アリス
空が碧い、なんて当然のことだと思っていた。
☆
羽根のような白い月が碧い空を透かして薄く懸かっている。霙じょうの雲が、時折、その月を隠す。流れてゆく雲。ぼくは白い月の姿を見つけようと、懸命に睛を凝らした。
「何、見てんの」
「月」
「朝なのに?」
「朝でも月はあるんだよ。ほら」
「見えない」
妹の冴はそう云って、ぼくの腕を引っ張った。
「行こう。月なんて飛行機に乗ってからでも見られるよ」
ぼくは妹に引かれるまま歩いていった。
空が碧い。碧い。薄い月が雲の中にまぎれ、スッと溶けてゆく。
ぼくの家族は夏休みになると、決まって南の島へ旅行に出かける。父と母と妹とぼくの四人でだ。妹とは血が繋がっていない。父ともだ。ぼくが小さい頃、子連れ同士で再婚したのだ。珍しくもない話だが、血の繋がらない家族の結束を深めようと、毎年、こうしてバカンスに行くことにしたらしい。もう十年近くも続いている。そろそろ家族で旅行なんて恥ずかしい歳だが、飛行機は嫌いじゃない。
飛行機から眺める空が好きだ。空はいい。碧くて、大きくて、宇宙と繋がっていて、無限だ。夜になれば、地上で見る時の倍以上の数の星がちかちかと瞬く。その数と輝きの強さに圧倒する。星が近くて手に届きそうで、胸がどきどきする。空気が澄んでいるせいなのか、星の瞬きもキラリと冴えて見える。船のように浮かんだ月が夜の海を渡ってゆく。キラキラ光る粒は水の泡。幻想的な光景だった。童話に出てくる世界にあるような、夢の中の世界にあるような、そんな光景だった。
ぼくはいつも窓際の席を選んだ。誰も文句は云わなかった。妹はぼくの隣であれば何処でもいいし、父と母はぼくが普段何も要求しないせいか、この唯一の我儘をすんなり聞き入れてくれた。
「お兄ちゃん、遅れるよッ」
妹は歳が一つしか違わない。正確に云えば八ヶ月だ。妹は誕生日が来て、十四歳になった。冬になるまではぼくと同じ歳だ。
妹は覚えているだろうか。ぼくたちが家族になった日のことを。父に連れられ、初めてぼくの前に現れた時のことを。彼女はぼくより年下のはずなのに、ずいぶんとお喋りで、ませていたように思う。母は、女の子の方が成長が早いから、と云って笑っていた。ぼくはまだまだ甘えっ子で、母の後ろに隠れるようにして立っていた。これから、私たち、家族になるのよ、母は嬉しそうに微笑んだ。妹も笑っていた。妹は隠れているぼくの手を引っ張り、あっちで一緒に遊ぼうと誘った。緊張していたぼくの気持ちが少しずつほぐれていったのを覚えている。父は無口だけれど、穏やかな笑みをぼくに向けていた。
ぼくらは血は繋がっていないけれど、幸せで温かい家族を作ることが出来ていたように思う。
冴とぼくは仲の良い兄妹だった。当然のことながら外見は似ておらず、そのせいもあって、最近では兄妹というより恋人同士に間違えられた。
「可愛い彼女だね」
いつだったか一緒に買い物に出かけた時、路上で絵描きをしているおじさんにそう云われ、ぼくはむきになって否定した。でも、妹は嬉しそうに笑い、そうでしょ、と云って、ぼくの腕に手を回したりした。
妹はまだ子供なのかもしれない。いや、それとも大人なんだろうか。変に意識しているぼくがおかしいのかもしれない。
飛行場は意外と空いていて、ぼくらはすぐ両親と落ち合うことが出来た。
「お兄ちゃんがぼーっとしてるから、遅れるところだった」
「お母さんたちもいま来たところ。用事が長引いちゃって。でも、良かった、間にあって」
母と妹は気が合うのか、よく喋る。ぼくと父は無口だ。ぼくらは黙ったままお喋りな女たちの後ろをついてゆく。
飛行機の座席は窓際がぼくで、その隣が妹、そして母、父の順だ。いつも決まってそうだった。妹は母と喋ったり、ぼくの腕を組んできたり、父はずっと睡っている。
ぼくは雲しか見えない窓の向こうにじっと睛を凝らし、微かに見え隠れする大陸を発見しては息を呑む。霞がかった幻のような世界。本当にあの上には人が住んでいるんだろうか。何千、何万という人々が。信じられない。時折、何かがチカチカと瞬いているのが見える。
「また月を見てるの」
「ううん、いまは見えない。夜にならないと」
「もうすぐ夜になる?」
「ならないよ。行く時はね。帰りじゃないと」
「じゃあ、お兄ちゃん、つまんないね。星空が見られないんじゃあ」
ぼくはぎくりとして、妹を見た。
窓から眺める宇宙のことを誰かに話したことはない。自分が何を好きで何を思っているかなんて、誰にも話したことはない。ぼくはどんな睛をして、星空を眺めていたのだろう。
単調な景色が窓の外に続く。長い長い時間。いつしかぼくは睡りに落ち、幾つものたくさんの夢を見た。
不思議な夢。自分が誰か他の人になった夢。遠い遠い昔の夢。幾つも幾つもの自分。ぼくは何度、生まれ変わったのだろう。現れては消えるシャボン玉のように、生まれては死に、死んでは生まれて、ぼくは何度も何度も儚い人生を送っている。ぽろぽろ、ぽろぽろ……気がつくと、またぼくは生まれていて、それまでの昔の記憶も持たないまま、何の疑問も持たずに生きている。
ふわふわと、ぼくは歩いてゆく。ふとした拍子に何かの記憶が浮かび上がる。水底に沈んでいた冷たい小石が何故か急に表面に現れ、そして、再びその重みに逆らえず沈んでゆくように、記憶が幾つも幾つも浮かび上がっては消えてゆく。
幼い頃、あれは確か母が再婚する前だったと思う。ひとり、何処かの道を歩いていた。記憶に残るか残らないかのまだ危うい存在で、何を考えていたのか、何も考えていないのか、海を漂う微生物のように、ぼくはふわふわと歩いていた。いま思えば、車も通らない狭い道だったのだろう。でも、子供にとっては広く長く感じられた。もしかしたら、それが一番古い記憶かもしれない。道をふわふわ歩いていた、その時の様子が、まるで何処かから見ているように記憶に残っている。ちょうど夢の中で自分を眺めている感覚と似ている。
夢なのだろうか。あの時の記憶はすべて夢なのだろうか。夢と記憶の境界は曖昧だ。あれから、ぼくは迎えに来た誰かに手を引かれ、帰っていったように思う。大きな手の誰か……あれは、ぼくの本当の父だろうか。夢と現実が交叉する。ぼくを抱き上げる父の影がいつの間にかいまの父親の姿に変わってゆく。
これは夢だ。懐かしい夢。けれど、とても哀しい夢。
ぱちん。
その他にもたくさん夢を見た。飛行機に乗っているという意識があるのか、空を飛ぶ夢だった。碧い碧い空の真ん中をくるくると廻りながら飛んでゆく。ぼくは鳥なのか、人なのか分からない。それとも、空気のように軽くて透明な何かになったのか、空と溶けて一体になってしまったのか、でも、それはとても心地良い感じで、ぼくは涙が溢れそうになった。堪えきれず零れた涙は後方へ飛ばされ、消えてゆく。ぱらぱらぱら……遠い遠い昔、ぼくは鳥だったのかもしれない。だから、こんな夢を見るんだ。こんな風に空を駆け巡ることを覚えているんだ。零れてゆく涙が宝石のようにキラキラと光って、碧い空の中へ消えてゆく。ぼくはそれを何処かから見ていて、とても胸が苦しくなる。切なくて、泣きそうになる。
泣いているのは誰だろう。飛んでいるぼくだろうか、何処か別の処にいるぼくだろうか。それとも、もっと昔のぼくだろうか。
冷たい空気が躰を突き抜ける。睛を醒ませ、睛を醒ませ、睛を醒ませ!!
「お兄ちゃんッ」
妹の声が耳の中で響き、ぼくはハッとして瞼を開けた。
「あ……、な、何」
「何って、息もしないで睡ってるから、びっくりして起こしたんじゃない。死んでるのかと思って」
「あ、ごめん。大丈夫だよ」
「それならいいけど。まもなく着くよ」
「え、もう?」
おそらく数え切れないほどの夢を見ていたのだろうが、忘れてしまった。覚えているのは最後の二つ三つだけだ。
「泣いていたの?」
妹がぼくの顔を覗き込んで云った。
「どうして」
「だって、哀しそうな睛をしてる」
妹の黒い透き徹った瞳に吸い込まれそうになる。
目眩がする。
ふと、思う。もしぼくらが兄妹としてではなく出会っていたら、ぼくは彼女を見て何と思うだろう。それとも、もし父と母が再婚しなかったら、ぼくらは会うことはなかっただろうか。……いや、どんなにしてでも出会っただろう。そんな気がする。遠い遠い昔から、どんな形でも、ぼくらは出会っていた。ふと街中ですれ違う、ただそれだけの時もあったかもしれない。親と子の時もあったかもしれない。本当に血の繋がった兄妹だった時もあったかもしれない。あるいは敵国の王子と王女とか……そこまで考えて、ぼくは思わず笑ってしまった。
「何?」
妹がきょとんとして訊く。
「何でもない」
ぼくは妹の髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でた。子供の頃、ただ無邪気なままそうしていたように。
飛行機を降りると、熱い空気がムッと躰にまとわりついた。
「夏休みなのにわざわざ暑い処に来ることないのにね。今度は寒い国に行こうよ」
「お母さん、寒いの嫌い。凛もそうでしょう?」
「……そうだね。あったかいほうがいいかな」
「ふうん。でも、オーロラとか見たくない?お兄ちゃん、そういうの好きでしょう」
「うん、見てみたいかも」
「じゃあ、今度、ふたりで行こうよ。お父さんとお母さんはおいてさ」
「どうして」
母が不満そうに訊いた。
「だって、お母さん寒いの嫌いなんでしょう。オーロラはすっごく寒くないと見られないのよ」
「我慢するわよ」
「いいじゃない、たまにはお兄ちゃんとふたりで旅行したって」
「駄目よ」
「どうして」
「どうしても」
母と妹は喋りながら先を歩いてゆく。父はその後をついてゆき、ぼくは少し遅れて歩いた。空港を出て、いつもの道を辿ってゆく。
空は碧く、何処までも広がっていた。ぽっかりと浮かんだ雲がのんびりと流れてゆく。遥か彼方まで大きく続く空を見ていると、地球は円いんだなあ、と今更のように感じた。母と妹と父はもうずいぶん前を歩いている。ぼくは立ち止まっては空を見上げ、ゆっくりと歩いてゆく。時差ボケで少し躰がだるい。瞼を閉じると闇の中にぼんやりとした光が浮かんだ。赤と緑に光った透き徹るカーテンのようだ。
「オーロラか……」
見てみたいような気がする。息も凍る雪の草原の中に座って、透明な夜空を見上げるのだ。その中に現れる光のカーテンはいったいどれほど美しく、神々しく、夜空を彩ることだろう。ぼくは誰かと一緒に座って、その奇跡を眺めるのだ。キラキラと瞬く星々を透かして赤と緑のベールが夜風に揺れる。
「お兄さん、死んでいるの」
ふと誰かに声をかけられ、ぼくはハッとして我に返った。英語だ。
「どうして」
「だって、皮膚が冷たい」
ぼくの手を触ってそう云っているのは、まだ小さい子供だった。金色の髪に碧い瞳の女の子。
「そうかな。飛行機の冷房で冷えたかな」
「お兄さん、英語上手だね」
「そう? 何度も旅行してるから」
「お兄さん、いま何を考えていたの。氷みたいな手をして。ねえ、しゃがんでみて。ほら、頬も冷たい。死んでいる人みたい」
「大丈夫、生きてるよ」
ぼくは笑って、答えた。
人懐こい子だな。この島の子か、それともぼくのような観光で来てる家族のひとりかな。まさか迷子だろうか。
ぼくは辺りを見回したが、この子の親らしい人は見当たらなかった。
「お兄さん、ひとり?」
「ううん、両親と妹と一緒だよ」
前方に睛を向けたが、彼らの姿はもうすでに見えなくなっていた。泊まるホテルはいつも同じなので、道は覚えていた。十年間、ずっと同じ島に来て、同じ場処に滞在する。考えてみれば、変わっているのかもしれない。妹の云うように色々な国を旅してみてもいいのかもしれない。でも、ぼくはこの島が好きだ。のんびりとしていて、ここでは時間も空気もゆっくりと流れる。毎年、こうしてやって来ると、懐かしさというより、ずっとここで暮らしているような気にさえなってくる。地理も言葉も覚えた。迷子になることも、騙されることもない。
「きみはここの子? それとも、旅行で来たの?」
この島には色々な人種が住んでいる。金髪で白い肌の人もいれば、黒人もいるし、ぼくらのような黄色人種もいる。
「分かんない」
幼い少女はそう答えた。
やっぱり迷子だろうか。
「何処に住んでいるの?」
「遠い処よ」
「じゃあ、やっぱり観光客なんだね」
「よく分からない。ねえ、海を見に行こうよ」
「ぼく、いま着いたばかりなんだよ。だから、いったんホテルに行かないと」
「どうして。荷物、持ってないじゃない」
荷物は大きなトランクにひとつにまとめてあり、父が持っていった。母と妹は自分の小さなバックを持っているが、ぼくは手ぶらだ。ポケットに財布だけ入っている。
「分かった、いいよ。海へ行こう」
海は歩いてすぐだ。飛行機を降りれば、もうこの島は汐の匂いがする。海から遠い場処などは存在しなかった。
見慣れた道を歩いてゆく。去年とほとんど変わらない。街並を十年通して思い返してみても、あまり変化はないように感じた。それほど観光化されていない街は、いつも同じ雰囲気を漂わせ、ぼくの心に沁み徹ってゆく。郷愁を誘う異国の街。汐の匂いと、まったりとした熱い空気。のんびりと流れる時間と、穏やかに続く碧い空。
ぼくは学校のことや日常のことを忘れ、知り合ったばかりのちょっと風変わりな女の子の後ろをついて歩いてゆく。金色の髪が歩くたびにきらきらと揺れる。天使のように可愛らしい。
大きな葉をつけた緑の樹々がざわざわと音を立てる。ちょうどその下を通りかかり、見上げると、葉の翳から零れた光がフラッシュを焚いたように瞬いた。
真夏の太陽。ぼくの住んでいる街とは光の熱も煌きもすべてが違う。空の碧さもずっと濃い。海のように広がっている。夜になれば輝く星の数も違うはずだ。
「あ、海が見えたよ」
少女がはしゃいだ声を上げる。
「きみ、名前なんていうの」
「アリス」
そう答えて、少女は海の方へ駆けてゆく。
道の向こうに見え隠れする海は、太陽の光を浴びてキラキラ瞬いている。碧い、本当に碧い海。いつ見てもぼくは感心する。こんなに碧い海が視界いっぱいに広がっているのを目の当たりにすると、嫌なことも、醜いことも、すべて洗い流されてゆく気がした。
少女はサンダルを脱ぎ、裸足で白い砂の上を走ってゆく。ぼくはゆっくりと後をついていった。
汐風が吹く。遥か彼方まで続く海。街中の細い道を抜けると、とたんに見渡す限りの碧い海が広がる。
「お兄さん、早く早く」
アリスは振り返ってぼくを呼んだ。
ぼくは微笑み、少しだけ歩く速度を上げる。途中、砂の上で何かがチカチカと光っているのを見つけ、それを拾い上げた。透き徹った薄紫色の綺麗な貝殻だった。丸みを帯びて、宝石のようにも見える。冴にお土産に持っていこう。ぼくはその貝殻をそっとポケットにしまい、少女のいる処まで歩いていった。
「いま何か拾っていたでしょう」
「え、ああ、うん」
「誰にあげるの、それ」
ぼくは何故かぎくりとして、思わずアリスの睛から視線をそらした。
「なあんだ、わたしにくれるんじゃないのね」
「ほしいなら、あげるよ」
「嫌よ、そんなの。ちゃんと、わたしにって選んだのがほしい」
ぼくは困ったように笑い、辺りを見回した。貝殻はたくさん落ちているが、どれも白くて欠けていたり、さっきのようには透き徹っていなかった。ぼくは砂の上をゆっくりと歩いてゆく。真珠のように光った巻貝がひとつ落ちていた。拾って耳に当て、瞼を閉じると、汐騒の音がした。寄せては返す波の音が、繰り返し繰り返し響いてゆく。
こうして瞼を閉じていると、どんどん透き徹ってゆき、まるで夜の海の中を漂っているようだった。無数の水の粒が瞬き、くるくると廻りながら昇ってゆく。海の中はまるで宇宙だ。深い深い海底へ向かって泳いでゆくたび、深く深く沈んでゆくたび、ぼくは人間の感情も苦痛もすべて忘れて、昔の頃のようなただの微生物に戻ってしまう。暗い暗い異世界へ続く穴を通るたび、懐かしい海の記憶が甦る。
何の哀しみも苦しみも切なさもなかった頃。遠い遠い記憶。それはぼくが生まれる前に夢見ていたことなのか、それとも、遺伝子に乗って運ばれてきた遠い先祖の記憶なのか。ぼくは涙が出そうになる。熱い涙は海水に混ざり、一瞬のうちに消えてしまう。ああ。ゆらゆらと漂っていたい。ずっと、こうして。透き徹った微生物のように、母親の胎内で睡る小さな細胞のように。
「そんなに綺麗な音が聞こえるの」
「え」
「その貝殻」
ぼくは天使のような少女を見つめ、耳に当てていた貝殻を差し出した。
「聴いてごらん。海に還ったような気になるから」
「お兄さん、魚だったの」
「そうかもしれない」
勘が鋭いこの少女は屈託なく笑った。
「ねえ、わたしのこと好き?」
「ええッ?」
ぼくは思わず、くすくすと笑った。
「うん、好きだよ」
「本当に?」
「うん、本当に」
「じゃあ、わたしと……しよう」
「え」
少女が何を云っているのか聞き取れず、ぼくはきょとんとして彼女を見た。
「一緒に遠い処へ逃げようって云ったの」
「どうして」
「わたしたちを引き離そうとする人たちから逃げるのよ」
「もしかして、駆け落ちしようって云ったの」
「そう。ねえ、一緒に逃げよ」
ぼくは焦って、思わず辺りを見回してしまった。
「何で、また……」
「わたしのお父さんとお母さんもそうだったの。逃げて、この島へ来たのよ」
ぼくはどきっとして、少女の睛を見つめた。碧い、透き徹った瞳。海よりも明るくて、空よりも果てしない。
「どうして……?」
訊いてはいけないことだと思いながらも、ぼくは聞き返していた。
「禁じられた恋をしたからよ」
「ロミオとジュリエットみたいに?」
「もっとひどいわ」
「それじゃあ……」
「わたしのお父さんとお母さんは血の繋がった兄妹なのよ」
「………」
ぼくは言葉を失い、冷たい汗をかいた。
「だから、わたしはちょっと変なの」
「変って?」
ぼくは落ち着きを取り戻して、そう訊いた。
「お兄さんもそう思わなかった? わたし、変わってるでしょう」
「そんなことないと思うけど」
「嘘。そう云えばそうかなーって思ったでしょ」
ぼくはまたしてもぎくりとして、少女の睛を見つめた。
「わたしね、空がラベンダー色に見えるの」
「え」
「わたしね、きっとエスパーなのよ。だから、未来のこととか、分かったりするんだわ」
「未来のことが分かるの?」
「うん。未来の空が見えるの」
「ラベンダー色の」
「そうよ。きっと未来の人の見ている夢がわたしに伝わってきたの。その人の睛を通して、ラベンダーの空を見るの。薄く溶けるような空。とっても綺麗」
「じゃあ、未来の地球の空はそういう色になるんだね」
「違うわ。わたしたちはあの星へ行くのよ」
アリスは碧い空を指差して、云った。
「……どの星」
「あれよ」
睛を凝らしてみても、ぼくには濃い碧のほか何も見えない。
やっぱり変わった少女だ。でも、憎めない。そういえば、ぼくも子供の頃は色々空想ばかりしていたものだ。
「あ、ただの空想だと思っているでしょう。でも、本当なのよ。そう遠くない未来、わたしたちはあの星へ移住するの。広大な宇宙の中を海を渡るように航海してゆくのよ。新しい惑星に降り立った時、初めて見上げた空の色が忘れられない」
ぼくは瞼を閉じた。アリスの睛を通して、そのラベンダーの空が見える気がした。アリスは本当に見ているのだろう。何故だかそう信じることができた。
顔を上げて、睛を開けた。碧い空が何処までも広がっている。じっと見つめていると、天辺の処で空が宇宙と繋がっているのが分かった。ぼくには見えないけれど、碧い空の中にそのラベンダーの惑星は輝いているのだろう。
「そろそろ、妹さんが迎えに来るよ」
「え」
「お兄さん、その妹のことが好きなんでしょう」
「な……何、云ってるんだよ」
「だって、わたし、見たもの。とても仲良さそうに歩いていたでしょう」
「そんなの、兄妹だからだよ」
「兄妹とかなんて関係ないわ。わたしのお父さんとお母さんがいい例よ。でも、お兄さんたちは本当の兄妹じゃないから問題ないんじゃないかしら」
「……どうして、」
ぼくは言葉を切った。
何故、アリスはそんなこと知っているんだろう。ぼくは夢を見ているんだろうか。本当はまだ島に着いてなくて、飛行機の中で夢を見ているんだろうか。
「わたし、お兄さんの未来が見えるわ。幸せそうに笑って、ラベンダーの空を見上げているの。誰かとふたりで、いつの時も」
「……それは、本当にぼく?」
「さあ……そうね、遠い未来のお兄さんかもしれない」
「遠い未来……か」
「何度も何度も生まれ変わって、お兄さんたちは恋をするの。いままでも、これからも、ずっと、ずっと」
「きみは?」
「わたし? わたしはいつもお兄さんに片想いなの」
アリスは笑った。
少女の夢物語はすうっとぼくの心に沁み徹ってゆく。
瞼を閉じる。波の音が木霊する。躰が透き徹って、海に溶けてゆく。いや、もしかしたら、空へ昇っているのかもしれない。透明になって、何もかも消えてゆくのかもしれない。何度も何度も夢を見て、何度も何度も生まれてくる。数知れない過去を忘れ、再び歩き出す。そして、出会い、一瞬、過ぎる懐かしい想いを抱え、生きてゆく。何度も何度もぼくはそうしている。
瞼を開ける。アリスの姿はもうない。幻だったのか。それとも、ただ気まぐれに何処かへ行ってしまっただけなのか。手のひらには渡しそびれた真珠色の巻貝が残っている。波の音はそこからも聴こえるような気がした。
「お兄ちゃん」
アリスの云ったとおり、妹が現れた。
「もう、ホテルにも行かないで、ひとりで何してるのよ」
「ちょっと海を見てたんだよ」
妹の冴は首を傾げ、ぼくをじっと見た。
「誰かと一緒だった?」
「え、いいや、ひとりだよ」
「本当に?」
「本当だよ。嘘をついても仕方ないだろ」
「ふうん」
そう云って、冴はぼくに腕を絡めてくる。
「ねえ、お父さんとお母さん、ふたりで何処かに行っちゃったから、わたしたちもこれからデートしようよ。お父さんとお母さんには内緒でさ」
ぼくは微笑み、黙って歩き出した。冴の摑んだ腕の処がやけに熱い。
空は何処までも碧く広がり、ぼくらを見下ろしている。
☆
帰りの飛行機で、ぼくは全然睡らなかった。空が闇に変わる途中、陽の沈む辺りが薄紫色に染まっていた。アリスが云っていたのはこの色かと思った。
冴はぼくの肩に頭を寄せ、幸せそうに睡っている。それを見ていると、ぼくも心底、幸せになるのだ。
空には星が瞬き始めた。
おわり