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[human]  作者: 和泉龍一郎
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5  『少年少女ではなくなった』


 楽園を追放された二人は、いつもの公園まで戻ってきました。

 幸い、昨今にしては珍しくブランコやジャングルジムといった基本的な遊具から、材木を複雑に組み合わせたアスレチックなどを備えており、時間を潰すには申し分ないと思えました。

 刺すような光だけがネックでしたが、それは樹の下にいればいくらか和らぐはずです。


 祐介を遊具のほうにけしかけると、達也はベンチに腰を下ろしました。そこには、茹で上がった頭を冷やすのに、十分な涼しさがありました。


 祐介は滑り台を逆走して上ると、砦に一番乗りで侵入した兵士のごとく、身を乗り出して珍妙な声で叫びました。公園には二人の他は誰もいませんでした。


 他の図書館へ行くという選択肢もありましたが、一度落ち着いてしまうと、再び動き出すことは億劫でした。達也の尻とベンチは、生き別れの兄妹が五十年の時を超えて再会したように離れませんでした。


 するとポケットのなかで振動が生まれました。達也は振動の元を取り出すと、ボタンを押して耳に当てました。電話をしてきたのは沙織でした。達也には、それが画面を見ずともわかりました。彼に電話をする人間など、今や彼女くらいだからです。


 沙織が、祐介を夜まで預かってほしいと頼んできました。

 達也は低く唸りました。ですが、沙織は退きませんでした。達也の気持ちは承知の上で、今日だけでも引き受けてほしいと食い下がりました。


 それに達也は口角を上げて「彼氏さんと、お楽しみ中だからですか?」と言いました。

 沙織が悲痛な表情を浮かべたのが、電話ごしでもわかりました。そこまで言わせる気なの、と彼女は低い声で言いました。


「冗談ですよ」


 本気で非難したいわけではありませんでした。

 ただ、人が大変な思いをしているのに、自分だけ楽しい思いをしているのが少し気に食わなかっただけです。

 そしてそんな気持ちは、むしろ彼女のほうがずっと強く抱えていることを、もちろん達也は理解しています。


 沙織はなおも引き下がりません。ちゃんとお金は払うから、と足もとにすがるように言いました。延長一時間につき一万円。それが沙織から提示された金額でした。

 それは安定した収入を持たない達也にとって、天から垂らされた糸のごときありがたい話でした。

 やがて沙織は二万円、三万円でどうかと金額を釣り上げてきました。


 しかし達也はこの話を断りました。

 彼の口調がこれ以上の交渉を許さないものだったのを感じたのでしょう、沙織は渋々といった風に了承しました。達也は、いつも通り六時に戻ることを念押ししました。


 祐介は元気かと沙織が訊きました。達也は曲芸師のようにブランコを操っている祐介を眺めながら「元気ですよ」と答えました。沙織はいつもありがとうと言って、電話を切りました。


 携帯を耳から離すと、画面に汗の粒がこびりついていました。

 それがまるでゼリーのようにぷるぷると震えています。達也はそれを袖で拭き、ポケットに戻しました。背もたれに体を預けると、重たい息が喉の奥から漏れてきました。


 結局、午後はそうして祐介を公園で遊ばせていました。けれどいつのまにか、子どもたちが蝿のように湧いてきて、祐介を指差して笑い始めました。


 達也はクジラのように砂場を泳いでいる祐介に近寄ると、帰るぞと告げ、公園から連れ出しました。祐介は達也の後ろで機嫌よさそうに跳びはねていましたが、達也は振り返る気にはなれませんでした。


      ●


 変わり映えのしない景色だ、と達也は思いました。

 生えている樹、咲いている花、建っている家、停まっている車──十年前とほとんど変わっていません。もちろん季節ごと、人生の節目ごとに微細な変化はあったはずですが、気づけなければ、なかったのと同じことです。


 達也はなるべく、一定の歩幅で帰路を往きます。祐介の歩幅が荒ぶっているので、気を抜くとそのリズムに引っ張られそうになります。それに巻き込まれると、自分が今までどうやって歩いていたのかを忘れそうになるのです。


 達也はため息を吐きました。最近、延長を頼まれることが増えてきました。

 以前は週に一回かそこらだったのに、最近は週に二、三回ほど、ああいった提案をされます。


 どれだけお金を積まれても、引き受けることは出来ません。

 それは彼の、心の奥深くに関わることだからです。


 沙織は今、マッチングアプリで知り合った彼氏に熱を上げています。

 彼氏は大学生──達也より年下です。


 達也は写真を見せてもらったことがありますが、その男は病的なまでに肌が白く、精巧なアンドロイドを思わせました。人間味が感じられない……達也がもっとも苦手とするタイプの男でした。


 夫とは祐介が小さい頃に離婚しています。ですので法的にも倫理的にも、その逢瀬は何ら咎められません。

 しかし達也の心には、納得しかねる部分もありました。本人たちが良ければそれでいいとは、どうしても思えないのでした。

 彼は肉欲をぶつけあった後、慌ただしくシャワーを浴び、何事もなかったかのように振舞う沙織の姿を想像しました。


 達也はどこにも吐き出せない言葉をこねくり回しながら歩きます。太陽の熱を残したアスファルトが、彼の足の裏に異物感を与え続けました。


 すると前から子ども連れの女性が歩いてきました。達也はその組み合わせに、図書館でのことを思い出しましたが、別人だとわかると胸を撫で下ろしました。

 母と娘のようでした。

 親子は手を繋いで、仲むつまじく何かを話していました。小鳥のさえずりのような笑い声が、薄いオレンジ色の空に響いています。


 親子はこちらに気づいていないようでした。早く気づいてくれないだろうか、と達也は思いました。近くで祐介の存在に気づくと、その異質さに息を呑み、目を逸らし、こそこそと逃げ去るはめになるからです。彼は他人のそんな姿を、今の家に出るゴキブリと同じくらい見てきました。


 母親のほうがようやく顔を上げて、前を向きました。視線は祐介に向けられて、その顔が一瞬のうちに強張りました。自分の予想が当たり、達也はほくそ笑みました。


 しかし次に母親は、視力検査の一番下の輪っかを見るように、達也のことを見ました。

 その視線に戸惑っていると、すれ違ったところで彼女が足を止め、おずおずと、だけどある種の確信に満ちた声で「もしかして、達也くん?」と口を開きました。


 彼も足を止めました。急に止まったからでしょう、すぐ後ろで跳びはねていた祐介が達也に追突しました。二人が車だったら事故と言える光景でした。彼は自分が確かに達也であることを認めました。


 すると彼女は顔をほころばせ、久しぶり、とか、ずいぶん変わったね、とかいった言葉をまくし立てました。


「私のこと、覚えてる?」


 記憶の棚を開けて手を入れてみましたが、彼女らしき形のものは一つもありませんでした。彼女は自らを高見沢だと名乗りました。名前を聞けば思い出せるかと期待しましたが、達也のなかにはまだ浅い霧のようなイメージしかありませんでした。

 どうやら彼女は小学生のときのクラスメイトのようです。

 彼は適当に話を合わせました。


「高見沢のほうこそ、ずいぶん変わったな」

「あれから十年だもん。全然変わるよ」


 高見沢は少女のように微笑みました。達也は、その子は娘なのかと訊きました。彼女は繋いだ手を見せてうなずくと、娘に挨拶をするよう言いました。娘は言われた通り、礼儀正しく頭を下げました。言葉もしっかり発音出来ていました。


 彼女は高校を卒業してすぐ結婚し、この子を産んだのだと話しました。達也が受験や就職に失敗していた裏で、かつてのクラスメイトは親にまでなっていました。


 娘は祐介が気になって仕方がないようです。先ほどからピエロの殺人鬼でも見るような目で祐介を見ています。その顔には強い警戒の色が浮かんでいました。祐介はその視線に気づくと、犬のように吠えました。本物の犬より犬らしい鳴き声でした。

 娘は慌てて母親の後ろに隠れました。

 高見沢は、怯える娘の頭を優しく撫でました。


 彼女は、なぜ達也が祐介と一緒にいるのかを問いました。


 当然の問いでした。むしろ彼女は、早くそちらのほうを訊きたかったに違いありません。彼女も娘と同じように、祐介をちらちらと見ていたからです。祐介を直視出来る人間がこの世にどれだけいるだろう、と達也は考えました。


 ですが達也は、言葉を濁しました。思いの丈をすべてぶちまけたかったですが、彼はそこをぐっと飲みこみました。


「何だか、小学生の頃を思い出すね」


 その言葉に、達也は内臓を絞られるような痛みを感じました。


「二人、いつも一緒にいたよね」


 彼女のゆるい笑みとは対照的に、達也の顔が強張っていきます。

 確かにいつも一緒にいました。

 ですがそれは、そうせざるを得なかったからで、間違っても望んだことではありませんでした。

 それを今となってはいい思い出だったと語られることは、生まれや体つきを侮辱されるより深い憤りを彼に与えました。


 しかもそれは思い出などではなく、現在進行形の話でもあるのですから。


「だから私、全然達也くんと話せなかったんだよね」

 いつも遠くから見ているだけだったと、彼女は娘を自分の腰に抱き寄せました。


「ねえ、私がずっと見てたの、気づいてた?」

「いやまったく」


 高見沢は苦笑しました。思い出の温泉に自分だけゆっくり浸かれると思うな、と達也は感情の波をさざめかせました。彼にとって小学六年生の一年間は、忘れがたい暗黒そのものなのです。


 彼女は、卒業式に自分の気持ちを伝えようと思ったが、大勢の女子が駆け込み乗車をするように達也を取り囲んでいたので、自信が持てずに逃げてしまったことを、悲しそうな表情で語りました。


 しかしそれは、決して心の底から悲しんでいるといった風ではありませんでした。そこにはどこか、満足感のようなものがありました。


 達也はあの日の光景を、脳内で再現しました。

 薄汚れた校舎、毛虫だらけの桜の樹、ぷんと漂う春風のすえた匂い──そして人。

 服についた糸くずまでむしり取られんばかりにもみくちゃにされました。

 けれどその光景のなかに、高見沢の姿はありませんでした。


 祐介が何の脈絡もなく吠えると、娘が悲鳴を上げました。達也は吠える祐介をなだめました。それで記憶の再生は、霧が晴れるように終わりました。


 祐介はその場で大人しくなりました。それがイルカショーにでも見えたのでしょう、高見沢は、十年経っても変わらないね、と小さく笑いました。ちょっとは変わっていてほしかったけどな、と達也は唾を吐き捨てるように言いました。


 出会ったときも三歳児、十年経っても三歳児……祐介にはこの十年の積み重ねがありません。もちろん、ほんのわずかにはあるのでしょうが、それはほとんどないのと同じことです。


「友達っていいなあ」


 その言葉に、達也は手を上げそうになりました。

 彼の表情には明確な敵意が生まれていました。だけど高見沢は、その変化には気づきませんでした。彼女は本心から、彼らを見てそう思ったのでしょう。


 友達──それは数ある他者との関係を表す言葉のなかで、もっとも異質なものです。親子、夫婦、きょうだいなどは血で、仲間、同僚などは利害で繋がるのに対し、友達は何でも繋がっていません。

 互いに、ともにいたいと思うかどうか──それだけです。

 ゆえに友達とは特別な関係なのです。


 彼女は達也と祐介が、そんな関係だと言ったのです。


 祐介がその言葉を連呼しました。祐介には他人が発した言葉を繰り返す癖があります。もちろん意味はわかっていません。だから祐介の発言をいちいち気にしていたら、心がいくつあっても足りません。気にするだけ無駄です。

 達也はそう思っているのですが、能天気に笑う祐介に、今は苛立ちを感じました。

 図書館でしたように名前を叫べば、祐介は機械のように停止するでしょう。

 しかし彼は、それをしませんでした。


 彼はそれ以上の会話を打ち切り、高見沢に別れを告げました。高見沢はうろたえました。なぜ彼が急に不機嫌になったのか、きっと彼女には一生わからないでしょう。彼女は去ろうとする彼に、連絡先の交換を申し出ましたが、彼はそれを軽くあしらい、歩く速度を上げました。


 家まであと少しでしたが、達也は十字路を右へ曲がり、さらに次の角を左に曲がりと、家からどんどん離れていきました。綿密に時間を調整していたのに、彼女と遭遇したせいで予定が狂ってしまいました。

 早く来た道を引き返すか、いくつかの角を曲がって正しい道に戻らなくてはいけません。

 ですが彼の足はそんな思いとは裏腹に、めちゃくちゃな方向へ進んでいきました。


 見慣れない道で不安になったのか、祐介が捨てられた子犬のように鳴きました。しかし達也はそれをいっさい無視し、歩き続けます。


 空が薄暗くなってきました。

 太陽が地球の裏側へ消えようとしています。

 淡く残ったオレンジ色の光が、遠い山々の稜線に浮かんでいました。


 結局、二人が家についたのは六時を三十分も過ぎてからでした。二人を出迎えた沙織は相変わらず小汚いエプロンをつけていましたが、顔にはほんのわずかなつやがありました。


 沙織は達也を夕飯に誘いましたが、達也は覚えた台詞を読むように、今日も予定があると断りました。


 そしていつものように、輝く台と喧噪のなかに身を置きました。


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