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――時は流れて早三ヶ月。
「やった、やったよ!! 三十㌔も落ちたんだ!!」
乗った体重計は日に日にその数値を減らしてくれる。一ヵ月十㌔のペースで体重が減っていると言うこと。このままのペースでいけば平均と言われている体重までそう遠くない。
「すごい、こんなに体重が減ったのは初めてでございます」
「俺も初めてだよ!!」
屋敷の使用人も、レギュラスの体重が減ったことの話題で持ちきりだった。あの三日坊主で我儘な、我慢を知らないお坊ちゃんが今日まで減量を続けた事。それ自体がもはや話のネタ。
「心なしか体が軽く感じるなー!」
部屋もベッドも広くなった気がする。今日はゆっくり体を休めて、明日から再び始めよう。
「って、何をすればいいんだ?」
シュベルツは今日の今日まで運動を続けていた。寝ても覚めても身体を動かして、時間があれば即運動。
そんな生活だっただけに運動以外の何をすればいいのか分からない。
「お貴族様って、何して過ごすんだ?」
自分が十五歳だったころは、そりゃあもう家の事を手伝っていた。弟や妹たちの面倒に、まき割り水汲み、掃除、洗濯、食事作り。畑を耕し、裏山に山菜を取りに行き、お金を少しでも稼ぐためにどんな仕事も率先してやった。
小さな村だったからあまり働き口はなかったが、それでも毎日がいっぱいいっぱいだった。
充実していた。
嫌になる時もあったよ、貧乏暮らしなんて。それでも家族がいたから、働き手なんて長男の自分ぐらいしかいなかったから。
もう三ヶ月も経ってしまっている。
「元気かなぁ、お母さん」
何もしていないと何かを考えてしまう。
主に家族の事、シュベルツの事。そしてレギュラスの事。
自分がレギュラスの体の中にいるという事は、レギュラスもシュベルツの中にいる可能性が高い。
そのレギュラスについてだが、使用人たちから詳しく聞くことに成功した。
小さい頃から我儘で、性根の悪い、狐のように狡猾な、蛇や猫のように執念深い。なんとも気味の悪く意地汚い子供だった様だ。
何か気に入らないことがあればすぐに家の名を持ち出しては怒鳴り散らす。周囲を威嚇する虎の威を借りる狐。
そんな人物が自分の身体に入ったかもしれないという事態に、何も問題が起きていないことをシュベルツはいつも神に祈り続けた。
「あの、何かする事ってありませんか?」
シュベルツは部屋にやって来た執事に訊ねる。
手持ち無沙汰。空き時間に何をすればいいのか分からない。
「なにか、とは?」
「いや、あの……なにか、時間を潰すようなー」
そう、何かだ。貴族が普段何をして過ごすのかさっぱりわからない。運動以外の何か、シュベルツは固まる。
けれど執事はニッコリと微笑んだ。
「では、勉強をしましょうか」
「勉強……ですか?」
「はい。実は旦那様より言い預かっておりましたが、なにせ今日まで自主的に減量を続けておいででしたので中々言い出せず」
「……はぁ」
「では早速、教材を運ばせて頂きますね」
執事はそう言い残して一度部屋から出て行った。
勉強。その言葉を聞くのはいつ振りだったろうか。
文字や数字を習う為、隣村にある小さな教会に通ったのはまだ十歳前後。あまり家に居ない父親が度々手紙を送ってくることがあった。
母親が字の読めない子供に変わって、文字をなぞりながら手紙の内容を読んでくれたから、自分でも読めるようになりたいと時間を見つけては教会に通い詰めた。
たまに家に帰ってくる父親はガサツで大雑把。けれど、その字はだけは異様に綺麗だった。
少しだけ思いふけっていると、部屋に教材が運ばれてくる。
沢山の本に、インクにペン。羊皮紙諸々。
「では、始めましょうか。此方が今日から坊ちゃまの指導に当たります――」
「やあ」
「あれ、アナタは……たしか。ケルヴィンさん?」
「ほお、覚えてくれていたのか。光栄だな」
「いやぁ、まぁ」
ケルヴィン・ヴェルマ。彼はシュベルツがこの領地に送られるときに、レギュラスのお目付け役として一緒の馬車に乗った人物の一人だった筈。
軽い自己紹介を交わしている間に、執事は部屋から去ってしまう。
「あの時はどうも、狭い場所で吐き散かしたことで。御気分はどうかな?」
「い、いやあ! 当時はどうも!?」
あぁ、そうだった。盛大に吐き散かしたんだった。それで四日間も眠り続けて、あの嘔吐物の始末についてよく聞いていなかった。そもそも今の今迄忘れていた。
「すみません、当時のことはあまり記憶になくて」
「あぁ、そう。中身のない謝罪はいらない……が。なんだい君、少し痩せたのかい?」
「ええ! 分かりますか! それはもう三十㌔ほども!!」
「さんじゅっ……君、今体重幾つだい?」
「あー、えー、120㌔ほどでしょうか、ね?」
ポツリと体重を口にすると、ああそうなの。と、かなり引き気味な視線を向けられた。
「アッヘンヴェルバッハ公爵直々に君の教育係を言い渡されていてね。主に座学。じゃあ早速。君の学力がどんなものかを調べるから試験をする」
「試験……ですか?」
「そうだとも、今日は三科目。文学、数学、歴史。どれも中等部の卒業レベル程度」
時間は有限。さぁ、開始だ。
ペンとインク、試験用紙を渡されて。渡された。
ペンの使い方は分かる、けれど試験だって?
突然のことにシュベルツは頭を抱えた。勉強なんて読み書きと数字を少し噛んだ程度。
目の前には小難しい言葉で書かれた問題文ばかり。
取りあえずやってみるか……。シュベルツはその問題文に一生懸命、目を滑らせた。
なんて悪夢のような時間だっただろうか。シュベルツは意気消沈し、ケルヴィンは頭が痛いと×印だらけの解答用紙に溜息を吐く。
「……先が思いやられるぞレギュラス」
「……おれも、そうおもいます」
二人は盛大に息を吐く。
「今日持って来た教材を使うのは当分先だ。レギュラス、君には勉学の基礎という基礎を叩き込むから覚悟する事だな」
「あ、はい」
まさか二十一歳になってこんな試練が待ち構えていると誰が思うか。
シュベルツは問題の難しさと自身の頭の不出来さに涙をほろりと流した。
***
「まったく、事前に渡されていた資料とは大分誤差どころじゃない。こんなに不出来とは聞いていないぞ」
ケルヴィンは頭を悩ました。こんな残念な回答は初めて見た。まるで小等部に上がる前後ほどの拙い答えばかり。
元々公爵からはレギュラスの成績表を渡されており、そこまで馬鹿ではないと思っていたが、実際の試験結果はボロボロも良い所。
「まさか、カンニングでもしていたのか? なんとも小賢しい奴だな」
崇高な学園で問題ばかりを起こし続けた、なんとも浅墓な子供。
「だが、字だけは認めてやるよ」
綺麗に形よく書かれたその文字だけは、実に誠実さが滲み出ていた。ケルヴィンは鼻を鳴らして、新たなカリキュラムの作成に取り掛かった。