾が飛んできそうな剣幕でした。


 どうやら近所で噂になっているようです。その噂を聞きつけて、彼女は電話をしてきたようでした。息子がそんなことをしているのが恥ずかしい、と悲劇のヒロインのように母親は言いました。


「恥ずかしいって、どっちのことだよ」


 お金をもらっていることでしょうか。

 それとも、祐介と一緒にいることのほうでしょうか。

 そのどちらかで、言葉の意味が変わってきます。


 しかし激昂した母親は答えませんでした。彼女は意地を張っていないで家に戻ってこいと言いました。ちゃんとした仕事に就けば、どうやら家に入れてくれるようです。ですが彼はその提案を鼻で笑いました。


 同じ小学校だったので当然ですが、彼の実家は祐介の家からさほど遠くないところにあります。

 けれど彼は実家で暮らさず、一駅ほど離れたところにアパートを借りて住んでいます。見た目と中身にギャップがない、廃屋のような、敷金も礼金も保証人もいらない、築五十年のくたびれたアパートに……。


 今ではすっかり慣れましたが、始めここは、果たして先進国の人間が住むところなのかと首をひねったものでした。


 一人暮らし自体は大学生の頃からしていました。ですがその頃と今では、生活費の出所が違います。

 あの頃は全額親に出してもらい、綺麗で設備の整ったアパートに住んでいましたが、就職に失敗し、みごと社会の底辺を這いずり回ることになった哀れな息子に、親はそれ以上の期待をしませんでした。

 なので彼は、即日入居が可能だったこのアパートをひとまずの根城にし、生活の基盤を作ろうとしました。


 そんな折、ミイラのようにやつれていた沙織と偶然にも再会し──現在に至るのでした。


 彼は、二度と顔を合わせるつもりはないと言い切りました。

 今さら何を言っても遅いのです。彼は、散々言葉の棒で打ちのめされたことを、きっと一生忘れないでしょう。

 母親が真っ赤になって震えているところを想像し、彼はほくそ笑みました。


 生意気なことを言うな、全部自分の言う通りにしろ、お前のために言っているんだ、ふざけたことは止めろ、この親不孝者──それらの言葉を無視して電話を切ると、彼は母親の番号を着信拒否にしました。


 携帯を沈黙させると、読書に戻りました。

 しかし文章に目を落としても、脳がそれを物語として認識してくれませんでした。


 彼は本を放り、布団へ倒れ込みました。

 海の底に溜まったマグマのような感情が、腹のなかで渦を巻いていました。


 そのマグマが噴き出してこないことを祈りながら、彼は目を閉じました。


      ●


 これまでと別の図書館に入ったら、五分も経たずに職員が飛んできて、祐介を静かにさせるか、出来ないのなら出て行けと慇懃無礼に言われました。前者は不可能なので、達也は後者を選びました。


 そしてその足で他の図書館に向かいましたが、なんとそこでもすぐ職員が駆け寄ってきて、先ほどと同じようなことを言ってきました。まるで祐介の情報を共有しているような対応の速さでした。


 達也は一度も反論しませんでした。

 ただ受け入れ、次の図書館こそはと期待しました。


 ですが期待にも限度があります。

 期待と落下を繰り返していると、精神が次第に麻痺してきます。

 二人は迷子になったように、あてもなく社会をうろつきました。


 結局、二人が行き着いたところは電車でした。一番前の車両で遊ばせておくのが、祐介にとって一番よかったのです。図書館と違い、電車は常に人が入れ替わるので、事件は起きません。


 散々回り道をして、戻ってきたのは最初の道でした。

 彼は飽きもせず車掌の真似をする祐介を、ただ見つめ続けました。


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