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アッヘンヴェルバッハ公爵家領地キャンベル、アッヘンヴェルバッハ邸。そこで働く使用人は仕えている主人の息子の変わり様に戸惑いを隠せないでいた。
ドッスンドッスン、ドスンドスン。ズドン。
「今日も随分煩いわ。どれだけ暴れてるのよ」
「暴れているんじゃなくて、運動をしているらしくてよ?」
「え!? 嘘よ、絶対嘘! そんな事ある訳ないわ!」
「でも侍女長が」
使用人たちは隠れもせずに、言葉を連ねる。
あの方は三日坊主、どうせ直ぐに静かになるわ。けれどそんな事もなく、連日うるさい音が屋敷中に響き渡る。
「部屋の掃除に向かった子がね、坊ちゃんがスクワットしていたって……でも、気持ち悪かったって」
「あの体で今更運動とかねー」
ケラケラと彼女たちの話のネタは尽きない。
「おやつも要らないと宣言したらしいわ」
「そうなのー?」
「食事も野菜を出せだってさ」
「毎日毎日飽きもせず、煩いったらないわ」
屋敷に響く重たい音に使用人はげんなりしていた。用事でレギュラスの部屋を訪れた使用人は、本当に痩せているのかと首を傾げる程の些細な変化。
一ヶ月二か月、月日は流れていく。
「外でやってくれませんかね?」
「ダメよ、あの方を外に出したりしたならきっと逃げるに決まっているわ」
「そうよ、そうよ。あの方はそう言う方よ」
そして遂に三ヶ月が経ち、レギュラスは部屋を出てもよいと許可を出されたその日に、食堂に現れた。
それを見た使用人はギョッとした。
先日から話には聞いてはいたが、本当に部屋からあの方を出してしまったのかと、身を震わせる。
レギュラス・フォン・アッヘンヴェルバッハ。
その子供は、見るからに醜かった。縦にも横にも幅が広い。
昔から仕える者達かしてみれば、実母がご健在だったころは可愛げがあったが、彼女が床に伏せ亡くなってからは人柄がガラリと変わった。
子供ながらに鋭い目つき、太る前は整った顔立ちだったが、今や見る影もなく。
幼いレギュラスの写真を見た者は、母親にそっくりだと口にする。
無理難題な我儘ばかりを口にして、気に入らなければ喚いて怒鳴って暴れて手のつけようがなかった。
彼のせいで屋敷を離れた者は数十人。
誰かの不幸を声に出して笑い、成功を目前としてものを踏みにじる。悪逆非道な子供。
心身ともに醜かった。
「あれよ、あれがレギュラス様」
何年も前から働いている侍女は、新たに入った侍女にそう囁いた。
「まぁ、本当に太っているんですね。あんな人、初めて見ました」
悪気もなく口にする。だって本当に噂通りの見た目の持ち主だったから。
「あーあ、やんなっちゃうわ」
先輩はそう言ってグチグチと愚痴を募る。新人の彼女もその言葉にそうですねと、相槌を打って仕事に取り掛かる。
レギュラス様が部屋からお出になる際、これからはグレン様がお付きになるのだと聞かされた。
――グレン様もおかわいそうに。誰かが本人に伝えた。
けれど当のグレンは、平気のへの字。仕事ですからと笑うだけ。
「初めてお会いした時は、幻滅したけど。今じゃすっかり人が変わった様に大人しいですよ」
グレンはそう口にして、仕事に戻る。
――ケルヴィン様がレギュラス様の家庭教師になったのですって、おかわいそうに。
誰かがケルヴィンに伝えれば、彼は顔を顰めさせた。
「君にはそう見えているのか」
たったそれだけの一言。
使用人たちは段々と首を傾げ始めた。
「ねぇ聞いて、今日レギュラス様におはようございますって、あ、挨拶をされてしまったわ! どうしましょう! きっと明日には私、クビなんだわ!」
「私もよ、いつもご苦労様ですって! どうしましょう、どうしたらいいのかしら!?」
「落ち着いて皆さん。レギュラス様にそんな権限はありませんから」
「お坊ちゃん、どういう心境の変化かしら? 不気味だわ」
そう、レギュラスの態度はまるで、普通の人のようで、使用人たちは困り果てた。
なんてたって、彼は我儘でずる賢くて、生意気で、人の気持ちを考えない性根の腐った――……。
「嗚呼、本当に、まるで人が変わったようだわ。本当にあの方はレギュラス様なのかしら?」
「きっと別人よ」
「でも……」
「あんな太った姿、レギュラス様以外ありえないわ」
彼女たちは戸惑いがちに現状を受け入れる努力を始めた。けれど、いつ彼が本性を露わにするのか気が気じゃなかった。
「本当に、別人だわ」
その小さな呟きが終ぞレギュラスの耳に届いてしまった。
ハッと気づいた時には遅く、レギュラスは口にしてしまった彼女を凝視し、彼女に近づいた。
「も、申し訳ございません!! ああ、どうか、御許しを!!」
「あ、あの本当に、俺のことが、別人だと、思いますか!?」
「そんなことはございません。レギュラス様はレギュラス様でございますとも。そうお変わりなく!」
「え!? でも今、別人だって」
「そんなこと御座いませんとも。滅相もございません。過ぎた事を申しました」
「そ、そっか。ははっ……うん。そうだよね、こんな姿じゃあ」
レギュラスは悲しそうに目尻を下げる。
「ごめんなさい、仕事の邪魔をしてしまって」
レギュラスは彼女に謝り、その場を後にする。その後姿は何故か物寂しく、けれど横に控えるグレンは背筋を伸ばせとレギュラスの背中をひっぱたいている。
彼女は戸惑った。過去の出来事を思い出し、けれど本当に人が変わったようだとその場を後にした。
あの方が、簡単に人に謝るだなんてそんなこと。
侍女はくらりとその場で倒れてしまった。
段々と屋敷の雰囲気は変わっていく。
食わず嫌いだったレギュラスが、好き嫌いせずに食べるようになった。毎日挨拶を交わしてくれる。
いつもの人を小馬鹿にした笑い方をせず、屈託ない笑みを浮かべる。
「なんだか顔つきが別人みたいだ」
従僕がそんなことを口にする。
確かに、レギュラス本人なのか疑うほどの姿。
いつもの鋭い目つきではなくどこか優し気な目元。なんだか眼も大きくなったように感じる。
雰囲気が、態度が、もはや別人だった。
使用人たちの中にはそんな彼を受け入れる者、未だに疑いを抱く者と別れていく。
レギュラスが屋敷に送られて約七ヶ月。屋敷中に報せが周る。
――レギュラス様がお倒れになった。
心配する声がチラホラと上がり、医者は勿論、グレンやケルヴィンにまで彼の容体を訊ねるもので絶えなかった。
医者は「無理がたたったのだ」と口にし、彼が好きな料理を出してあげるように、彼が今後無茶をしないように皆で注意をしてやるようにと説明する。
使用人の一人が瀉血をしないのかと医者に訊ねたが、首を横に振り、薬だけが用意された。
「ねぇ、ケルヴィン。よく枕の下にテキストがあるだなんて分かったね。ベッドの下は俺でも分かったけどさ」
グレンは腕の中に箱を抱えている。その中には各教科のテキストやダンベル、ランプなどの品々がこれでもかと納まっていた。
それはレギュラスがベッドの下に隠していた道具。これらを使って毎晩遅くまで勉学に励み、体を動かしていたことは明白。
ケルヴィンは数冊のテキストを片手で持ち歩く。
「アイツの行動は愚直だ。なんだ、食事を吐いていた事までは気付かなかったが……」
「そこまで必死だったとは、俺も見誤ったよ」
何がそこまで彼を変えたのか。屋敷中その話題で持ち切りだ。
かく言う二人も、初対面の時の印象とは全く真逆の想いを抱いている。なんとも傲慢で高飛車な、世間知らずだが狡猾な子供。
初日で逃げ出すわ、盛大に嘔吐物を吐かれ、グレンに非があるとはいえ第一印象は最悪。その後はレギュラスの様子が落ち着きを見せた頃から教育に入る様に言い付けられ、三か月間待った。
三ヶ月、レギュラスに好き勝手させて様子を見ていた。
その三ヶ月でまた違った印象を抱かされた。使用人たちから様子だけを伝聞し、拍子抜けしていた。
「今は良いように見せてはいるが、気を抜かないように」
すれ違う使用人全員にそんな事を言い聴かせられた。
公爵からの命が届き、いざ再び会ってみれば、なんとも微妙な評価を受けた。
ケルヴィンが見ることとなる勉学に関しては、頭を抱える程の知識のなさ。けれど徹底的な指導をはじめれば、乾いた地面が水を吸い込む様に記憶していく。貪るように貪欲に知識を求めた。
分からないことは、分かりませんと正直に口にして説明を求める。
身体を動かすことは勿論、屋敷に送られ目覚めた日から必死に物事に取り組み続けていた。
食事の作法、礼儀作法、貴族として至極当然の身の振り方。それらを指導するグレンは、レギュラスがてんで理解していないことには驚きを隠せずにいた。
これがあのアッヘンヴェルバッハ公爵の息子だとは疑った。
まるで、習いたての子供だ。
けれどただの子供と違って頭脳がある。レギュラスは指摘された事を次に生かす。
見る見るうちに、正しい振る舞いを覚える姿を手放しで褒めた。
ケルヴィンとグレンの中ではレギュラスの評価は上々だったが、昔から仕えていた使用人たちはそうでもないようだった。
没収した中身に視線を落とし、グレンは呟く。
「一体何がレギュラス様をそこまで必死にさせるんだろうね?」
「さぁな。私たちはただ与えられた仕事を全うすればいいだけだ。余計な詮索はするなよグレン」
「はいはい、はーい」
当分は仕事なしだが、これからの授業内容は変更しなければならない。
二人はそれぞれの部屋に戻った。