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【五】

胡蝶


 私はふたたび、北をめざした。肉皮の終焉は近い。死ぬまえにもう一度、北の教国をこの眼に灼きつけたいと思ったのだ。その途上で、死を迎えるのかもしれない。私はそれをおそれない。漂泊こそが私の意義である。意義をなすうちに滅びることができれば、重畳この上ない。


 北へはまだ遠い鎌倉で、東の覇者に乞われた。とうに武官を棄てた私に、弓馬の教えを。

 白の武家を統べる彼は、赤の武家を滅ぼして覇者となった。朝廷の支配を受けぬ独立した政権を、鎌倉に樹立した新時代の開拓者である。

 あたらしい時代を創らんとする彼が、過去に生きる私になにを望むのか。私は乞われるまま、何十年もむかしに棄てた存在意義について語りきかせた。彼は瞑想しているかのように、私の話に聴きいっている。

「ときに御坊」

 瞑想を解いた彼はやじりのように鋭い眼光で、私の全身を射抜く。これほどに冷たい、酷薄な眼を見たことがない。喜怒哀楽の不在、絶対の冷血。それは人ではなく、蛇や蠍のような……私の腋下と背筋に、滂沱ぼうだたる汗が溜まる。まるで射すくめられた蛙のように、私は彼のまえに釘づけられた。

「謀叛人たるわが弟のゆくえを、風の噂にでも聞いてはおらぬか」

 古今伝授にかこつけた目的は、これであった。

 彼の末弟は、戦術の天才であった。白の武家を滅ぼした功績は、末弟の手腕に帰する。だが、政治の才能は皆無であった。その能力と名声を嫌悪した彼は、末弟を謀叛へと追いこんだ。天に二日がないように、覇者はひとりでよい。合理きわまりない、血も涙もない……血腥い戦いを、彼は演出している。

 彼の求めるこたえを、私は持たない。その旨を彼に告げると、彼はふたたび瞑目した。

「御坊。しばらくは逗留されるがいい」

 彼の勧めに応じ、数日をここでやりすごすことにした。拒否できぬような、無言の圧力を感じたからだ。



 翌々日、私は神殿にまねかれた。奉納の舞を催すという。彼に仕える文武百官が列し、そのなかで私は賓客として遇されている。彼は彼の妻とともに上座にあり、この日のために組みあげられた舞台をながめている。やがて舞台に踊り手が現われ、私は息を呑んだ。

 舞台の上には、白拍子のいでたちをしたあのかたがおられる。舞台の上の彼女が、あのかたであるはずがない。あのかたはもう、亡くなられたのだから。

 いや。たしかに美しい女ではある。老いた眼をよくよく凝らして見てみれば、あのかたに似ていない。身分も年齢もちがう。似ても似つかぬ。それなのに、私は見まちがえた。似ていない彼女の姿が、あのかたの姿と重なりつづけている……。

 訊けば彼女は、末弟の愛人であるという。吉野山での戦いで末弟とはぐれ、囚われてここへ連れてこられた。彼女はこの舞台で末弟との訣別をうたい、彼の天下を祝福する舞を強要されている。


 「吉野の稜線に蓄積された冷気のなかへ 消えてしまったあなたが ただただ恋しい」


 良人を慕う歌が彼女の口からこぼれ、場はざわめいた。私は、彼の顔を見やった。怜悧な無表情を崩すことなく、舞いはじめた彼女をねめつけている。


 「卑賤なる身を捕らえて悦に入る 小さき器 血を分けた弟を憎みたまう 畜生道に囚われたる……」


 彼をなじりつつ、彼女は舞う。彼は顔色ひとつ変えず、舞を鑑賞しつづけている。彼の妻がおそるおそる、彼の顔色をうかがっている。彼の寛恕を乞うような表情から、妻が彼女に同情的であることが見てとれる。

 彼女に、あのかたを重ねるのはなぜか。私の耄碌がそうさせるのか。それはしかし、私の真実にちがいない。あのかたの転生された姿が、彼女なのである。

 彼女が慕いつづけている良人とは、四十年まえに生きる別存在の「私」であるのだ。俗世を棄てなかった「私」は、破滅の逃避行をつづけている。北への旅の意義が、もうひとつ殖えた。私は、「私」にあわなければならない……。


「殺せ」

 彼が小さくつぶやいた。彼の妻が、彼にすがりついて首をふる。

「身ごもっておるのです。なにとぞ、深きお慈悲を……」

「ならば、なおさらのこと。腹の子が長ずれば、を害するだろう。儂がそうであり、腹の子の父もそうだ。儂はおそろしい……」

 屈強な衛兵がふたりがかりで、舞台の上の彼女を押さえこむ。

「やめて、この子だけは……」

 彼女は泣きさけぶ。衛兵ふたりは動じない。鋼鉄の表情に一片のゆるぎもなく、職務を遂行する。

 私は、おのれの軟弱を嘆く。なにもできず、ただただ傍観しているだけであった。あのときと同じだ。新院をお慰めできなかった、あのときと。

 立ちあがって、彼女を救わなければならない。だが。いくばくもない余命を惜しむこの老体は、動くことを拒む。この老いた体では、あの若き衛兵を打ちたおせるはずもない。彼女を抱きかかえてこの場を脱することなど、できるわけもない。できるできぬではなく、なさねばならぬのだ。それなのに、この脚は動かない。この腕は動かない。この命が、魂が動こうとはしない……。

 ……彼女の姿が見えなくなり、やがてその声もとどかなくなる。彼女を救おうともせず、唾棄すべき私はきょうを生きのびた。「私」の最期を、見とどけるために。




夢遊


 ……朦朧とする私の意識は、時を遡行する……。


 一面の炎は、私の庵を灼いた。私の存在をも灼こうとしていた。熱から逃れるために、水を求めていた。灼けだされた者たちがそうしたように、私も川へ飛びこんだ。どぼんどぼんどぼん、と水面を乱す音。

 川には生者ばかりでなく、死者も浮かんでいた。さまざまなものが焦げつく異臭。泥水と吐瀉をすすりながらどうにか、生者の列に加わることをゆるされた……。


  古池や 蛙飛びこむ 水の音


 ……古池。いま、この庭さきにある。死者と生者が攪拌された混沌の水。混沌のなかへ飛びこんだのは、蛙などではない。蛙は鳴くものであり、飛びこんで音を立てたりしない。

 あのときに、私は生きのびた。死んでいてもおかしくはなかった。生と死を分けたものはなんだったのか。ただの偶然だ。偶然に、運よく生きのびることができた。生きながらえた命を、死んだ者たちのぶんも活かしていきたい。そうだ、旅に出よう。死ぬまで旅をつづけよう。詩を書くために、旅に出る。旅をするために、詩を書く。眼に見えぬものを見るために旅をし、詩を書くために見えぬものを眼にする。詩は不意に、私のうちに降りてくる……。


  月と太陽はすなわち 永劫にして無限の夜に遊弋する漂泊者であり

  消費されて蓄積しつづける過去もまた その一類に汲みあげられる

  死生を水面に映す水夫 鼻むけるままに老けこむ馬子

  彼らにとって旅こそが安寧の箱庭であり

  彼らは旅に生きて旅に死ぬことを宿命づけられている

  漂泊のうちに終焉を迎えた詩人たちを 私は崇拝する

  旅に生き 旅に果てることにあこがれる 

  いつのころからか 私も漂泊者たらんとし

  孤高の片雲に感応し 波打ち際を独歩しているのだ


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