Ep3
私立探偵のディエゴ・フェルナンドはその日、働かずに儲けられたかもしれない仕事を棒に振ってこの男には珍しく眉間に皺を寄せていた。
若い男からの、十年以上も前に出された、筆跡とインクと紙ぐらいしか手がかりがない手紙の差出人を探してほしいという依頼内容は一見難解そうな案件に見えた。だが驚く事に、偶然その筆跡の持ち主をディエゴは知っていた。
どんな小説よりも戯曲よりも現実世界で他人が直面する出来事、こと悲哀や懊悩に関してはこれほど娯楽性の高いものは他にないであろうと考えるディエゴにとってこれは調査という過程抜きで金と娯楽、両方を手に入れられるおいしい話だったかもしれなかった。
しかし筆跡の持ち主が悪かった。もしも関わって面倒事に巻き込まれるとなると相当に厄介で、大概の事は自分の能力で切り抜けられると自負するディエゴにとっても一筋縄ではいかないだろうと思われる人物だった。
娯楽と金、そしてひょっとしたら巻き込まれるかもしれない面倒事を天秤にかけたとき、ディエゴはこの仕事を断る事にした。
普段なら断ると決めたならそんなに未練がましく思い悩まない性質なのだが、今晩会う約束をしている男の存在がひょっとしたらあの依頼もその男のものと同等に娯楽性の高いものだったかもしれない等と思わせて後ろ髪をひくのだった。
そんな事を思っていると事務所のドアベルがカランと音を立てて件の男が顔を出した。
「どうも。待ってましたよ。今日はどうしますか」
「少し付き合えよ」
「わかりました」
ディエゴは革張りの重厚な椅子から立ち上がりジャケットを羽織るとさっさと出て行ってしまった男の後を追った。
刺すような木枯らしが少しも気にならないといった風に無言で歩く男は、後ろ姿からでもそれとわかるほどに歩調に不機嫌さをにじみ出させていた。
二人は事務所から程なくたどり着ける繁華街の路地裏に構えられた小さなバールに入った。
オレンジ色の薄明りに照らされる店内、客はまばらで繁盛しているという感じはしないが、寂れているというわけでもない。
カウンターの中の初老の男が二人の姿をみとめ会釈をした。
ディエゴは二杯分のハードリカーを注文すると勝手知ったる様子でカウンターから離れた店の一番奥の席へとついた。
「しばらくぶりですね啓治さん」
男は返事もせずにポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「随分とご機嫌が悪いようですが、何か」
「新人が入った」
なるほどと啓治の不機嫌の理由に納得した後ディエゴは聞いた。
「どんな感じなんです?」
「はねっかえり娘と大学出のエリート坊ちゃん」
「と言うと、どっちもまだ若そうですね、ポリシアの経験も浅いんですかね?」
「ああ」
「経験があって妙に勘が鋭くて、なんだかんだと詮索してくるような相手じゃなくてよかったんじゃないですか?」
啓治はディエゴを一瞥した後ふっと苦笑いし、確かにと言った。
「ところで、前回の調査結果は御役に立ったんで?」
「いや、空振りだ。全く大枚はたいてるってのによ」
「すみませんね。でも私はきっちりご依頼内容にはお答えしてますよ」
「わかってるよ。てめぇに文句言ってんじゃねぇ」
「で、今日ここにきてもらったって事は次にめぼしいものでも見つけたんですか」
啓治は煙草を口から離して煙を吐きだすと、暫く視線を宙に泳がせた後に言った。
「締め上げて吐かせる……ってのはてめぇの仕事の範疇か?」
ディエゴは目を見開いて啓治を見た後大げさに笑ってみせた。
「物騒な事を言いますね。私は探偵ですよ啓治さん。…………でも、術はいくつでも知ってますがね、元軍人ですから」
本当の所を言うと一般的な道徳観念を持ち合わせていないディエゴは情報収集や円滑に仕事を進捗させる為に恐喝まがいの事をしたり、暴力に訴える事も実は少なくない。もちろん、厳重に隠蔽工作はした上で。
だが、お人よしのこの男はまさかそんな事普段からディエゴがしているなんて思ってもみない様である。
ディエゴはわざと興味をそそられたというようにサディスティックな色を瞳に浮かべてみせる。それに気づいた啓治は眉間にしわを寄せた。
自分とこの男は生き方も性格も考え方も、全てにおいて対極にいると常からディエゴは思っている。
ある事がきっかけで啓治はディエゴに頼るようになった――ディエゴ以外の人間に頼る事ができない状況に陥った――のだが、普通に生活を送っていればおそらくどこにも接点をもたないであろう人種である。
きっと啓治も最初はそう感じていたに違いないが、付き合いの長さや余人には知られてはならない秘密を共有しているという事情からいつの間にやら、情にほだされやすいこの男は依頼主と探偵という関係以上の妙な信頼を置き始めていて、それを邪魔するようなディエゴの性格的欠陥――ディエゴ本人はそう認識していないが――を目にすると不快さをあらわにする。
ディエゴにとって感情を隠す事は息をするのと同等に容易い事で、いくらでも啓治が望むような「善人」を演じる事もできる。
だが今日もどうせこれといった捗々しい話があるわけではないが、自分の事情を知る唯一の人間に苦悩を吐露したいが為にここに来たというのが本当の所だろう――もちろん本人はそんな事を認めはしないだろうけれども――金銭を受けてする仕事以外にもこんな風にこの男に付き合っているのだから、自分の人生を彩るエンターテイメントの一つとして少しぐらい弄んでところで、罰は当たらないだろうなんて思って、時々わざと啓治が不快になるような事を意地悪くしてみるのだった。
しかしながら、普段は貴族どうしの見栄の張り合いや、痴情のもつれから発展した金銭のトラブルといった三文芝居のような出来事を見せつけられる事が仕事内容の大半を占める中、この男のそれは一級品の類に入る。きっと逃げられるなんて事はないだろうけれども、それなりに餌も与えておかなければとも思っている。
一通り啓治の不愉快そうな反応を楽しんだ後に、真顔でディエゴは言った。
「あなたがそんな事を言うなんてねえ。焦る気持ちはわかりますが、無茶をすれば彼女と同じ轍を踏む事になりますよ」
ディエゴの発した言葉に啓治の表情が一瞬凍り付いた。
そして一層険しく瞳を細めた後無言で頷いた。