Ep2
特別治安維持班に異動になって三週間がたとうとしたある日の夕暮れ時、咲は背を丸めデスクに額をつけると盛大な溜息をついた。
「今日も疲れたなぁ。特別治安維持班なんていうからどんなかっこいい仕事が待ってるのかと思ったら、市街地の警らに職務質問って……意外と地味だし、市民の為にやってるのに、その市民に嫌な顔される事の方が多いし、なにより毎日毎日あのオッサンと顔を突き合わせて何かっていうと嫌味な態度とられて、私ってば昇進試験に合格したので運使い果たしちゃったのかなぁ~」
毎日定時には姿を消す啓治や、外出でいない他のメンバー、会議出席中のハワードをいい事に咲はだらりと腕をのばすとしまりのない声を出した。
隣でファイルをひろげるダイスケは一度咲に視線をよこし困ったように笑ったが、再びファイルに目を戻した。
「ねぇダイスケ君は何も思わないの? 君は私と違って大学出だから望めばもう少しいいポジションからのスタートもできたんじゃない? それなのにこの班の厄介者を押し付けられた感じでさ、不満じゃないの?」
「確かに高坂さんは普通の人と少し違うけど、必要な事は教えてくれてると思うよ」
「ダイスケ君ってさぁ……、なんか穏やかっていうか、事なかれ主義っていうか……」
咲は不満気にダイスケを睨みつけたがダイスケは相変わらずファイルに視線を滑らせながら微笑を浮かべているだけである。
初日に芽生えた仲間意識から咲はずっとダイスケに馴れ馴れしく接している。ファイルを読んでいるのもお構いなしに喋り続けるが、ダイスケもとりわけそれを不快に思っている素振りも見せず、返事が必要な問には丁寧に返してくる。
突然浴びせられた初日の無能発言と日々の後輩への思いやりの欠片も感じられない雑な扱いがよほど腹に据えかねているようで啓治の愚痴を繰り返しているが、ダイスケはいつもこれを軽く受け流すだけだ。きっと今日もダイスケが啓治の悪口にのってくる事はないだろうと諦めの溜息をつくと咲は調子を変えて再び口を開いた。
「ねえねえ!」
椅子ごとダイスケの方に向いて咲は身を乗り出した。
「ダイスケ君はさぁー、なんでポリシアで働きたいと思ったの?」
「え……」
「なんかさー、おじさんの愚痴ばっか言ってても仕方がないし、なんか建設的な話でもしたいなぁと思って! 私達仲間なんだし、もっとお互いを良く知って距離を縮めたいじゃない? こういう仕事はチームワークが大事だと思うのよ!」
尤もらしい事を言っているようだが、咲の表情に浮かぶのは単なる好奇心。
それが職務とは何の関わりもなく、咲の好奇心を満たす為の質問だとわかっていても、常に淀みなく答えるダイスケだったがこの時だけはそうではなかった。
瞬きというには長く、思案というには短すぎる瞬間ダイスケは目を閉じ、その後咲の方へと体ごと向き直った。
「小林さんはどうしてポリシアに? なんだかポリシアで働いてそうな感じではないよね」
そう言ってクスリと笑う。
「え? それどういう意味?! その笑いは何? 私のようなかわいい乙女にはポリシアなんて向いてないって事かな?」
先のダイスケの妙な反応に、どうにも侵しがたいものを感じた咲はとりあえずは自分の好奇心に蓋をする事にした。
「私はねーこう見えても一家の大黒柱なのよ。あんまり成績優秀な方じゃなかったけど、安定した仕事につけちゃったもんだから親から期待されちゃって。五人姉弟の一番上、一番下の弟なんかまだ5歳だから、家計を助ける為にね。で~も~、本当の理由は~」
上目遣いでダイスケを見る咲は少し照れ臭そうな顔をした。
「『黒い太陽の街』! アレを読んでポリシアに憧れたんだ」
「ああ、有名な小説……」
「読んだことあるよねっ!?」
ダイスケが喋り終えるのも待てずに目を輝かせて身を乗り出した咲に、ダイスケは無慈悲にも首を横に振った。
「え? え?! ダイスケ君あの名作を読んだ事ないってどういう事?! もしかして読書しない人? 活字が読めない人?! 信じられない!」
「読書は好きだよ。ただ俺の好きなのはベアトリクス・オーデンとかアイザック・キング……」
「はぁ……、名前ぐらいは聞いた事あるけど、なんだかお堅そう……所謂文学ってやつ……?」
「そういう事」
「そうか……、でもね、読書好きなら一度は読んでみて。主役のエドワード・ハリスが本当にかっこいいの! 平凡なポリシアで、妻と子供を愛する普通のお父さんなのに、実はその肩に国家の命運を背負って誰にも知られず日々戦っているの!」
咲はポリシアを舞台にした巷で流行りの、そして自分の進路を決める程に憧れた作品への情熱を、(最後にはダイスケが興味を持ってくれているのかどうかも分からなくなっていたが)しばらく語った。
小一時間程話し続けた咲は、言いたい事は大体言い切ったというようにすっきりした表情で絶対読んでねと締めくくった。
しかし満足気な表情から一転して眉間にシワを寄せると再び溜息をもらした。
「でも、やっぱり小説と現実は違うんだよね。ポリシアに就職して三年、市街整備課ではほぼ毎日立ってるだけ、たまに夫婦喧嘩の仲裁したり道案内したり、お婆ちゃんの荷物運んだり……、それも市民を守る大事な仕事ではあるんだけど……なんか、こう、すごく熱い事……、『黒い太陽の街』みたいな事ないかなぁ。昇進試験に合格して特別治安維持班に回されるって聞いた時はそんな日々が始まるんじゃないかとドキドキしたもんだけどな~」
「街の治安を守るポリシアが犯罪を望んでるの」
少し意地悪い表情を作っていうダイスケに咲は頬を膨らませた。
「もっ! どうしてそういう言い方するかなぁ~!! 私だって真面目に考えてる事があるんだからッ! スラムから市街地への薬物やその他犯罪行為の流入を防ぐための特別治安維持班っていうのもね、大事なのは分かるんだけど、心情的には納得しきれないところがあるの。管轄外になることは分かってるけど、私はもっとスラムのなかにも目を向けたい。みんな見て見ぬふりっていうか、かかわらないようにしてるけど……私はもっとあの中の問題に国を挙げて手を入れていくべきだと思ってたりするのッ」
「ごめん、ごめん、わかってるよ。小林さんが真面目にポリシアの仕事やこの国の市民の事を考えているのは」
からかいに詫びを入れた後、ダイスケはいつものように真摯な口調で続けた。
「小林さんの言っている事は正しいと思う。でも突然大きな事ができなくても、僕達みたいな末端の人間の日々の積み重ねでエドワードみたいな大業を成し遂げる事も出来るかもしれないし、そんな顔してないで明日も頑張ろう」
「なんか、ダイスケ君って神学校の先生みたい……」
いかにもつまらなそうに言う咲を尻目に、ダイスケは机上のファイルをまとめると帰り支度を始めた。
「今日はもうそろそろ帰ろうか、話し込んでたらもうこんな時間だよ」
椅子にひっかけたコートを羽織るダイスケに続いて咲も立ち上がった。
「そうだね。明日も朝からあのオッサンの顔を見なきゃいけないわけだし、帰っておいしいものでも食べますかぁ~」
オフィスのある三階から階段を降り、出口のドアを開けたところで咲は立ち止まってダイスケに向き直った。
「あのさ、ずっと言おうと思ってたんだけど、ダイスケ君、その小林さんってのやめない? 咲って呼んでよ!」
「了解」
ダイスケの返事に満足気にうなずいた咲は初冬の寒風が吹き抜ける夜のリベリーの街を帰路についた。