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[human]  作者: 和泉龍一郎
10/14

10 『ワールドマーチ』


「お客様、とってもお似合いですよ」

「そうですか。じゃあこれ買います」


 達也が即決すると、女性の店員が満面の笑みを浮かべました。自分がおすすめした服が売れて気持ちいいのでしょう。ですが彼は別に、彼女のセンスを評価したのではありませんでした。他人からどう見られるかなんて、彼はもう気にしていないからです。


 新しい服を着たまま会計を済ませ、身も心も蝶のような気分になっていると、店の端から悲鳴が聴こえてきました。

 悲鳴がしたほうに行くと、祐介が服を食べていました。悲鳴を上げた女性の店員は、目の前で行われている意味不明な行為に、肩を震わせていました。

 達也が、それ美味いか、と祐介に訊きました。

 祐介は首を振って、不満を露わにしました。


「祐介、それは食べ物じゃないんだ」


 祐介が口を離しました。服は唾液をたっぷりと吸い、そこだけ色が濃くなっていました。達也は店員に謝罪しました。

「お前も謝るんだよ」

 達也は尻を蹴り、祐介の頭も下げさせました。自分が何をしたかはわからずとも、罪の意識はいくらか感じたようで、祐介は申し訳なさそうに縮こまりました。しかしその罪の意識は、次の瞬間には消え失せたようです。


 達也は祐介が駄目にした服を弁償しました。祐介は何枚もの服を唾液で汚していました。

 綺麗に陳列された色とりどりの服が、祐介にはお菓子の山にでも見えたのかもしれません。

 被害額はしめて五万円でした。

 達也はそれを聞いて、その程度かと安堵しました。達也は名残惜しそうに指をしゃぶる祐介を連れて、別の服屋へ向かいました。


      ●


 新宿は平日の昼間でも人であふれていました。

 うっかり人の波に呑まれると、自分が今どこにいるのかわからなくなりそうです。達也は祐介を常に意識の片隅に入れながら、その流れに乗って移動しました。


 ナップザックの細いひもが、達也の肩に食い込んでいます。

 それは赤ん坊を背負っているような重さを感じさせました。これを祐介の部屋で見つけたとき、彼は突然の郷愁にかられました。

 これは小学生の頃、家庭科の時間に彼が作ったものだったからです。

 祐介にミシンを使わせるのは危ないということで、彼が祐介の分も作らされたのです。彼のほうはとっくに捨ててしまい、作ったことなど今日まで忘れていました。


 幸せな痛みだ、と彼は思います。

 彼はその辺を歩いているサラリーマンの年収よりも遥かに多いお金を持ち歩いています。


 巨人になったような気分でした。

 これほどの優越感を覚えたのは、久しぶりのことでした。


 祐介も服が新しくなり、機嫌が良さそうでした。小ぎれいな格好になった祐介は、新宿という街に溶け込んでいました。

 達也は青い空を見上げます。おろしたての絵の具を塗ったような雲一つない空が、自分たちを祝福してくれているように感じました。


 祐介が屁のような腹の音を響かせました。達也はそれに尻を蹴りたくなったのをこらえました。彼も腹が減っていたからです。街もランチタイムの時間でした。そこかしこの飲食店が、せわしなく動き始めていました。


 飯食いに行くぞ、と言うと、祐介は財宝を見つけた海賊のように叫びました。

 達也はその喜びように、小さく笑いました。


      ●


 薄茶色に変わった肉が次々と、ごまが浮いたタレの池に放り込まれていきます。まるで工事現場の流れ作業のようでした。祐介は鼻息を荒くし、肉の山に箸を突き立てました。達也は口いっぱいに肉を詰め込んだ祐介のために、もっと肉を置いてやりました。祐介がひと噛みごとに体をもだえさせ、大きな声で吠えました。


 本来なら、その肉はそんな風に食べていいものではありません。一枚一枚ていねいに焼き、少しずつ味わって食べなければいけません。ですが祐介は、安い食べ放題の店にでも来ているかのごとく、肉をむさぼりました。


 達也は焼くのをやめて、自分の皿に取った肉に箸をつけました。焼いてばかりで、全然食べていませんでした。

 箸でつまんだ肉を目の前にかかげます。

 美しく照り輝いていた肉は、ほんの数十秒で劇的に色を変化させました。

 炭火で化粧をされた肉の煌めきは、もはや性的なものを彼に想起させました。彼も鼻息を荒くし、肉を口に入れました。


 その瞬間、このまま死んでも悔いはないと思うほどの喜びを感じました。

 続けて二枚目、三枚目と放り込んでいきます。

 そのたびに今までの苦労が報われていくような錯覚に陥りました。


 この肉一枚一枚が、彼の一週間分の食費に相当するでしょう。それを惜しげもなく焼き、食らいます──どれだけパチンコで勝っても味わえない幸福感を、彼は味わいました。


 祐介はもう箸を使わず、皿にしゃぶりついています。犬のようでした。ですが今回ばかりはそうしたくなる気持ちもわかります。達也は密かに共感しました。


 部屋が煙で満たされる前に、その煙が天井の穴に吸い取られていきます。普通の店ならそれでよいでしょうが、達也はそれを残念に思いました。彼は肉を焼いた煙にすら、夢心地を感じていました。


 ここは新宿どころか東京でも一、二を争う有名な焼肉店です。席はすべて個室で、政財界の大物や国を代表するアスリート、数々の一流芸能人が好んで利用する高級店です。

 一般の予約は三年先まで埋まっているようです。では、なぜそんな店で彼らが食事を出来ているかと言うと、簡単な話です。お金という暴力を振るったからです。


 二人組の客が店へ入るところを捕まえて、交渉を持ちかけたのです。その若いカップルは扇子のように差し出された一万円札に目をくらませると、二つ返事で高級焼肉を食べる権利を譲りました。達也は、満足そうに去っていくその背中に、また三年後に来るがいい! と快哉を叫びました。


 お金は自由への片道切符です。

 あればあるだけ遠くへ行けます。達也は肉を頬張りながら、何度もうなずきました。


 腹を満たした後は、祐介に電車を運転させてやりました。

 もちろん本物の電車ではありません。そんなことをさせた日には、五秒で大事故が起きるでしょう。

 二人が向かったのはゲームセンターでした。達也はそこで、運転シミュレーションゲームを、祐介の気が済むまでやらせてやりました。


 電車の運転席を模した大きな箱に入り、現実さながらの映像に合わせてアクセルやブレーキを操作します。人気のゲームのようで、外には順番待ちの列が出来ていました。もちろん達也は、そんな順番を律儀に守ったりしませんでした。他者を圧倒的な力で服従させました。


 電車を運転する祐介は、心から楽しんでいるように見えました。

運転じたいは滅茶苦茶でしたが、ずっと真似してきただけあって、車掌の掛け声だけは堂に入っていました。


 達也は祐介のために、延々とコインを入れ続けました。

 誰にも文句は言わせませんでした。


 それからも彼らは自由の限りを尽くしました。

 彼らは人間を取り巻くあらゆる欲求を、端から満たしていきました。


 夜になる頃には、達也の自意識は天高く突き抜けていました。

 その結果が、色とりどりの宝石を散りばめたかのような景色でした。


 空に星はありませんが、その代わりに地上の星が無数に輝いていました。それは星の海でした。彼は海に浮かんでいるような気分を味わいながら、グラスを傾けました。


 酸味が喉を撫でましたが、味はわかりませんでした。ルームサービスのなかで一番高いワインを頼んだはいいものの、実際に飲んでみると大した感動はありませんでした。どころか、いつも飲んでいる安いビールのほうが美味いとすら思ってしまい、達也は苦笑しました。


 ここが人生の最高到達点なのだろう、と一泊するのに数十万円は下らないスイートルームで、彼は思いました。

 儚い勝利でした。

 広い湯船のほとんどを、彼はもてあましていました。


 そうして風呂に入りながら夜景を眺めていると、湯船に肌色の塊が落ちてきました。まるでプールサイドを走っていた子どもが、足を滑らせてプールに落ちたようでした。


 湯が津波となり、達也の横顔を襲いました。肌色の塊は、もちろん祐介でした。

 祐介は手足をばたつかせ、泳いでいるのか溺れているのかわからない動きではしゃぎ始めました。数十万円の夜景など、祐介の目には入っていないようでした。


 祐介の髪を洗ってやりながら、達也はとてもくだらないことを考えました。

「なあ祐介、お前──」

 俺といて楽しいか?

 そう訊こうとして、彼は止めました。


 彼は祐介の金たわしのような髪に、高級シャンプーを馴染ませていきました。


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