1 『ログマロープ』
なぜ祐介は電車が好きなのでしょうか。電車などたかが乗り物──移動手段に過ぎないのに。
もちろん祐介が興奮を示すのは、電車だけではありません。たわわに実ったメロンのような胸を揺らして歩く女性を見つけると、すぐ飛びかかろうとします。しかしその興奮は原始的な、単なる反射的なものに過ぎないと、達也には感じられます。
けれど電車は違います。電車を見たとき、あるいはこうして電車に乗っているときの祐介は、心から喜んでいるように見えます。興奮が持続しているから、そう見えるのかもしれません。
祐介が跳びはねるたび、鈍い震動が達也の足の裏に伝わります。
男の人は概ね、小さい頃は車や飛行機、電車といった鉄の塊が好きなものですが、それらは大きくなるにつれて、さほど好きでもなくなります。いえ、好きでも嫌いでもなく、特に気にかけない存在になります。
では、大きくなってもそう思えないのはなぜなのでしょうか。
達也は席に深く腰掛け、目を閉じました。祐介は車や飛行機には興奮を示しません。電車だけなのです。彼はその理由を、穴を掘っていくように考えます。ですが穴は、どこまで掘っても底が見えません。
等間隔に揺れるリズムが心地よいと達也は感じます。ずっと味わっていたら眠ってしまいそうです。けれどそこに祐介の叫び声が混じると、その心地よさも一瞬で消えてしまいます。
すると達也の肩が沈みました。
上から物凄い力で押しこまれたからです。
達也は目を開け、その狼藉を働いた者の顔を見上げました。
目の前には大きな壁と見紛うほどの男がいました。そして男は、今がいかに楽しいかを大声で彼に語りました。もっともそれは語るというより、いくつかの単語をきれぎれに叫んでいるだけでしたが……。
達也は顔に飛んでくる唾を袖で拭いながら、適当に相槌を打ちます。
祐介が雄叫びとともに運転席のほうへ行き、分厚いガラスを叩きました。その衝撃に運転手が振り返ります。
しかし運転手はすぐ自分の仕事に戻りました。大勢の人間の命を運ぶ仕事です。この程度の邪魔でうろたえるようでは、電車の運転手など務まらないのでしょう。意地でも反応してやるものかという決意が体からみなぎっています。
その心意気に感銘を受けたのか、祐介はさらに興奮して、パニック映画のゾンビのごとくガラスを叩き続けます。ガラスには手の温もりがべったりと付きました。運転手の首すじに、じんわりと汗が浮かんできました。
自分に突き刺さるいくつもの視線を、達也は感じました。
それは周りの乗客からのものでした。
みんなが何を思っているのか、達也にはすべてわかっています。
人生でこんなにも他人から期待されたことがあっただろうか、と彼は思いました。昔はあったかもしれません。ですがもうこんなことくらいでしか、彼は他人から期待されないのです。彼は苦笑しました。
祐介が体をひねり、達也の向かいに座っている女性のほうへ、大きな足音を響かせ、満面の笑みのまま近づきました。その瞬間、車内にこれまで以上の緊張が走りました。
長い髪をゴムで束ねたリクルートスーツ姿の女性は、必死の形相で携帯を握りしめました。彼女はスーツごしにもわかるほどの、豊かな胸を携えていました。祐介がそれに顔を近づけ、鼻を動かすと、彼女は小さな悲鳴を上げ、その場に縫い付けられたように固まりました。
彼女に対し、逃げればよいのにと思うのは筋違いです。いったいこの狭い車内のどこに逃げ場があるというのでしょう。石像のように固まった彼女の選択は、実は正しいのです。身長一九〇センチ、体重一二〇キロ超の、およそ三歳児程度の知能しかない人間が、自分に興奮のまなざしを向けているのです。誰であろうとこうするしかありません。祐介は彼女を気に入ったのか、喜色あふれる声で鳴きました。
通勤時間帯は過ぎていますが、席がすべて埋まるくらいには人が乗っています。しかし誰も彼女を助けようとしません。男を止めようとしません。かわりに達也を非難するように……いえ、すがるように見つめています。
周囲の人間にとっては、恐怖でしかないのです。
達也でさえ、未だに少し威圧感を覚えるのですから、初見の人間なら尚更です。
しかし達也だけは、この状況でも内心穏やかでした。もう祐介とも長い付き合いです。祐介がこのような状況を作り上げるところなど、幾度となく見てきました。その地層のように積み重なった経験が、彼に落ち着きを与えていました。
言わばこれは、祐介なりのストレス発散なのです。
女性は今、人生で一、二を争うほどの恐怖感に包まれているでしょう。だけど冷静にこの状況を見れば、勘のいい人間なら、祐介の行動にある一貫性を見出すことが出来るかもしれません。それはなかなか難しいことでしょうが……。
祐介は別に、女性に触れたりしているわけではありません。周りで跳びはねているだけです。
彼女に真に危機が迫れば達也も止めに入るつもりですが、今のところ致命的な一線は超えていません。
要は、はしゃげれば満足なのです。
だから達也はこの場においてただ一人、週刊誌の中吊り広告を眺められるくらいの余裕を持っているのです。
達也の予想通り、祐介は急に笑うのを止め、また運転席のほうへ戻っていきました。女性が深い息を吐きました。その目尻にはダイヤモンドのような涙が浮かんでいました。車内は依然として緊張感に包まれていますが、当面の危機は脱したと判断され、まるで一つの生き物のように空気がゆるみました。
電車が止まると同時に、女性は足早にホームへ降りていきました。何人かの他の乗客も祐介をちらちらと見て、我先にと急ぐように去っていきました。
ですがまた、無辜なる人間たちが、不幸にもこの先頭車両に乗り込んできました。そして祐介が車掌のまねごとをすると、彼らは哀切に満ちた表情を浮かべ、扉が閉じられたことを悔やみました。電車は何事もなく走り続けます。
そのとき達也は、なぜ祐介は電車が好きなのかがわかりました。
車は加速したり減速したり曲がったりと忙しなく、飛行機は地に足がついていません。電車だけなのです。決められた道を時間通りに行く乗り物は。
この国の電車は秒単位で時間に厳格です。ほんの少し駅に到着するのが遅れただけで、車掌が人でも殺したように謝罪をします。外国では、電車など遅れて当たり前というところもあるのに。
それを踏まえると、この国の電車は絶対的な安心感を得られます。祐介にとって定刻通りに運行し、自らを絶対的に包みこんで走ってくれる鉄の塊は、なるほど確かに興奮の対象です。達也は納得しました。
しかし納得出来たところで、現実は変わりません。
達也は、次は秋葉原だと叫ぶ祐介を見て、次は新宿だろうと内心で訂正しました。電車は約一時間をかけて東京を一周しました。ですが二人は新宿では降りず、そのまま二周目に突入しました。
二周目も、一周目と変わらない光景が繰り広げられました。




