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[human]  作者: 和泉龍一郎
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2  『泡沫の箱庭』


 青葉の集まりが、地面に複雑な形の陰を落としています。風が吹き、葉と葉がこすれ合う音がしました。その音を聞いて、達也は黄緑色に輝く広い草原に寝転がっているような気持ちになりました。彼は、一度でいいからそんな場所へ行ってみたいと思いました。


 何もかもから解放されて、心安らかな眠りにつきたい──。


 まだ見ぬ景色に想いを馳せていると、その妄想のスクリーンを引き千切るような音が割り込んできました。

 隣で祐介が、おにぎりの包装をはぎ取った音でした。祐介はところどころ海苔が欠けたおにぎりを、大蛇のように口へ入れました。


 海苔と米が荒々しく咀嚼される音が達也の鼓膜を震わせます。彼は青々と茂った樹を見上げました。葉のあいだから、太陽の光がわずかに差し込んでいました。


 祐介は結局、午前中ずっと山手線の車内ではしゃいでいました。鮭のおにぎりを美味しそうに頬張る祐介を、達也は横目で見ました。よほどお腹が空いていたのでしょう、それは食事というより捕食のように感じられました。こぼれた米粒が、まるでウジのように祐介の服や足もとに散らばっていました。


 のどかな公園です。

 太陽が燦々と煌めき、地面が熱いです。

 けれど二人が座っている木製のベンチは大きな樹の下にあるので、その熱から少し逃れられていました。

 このまま目を閉じて眠ってしまいたいと達也は思いましたが、そうするわけにもいきません。


 新宿から何駅か戻り、二人はいつもの駅で降りました。そしてこの公園で、遅めの昼食と洒落込んでいました。

 少し前までは日によって行き先を変えていましたが、最近は途中のコンビニでおにぎりを買い、このベンチに座って食べるというのが決まった流れになっていました。


 おにぎりを何個も平らげ、辺りを白と黒の破片で汚した祐介を確認すると、達也は腰を上げて、祐介を置いていくように歩き出しました。祐介はその後ろを犬のように、しかしおぼつかない足取りでついていきました。


      ●


 図書館に入ると、達也は棚から本を取りました。祐介は絵本コーナーで手あたり次第に本をぶちまけた後、そのなかの一冊を大事そうに抱えて戻ってきました。


 達也は空いている席に座り、ページをめくり始めました。祐介も倣うように同じ動作をしましたが、彼は早々に絵本を放り投げ、辺りをうろつき始めました。


 達也は本を読みつつ、ときおり祐介の所在を確認します。祐介が教科書とノートを広げて勉強している大学生らしき女の子に絡んでいるのが見えましたが、彼は視線を本に戻しました。


 この仕事を始めた頃は、祐介が誰かにちょっかいをかけたらそのたびに止めに入っていましたが、今ではほとんどしなくなっていました。電車のときと同じ──よほどのことがない限り介入しません。祐介に悪意がないのは、もうわかっているからです。


 それに多少相手に近づいたとて、しつこく匂いをかいだとて、奇声を上げて跳びはねたとて、警察沙汰になったことはありません。

 なぜなら相手のほうが逃げてしまうからです。

 警察を呼んでことを荒立てたら、この巨漢ともっと関わることになってしまいます。それはみんな嫌なのです。そんなことになるくらいなら、逃げて、何もされなかったことにするのが一番良いのです。


 達也はそうして夕方まで、一応祐介に意識は向けつつも、読書に没頭しました。

 窓から淡いオレンジ色の光が差し込んでいました。祐介はいつのまにか、達也の足もとで巨体を丸めて、大きないびきをかいていました。


 達也はその尻を軽く蹴り、祐介を起こしました。祐介はよだれを袖で拭うと、達也の顔を見て、だらしなく笑いました。


 図書館を出て、駅まで歩きます。達也は今日、ヘッセの『車輪の下』を読みました。次に来たときは『デミアン』を読もうと彼は思いました。


 図書館は長い坂の上にあるので、行きも帰りも汗をかきます。昼食をとった公園を通りすぎました。公園では小学生くらいの男の子たちが、サッカーをしていました。彼らの流す汗が夕日に照らされて、きらきらと輝いていました。


 達也は祐介がついてきていることを、一応確認しました。ちゃんと確認しないのは、祐介がふらふらとどこかへ行こうとも、本気で自分から離れようとはしないのがわかっているからです。


 そうすると一番困るのは自分自身なのだと、理解しているのでしょう。理屈ではなく、本能として。


      ●


 午後六時。時間ぴったりにインターホンを押すと、履き物がこすれる音の後、扉が開かれました。出てきたのは小さな女性──祐介の母親、沙織でした。沙織は、水色のくたびれたエプロンをつけていました。夕食の準備をしていたのでしょう、何か和風の匂いが達也の鼻をくすぐりました。


「ただいま戻りました」

「おかえりなさい、達也くん。今日は何かあった?」

「いえ、特に何も。午前は電車に乗せて、午後は図書館で寝かせました」

「そう……」沙織がわずかに顔を歪めました。「出来たら、昼間に寝かせるのはやめてもらえないかしら」

「ああ、わかりました。気をつけます」

 達也は夜のあいだじゅう元気に暴れ回る祐介の姿を想像しました。


「いつもありがとう、達也くん」

 沙織は笑みを浮かべ、茶色い封筒を渡しました。達也はその中身を検め「確かに、いただきました」と言いました。祐介は面白い虫でも見つけたのか、駐車場ではしゃいでいます。


「そうだ達也くん、よかったら晩ごはん食べていかない?」

「すみません。この後予定があるので」


 沙織が残念そうに微笑みました。けれどそれは自分と食事が出来ないから残念がっているわけではないのを、達也はちゃんとわかっています。

 祐介がやってきて何かを叫びました。

 沙織は「あんまりうるさくしないで」と小声で言いました。


 祐介はお腹を押さえています。

「どうしたの祐ちゃん、お腹痛いの?」

 沙織が訊くと、祐介は地べたを転がって暴れました。祐介の声が救急車のサイレンのように響き渡ります。沙織の顔色がどんどん真っ青になっていきます。


 ですが達也が「腹減ってるんじゃないですか?」と言うと、祐介は転がるのをやめ、嬉しそうに唸りました。


「じゃあ俺はそろそろ」

 すると沙織が達也に近づいて「明日も大丈夫?」と声をひそめて言いました。

「大丈夫ですよ。じゃあ九時に」

「本当に、達也くんには迷惑をかけて申し訳ないわ」

「いえ、まあ、もらうものはもらってますから」

 達也は封筒で、自分の顔を仰ぎました。そして今度こそというように、足を前に動かしました。


 後ろから自分の名前を呼ぶ声がしました。けれどその声は、達也以外の人間には、単なる奇声としか受け取られないでしょう。振り返ると、祐介が車のワイパーのように手を振っていました。

 達也は足早に二人から遠ざかります。その姿が見えなくなるまで、祐介は全力で手を振り続けました。


 黄昏の下を歩きながら、達也はもう一度、封筒のなかを見ました。そこにはぴんと張りつめた一万円札が二枚入っていました。達也は泥を踏むような気持ちで歩き続けました。そしていつものように、パチンコ店へ寄りました。彼は焚き火に誘われる小さな羽虫のように、光と音のなかへ吸い込まれていきました。


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