4 『悪魔狩り』
午前九時。時間ぴったりにインターホンを押すと、いつものように沙織が出てきました。沙織はやはり薄汚れた水色のエプロンをつけていました。
あれはちゃんと洗濯をしているのでしょうか。それとも、汚れがあまりに深くこびりついているせいで、洗濯をしても落ちないのでしょうか。どちらにせよ、いい加減捨てればいいのに、と達也は思いました。
沙織が「すぐ連れてくるわね」と言うと、達也は「急がなくて大丈夫ですよ」と朗らかに言いました。慌ただしく引き返していく沙織を見ながら、達也は、彼女の目の下にくっきりと浮かんだ隈のことを考えました。
祐介を呼ぶ声が響きます。その声は張り上げてはいるものの、全体的に力がなく、朝の光のなかにすぐ溶けてしまいました。
隈は、十年前より黒くなっています。
祐介と一つ屋根の下で暮らすとは、そういうことなのです。
沙織が祐介を伴い、戻ってきました。
祐介は達也を見ると喜色満面の様子で飛びかかろうとしましたが、沙織はそれを手で制し、まずは挨拶をするよう促しました。祐介はそれに従いましたが、おはようという一言すら、彼はろくに言えませんでした。
そして達也と祐介は、ともに歩き始めました。
下手くそ極まりないスキップで地面を踏む祐介は、まるでこれからピクニックにでも行くかのように、機嫌がよく見えました。
雲一つない、水色の空がどこまでも広がっていました。
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達也の仕事は、午前九時から午後六時まで、祐介の面倒を見ることです。
報酬は平日二万円、土日祝日は三万円──それが達也と沙織とのあいだで決められた金額です。交通費、食費は別途支給です。
沙織からはどこへ行ってもいいし、何を食べてもいいと言われていますが、最近は山手線で遊ばせた後、大きな図書館に放していることがほとんどです。食事はもっぱら、コンビニのおにぎりです。
子どもの頃、達也は祖母の家の犬を散歩させてお小遣いをもらっていましたが、それと本質的には変わりません。
祐介のことを、みんなが遠巻きに、横目でちらちらと見ています。
直視出来ないのです。勝手気ままに跳ねまわる巨漢を。
何かの拍子に目が合ってしまったら?
それを考えると、石像のように体を硬直させ、自らも電車の一部となる他はありません。
奇妙だと達也は思いました。
けれど何が奇妙なのか、彼は上手く言葉に出来ません。
単語としてはいくつかおぼろげにあるのですが、それらを並び替えようとすると、明け方の山道にあらわれる霧のようなものが立ちこめてきて、頭のなかがぐちゃぐちゃになってしまうのです。
午後になると電車を乗り換え、昨日と同じ駅で降り、昨日と同じコンビニで昨日と同じおにぎりを買い、昨日と同じ公園で昨日と同じように食事をした後、昨日と同じ図書館にやってきました。
ですがそこからは同じではありませんでした。達也は棚から『デミアン』を取り出すと、好きに遊んでろと祐介に言いました。大声でうなずいた祐介は、酔っ払いのような足取りで、館内をうろつき始めました。
達也は、祐介のことは頭の片隅に置きつつも、読書にのめり込んでいきました。最近の小説はよくわかりませんが、何十年も前に発表されてなお現代まで生き残っている作品には、何か離れがたい強烈な引力のようなものを感じます。
彼はその引力に意識を吸い取られていました。
だからそれが起こるのを、防げませんでした。
祐介を放して一時間ほど経った頃でした。館内に泣き声が響きました。祐介のものではありませんでした。祐介の泣き声には、甲高さのなかに沼の底の泥のような重さがあるからです。
泣き声は、女の子のものでした。
達也は嫌な予感を身にまとい、本を叩きつけるように置いて、その泣き声のほうへ走り出しました。
泣き声は止みません。
どころか、どんどん大きくなっていきます。
声は、ポップなデザインの背表紙に彩られたライトノベルの棚のあいだで生まれていました。
そこには五歳くらいの女の子と、人差し指をくわえた祐介がいました。
それはどう見ても、祐介がその子に何かしたと思われる状況でした。
女の子は平時なら可愛いだろう顔をしていましたが、今はその顔を歪めに歪め、お腹の底から声を出して助けを求めていました。
達也が一瞬のうちに状況を整理していると、三十歳くらいの女性が長い髪を振り回して女の子に駆け寄り、祐介から守るように抱きしめました。
母親でした。
何があったのかを確認する切迫した声のなかに、娘を落ち着かせようとする慈愛が感じられました。ですが女の子は泣き止みません。
すると図書館の職員や、他の利用客などが続々とやってきて、狭い棚と棚のあいだが、脳梗塞を起こす直前の血管のようになりました。
大事になってしまっている──それが達也の頭の大部分を占めていました。
祐介に何かされても相手のほうが逃げていくというパターンを幾度も見てきた彼は、小さな女の子が祐介に絡まれたときにどうするのかを、想定していませんでした。
母親はお腹のなかにいる赤ん坊へ話しかけるように、何があったのかをもう一度訊きました。
それで女の子はようやく安堵したのか、のどをひくつかせながら、この人に胸を触られたと、祐介を指差しました。
その瞬間、母親の顔が肉食獣じみたものになり、視線に敵意がこめられました。
「あなた! うちの子に何てことするの!」
雷鳴が轟いたようでした。祐介の体が軽く跳ねました。
「警察を呼ぶわよ! 警察を!」
達也は、警察だけはまずいと思いました。大した取り調べもされず解放されるとしても、自分の監督不行き届きを責められるのは、今後の生活に関わるからです。
ここは自分が出て行き、謝罪をしなければ──達也は人込みから抜け出し、無駄だとわかりつつも一応訊いてみました。
しかし祐介は背を丸め、風邪を引いたときのように震えるだけでした。
その口から、はっきりとした言葉が返ってくるはずがありません。
達也は即座に思考を切り替え、娘を抱き、憤怒の相を浮かべる母親に対し、深い謝罪とともに頭を下げました。ですが母親の怒りはおさまりません。実際に祐介が女の子の胸を触ったかどうかはわかりませんが、それに類する行動をとったのは事実でしょう。達也はとにかく頭を下げ続けました。
その頭頂部に、数々の怒声が突き刺さります。
保護者のあなたは何をしていたのかと問われ、達也は本を読んでいたと正直に答えました。母親は、こんな奴から目を離すなんてありえないと、怒りをさらに加速させました。もっともだと思いました。けれど彼にも言い分はありました。
「でも、こいつも悪気があったわけじゃないんです」
祐介は純粋なのです。自分の興奮をかき立てるものがあったら、一も二もなく飛びついてしまう……ただそれだけなのです。
そこに悪意はありません。
罪を憎んで人を憎まずであれば、祐介が負うべき責は何もないはずなのです。
しかしそんな綺麗ごとは、実際に害を被った人間には通用しません。
「悪気がなかったら、何をしてもいいって言うの?」
達也は口ごもりました。決してそうではありません。罪には罰です。しかし車で人をはねたとしても、それが明確な意志による殺人か、不注意が重なった事故かでは、与えられる罰は違います。
祐介はむき出しのナイフのような存在ですが、誰かれ構わず切りつける殺人鬼ではありません。
けれどそれを、この母親に上手く説明出来る気がしませんでした。
それには、これまで連綿と受け継がれてきた人類の集合的無意識を相手取り、そのすべてに勝利しなければならないからです。
祐介はこんな状況にも関わらず、口角を上げ、空気中にただよう埃を追うように体を揺らしています。どう解釈しても反省の色はないように見えます。達也ですらそう思ってしまったのですから、激昂する母親には尚更でした。
達也はとっさに「よく言って聞かせますので」と言いましたが、言ってからそれがどれだけむなしいことか気づきました。
彼は中途半端に反論したせいで、さらなる攻撃にさらされました。
顔を真っ赤にした母親は、唾を散弾銃のように飛ばしながら、達也をひたすら正論で刺し、的確に急所をえぐりました。達也はもう反論せず、ひたすら謝罪を繰り返す機械のようになりました。
そんな責め苦が永遠に続くように思われた頃、職員の一人が歩み寄り、彼女をなだめました。感情が一瞬ゆるんだ隙を突かれたので、彼女は素直に応じました。その顔にはまだ興奮の色が残っていましたが、ひとまず最低限の冷静さは取り戻したようです。
職員は達也のほうを向きました。職員は沙織と同じくらいの年齢の女性でした。しかし手足から何まで枝のように細い沙織とは違い、さながらゴムボールのように丸々と太っていました。
職員は柔和な笑みを浮かべ、お連れ様から目を離さないようお願い致します、と言いました。穏やかな口調の裏に、隠し切れない鋭さがありました。大きな肉の塊のような胸につけられたバッジには名前と、館長という役職が記されていました。
達也は今日何度めかわからない謝罪をしました。
感情を殺し、ひたすら頭を下げ続けていれば、いつかこの状況が終わってくれるだろうという見通しでした。
しかしそんな見通しは、たかだか数メートルの堤防を作ったくらいで大津波を防げると思っている役人のように甘いものでした。
館長は微笑んだまま、達也と祐介──二人の出入り禁止を言い渡しました。
それには達也も、謝罪以外の言葉を吐かざるを得ませんでした。
もちろん言わんとしていることはわかります。祐介を館内で野放しにさせていたら、今回のような事件はまた起こるでしょう。
けれど達也も反省しました。
慣れによる気のゆるみがあったことを認めます。
今後は祐介から目を離さない。誰かにちょっかいを出そうとしたら、すぐ止める。そう食い下がりましたが、しかし現実は彼が思っているよりも、水面下で確実に進行していました。
まるで癌のように。
気づいたときには、手遅れでした。
館長は以前から、祐介が飛んだり跳ねたり奇声を上げたりして、読書に集中出来ないといった声が多数寄せられていることを明かしました。
達也は驚くも、しかし心中では深く納得していました。図書館に入ると、その瞬間カウンターのほうから空気がざわつくのを感じていたからです。でも彼らは何も言いませんでした。
いえ、言えなかったのです。
いくら好き放題に暴れ回っていても、祐介は直接的な被害は何も与えていなかったのですから。
しかし今回、小さな女の子の胸を触って泣かしてしまうという事件が起こりました。図書館側としては、これを機に祐介を出入り禁止の方向へ持っていくのは、自然な流れです。
達也は慢心していました。
救いがたい馬鹿だと罵られても、反論出来ません。
彼は詰めかけた野次馬を見回しました。彼が顔を向けた瞬間、みんなが一様に顔をそらしました。
祐介を取り巻く状況は小学生の頃から何も変わっていません。
どころか、体だけが大きくなった分、社会に与える影響はより甚大なものになっていました。
沈黙が広がります。
この場所だけ、世界の回転から取り残されたようでした。
けれどそんな沈黙は、一瞬で吹き飛びました。
祐介が叫び出し、髪をかき乱しながら、棚に頭をぶつけ始めたからです。
祐介の声は人々の鼓膜を大いに震わせ、体を縮めさせました。祐介は床に倒れ、釣ったばかりの魚のように手足を振り回しました。足が当たった衝撃で棚が大きく揺れました。
誰もが目と口をだらしなく開けて、祐介を眺めています。それを止められる人間など、達也以外には誰もいませんでした。
達也は大きく息を吸い込むと「祐介!」と叫びました。
すると祐介がコンセントを抜いた掃除機のように停止しました。達也は祐介に、少しのあいだ黙っているように言うと、館長以下職員一同──いえ、ここにいる全員に向けて、今後この図書館には二度と出入りしないことを誓いました。
ここに祐介の居場所はありません。
それはつまり、彼の居場所もないということなのです。
達也が歩き出すと、人混みが神話の海のように割れて、道が作られました。祐介はさっきまでの癇癪が嘘のように平常に戻り、さっと立ち上がると達也の後を追いました。
二人の背中に、そんなバケモノは檻にでも入れておけ、と雑巾を限界まで絞ったような、かすれた声がぶつけられました。娘を抱く母親のものでした。
「バケモノだってよ、お前」
達也は鼻で笑いましたが、祐介は首を傾げるだけでした。
自動ドアがゆっくりと開き、二人は太陽の光に晒されました。
達也は『デミアン』を途中までしか読めなかったことを、心残りに思いました。




