苦くて甘い始まりの日 ~好きな人に素直になれた修学旅行~
「あっちの方、なんか騒がしいね」
俺がベンチに座って紙コップを掴むと、背中からクラスメイトの女子、苦木さんの話し声が聞こえた。大好きな人の声なので、振り向かなくても分かるのだ。
ついでに言うなら、彼女のことを一晩中考えていたせいか、なんだか顔を見るのが恥ずかしくて振り向けない。
修学旅行初日の昨日、消灯時間寸前に部屋着姿の苦木さんと偶然会えた。いつもはポニーテールにしている黒髪がサラサラのストレートヘアになっていて、フワっと良い香りがした。小さな体にモコモコの服が実に似合っていて、女神だと思ったくらいだ。
なのに俺ときたら「女子はみんなそういう服なんだね。俺の部屋、全員学校のジャージだよ」と、つまらないことしか言えなかった。それを明け方まで悔やんでいたおかげで寝不足だ。
それにしても、苦木さんが言う通り、たしかに騒がしい。修学旅行で沖縄に来ていてるのだから、多少騒がしいのは仕方ないが、このゴーヤジュースの関係でトイレが渋滞したせいでもあるだろう。
広場でジュース屋が、紙コップに不透明なフタをしたゴーヤジュースを、一組から順に配っていった。もらった班からハイヤーに乗って自由行動開始という仕組みだ。十月とはいえ今年はまだ暑いので、水分補給を兼ねて沖縄の味に触れろということだろうか。
俺のクラスは九組なので、ようやくジュースが配られたばかり。そんなわけで、まだ九組はわりとクラスのみんなが広場に残っている。いくつかの班が、誰かのトイレ待ちをしているような状態なのだ。俺も、トイレに行った一人である。
「甘泉が戻ってきたことだし、そんじゃもう行くか?」
班の男友達のその言葉に、俺――甘泉――は素直に従うわけにはいかなかった。
例え振り向けなくても、顔をまともに見れなくても、俺は一分一秒でも多く苦木さんの近くに居たいのだ。
「まあ待ってよ。俺さあ、野菜があまり好きじゃなくて。野菜ジュースも不味そうで、一切飲んだことないんだよね。こんなに飲めるかな、後で邪魔になりそうでさ。またコップがさ、でかいんだよなあ。
ベンチに置いておけば、トイレに行って戻ってくるまでに消えてくれてないかなって、少し願ってたんだけど」
時間が稼げればなんでも良いと思って、班のメンバーに話題を振った。
「俺ちょっと飲んだけど、不味いから先生の居ないとこで捨てる。甘泉も捨てれば?」
「捨てるってのもなあ。クラスのみんながまだ近くにいる内に、誰か飲みたい人いないか聞こうかな」
「女子は好きそうだよな。聞いてみれば?」
そう言われて前方の女子を見回したが、仲の良い女子なんていないし、あげるってのも変なもんだよな。まだ口を付けてはいないけど、相手にとってはそんなこと、本当かどうかなんて分からないし。
……まあでも、今ならキョロキョロしても変じゃないし、後ろの方を向いて視界の端に苦木さんを収めさせてもらおうかな。
俺が立ち上がって振り向くと、困っている様子をたまたま見てくれていたのか、苦木さんともろに目があってしまった。しかも
「栄養があると思って、試しに飲んでみたら?」
と言ってくれたもんだから、俺の心臓は鷲掴みにされた。
俺は、苦木さんが話し掛けてくれたのが嬉しくてたまらなかった。この会話で、昨日の失敗を取り戻すぞ!
「じゃあ飲んでみようかな」
と言って、さっそくストローに口を付ける。――やはり苦い。こんなに苦いのか?
「苦い?」
苦木さんは心配そうに俺を見た。俺がよっぽど苦々しい表情をしていたのだろう。
「いや、苦いけど飲めそうだよ。たしかに健康になれそう」
俺は慌てて、苦笑いを浮かべた。
「無理しないでね」
「大丈夫、本当に飲めそう」
俺は、慌ててストローを吸った。苦いけど、飲めないほどじゃないんだ。さっさと飲んで安心させてしまおう。
それに、全部飲んだらほめてくれるかもしれない。……ただの友達にそれはないか。
それにしても、ゴーヤってのは本当に苦いんだな。なんだか気持ち悪くなってきた。
――俺の記憶があったのは、そこまでだった。
気付いたときには、俺は宿で布団に寝かされていた。
「おう、起きたか」
普段は柔道着を着ている体育教師が、雑誌を床に置いて声を掛けてくれた。
先生から聞いた話では、こういうことらしかった。
ゴーヤジュースを早めに貰っていた二組の男子達が、ジュースの不透明な紙コップとフタに目を付けた。飲み終わった――もしくは中身を捨てた――紙コップに酒を注いで、ストローでこっそり飲んでいた。
その中の一人が、先生にバレた。そして、先生達による二組の吐息のチェックと、紙コップの中身の確認作業が始まった。騒がしかったのはこれだったのだ。
酒を飲み始める前にトイレに向かったある男子生徒にも、その情報が回ってきた。酒が入った紙コップを手に、困ったことになったわけだ。まだ酒を一口も飲んでいなかったので、なんとか上手く誤魔化せないかと彼は考えた。
コップが捨てられたら捨ててしまいたいが、ゴミを捨てる場所には先生が張り付いて目を光らせている。情報によると、トイレに中身を流す生徒を警戒して、トイレにも既に先生がいるという。
その時、置き忘れたと言わんばかりにポツンとベンチに置いてあった、俺の紙コップに目を付けた。周囲を見渡しながらベンチに座り、一瞬の隙にすり替えてから班に戻る。そして彼は、吐息とコップの検査をやり過ごした。
まあ、俺が飲んで大騒ぎになってしまったので、後から白状したらしいが……。
とにかく、俺は中味がすり替えられた紙コップをゴーヤジュースだと思って飲んでしまい、酔っぱらって寝てしまったわけだ。
しかし、俺が明らかにゴーヤジュースだと思って飲んでいたので、苦木さんたちが先生に説明をしてくれた。
――とまあ、こんな経緯で俺は酔い潰れていたようだ。
説明が終わると、先生は気になることを言った。
「さっきまでずっと、苦木も居たんだがな。もうすぐ晩飯の時間なんで、一旦部屋着に着替えに行った」
苦木さん? どうして苦木さんが?
「俺、もしかして苦木さんに何か迷惑をかけましたか?」
「お前、覚えてないのか?」
体育教師のその言葉に、俺は血の気が引いた。
「まさか俺、酔っぱらってひどいこと言ったとか?」
その時、ドアがノックされた。
「甘泉くん、まだ寝てますか?」
ドア越しに、普段なら嬉しい苦木さんの声が聞こえた。けど、今はなんだか聞きたくなかったぞ。
「おう、起きたぞ。平気そうだ」
「失礼します」
苦木さんが入ってきた。本当に苦木さんがずっとここに居たのだと思うと、俺はとにかく焦った。
「ごめんなさいっ!」
二つの声が重なった。俺と苦木さんの再会第一声は、同じ言葉だったのである。
「え? なんで苦木さんが謝るの?」
俺は顔を上げて、苦木さんを見た。
「だって私、変なこと言ってお酒をたくさん飲ませちゃったから」
「それだけで、いっしょに居てくれたの?」
「それだけじゃないけど。甘泉くんのごめんなさいは、なんだったの?」
「記憶がなくて状況がまだよく分からないんだけど、謝った方が良さそうだったから。
先生の説明を聞いた感じだと、苦木さんにかなり迷惑かけたのかなって思って。先生に説明もしてくれたんだよね?」
「大丈夫だよ。見てたの私だけじゃないし、すぐに分かってくれたから。みんな甘泉くんの心配してたよ」
それを聞いて先生の顔を見ると、先生が頷いた。俺は少し落ち着いた。
「ということは、俺が無罪なのはみんな知ってて、誤解もされてなくて、特に問題はないんですかね?」
俺の質問に、先生は困った顔をした。
「そういう問題はないんだが、からかう奴はいるかもしれないな。――まあ、もうすぐ飯の時間だから、食欲があれば様子見がてら食ってみるか?」
「たしか今日って焼肉ですよね。大好物なんで、食べたいです。ウチでたまに焼き肉やっても、一番安いやつのさらに半額商品の時なんですよ。何かで焼肉屋で食べたりすると、一番安い豚肉ランチでもめちゃくちゃ美味く感じて」
俺の話を聞いた先生は、豪快に笑った。
「なんだそうか、食欲があれば安心だ。おし、先生の分も食えるだけ食って良いぞ」
我ながらどうかと思うが、正直この言葉が一番励みになった。
「私の分もあげる。ちょっとダイエットしてるし」
苦木さんも嬉しいことを言ってくれた。しかし、さすがに苦木さんには遠慮をしたい。
「苦木さん全然太ってないし、修学旅行中くらいはしっかり食べても良いと思うよ。みんなと美味しい物を食べるのも思い出だよ。
変にお腹空かせて体調を崩して、修学旅行が楽しめなかったら勿体ないし。
――今日の俺が体調崩すなって言うのも、なんか変だけど」
俺は言ってて途中で恥ずかしくなって、自分の発言に自分で笑いながら話した。
「ううん、ありがとう」
苦木さんの反応に、ちょっと違和感があった。
つられて一緒に笑ってくれるかと思ったのに、苦木さんは気まずそうにもじもじしながら返事をした。やっぱり、何か迷惑をかけたのだろうか。
結局、食事の時間になるまで、苦木さんはずっと側に居てくれた。
とはいえ、どうも会話は空回り気味。最後の方は「タレは二種類から選べるタイプなのかなあ」などと、焼肉の話ばかりしてしまった。
そのせいか、苦木さんは食事の時間になると足早に去って行った。俺に酒を飲ませてしまった罪悪感で、仕方なく話を聞いてくれていただけなのかもしれない。
代わりにというかなんというか、先生はしっかり食堂まで同行してくれた上に
「良いか、面白がってあれこれ聞くんじゃないぞ!」
と言いながら、ドスンと俺の隣の席に座った。
俺が質問されにくいように、配慮してくれたのだろう。
俺は食堂に行くまで少し不安だったが、意外にも誰もからかっては来なかった。やはり、体育教師が隣で警戒しているのが大きいのだろう。
おかげで俺は、しばらく邪魔をされずに肉を食べることが出来た。
涙が出そうなくらい美味い肉を、タレをたっぷりと付けて食べる。タレがまた、甘口も辛口もウチのやつとは大違いだ。良い舌を持っているわけじゃない俺でも、差が分かるくらい違う。
この時ばかりは今日の失態も忘れ、食事に集中した。
……しかし、何か事件が起きると、どうにかこっそりと聞こうとする男子は必ずいるもので。
仲がさほど良いわけでもない男子に
「肉が余りそうだからちょっと来いよ。茶碗持ってさ」
と言われた時から、警戒はしていた。
そう、ちゃんと警戒はしていたんだ。だけど、変だなと思いながらも「まだ五切れある」という言葉に釣られてしまった。だって、五切れって言われたら仕方ないだろう。
やはり、目当ては俺へのインタビューだったようで、俺が肉を口に入れた瞬間から質問が始まった。
「甘泉、苦木さんとは仲良くなれたのか?」
肉とご飯を口の中に詰め込んでいた俺は、苦木さんの名前を出され動揺しながら、慌てて食べ物を飲み込んだ。
「んぐ、むぐ……。――それなんだけどさ、俺、苦木さんに迷惑かけたのかな? 覚えてないんだけど、なんかちょっと避けられてるような」
「お前さ、悪酔いしちゃってヤバかったぞ」
「え? 俺って、すぐ寝ちゃったんじゃないの?」
「お前が酒飲んだって分かって、先生たちが慌ててお前に水飲ませたりしてたんだけどさ。それでお前、不安になったのか『俺、急性アルコール中毒で死んじゃう?』とか言い出してさ。
苦木さんが近くで心配してたら、苦木さんの手を握って本気で口説き出したからな。大好きとか、生きて帰れたら一回で良いからデートして下さいとか、昨日の部屋着かわいかったとか、色々言って。
えーと、あとなんだっけ……。そうそう、死ぬかもしれないから側に居てって泣き出して。
その後は先生達に連れて行かれちゃったから、俺らは知らないんだけど」
「はあ? 嘘だろ」
待て待て。立て続けに出た新情報に、脳が追い付かないんだが。
「嘘じゃねーよ。多分クラスの半分くらいは見てたぞ」
「クラスの半分って……」
俺は茶碗を置いて、頭を抱えた。さすがに肉を食べている場合じゃなかった。
酔っぱらって苦木さんに絡みまくったら、そりゃあ気まずくもなるわな。積み重ねてきた(つもりの)信頼が台無しだ。
「マジで覚えてねーのか」
「酒って怖ーな」
クラスの男子達が愉快そうに笑った。君達、他人の不幸がそんなに面白いか。
いや待て、今は聞いた話をまとめよう。なんか、俺が無理矢理看病させたとか言ってたな。
「じゃあ苦木さんって、俺のワガママのせいで班のみんなとの自由行動が一切出来なかったの?」
「そうだぞ。看病してもらって良かったな」
隣の席の奴がそう言いながら俺の背中を叩いたが、今の俺には嫌みにしか聞こえない。
「良くねえよ、どうすんだよ。
そういえば先生も気まずそうだったし、最後の方とか苦木さんと目が合わなかったもんなあ」
「何だよ、じゃあ振られた感じなの?」
「それすら覚えてないけど、一生に一度の修学旅行を台無しにして、付き合ってくれるわけないだろ。ダメだ、なんか具合痛くなってきた。先生の隣に戻る」
俺はそう言って立ち上がりかけて……食べ頃に焼けた肉を二切れ、自分の茶碗に乗せて持って帰った。
どうせ嫌われたんだ、今夜はやけ食いだ。
浴場でも、俺は引き続き質問責めにされた。
「なあ、甘泉は苦木さんのどこに惚れたの?」
最初に聞いてきたのは、さっき焼肉五切れで俺を呼んだ男だ。彼は、何故ここまで聞きたがるのだろう。
そういえばこいつ、教室で女子に少女漫画を借りて読んでいたな。恋愛話が好きなのだろうか。
「そういうことはあまり言いたくないよ。言ったら本人に伝える奴が出てくるかもしれないだろ。もうこれ以上の迷惑はかけたくないんだよ」
「やっぱ顔が可愛いからじゃないの? すげえ可愛いよなあの人」
そう言いながら、別のクラスメイトが湯船の中を寄ってきた。
「違うよ。あの人は、俺みたいな奴にも優しくしてくれるんだよ」
俺は即座に否定をした。
「そういや実際、看病してくれたんだもんな。何か話とかしたの?」
「それが、全く覚えてないんだよ。どのくらいの時間寝てたのかも把握してなくて、探り探り話してたら食事の時間になった感じでさ」
「じゃあ案外、本音全開で仲良くなれたんじゃねえの? 押しに弱そうじゃん苦木さん」
「いやー嫌われたっぽいけどなあ。気まずそうだったもん。先生も肉くれまくって、目が優しかったし。今思うとおかしいよ、あの待遇は」
「そっか、お前を連れてった先生達は看病の時の様子とか知ってるんだもんな。既に振られてるっぽいな」
「別に振られるのは良いんだけどさあ、苦木さんにすごい迷惑をかけちゃったことが悲しいんだよ」
「俺らでフォローすっか?」
「そんなことはしなくて良いから、苦木さんの居る場所で二度と俺の話をしないで欲しいよ」
俺は大きく息を吐くと、苦木さんの顔を思い浮かべた。
「……苦木さんも、お風呂で色々聞かれて困ってるのかなあ」
「なんか苦木さんって、そういうの聞かれるの苦手そうだよな」
「そうなんだよ。だから絶対に迷惑がかからないように、誰にも好きって言ってなかったのに。台無しだよ」
「でも、酔ってたんだから許してくれるんじゃないの?」
「酔ってたにしても、告白だけすれば良いじゃん。死ぬかもしれないから看病しろって言い方は卑怯だし、振られて当然だよ。俺の性根が出たんだよ多分」
「お前、マジで死ぬって思ったの?」
「俺、子供の頃に酒が入ったチョコレート食べて吐いた記憶があるから、元々アルコールに苦手意識があったんだよ。だから、飲んだのが酒って分かって先生が集まって来たら、多分パニックになっちゃったんじゃないかな」
俺は天井を見ながら、理由を推測した。
「じゃあそれを苦木さんに言えば良いじゃん」
「もう良いよ、そんなこと言い訳にしかならないよ。迷惑をかけたのは事実だし。
それより、女子グループの話題が分散するように、もう一人くらい男子が告白してくれてたら良いなあ」
俺が何気なく言ったことに、反応した人がいた。
「じゃあ俺、言ってみようかな。俺も好きな人クラスに居るんだけど、彼女がいる奴に惚れてて。しょっちゅうそいつの話をしてきて、話を聞いたり慰めたりするのもそろそろきつくてさ。どうせ振られるなら明日振られとくわ」
「マジ? 俺もクラスに好きなやついるから告ろうかな。同時に振られた方が目立たないよな」
クラスの勉強一位とスポーツ一位が、告白に乗り気になったのだ。
俺は慌ててストップをかけた。
「いや、もうちょっと考えてから告白した方が良いよ」
俺のせいで振られたら責任取れないぞ。
しかし、二人は興奮して話を続けた。
「いや、俺は本当に限界だったから。言いたくないのに諦めんなよとか言っちゃって、電話切ったら泣いての繰り返しで。もう決めた、明日言う。そんなに辛いなら俺を好きになれよって、ずっと言いたかったこと伝えてくる」
「つーか相手、同じ人じゃないよな? どんな人?」
「俺の好きな人、背が高め」
「俺もなんだけど。あれ、同じ人か? 背が高めの人って三人しかいないよな?」
「え? 四人居るだろ? 俺四人換算で言ったんだけど」
「あ、お前の好きな人分かったかも!」
「言うなよ!?」
「辛石さんだろ」
「言うなってんだろ!」
浴場にでかい笑い声が反響した。
俺は笑いながら、風呂のお湯を顔にかけて涙を誤魔化した。
俺は浴場を出て荷物を部屋に置くと、ロビーのソファーで体の火照りを冷まして、自分を落ち着かせた。
頭の中に色んな気持ちがグルグルしているし、何時間でもここに居たいくらいだった。
まあ、あと十分もしたら消灯時間になるので、嫌でも部屋に戻らなくてはならないが。
「あ、甘泉くん発見」
背中から機嫌が良さそうな声が聞こえて、ドキリとした。
振り向く前から分かる。大好きなあの人の声だ。
「甘泉くん、こんばんは。今夜も会っちゃったね」
苦木さんは、そう言って俺の前のソファーに座った。しかし、苦木さんにはこのソファーは大きすぎるようで、体が後ろに倒れ込んでしまった。小さく悲鳴を上げてから、慌てて浅く座り直す苦木さん。
苦木さんのあまりの愛らしさに、俺は笑いを堪えるのが大変だった。
本当に可愛いなあ。卒業するまで、苦木さんとずっと友達で居たかったんだけどな。
「こんばんは。苦木さん、今日は迷惑かけて本当にすみませんでした」
「私も、お酒を飲ませちゃってすみませんでした。――なんか、甘泉くんが起きた時みたいだね。あの時も二人して『ごめんなさい』って」
そう言って、苦木さんは思い出し笑いをした。俺も、精一杯笑顔を作った。
「……甘泉くん、ここで何してたの?」
「なんだか部屋に戻りたくなくて、ボーッとしてた。苦木さんは?」
「私はね、なんか急に呼び出されて、あっちの端っこの方で告白されちゃってた」
そう話す苦木さんの頬は、微かに赤い。
「えっ……」
「緊張しちゃった。クラスも違うし、よく知らない人で。前に、私が落とし物を拾ったらしくて――」
苦木さんはゆっくりと話を続けた。
話し方が少し興奮しているように見えるのは、まだ動揺しているせいなのか、それとも……。
俺は、苦木さんがこの話をわざわざ俺にする理由を考えていた。
その人と付き合うことになって、もう俺とは気軽に話せない。――そう言われてしまうのだろうか。
「それで、なんて返事をしたの?」
答えが待ちきれなくて、俺は聞いた。
「ごめんなさい、好きな人がいるから。……って」
「好きな人いるんだね」
「あー、それも忘れてるんだ」
口を尖らせて怒ったフリをしても、苦木さんは可愛かった。
「うわ、もう聞いてたんだ。ごめんね、寝る前のことは殆ど記憶になくて」
またやらかしてしまった。俺は今日、何度ミスをしたら気が済むのだろう。
「もー、しょーがないなー甘泉くんは。
酔ってる時に甘泉くんが言ってくれた言葉、あまり信用しちゃダメなのかな?」
苦木さんは座ったまま上半身を俺に近付けて、からかうように微笑んで俺を見上げた。
「発言にもよるけど。例えばどういう言葉?」
「……大好き……とか?」
気まずさからか、苦木さんは小声になった。
「それは本当。大好きです」
昨日までどうしても言えなかった言葉が、何故か簡単に言えた。素面で苦木さんへ告白した勇気ある男子への、男としての対抗意識もあったかもしれない。
言ってみると、気持ちが楽になった。自分がこんなことを言える日が来るとは、思ってもなかったな。
「そうなんだ……」
苦木さんは照れて、数秒うつむいた。
「デートしてって言ったのも、本当?」
「デートしたいけど、苦木さんには好きな人がいるんだよね。俺、大丈夫だよ。友達で十分幸せだから……」
俺は、涙を堪えながら無理矢理笑顔を作った。
「あのね」
苦木さんは悪戯っぽく笑った。
「甘泉くんと今会えたのは本当に偶然だけど、昨日の夜は……ちょっとわざとウロウロしてたんだよ?」
「わざと?」
「うん。寝る前に会いたいなって思ってたから」
そう言うと、苦木さんは立ち上がった。
俺は一瞬、苦木さんが何を言ってるのか分からなかった。
「え?」
直後、頬が紅潮していく。耳が変になったわけじゃないよな。
苦木さんの目は綺麗で、今すぐに抱きしめたいくらいに輝いている。
「――おやすみなさいっ! また明日ね!」
苦木さんは、とびっきりの笑顔を俺の目に焼き付け、パタパタと走り去って行った。
この日から俺と苦木さんは、時に笑い、時に怒り、甘苦を共にして過ごしていくことになる。
ある日は、デートで失敗をしながらも苦難を乗り越え、甘い思い出が出来た。
またある日は、苦木さんに甘えてばかりの自分が情けなくなって、苦悩した。
その最初の一日。苦くて甘い、始まりの日。俺はこの日をいつまでも忘れない。
……ちなみにこの翌日に「約束通り俺も振られてきたぞ」と泣きながら話すクラスメイトを前にして、何と言えば良いのか非常に困ったわけだが、それはまた別のお話。