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家族に見送られ、故郷の村を出て早半年。
シュベルツ・ロットー、二十一歳独身は九人家族の長男であり、蒸発した父親のせいで家計が周らなくなった家を支えるため、都へと出稼ぎに出た青年だ。
今日は久々に故郷へと戻る事を許可された日であり、帰りを待ちわびているだろう家族に都で流行りのお菓子やちょっとしたアクセサリーに衣服なども持って帰ってやろうと、鞄に品々を詰め込む。
そして最後の確認の為、懐に仕舞ったこの半年で貯めたお金を確かめる。不備はなし。
準備は万端。シュベルツは荷物を担いで下の階に降りた。
「お、もう行くのかい?」
「気をつけてな、シュベルツ」
「久々に家族に会えるなんて羨ましいなあ」
「若いのに大変だな、お前も。ほれ、道中に食べな」
「わあ! バケットサンドだ! ありがとうございます! 家族に会えるのなんて久しぶりで……じゃあ行ってきます!」
仕事仲間に見送られ、シュベルツは宿を出た。
思いのほかずっしりと重くなってしまった荷物。けれどこれは自分なりの家族への愛だ。きっと、いいや絶対みんな喜んでくれる筈。
さあさ、予定の便に乗って家族に会いに行こう。
意気揚々と曲がり角を曲がったら、貧相な少年とぶつかった。くすんだ金の髪に、澄み渡った空の青を映したかのような瞳を持った少年だ。
「うっわ、大丈夫ですか!?」
倒れそうになる細身の彼の腕を取り、倒れるのを防ぐ。細身の彼はなんともボロボロな衣服に身を包んでおり、掴んだ腕も力を籠めたら折れてしまいそうに細い。
「た、助かりました。すみません。大丈夫です。すこしぼうっとしてまして……」
「良かったぁ……こちらこそ、俺が余所見をしていたばかりに。怪我はありませんか?」
「大丈夫ですよ。あなたが助けてくれましたから」
「本当に、すみませんでした!」
「そんなに謝らないで下さい。僕も余所見をしていたんですから」
「だけど……そうだ! 何かお詫びをさせて下さい!」
シュベルツは少年の手を握り、力強く言えば、少年は困った様に笑う。
「是非っ!」
「ええっと、そんなに言って下さるんでしたら……水を一杯貰えないでしょうか。昨晩から何も食べていなくて」
「ええ、どうぞ!」
荷物の中から水筒を取り出して、少年に一杯注ぐ。
一杯の水を、少年は喉を鳴らしてあっという間に飲み干してみせた。良い飲みっぷりだ。昨晩から何も食べていないということはお腹を空かせているということ。きっと水だけでは足りないだろう。
鞄の中を漁り、先程仕事の仲間の先輩から貰ったバケットサンドを差し出す。
「良かったらこれもどうぞ」
「えっ……い、いいんですか?」
「ええ、勿論! まだありますから!」
「あ、ありがとうございます。まさか、こんなに親切にしてくれるなんて」
「いいえいいえ」
少年はバケットサンドを受け取って、顔を綻ばせお辞儀する。
「本当にありがとうございます」
「いやいや、そんな~。そうだ、これからどちらへ?」
「実は……大聖堂に、お祈りをしに」
二人は同時に顔を上げて同じ方向を見る。そこには遠目から見てもはっきりと目視できる豪壮な白亜の建物はきっと王城と引けを取らないであろう。
この街に住む者達にとっての心の拠り所。神との対話の場。シエラリカ大聖堂。
「でしたら……これと、これを」
鞄から白い布と数枚の硬貨を取り出して、今度はそれを差し出した。
「これは?」
「祷り布と、賽銭用です!」
「いいんですか? こんな良い物まで見ず知らずの僕のような者に」
「お祈りに行くのですから」
大聖堂まで祈りに行くという事は何か大きな祈りを捧げると言うこと、神の御前でその姿ではあまりにも――。
シュベルツは母親に託された祷り布を少年に預ける。
「……なんとお礼を言っていいか。この出会いに僕は感謝いたします。あなたのその御心にシェヘラザードのご加護が訪れんことを」
「貴方にも、エル・シエラ」
「あのっ! この祷り布ですけど、大聖堂の方に預けておきます!」
「えっ……なるほど。それはいいですね!」
「合言葉を決めましょう。祷り布があなたの下にちゃんと届くように」
「はい!」
二人は合言葉を決めると、別れの言葉を交わし互いの進む方向へと別れた。
シュベルツは家族に会えると言うそう遠くない近い未来を想像し、頬を緩め再び曲がり角を曲がったその瞬間、今度は大男と正面衝突し額を何かにぶつけてしまったのか、そのまま意識は遠のいていくばかり。
意識が浮上し、目を開いたその光景にシュベルツは目を瞬かせた。
なんとも豪勢な天井だ。ほんっとうに豪勢なもので物凄く混乱して頭の中が白くなる。
見知らぬその景色に戸惑いながらも起き上がろうとしたその途端、自身の身体がとてつもなく重たいものであることに気付く。
頭を軽く浮かせそうしてようやく、目に映った自分の四肢に驚いた。何だこれは何なんだこれは――ッ。
混乱して辺りを見渡すと丁度いい所にあった姿見の前に、くそったれた重たい図体を引き摺り立つ。
やっとのことで鏡に映ったその姿に、シュベルツは遂に声を洩らした。
「は、はああぁ――?」
なんともでっぷりとしたその体形。弛んだ頬に、弛んだ腕、だるんだるんな腹に弛んだ足。
脂肪という脂肪に全身を包まれた、なんとも贅肉だらけのみっともなくはしたない姿。
試しに頬に触れて引っ張ってみれば伸びる伸びる。
「な、なんじゃこりゃあ……」
誰だ、これは一体誰なんだ。
声ももはや自分の知る声とは別物で、しかし鏡に映った自分の口と音声はばっちり合っている。
この顔、何処かで。
シュベルツはよくよく顔を観察し、そうして思い出した。
「……あの、大男だ」
気を失う前にぶつかって来たあの男だ。間違いない。
この男が俺にぶつかって来たんだ。なのに何が如何してその男が此処に居て、自分も此処に居る?
この男は余所見をして走っていたんだ。そのせいで自分は、気を失って……ナニガドウシテコウナッタ??
「し、信じられない!」
この状況が全く一切理解できない。
シュベルツは鏡に映った己の姿を凝視し続け、呆気に取られていた。しかしそれも束の間、バンッと音を立てて部屋の扉が開いた。
「起きたのか、レギュラス」
そう口にしたのは扉から入って来たなんとも貫禄のある男性。厳つく険しい面もちで、銀色の髪に濃い緑色の瞳。
その男性はこっちを見てそう言った。
レギュラス。レギュラスとは一体誰だ。
「お前には言いたい事が山ほどある。お前がこれまで起こした数々の不祥事、私の耳に届いていないとでも思ったか?」
「え、あ」
カツカツと靴音を鳴らしながらその男性はこっちに近づき、遂には目の前に立たれた。
「話を聞いているのか、この馬鹿息子!!」
「ひぃ!?」
唾が飛ぶような距離で怒鳴られた、いや実際に唾が飛んできた。
何なんだよこの人は、今までで出会ったどんな人よりも怖い顔をしている。街の破落戸なんかよりよっぽど怖い。違う、恐さのベクトルが違うんだ。
この男性は厳つい面もちながら、気品がある。そう、まるで――貴族のような。
「まさか、領地に送る馬車から逃亡するなどとは思ってもみなかった。よりにも市民に危害を加えるとは何事か!!」
「え、あ、あのっ」
「お前には失望した。いくら家の名に泥を塗れば気が済むのだ?」
そんな事を問われてもシュベルツは何も返事を返せない。家の名だの馬車から逃亡だの、市民に危害を加えただって?
全部さっぱりだ。自分はこれから家に帰らねばならない、家族が待っているのだ。その為に今日まで汗水垂らしてどんな仕事もこなしてきた。母の為に、弟と妹たちの為に。
家族が、己の帰りを待っていてくれている。
シュベルツは思い切って大声を出した。
「あ、あのッ!」
「……なんだ、レギュラス」
「貴方様は、どちら様でしょうか?」
シュベルツのその質問に、男は肩を震わせてついにはその拳を振り上げた。
「……こっんの、愚息があ!!」
その拳はブレることなくシュベルツの頬を殴りつけた。
シュベルツの巨体は見事吹き飛ばされ、床に転がる。
「嘆かわしい、情けない……いいや、これ程までの怒りは初めてだ。どれ程親を侮辱すれば気が済むのだ!! バーナード、今すぐ馬車の手配だ。施錠を忘れるな。この愚か者を今度こそ屋敷から追い出せ!!」
「かしこまりました。旦那様」
男の横に控えていた黒い燕尾服に身を包んだ初老の男性は、頭を垂れ部屋を出ていく。
「レギュラス。今度同じ真似をして見ろ。次はないぞ」
男はそう言い残して部屋を出ていく。
シュベルツはその一連の流れを、頬をおさえて見守る事しか出来なかった。
部屋の扉が閉められ早数分。シュベルツは立ち上がり、今一度姿見の前に立つ。やはりそこにはデブが居た。こんなデブ初めて見た。
「何を食っちとったら、こんな体になるんだっべさ」
つい、お国言葉が出てしまう。都にきて標準語は覚えたが、気を抜くといつもこれだ。
だっるんだっるんな全身にシュベルツは酷く落胆した。
確かにこの姿は嘆かわしく情けない。もう穴があったら入りたい程恥ずかしい、こんな体が入れる穴があったらの話だが、兎に角醜い。ドン引きだ。
「そう言えば、銀髪に緑の目……さっきの人と同じやんか」
あまりのデブさに気付かなかったが、先程の男性と同じ髪色、同じ目の色。
黒い燕尾服の初老の男性はまるで話に聞く執事のようで、その執事のような人は旦那様と男を呼んでいた。
「馬鹿息子、愚息……だんなさま。いやまさか」
あの厳つい男性の息子が、これ? こんなデブ??
「いやいやいや、だってあんな綺麗な右ストレートをする人の息子が、こっれ!? ありえないないない、ないですってからに!!」
そう、旦那様のあのポージングは素晴らしいものだった。シュベルツは昔から格闘技などを好み、故郷の村ではちょっとした大会で独学ながらも準優勝したほどの実力の持ち主だ。
素人目から見ても、あの足の動き、腕の動きは目を見張った。
「なんて一切の無駄のない動き」
惚れ惚れするとも、殴られた頬は痛かったが目の前であの軸のブレない動きを見れた事の方が何よりも得だ。ポジティブなことを一つでも考えられないとやっていられない。
シュベルツは現実逃避をやめて改めて考えだす。
「そっれにしても、もしかしてだけど、俺。入れ替わってるんか? いやいや、そんなまさか人と人とが入れ替わるなんて」
これが夢であるならば早々に目覚めて欲しい。だが殴られた頬の痛みが現実だと教えてくれる。
重たい図体を引き摺り今度は窓辺に移動する、この体ほんっとうにおっもい。重いったらありゃしない。重さにげんなりしながら、その窓から見えた景色にシュベルツは目を見開く。
眼下には豪勢な広場が広がっていた。
だって噴水もあるし、噴水があるんだよ。
「こんな広場、初めて見た……」
外の景色から視線を外し、改めて部屋の内装に視線を向ける。内装も大変豪華で、シュベルツは見なかったことにして部屋の外に出ようと扉のノブに手を掛けた。
しかし扉は開かない。
鍵を掛けられてしまっている。
「そう言えば施錠がどうのって……ほんとうかい」
ガチャガチャと何度か挑戦してみるも、扉は一向に開くことなく。シュベルツはいそいそと椅子に座ろうと思ったが、椅子が壊れてしまいそうで寝台の隅に腰を下ろした
「落ち着け、落ち着くんだ。シュベルツ・ロットーよ。そうだ、俺はしうへうぅおぅどぅ……だ?」
あれ、おかしいな?
シュベルツは突然舌が周らなくなったことに首を傾げる。
「シュベルツ・ロットー、シュベルツ・ロットー……言えるよな?」
首を傾げてもう一度。
「俺はじっうべーうおーどん……だ」
口が上手く動かない。ジッウベーウって誰だよ。こう、口の内側、唇だろうか、そこを何かに縫い付けられた様に、動かせない。もごもごとなってしまう。
舌が上手く回らない。
自分の自己紹介をしようとすると、それを何かに邪魔される。
「なにが、どうなってるんだ?!」
シュベルツは頭を抱えた。
一人でいると不安になる、身体が入れ替わったなんてそんな物語のようなこと、ありえない。
助けを求めて扉を叩くも誰も来やしない。
試しに「自分はレギュラスじゃない」と言ってみるも「自分はレギュラスじうごご……」と、ただのレギュラスの自己紹介になってしまった。
刻々と時間ばかりが過ぎていく。
「情報をまとめよう。あの厳つい人がこの体の持ち主、多分レギュラス君の父親だ。以上……」
たったこれだけの情報、何の進展もなし。
シュベルツが頭を抱えた直後だった、扉が開き先程の燕尾服の初老バーナードが現れた。
「馬車の支度が出来ました。レギュラス坊ちゃま、どうぞ此方へ。これ以上の抵抗はお控えください」
「え、あ、あのバーナード、さん?」
「はい? 坊ちゃま。どうぞ普段通りバーナードと及び下さいな」
「え、いや、俺の名前はレギュラスじうごごご……」
レギュラスじゃないと言い掛けて口が縛られる。なに突然の自己紹介なんてしちゃってるんだ。バーナードさんなんて「存じております」なんて返事までくれちゃうし。
結局シュベルツはなんの抵抗も出来ず、言われるがまま重たすぎる肉体で廊下を進み階段を下り、玄関まで大人しく歩いた。