Ep1
「ねえ、今日は久々に晩御飯作ろうと思うの、何がいい」
そう言いながら振り向いた女は栗色のやわらかな前髪を揺らして微笑んだ。
「たまには妻らしい事しておかないと、素敵な旦那様に逃げられちゃうと大変だから」
いたずらっぽく言う女の姿が無性に愛しくて、抱きしめようと男は腕を伸ばした。
その腕が届く寸前、世界は色を失い目に映るもの何もかもが塵のように飛散し消え失せてしまった。
「フェリシア……?」
何もない灰色の世界に取り残された男は絶望感に支配され崩れ落ちた。
――夢か
目覚めた男はのろのろと起き上がると辺りを見回した。
殺風景ではあるが、そこは生活の匂いのする自身の部屋。
時を刻む時計の針や時折カーテンを揺らす風の音がここは現実世界だと告げているのに、夢での虚無感が立ち去らず男は項垂れた。
オフィーリア国、ゴドウィン領 リベリー
「あー、緊張するっ」
――特別治安維持班
そう書かれたドアの前で何度かドアノブに手をかけては離しを繰り返しながら小林咲は呟いた。
「このドアの向こうに待つ私の新生活やいかにぃ~」
独り言でなんとか緊張をほぐそうとする咲の姿は傍から見れば素っ頓狂なものだが、本人はいたって真面目である。
「……、あの……」
「ひえっ」
背後からの声に、全く人の気配に気づいていなかった咲は珍妙な声を出して飛び上がった。
「あ、すみません」
驚かせてしまったかと心配顔で咲の顔を覗き込んだのは健康的な浅黒い肌に少し変わった瞳の色が特徴的な青年だった。
「こちらの課の方ですか?僕今日からここに配属になったダイスケ・アミール・カーンという者ですが……」
「あ、え、ど、どうも!実は私も今日がここの初日なんです。あー良かった、一人じゃなかったんだ、仲間がいたんだ!」
仲間の登場に幾分か緊張がほぐれた咲は馴れ馴れしくダイスケの肩を叩くと、再びドアノブに手をかけた。
「行きます?」
「はぁ……」
笑いながら頷くダイスケから向き直ると咲はドアを開けた。
「どうもッ!本日付けでこちらに配属になりました小林咲と申しますッ!」
そう広くはないオフィスの中に咲の声が響いた。
一瞬オフィスの中にいた全員の視線が二人に集中したが、皆意味ありげななんとも言えない表情を浮かべると視線をそらしてしまった。
「ん?何何?この不穏な空気は」
咲が小声で言いながらダイスケを肘でつついていると、部屋の一番奥のデスクにいた初老の男が二人を手招きした。
「小林君とカーン君だね」
二人はそろって返事をすると、並んだデスクの間を通り抜け男のデスクの前に行った。
「先日こちらの班で欠員が出たのでね。小林君は市街整備課からで……カーン君はポリシアとして初めての仕事だね」
「え?ポリシアとしては私の方が先輩?! 」
思った事が顔や口にすぐ出る性質の咲は自分がダイスケの先輩である事がうれしいらしく頬を緩ませていた。
「私はこの班の班長でハワード・マクレーンだ、よろしく。おい皆、今日から高坂とチームを組む小林咲君とダイスケ・アミール・カーン君だ」
ハワードの紹介に十人程いたオフィスのメンバーは先ほどとは打って変わってにこやかな笑顔で二人に挨拶をした。
先ほどの微妙な空気は気のせいだったのかと思いかけた咲とダイスケだったが、続いたハワードの言葉にいくばくかの不安が芽生えた。
「ところで、君達とチームを組む高坂啓治だが……多分、今屋上かな。職務の内容等は彼から君達に説明してもらいたいのだが……いつ戻ってくるのやら……」
愚痴のように最後の一言を呟いたハワードに咲は思わず問いかけた。
「高坂さんは屋上で何をされているんですか?」
「ん、うん……煙草でも吸っているんじゃないかな。君達が来る事は伝えておいたんだけどね、ちょっと変わったところのあるヤツでな」
困ったように笑うハワードに咲は怒気を含ませて言った。
「じゃあ私高坂さんに挨拶に行ってきますねッ!ダイスケ君、一緒に行こっ!」
「え」
ダイスケの返事も待たず、その袖をつかむと咲はずんずんとオフィスを横切るとバタンとドアを閉めて出て行った。
「ありゃ、一月もたんのじゃないか」
新人二人が退室したオフィスの中、誰かがぼそりと呟いた。
「全く!信じられない!!ダイスケ君はここでの仕事初めてだから知らないかもしれないけど、ポリシアってところはそれはもう規律にうるさくて、遅刻やさぼりなんてもっての他なの!私なんかも先輩にどれだけしごかれた事か!なのに、人の上に立つ立場の人間が朝っぱらから煙草ふかしてさぼりなんて絶対に許せないんだからッ!」
ぷんぷんと音がしそうな程に怒る咲、こんな状態でこれから付き合っていく上司との初対面を迎えるのはいかがなものかと思ったダイスケは、なんとかなだめようと話題を変えようとしたが、どんな話題を振るべきかと考えている間に前を歩いていた咲の足が止まった。
屋上への階段を上り終えた咲は蹴破るような勢いでドアを開いた。
街を一望できる高いビルの屋上、雲一つない青空が広がり一瞬怒りを忘れた咲だったが、視線の先にその快晴が似合わぬいかにもだらしない恰好をした男の姿をみとめて、ぶっきらぼうに声を上げた。
「高坂さんですかっ!」
咲の大声に男は一瞬視線を向けたが、また視線を逸らすと面倒くさそうに吸っていたたばこの煙を吹き出した。
「あのっ!今日からこちらの班に配属になった小林ですけどっ」
男は今度は威嚇するようにジロリと咲を睨んだ。
「……ッ」
ひるんだ咲の方に向かって男はずんずんと歩いてくる。
「朝っぱらからうるせぇな、お前らの事は聞いてるよ。全くハワードも面倒くさいもの押し付けやがって……。無能の嬢ちゃんと世間知らずの坊ちゃん、精々俺の邪魔しないようにやれよ」
そう言って咲の肩をぽんと叩くと男は扉の向こうへと消えてしまった。
取り残された二人はしばらく呆然とその場に立ち尽くした。
「ハワードさんの言った通り少し変わった人みたいだね」
「……ッ、少し変わった?!そんな言葉で片づけるの?!ちょっとおかしいんじゃないあのオッサン!!!だいたい、朝っぱらからさぼってるオッサンに無能なんて言われてたくないってのッ一体何様?!ダイスケ君も!あんな何にも知らないヤツに世間知らずなんて言われて腹が立たないの?!」
突然、面と向かって罵られ言葉を失っていた咲だったが、ダイスケの一言をきっかけに顔を真っ赤にして怒りを噴出させた。
「確かに、驚いたけどね。初対面の人間にあそこまで言うなんて何かしら理由があるんじゃないかな。とりあえず、ここに居ても仕方ないし、下に戻ろうか」
「うん……」
新生活への期待に胸を躍らせていた数十分前と打って変わって、苦々しい表情で俯きダイスケの後に続く自分の姿がどうにも情けなく、咲は泣きたい気持ちになるのだった。