12 『水流のロック』
今にも千切れそうな意識のなかで、いっそ本当に千切れたらどれだけ楽だろうと達也は思いました。
丸太のような腕が振りかぶられ、突き刺さります。拳は深々と彼の腹をえぐり、その内側にある臓器にまで甚大な衝撃を与えました。
夜の闇に強烈な光が生まれ、目の前が凄まじい勢いで点滅しました。
彼は今ほど地面に這いつくばりたいと思ったことはありません。ですがそれは出来ませんでした。彼の体は後ろから圧倒的な力で押さえられており、膝を折ることすら許されなかったからです。
哄笑が耳のすぐ側で生まれました。酔いなどすっかり覚めた頭に、その声が深く響きました。足もとは彼が吐いた液体でひどく汚れています。そのなかには鮮やかな赤色をした痰がいくつも混じっていました。
彼はどれだけ殴られても眠るようにうなだれ続け、自分に向けられる暴力が少しでも遠い世界のものになるよう祈りました。
しかしそんな祈りも、これまでより一層強い衝撃が生まれると、ガラス細工を落としたように砕け散りました。
拳ではなく、膝が突き刺さったのです。
それはかつて経験したことのない、生に対する執着すら飛ばしかねない痛みを彼に与えました。彼は髪を掴まれ、上を向かされました。目の前で圧倒的な強者が鼻息を荒くしていました。
助けを呼ぶ声も出せません。
もしそんなことをして、男たちを逆上させてしまったら……と想像するだけで彼の体は固まってしまいます。
なので彼は目だけで助けを求めましたが、周りにはもう誰もいませんでした。
ここはビル街にぽっかりと空いたスペースに作られた公園です。遊具があり、砂場があり、公衆便所があり、外灯の薄明かりがありました。
達也と祐介が連れてこられたとき、ベンチでお互いの体を触りあっていた二人組の男がいましたが、彼らはそのただならぬ雰囲気に圧倒され、闇のなかへ逃げていきました。
しかし達也は彼らを責めようとは思いませんでした。彼は笑うように咳込み、また血の混じった痰を吐きました。
達也とは対照的に、祐介は夜泣きをする赤ん坊のように声を上げていました。ダンゴムシのように丸まった祐介は、頭や背中を蹴られたり、踏みつけられたりしていました。新品の服は土や埃にまみれ、見る影もありませんでした。
祐介にとってもこれは初めての経験でした。
今までどれだけ粗相をしても、相手のほうが先に戦意を喪失してきました。
しかし今日ついに、その壁を越える者たちが現れました。
彼らは祐介に臆することなく、最高純度の悪意を浴びせました。
祐介が吠え、達也を呼びます。ですが達也も何も出来ません。男たちがゲラゲラと笑いました。
サッカーのフリーキックのような蹴りが祐介の脇腹を捉え、その巨体が少し浮きました。それがどれだけの痛みを生んだのかを想像し、達也は硫酸をかけられて溶けたような顔で、ひたすら謝罪の言葉を吐きました。
彼の心はもう折れてしまっていました。
死にたくありませんでした。
これ以上の暴力には耐えられませんでした。
しかしそんな切実な祈りは、無慈悲にも打ち捨てられました。
「悪気はなかったんです」
「悪気がなかったら、何をしてもいいのかよ?」
男は祐介を見ました。
「普通の人間はな、悪いことをしたらまず謝るんだよ。それが何だあいつは。訳のわからんことを叫ぶばかりで、反省の一つもしない。自分が何をしたか、どれだけ他人に迷惑をかけたか、それすらもわかってないんだ。なあ、お前があいつの何なのかは知らねえけど、何であんな奴をかばうんだ?」
理由などわかりません。自分が望んだ結果ではありませんでした。ただ、この道しか選べなかっただけでした。
祐介は何度も助けを求めました。ですが、達也は鼻で笑ってしまいました。
「お前のその目、わかるぜ」
男はいやらしく笑いました。
「あいつを見下してる目だ。あいつを下に見て、安心してるんだろ?」
否定は出来ませんでした。彼は一度でも祐介を、同じ目線で見たことがあったでしょうか。
「もうこいつ殺しましょうよ。気持ち悪いし」
祐介を蹴り続けていた男の一人が、ナイフを取り出しました。それは外灯の薄明かりに鋭く煌めきました。
達也は止めろと叫びました。
「何で? こんな奴、殺したほうが社会のためじゃない?」
達也はその言葉に激昂しましたが、それは一瞬のことでした。そんなことはないと言い切れない自分がいたからです。
好き勝手に暴れ、迷惑をかけ、反省もせず、関わった人間を次々と不幸にしていくバケモノ……。祐介が自分の意志で謝罪をしたことは一度もありません。そんな奴が平然と生きていることが異常なのだと言われたら、達也は反論出来ません。
いっそ事故か何かで死んでくれたら──一度もそんなことを考えなかったといえば、嘘になります。
男たちが嗤いました。彼らは祐介をゴミ同然に扱いました。繰り返される罵声は、人間としての尊厳を容赦なく踏みにじるものでした。
けれどその内容は、祐介には届きません。
自分が何をされているのか、どう思われているかなんて、一生わかりません。
そしてわからないまま、死んでいくのでしょう。
祐介は生まれながらにして、矛盾を背負わされた存在なのです。きっと祐介を救う方法なんてありはしないでしょう。
迷惑という無数の屍の上に、祐介は立っています。
誰かを犠牲にしなければ、祐介は生きていくことすら出来ません。達也の目に、また涙が浮かんできました。
そんな悲しい生き方があっていいのでしょうか。
祐介は、生まれてきてよかったのでしょうか。
わかりません。達也にもわかりません。その答えは、祐介自身が見つけなければいけないのですから。
達也は鼻をすすると、叫びました。
「祐介! お前悔しくないのかよ! このままじゃ殺されるんだぞ!」
達也は、祐介に幸せになってほしかったのです。
「誰にだって生きる権利はあるんだ! でもそれは、戦って、勝ち取らなきゃいけないんだ! 誰かに与えられるものじゃないんだ! だから立て! 手足があるなら立って戦え! お前の居場所は、お前が守れ!」
鼻水が垂れてきましたが、すする気力もありませんでした。男たちは腹を抱えて笑いました。入れ墨の男も、呆れたといった表情を浮かべています。
ナイフを持った男が、悦楽の表情で祐介を見下ろしました。彼は祐介のことを、人間と思っていませんでした。
だから、反応出来ませんでした。
次の瞬間、彼は宙を舞っていました。
回転し頭から落ちた彼は、わずかにうめいた後、動かなくなりました。それは一瞬のことで、この場にいる誰もが、現実を認識するのに数秒の時間を要しました。
初めに認識したのは一番近くで見ていた二人でした。二人は野生の熊に対するような、根源的な恐怖を感じて震えました。達也も見ました。強力なバネのように立ち上がり、そのまま拳を突き上げた祐介の姿を。
狙ったわけではないでしょう。それはただ、がむしゃらに繰り出された拳だったのでしょう。しかしその拳が、一撃で男を倒しました。
祐介は達也を見据えて、ただ一言──戦うと口にしました。
そんな祐介にしびれを切らした男たちが、左右から襲い掛かります。重い拳と蹴りが、祐介に突き刺さります。
並みの人間なら、それで終わりだったでしょう。
しかし祐介はその攻撃にびくともしませんでした。そして不機嫌そうに二人を睨むと、太い腕をぶん回しました。空気が揺れたのが達也にもわかりました。二人の男が吹っ飛ばされました。
そして祐介は、一緒に戦うと言いました。それは今まで聞いたどんな言葉よりも、はっきりと、達也の耳に届きました。
達也は歯を食いしばり、体をくの字に折ると、頭を勢いよく後ろに叩きつけました。頭は男の鼻を打ったようで、甲高い悲鳴が響きました。その隙を突いて拘束から逃れると、達也はそのまま入れ墨の男の顔面に拳を入れました。威力は大したものではありませんでしたが、相手をひるませることは出来ました。達也と祐介は合流すると、どちらからともなく背中を合わせました。
二人はすぐに囲まれました。
達也は視線にこめられた殺意を肌で感じました。ですが達也は、なぜか落ち着いた気持ちでいられました。
怖いのに、怖くないという相反する二つの感情が彼のなかで渦を巻いていました。
達也は自らを鼓舞するため、そして相手に宣戦布告をするため、拳を固く握り、叫びました。祐介も、それと同時に叫びました。合わせた背中がとても熱く、達也は、自分たちが一つの炎になったように感じました。
四人がいっせいに襲ってきました。彼らは喧嘩慣れしていました。多勢であることの優位性をきちんと理解していました。まともな相手だったら、彼らの攻撃は次々に入り、勝負はすぐについていたでしょう。
ですが彼らの相手はまともではありませんでした。
達也はあえて攻撃の嵐の中心に飛びこむことで、被害を最小限に抑えました。そして突然しゃがみました。男たちが面食らっていると、横から肉の壁が迫ってきました。彼らは防御も出来ず、その壁にぶっ飛ばされました。まるで信号無視の車にぶつかられたようでした。
しかしその程度で彼らはやられませんでした。すぐ起き上がると、獲物を一匹に絞りました。喧嘩は弱い奴から潰していくのが定石です。彼らは叫び合うと達也のほうへ向かいました。それに達也は、にやりと笑いました。
彼は急所だけを守ると、その攻撃をすべて受けました。生きた心地がしませんでしたが、致命傷だけは受けませんでした。彼は立っていました。するとまた、祐介が男たちに飛びかかりました。祐介の拳が、蹴りが、男たちに突き刺さります。
フォームも何もあったものではない酔拳のような動きでしたが、その攻撃が男たちの防御を水に濡らした紙を裂くように突破していきました。
達也がおとりになり、その隙に祐介が攻撃する──その連携は回を重ねるごとに上手くなり、次第に二人のほうが優勢になっていきました。身長一九〇センチ、体重一二〇キロ超の体躯から繰り出される一撃が、一人、二人、三人と、男たちをぶっ飛ばし、動かなくさせていきました。
残るは一人、入れ墨の男だけでした。
ですが彼はしぶとく、何度祐介の攻撃を食らっても倒れませんでした。彼は肩で息をしながら「強いな、お前ら」と呟きました。
「でもな、俺たちを殴っても、そいつのやったことが消えるわけじゃないぜ。そいつはみんなに迷惑をかけた。そしてそれを謝りもしない。そんな奴はさ、やっぱり生きてちゃいけないと思うんだよ」
正論でした。しかし、正論が常に正しいわけではありません。
「それをお前が決めるな」
達也が言うと、男は小さく笑いました。
神さまでもない限り、命に優劣はつけられません。
いえ、きっと神さまにも出来ないでしょう。
だから生きるしかないのです。
生かし続けるしかないのです。
達也は、自分の幸せを見つけました。祐介の幸せが、彼の幸せでした。そう思える自分が、ここにいました。
そのとき祐介が達也を突き飛ばしました。
次の瞬間、重く鈍い音がしました。
その音とともに祐介が前のめりに崩れ、巨体が地面に墜落しました。
そこには最初に祐介が倒した男が、土のついたレンガのブロックを持って立っていました。ブロックはすぐ側にあった花壇のものでした。
達也は倒れた祐介を見ます。
男は、目を血走らせて言いました。
「殺してやる。死ね。生きる価値のないゴミが。税金で生かされてるだけのクソカスが。お前なんか社会に必要ないんだよ。生きてるだけで目障りなんだよ。殺されて当然なんだよ。生きててごめんなさいって謝れ。このゴキブリ以下のキチガイ野郎が。人間の形をした寄生虫が。殺す。絶対に殺してやる──」
達也は男に飛びかかると、顔を何度も殴りました。もつれて馬乗りになったところで、振り回されたブロックが彼の額を割りました。ですが彼は殴るのを止めませんでした。
そのうちブロックが男の手から離れました。男が気を失ったのです。しかし達也はそれでも殴るのを止めませんでした。入れ墨の男が引き剥がそうとしても出来ませんでした。彼は頭から血を流す祐介のことも忘れて、拳を振り下ろし続けました。
彼が殴るのを止めたのは、自分の意志によってではありませんでした。
警察が彼を取り押さえたからです。
気づけばパトカーが何台も公園の前に停まっており、サイレンが鳴り響いていました。




