3 『Fly-by』
勉強と運動さえ出来れば周りから認められる──そのことに人生のかなり早い段階から気づいた達也は、ただそれを実行するためだけに小学生時代を過ごしていました。そのことに気づいたとき、世界はなんて単純に出来ているのだろうと、隕石が頭に当たったような衝撃を受けたのを、彼は今でも覚えています。
テストでは全教科で満点を取りました。夏休みの読書感想文では内閣総理大臣賞を受賞し、全校集会で表彰されました。体育のサッカーでは何人ものディフェンスをかいくぐり、華麗なシュートを決めました。休み時間のドッジボールでも、ボールを投げれば必ず相手を倒すことが出来ました。運動会のリレーでは上級生を差し置いてアンカーを任され、一位でゴールテープを切りました。バレンタインデーには、他のクラスの女子までが彼にチョコレートを渡しに来ました。先生からの信頼も厚く、多少の悪いことをしても彼がそんなことをするわけがないと勝手に容疑者から外されました。
彼はみんなが憧れる、非の打ちどころのない小学生でした。
六年生になった春までは……。
昨日までの大雨が嘘のような、晴れやかな朝──担任の先生が転校生を伴って教室に入ってきたとき、それまで春風のように騒いでいた子どもたちが、一瞬のうちに口と体を停止させ、教室が一瞬で静寂に包まれました。
先生が、今日からクラスの一員になるという少年を紹介すると、その少年が犬のように吠えました。それだけで教室が一つの生き物のようにまとまりました。みんな仲良くしましょう、と先生が朗らかに言いましたが、誰も返事をしませんでした。
教室は沈黙の絶対零度に到達していました。
そんななかで達也は、誰よりも早く思考を再起動させ、すぐに一つの結論を導き出しました。
こいつに関わるのはやめておこう──。
見たところ、会話が成立するような相手ではありません。そんな人間とどうやって仲良くなれと言うのだ、まずはそう言う先生がお手本を見せてほしい、と彼は思いました。
ここは自分の居場所だ。
自分が一番自分らしくいられる場所だ。
この場所は絶対誰にも壊させやしない。
強い決意をこめて、彼は壊れたように笑う転校生を睨みつけました。
それで彼と転校生の物語は終わるはずでした。クラスに異物が混入したのは驚きましたが、それだけです。先生の目もあるから一応クラスメイトとして最低限の礼儀は払うがそれ以上は関わらない。それにきっと、すぐ学校に来なくなるだろう、と彼は思いました。
しかしそうはなりませんでした。
先生が、彼を転校生のお世話係に任命したからです。
もちろん彼は反論しました。クラスのみんなも自分に同意してくれると思いました。ですが振り返ると、みんなが川に落ちた犬でも見るような視線を彼に向けていました。
期待とは異なる熱望の視線が、歪みに歪んで、彼の体を何十本もの光線になって貫きました。その容赦のない圧力に、彼は屈さざるを得ませんでした。
こうして彼はその日から、名誉ある『祐介くん係』になりました。
そしてまさか、その係を大人になっても務めることになるとは、このときはまだ思ってもいませんでした。
隣の席に祐介がやってきました。彼の意思に反して物事が進んでいきます。それがたまらなく嫌でした。祐介はそんな彼の心中などおかまいなしに、生まれたての赤ん坊のように笑いました。
●
それから達也の生活は一変しました。
彼は祐介のような人間の面倒を見るということの本当の意味を、若くして知りました。
祐介はとことん自由でした。
普通の人間が成長とともに獲得していくはずの、倫理や規範といったものを一切持たないまま体だけが大きくなると、授業中に奇声を上げたり、手当たり次第に女子のスカートをめくったり、配られたプリントをヤギのように食べ始めたり、いきなり教室から飛び出して廊下を疾走したり、給食を服や床にまき散らしたり、オシッコやウンチをところ構わず漏らしたりするのです。
達也はそのすべての尻ぬぐいをさせられました。尻ぬぐいとは、文字通りの意味でもありました。
本当に、祐介の面倒を見るのは大変だった、と当時を振り返って彼は思います。これならまだ猿にキーボードを叩かせて『ハムレット』を書かせるほうが楽だったのではないでしょうか。
意志疎通が取れない上に、体格の問題もありました。
後に大男となる祐介は、当時からその片鱗を見せていました。この時点で祐介はクラスの誰よりも大きかったのです。
達也も決して小さいほうではありませんでしたが、祐介はその達也が見上げるほどでした。
だから祐介の行動が、すべて想定以上のダメージに繋がりました。暴れる祐介を止めに入り、無傷で済むことはありませんでした。
ですが達也は少しずつそんな生活に慣れていきました。
朝早く家まで迎えに行き、道路に飛び出したりしないよう注意しながら登校し、祐介をフォローしながらも優等生であり続け、学校が終わると家まできっちりと送り届ける──そんな生活をこなせるだけの能力が、彼にはあったのでした。
いっそ潰れていればよかったのかもしれない、と彼は思います。もしもあのとき、あの重責に圧し潰されていれば、祐介の面倒は他の生徒が見ることになったでしょうし、彼は晴れて元の生活に戻れていたでしょう。
離れてしまったみんなも、戻ってきてくれたでしょう。
しかし彼は一年間、誰の助けも借りず、祐介の面倒を見続けました。
けれどそんな生活を、中学生になっても送るつもりはまったくありませんでした。
彼は何かに取りつかれたように勉強し、全寮制の私立中学校へ進学を決めました。
彼は全国でも指折りの進学校に合格出来たことよりも、祐介の世話係から解放されることを喜びました。
卒業式ではクラスのみんなから、また遊ぼうねとか、楽しかったよとか、ずっと前から好きでした、などといった言葉を節分の豆のようにぶつけられましたが、彼はそれらを笑顔で受け流しながら、はらわたを煮えくり返らせていました。
ですが、それはもう水に流そうと決めていました。
自分は新天地で、これまでの失点を取り戻すのだ!
そう意気込み、彼は中学生にして親元を離れ、遠くの地で生活を始めました。
そこでも小学生のときと同じように、勉強、スポーツ、そして恋愛をこなし、周りから一目置かれ続けました。そんな生活を送るうち、しだいに祐介のことは記憶の棚の奥にしまうことが出来ました。
彼は充実の日々を過ごしました。
そしてその後、大学受験に失敗し、三流大学に進んだ彼は、さらに就職活動にも失敗し、地元に戻ってきて──祐介と再会したのでした。