永遠と虚無。part1 無の片鱗
「ねえ真木くん、虚無と永遠の違いってなんだと思う?」
「虚無と永遠……、そもそもが違うんじゃないのかな? 虚無は何も無いことだろうし、永遠は限りないことだし」
紅音さんは僕の答えに対して、一瞬「つまらないわね」と吐き捨てるかというひどい顔をしたけど、何を思ったか顎に拳をあてがって深く考え始めた。
テストの点数全般では僕に勝てない紅音さんだけど、こうして如何にも考えている姿をしていると、小さな時から英才教育を受けていた才女のような雰囲気を纏っていて、あらゆることにおいて完膚なきまでに叩きのめされるような敗北感を感じた。
正に英知の塊のような姿。綺麗な黒髪も一本としてはみ出しものがなく整えられていて、指の形から服のシワまで気に障るところが一切ない。完璧な女性像。彼女がよく口にする哲学的な話題で言えば〈才女〉というイデアに限りなく近しく立ち現れた存在。
一言で「正に才女!」
「違うのよ、真木くん。私が問いたいのは、意味や意義の違いではなくて、存在の違い」
「存在ですか……、でも、虚無も永遠も存在するとしたら、やっぱりそれこそ人の頭の中で思考されるだけの抽象的なもの……なんじゃないのかな?」
僕が首を傾げてみせると、紅音さんは僕の首を強引に縦に戻した。よく彼女に「ぶりっこするな」と言われる僕の癖であった。また、「あなたは童顔誠実少年の皮をかぶった性悪女ね」とも言われる僕の悪癖なのであった。
さて、目の前の怖い顔をしている紅音さんの話に戻ろう。
「ええ、そうね……。確かに虚無も永遠も目の前に現れたりはしないものだわ。そもそもこの二つの言葉を私は存在性を司る言葉だと思っている」
「あーはあ」
意味がわからない時にするこの笑顔も紅音さんには右手で挟まれて潰されてしまう。
「御免なさい、さっきの言葉訂正するわ。意味の違いに近いかも知れないわね。けれど、それを意味の違い、もとい概念の違いと捉えるのではなくて、もう少し具現的な存在性での違いで捉えて欲しいの」
「うーんと、あー。なんとなく分かる気がするけど」
「ええ。なんとなくでいいわ。永遠の具現。それはものの存在が永遠性を持つことで現れる。虚無の具現。それはものが存在しないのではなくて、ものが虚無に存在する。虚ろに存在するようで、存在していない事で存在する」
「存在しない事で存在する……とな?」
眉間にデコピンをくらった。この眉をひそめた上目遣いもどうやら紅音さんの気に障るらしい。
「まあ、想像してみて。何もないこと、虚無の存在」
「何もないこと……」
何もない。真っ暗な世界――。
「今、あなたは何を想像したかしら? おおよそ一色に染まった世界かあるいは瞼の裏でも見ていたのでしょう?」
「んまあ、そんな感じかなって」
「だめね。虚無っていうのはそういうことではないのよ」
指をおでこに当てて、頭を横に振る紅音さんは、なにやら優越を感じているような笑みを浮かべていた。
僕はその笑顔がちょっと好きだ。普段勉強で勝てない僕に、知識比べなのか言葉遊びなのか、よくわからないこの議論で勝っていると錯覚した時、彼女は一番楽しげな表情をしているからだ。そういう彼女の事を高慢症とでも呼びたいところだけれど、僕も、彼女に対して勝っていることに優越を感じているから、おあいこ。現に今も論拠の怪しい彼女の話を心の中でぷぷぷと笑いながら聞いているのだった。
「じゃあ、どういうことなのさ?」
「そうね。じゃあ、1つの林檎を思い浮かべてみて?」
「うん」
闇の中に林檎が一つ。
「次は林檎が0こあると想像して?」
さっきの林檎が消え、完全な闇。
「まあ、できたかな?」
「真木くんが今思い浮かべているものは恐らくさっきと同じ一色に染まった世界でしょう?」
「うん」
「けれど、それは林檎という個物が存在するための空間の存在が先立っていたから、そうなるのではないかしら?」
「というと、空間すら存在しない事が虚無と言いたいのかな?」
僕がにやっと笑うと、両頬を抓まれた。どうやら、次に言いたかったことを先に言ってしまったようだ。
「ふん。ま、そんなところかしらね真木くんにはその程度にしか考えられないのかもしれないから、これ以上の追求はよしておくわ。で、次は永遠の存在について」
僕の両頬は思いっきり引っ張られ、その力に耐えられなくなった指先の摩擦が一気に消えたと思うと、頬肉の弾性のもとに輪郭を再形成した。つまり、弾かれた。痛かった。
紅音さんは続ける。
「真木くん、今度は林檎が無限にあるということを想像してみて」
「無限―無限―、りんごがいっぱいー」
目をつむって唸りながら想像していると、「真面目にやってくれないかしら」と紅音さんに冷たく言われた。その時、頭の中で延々と伸び続けていた林檎タワーが崩れ落ちた。
「あーあ」
「なによ。あーあって」
「何でもないよ」
「そ。じゃ、聞くわ。今、真木くんは何を想像したのかしら?」
「永遠に林檎が積み上がっていく林檎タワー」
そう言うと、紅音さんは困ったような顔をしたので、その瞳をジッと見つめていると、頬をちょっと赤らめて笑った。
「いひひ」と僕も笑い返してみると「ふふ」と返ってきた。
紅音さんは時折、何かに憑かれてしまったように雰囲気が180度替わることがある。恐らくだが、こういう時彼女はド忘れをしてしまったのだ。何か言おうと思っていた事が不意に掴み所を無くして困ってしまい、笑顔で誤魔化す。僕もやる手だ。
だから、笑い返しておけば事は済むのである。
事態は収まるのである。
誰ひとり傷つかず、何もなかったかのように終わるのである。
今の会話は「虚無」だった。そう、笑い話にして終われる。
何も解決されずに――。
私は毎日あるいは毎週あるいは毎月あるいは毎年更新します。
という命題が真であるようにがんばります。